旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2012年08月

スカイツリーde縁起モノ

東京スカイツリーも開業して100日になります。行くたびに思うのですが、夏休み大混雑の印象がありません。よほど会社側のコントロールが上手く機能しているのでしょうか?開業当初は自転車でアイスキャンディを売り歩く人や自分で撮影した写真を額に入れて売る人(明らかに無許可)など、下町ならではの”すばしっこい人達”が居たのですが、さすがにスカイツリー敷地内では見かけなくなりました。
写真左:なんという正式名称のモニュメントかは知りません。勝手に”カニの爪みたいなモノ”と呼んでいます。
写真中:カニの爪の内に入り、見上げると”UFO着陸”になります。この『縁起物』は以前は撮影待ちの大行列だったのですが…今はどなたも並んでいません(笑)
写真右:かにモニュメントから2Fへの階段です。モデルは上階のフェンスから顔を出し、撮影者は階段途中からあおります。ここも『縁起物』だったのですが…人気とは虚ろい易いものです(笑)
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小伝馬町牢屋敷跡

081201081202時代劇に良く登場する小伝馬町牢屋敷は現在の日本橋小伝馬町界隈にあたります。当時は約8700㎡の敷地を有し、慶長年間より明治8年に市ヶ谷に監獄ができるまで使用されていました。江戸時代の刑法は禁固若しくは懲役刑は存在せず、現代の拘置所に近く、死刑囚を収監しておく施設だったようです。さらに「判決の申し渡し」はTVのようにお白州ではなく、死刑の執行もこの牢屋敷内でされていました。東京メトロ小伝馬町駅を地上に出ると、いきなり”江戸史跡保存協賛会”による石碑&案内板がありますが。ここも敷地内だったのでしょうが…牢屋敷跡の記念碑的なものは近くの十思公園・村雲別院・大安楽寺などにあります。

081203081205写真は十思公園内の”東京都教育委員会”による案内板です。この案内板はイタスラなのしょうか、伏字部分がかなりあります。伏字にするような内容ではないのですが…判りません。写真右は「松陰先生終焉之地の碑」です 安政の大獄で捕らえられた長州藩士吉田松陰は安政6年(1859年)伝馬町牢屋敷で処刑されています。昭和14年に建立された石碑には処刑日前に書き上げた「留魂禄」のの冒頭にある「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」という松陰直筆の辞世の句が刻まれています。
『吉田松陰』…名前は有名ですが果たしてどうなんでしょうか?経歴年譜からの思想や行動は奇行の連続の感があります。アメリカへの密航に失敗、生国に送り返されて1857年に山口で松下村塾を作り再度幕府に反抗して、1859年に江戸で齢30歳で処刑されています。倒幕の志士達の拠り所となる思想家とはとても思えません。明治時代まで生き残った長州藩の(成り上がり)下級志士達によって無理やり祀り上げられた”大先生”の様な気がしてなりません。

MI-KEそして宇徳敬子

mi-ke
昨今は女の子のアイドルグループが次から次へと登場してきますが、複雑なコーラスや編曲で聞かせるでもなくユニゾンでとお決まりのコード進行(C-G-Am-Em-F-C-F-G7)が多いようです。まぁそれも良いのですけど(苦笑)…。
さて『MI-KE』です。先日19年振りに復活したBBクイーンズでTV出演していました。近藤房之助や坪倉唯子と一緒に宇徳敬子の姿が…相変わらずの美人さんです(!)。その宇徳敬子が在籍したのが『MI-KE』です。元々はBBクイーンズのコーラス隊として結成され、1991年~93年の僅かな活動期間に7枚(!)のオリジナルCDを出しています。実質2年の活動期間でCD7枚はすごいです。CDごとに企画テーマに沿ったカバー曲やオマージュ曲が収録され、凝ったアレンジや歌詞で楽曲が次ぎ次と登場、名うてのプロデューサーや音楽家達が楽しんで遊んでいる様子が伝わってきます。それらをシッカリと歌いこなすボーカル…。彼女なしにはこのプロジェクトは演れなかったでしょう。表向きは普通のアイドルグループですが、実はとてもユニークな企画グループでした。
メイン&コーラスはほとんどが徳敬子一人で歌っています。独特な”軽さ”は彼女だけのものかも知れませんが、作品ごとに様々な曲を歌いこなすのは実力はたいしたモンです。他の二人はビジュアル対応&コーラス隊なのでしょうか、歌声すらよく判りません…。彼女達はもう40歳を超えているはずなので再結成は無理でしょうが、こういった音楽ができるグループが登場して欲しいものです。

平将門の遺跡…(Ⅰ)

072901072902平将門とは桓武天皇から見て5代目の子孫にあたり10世紀前半頃に関東に居を構えた武将で、時の京都に対して武士階級からのクーデーター事件の首謀者です。反乱は鎮圧され将門は処刑されたのですが、京都まで運ばれた首級は、晒された3日目に関東に飛んで行ったとの伝承があり、東京だけでも数か所の首やら胴、手、足から首桶から兜、鎧までを各々祀る神社が各所にあります。宮元健次氏の著書「神社の系譜・なぜそこにあるのか」・光文社新書に記述があり、これをネタ元にしたブログも見かけますが…。江戸幕府や太田道灌を遥かに遡る平安時代の話なので確証は難しいようです。この田安門近くの「築土神社」は、将門公の生首を現千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのに始まり、後年、太田道灌が社殿を造営、天文年間に現九段坂上に、天正年間には現JR飯田橋駅付近へ、元和2年には新宿区筑土八幡町へと移転し「築土明神」と改称しました。昭和20年戦災により社殿が全焼。翌年に千代田区富士見に、昭和29年「世継稲荷神社」の敷地内へ移転しました。これだけ移転につぐ移転となると、どこかで伝承が曲がった様な気がしないでもありませんが…。
*世継稲荷神社の敷地内に移転してきた割には、築土神社の社殿の方がどう見ても”立派”です。

072903s072904こちらは新宿区築土八幡宮町の「築土八幡宮」です。宮元健次氏の著書には将門の「足」を祀るとありますが、境内には「足」の「あ」を記載した由来書きはありませんでした。前述の築土神社の移転歴史とかぶっていますので、情報が交錯してしまったのでしょうか(?)こちらの神社には2匹の猿が彫られた庚申塔があり、各々の猿が桃の枝を持っている珍しい意匠となっています。更には階段途中の鳥居が石造りの鳥居がいい味を醸し出しています。

神田駿河台・太田姫稲荷神社 &

0730507306室町時代、太田道灌の娘が疱瘡に罹って死にかけた折、道灌が京都の天然痘に霊験のある一口稲荷神社(いもあらいいなり)に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、一口稲荷神社を勧請して旧江戸城(道灌江戸城)に稲荷神社を築いたとされる。社名の「太田姫」は”道灌の娘”という意味ではなく道灌に狐の姿で現れて江戸城鬼門に祀れと告げた「太田姫命」のことだそうです。もともと、この太田姫稲荷社は現御茶ノ水駅聖橋口に在り、昭和6年(1931年)に総武線の拡張工事により現在の地へ移転したそうです。
本殿には太鼓に乗っかっている狐がいます。遠目に見ると”木彫”らしいのですが…。見事な”飛び姿”です。

07302「太田姫稲荷社」から少し離れて、神田小川町に「幸徳稲荷神社」があります。写真の様にビル2階なので普通の街稲荷かと思いましたが、これがどうして由緒ある稲荷社のようです。=旧幕時代山城の国淀の城主・稲葉但後之守(三代将軍徳川家光の乳人、春日の局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し代々五穀豊穣武運長久を祈願された由緒ある社と伝えられています=との由緒はともかく、こうやって地域の人達に愛され大事にされてきた神社さん…良いですねぇ!とはいうものの千代田区も秋葉原からお茶の水界隈は、規模こそ大きくないものの古社が実に多い地域です。

谷中・幽霊画・全生庵

080202080201今年も谷中・全生庵では、恒例となった幽霊画が公開されています。かなり以前から『三遊亭円朝(1839~1900)』のお墓がある谷中・全生庵では円朝の忌日の前後に円朝幽霊画コレクションを虫干を兼ねて公開されてきました。なんと今年で28年になるそうですが…。以前は谷中近辺は身近な街だったのですが、不思議とこの幽霊画には縁がありませんでした。
今年の公開日は8/1~8/31の10時~17時、拝観志納金500円となっています。という事で暑さにめげずに出かけてきました。東京メトロ千駄木駅下車。団子坂下交差点を谷中方面に坂道を上がると約5分程で「全生庵」に到着です。この全生庵は明治16年に山岡鉄舟により建立された臨済宗のお寺なのですが…。円朝コレクションの方が有名かもしれません。正面階段を上がり左の部屋に幽霊画が数十点展示されています。写真の撮影は厳禁となっていますが、どの作品もとんでもなく印象深い作品です。(全生庵HPに幽霊画コレクションの掲載がありますが、是非とも谷中まで出かけて実物を見られることをお薦めします。)…やはりと云おうか、多くの幽霊画には”足”がありません、太った幽霊もいません…
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