旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2012年11月

傳通院と転切支丹

111405111404文京区小石川3丁目の伝通院は、正式には”無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)または小石川 伝通院”ともいいます。徳川家康の生母、於大の方や千姫の墓所でもあり、徳川将軍家の菩提寺ともなっている名刹です。
墓所の傍らに以前に触れた”岡本三右衛門と呼ばれたイタリア人”こと宣教師・ジョセッペ・キアラの供養碑がありました。繰り返しですが、キアラ神父はイタリア、シチリア島に生まれ、イエズス会宣教師として鎖国令の日本に潜入を企て失敗。江戸に送られ茗荷谷の切支丹屋敷にて厳しい詮議を受け、キリスト教の信仰を棄てています。その後は日本人の妻を娶って日本名、岡本三右衛門を名乗り、幽閉40年の後亡くなっています。その後、遺体はキリスト教にはない火葬とされ、小石川無量院に墓石が造られ、明治年間には区画整理により雑司が谷の移転、その後行方不明となっています。この無量院が伝通院が隣接しており、そういた謂れからここにジョセフ岡本三衛門の名で供養碑が建てられているそうです。供養碑には「ジョセフ岡本三右衛門神父供養碑」とあります。

牛天神は北野神社

111401111402文京区・春日の『牛天神・北野神社』です。天神様となれば祀られているのは菅原道真公ですが、この天神様は初めて訪れるには交通の便があまり良くなく(JR飯田橋からもメトロ後楽園からも徒歩10分くらい)。更には参道階段(写真:左)がかなり目立たない所にあり、本殿にはさらに階段を30段くらい登ります。
境内の由緒書には…1184年(寿永3年)、源頼朝が東国追討のためにこの地に立ち寄った際に牛に乗った菅原道真が夢に現れ、「二つの幸」があるだろうと告げたという。夢から覚めると、ひとつの岩石があり、夢の中で菅原道真が乗っていた牛に似ていたという。菅原道真のお告げ通り、その年には頼家が誕生、翌年には平家を滅ぼして国を平定する。源頼朝は報賽としてこの地に菅原道真の御霊を勧請して社を建立した。それが「牛天神」の始まりであるという…。とあります。この“牛に似た岩石”は現在も境内にありますが、牛に似ているような似ていないような…?。隣には天神様御用達の「撫で牛」もあります。境内は決して広くはありませんが、水戸光圀から奉納された桜の木なんてのもあり、ビルに囲まれた市街地ながら古社ならでは風格が漂っているようです。それにしても「源頼朝の夢枕に現れた菅原道真」とは…(苦笑)。学業成就の御利益以外の”実績”があるようです。

狐が僧侶に…澤蔵司稲荷・慈眼院

111302111301文京区・小石川に「慈眼院」という浄土宗の”お寺”があります。こちらがまた不可思議な(面白い)稲荷さんです。
慈眼院の創建年代は不詳ですが、伝通院の学寮に澤蔵司(たくぞうす)という名の修行僧おり、入寮から僅かか3年で浄土宗の奥義を極めたそうです。元和6年(1620)5月7日、澤蔵司が、学寮長樋山和尚の夢枕に立って「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし」と告げて白狐の姿で去っていったという事です。伝通院の住職、郭山上人は「澤蔵司稲荷」を境内に祀り、慈眼院を別当寺としたそうです。「澤蔵司稲荷」は伝通院の塔頭の一つである慈眼院内の稲荷社となります。さらに、稲荷社の前にある椋の木には、沢蔵司の魂が宿ると云われています。澤蔵司は”天ぷら蕎麦”が好物で、伝通院の門前近くのそば屋でよく食べていたそうですが、沢蔵司が来店すると、必ず売り上げの中に木の葉が混じっていたといわれています。 ・写真左、これだけだと神社かお寺かわかりません。が、あきらかに白狐が意匠されています。
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111303111307よく知られるように稲荷信仰は、五穀豊穣を司る「宇迦之御魂神」の神道稲荷(神社)。インドの女性の神様「荼枳尼天」の仏教稲荷(お寺)。その他の民俗信仰系稲荷の3系統稲荷があり、「澤蔵司稲荷」は仏教的稲荷とおもわれるのですが…?・江戸城内の稲荷大明神(前述の内、どちら様でしょうか?)が浄土宗を修めるべく修行し、成績優秀で修められた学僧が”天ぷら蕎麦”が好きで、毎日通った割には蕎麦屋の勘定をごまかしていた。なんだか笑えるような人物像です…。 ・入口には「鳥居」が見当たりません。右:一段下がった窪地に鎮座しています。所謂”お穴様”なのでしょう。
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111306111305お寺なのですが、本殿前に狛きつね氏はおります。右は足元に珠、左は子狐のパターンで、親子狐は丸々として犬の親子の様に見えます。要するに、徳川家康の生母”於大の方”の「伝通院」内「慈眼院」に末社として稲荷社を祀ったなら何の不思議もないのですが…。狐が僧侶に化けてとか、千代田の城の稲荷大明神と名乗っているとか、伝承に面白いものがあります。境内もごこまでお寺で、どこから神社の明確な区別がないようでお寺と神社が微妙な関係で融合しています。

左:入口階段左右にはにレリーフが…。日向延岡藩と記載されています。
中:無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷とあります。
右:稲荷社前の椋の大木には「沢蔵司」の魂が宿るとされています。木の葉で蕎麦がたべられるのなら…。
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岡本三右衛門というイタリア人

110301110302東京メトロ・丸ノ内線の茗荷谷駅を出て拓殖大学方面に歩き、閑静な住宅地を進むと道端に『切支丹屋敷跡』との標柱と案内板があります。寛永20年(1643年)イタリア生まれのイエズス会宣教師”ジョセッペ・キアラ”は鎖国令で閉ざされた日本に潜入を企て失敗。捕えられ長崎より江戸に移送されてきました。当時、この茗荷谷には宗門改奉行・井上政重の下屋敷があり、多くの切支丹が収容されていました。キアラはここで詮議を受け過酷な拷問の末、キリスト教信仰を棄てるに至りました。幕命より日本人死刑囚の後家を妻として娶り、日本名”岡本三右衛門”の名を受け継いで茗荷谷の切支丹屋敷を一歩も出ることなく、幽閉40年の後この地で亡くなっています。故遠藤周作の小説”沈黙”のモデルとして、転びバテレン”クリストファン・フェレイラ(沢野忠庵)”とともに知られた人物です。

左)この坂道が「切支丹坂」だとおもうのですが…。坂の突き当りを右に曲がると碑があります。
中)東京メトロ・丸ノ内線の車庫。トンネルを抜けた先が左の写真(切支丹坂)になります。
右)拓殖大学の本館です。もう数十年も前の話…。記憶にある学舎は殆ど変わってしまいました。
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偽モズライト・ギター…(続)

11020110月31日の”偽モズライト・ギター”記事にコメントを頂戴しました。かなりのファンの方のようで記事の内容について的を射たご指摘がありました。改めてモズライト・ギターファンには敬意を表します。ありがとうございました。写真はご指摘のうち”ジェリー・マギーはモズライト・ギターを使用せず”についてですが、確かにCD「Ventures in Tokyo’68」では(LPは見つかりませんでした)ジェリーがモズライト・ギターを持ったジャケが使用されています。(ヘッドの裏が一部しか写っていませんが…)。ジェリー・マギー=ゴールド・トップのレスポールやストラトキャスター、板橋のコンバットギター、少しだけモズライトですね。
68年のモズライトの使用はVenturesとの雇用契約の条件だったのでしょうか?Venturesが日本で大人気とは知らずにノッキーの後任に雇われたのかも知れません。1969年は”ハワイ-5-0”がアメリカでヒット。出稼ぎに出る余裕がなかったのか来日公演をしていませんでした。
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モズライト・ギターというと、蒲鉾板のようなに薄いネックと、大出力で暴れまくりのピック・アップのイメージがあります。極薄のネックはネックを握りこむような奏法には(やはり)使いにくいです。またモズライトの様な高額ギターのライブ・ハウスでの使用は、楽器の破損や盗難の事を考えると躊躇してしまいます。相性の良いアンプの準備もないでしょうし…。
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昔、●山氏のイベントに携わった事があります。会場や滞在ホテルの条件について”皇室”を超える条件を要求するなどTVでのイメージとはかけ離れた方なのだと驚いた記憶があります。

旧日本郵船小樽支店

110101110102小樽・旧日本郵船小樽支店は明治39年10月に落成の石造2階建建築です。昭和30年小樽市が日本郵船から譲り受け、31年から小樽市博物館として再利用されていました。昭和44年3月には明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定されています。設計は佐立七次郎、地元の大工棟梁山口岩吉が施工あたり、工費は当時の金額で約6万円(!)となっています。当時小樽は北海道開拓の拠点として船舶・海運・倉庫業界が繁栄しつつある時代です。各社は当時の最先端の設計と技術で建造物を残しました。これらの石造り建物はその草創期の象徴的存在です。1階は営業室(写真上右)で、細部仕様まで復元された照明器具の高さ、机・椅子類の配置が執務状況を実感させられます。特に役職社員机と平社員机の造作の微妙な差異(文字表現不可です)は驚きです。2階の貴賓室(写真下左)は寄木造りの床、空色漆喰の天井、菊紋内摺セードシャンデリア、菊模様の金唐革紙の壁、絨鍛、鏡付大理石暖炉等で彩られ、色彩的にも往時の雰囲気が再現されています。隣り会議室(写真下中)は約198㎡の広さがあり、床の絨鍛、大会議机と36脚の椅子が古き明治をを感じさせます。旧日本郵船は人気の小樽運河やガラス工房地区とは離れています。手宮の鉄道公園方面なので観光するには効率的ではありません。食堂や土産屋になってしまった運河地区などより”小樽”らしい雰囲気なのですが…。

写真下右は札幌・中島公園の紅葉の雰囲気です。先週の写真ですが里の紅葉は遅いようです。
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本妙寺…振袖火事

102501102502振袖火事とは明暦3年1月18日から20日にかけて江戸の大半を焼失した”明暦の大火”を云います。火事の原因としては…①亡くなった娘の形見の振り袖をお寺で供養の最中、突如の風によって振袖が舞い上がり、それが燃え広がって江戸中が大火となった…との伝承。②江戸の街が急激に拡張したため都市計画がメチャクチャになってしまったので、再建を目的として幕府側が放火したとの説。③本当の火元は老中・安部忠秋の屋敷で、いくらなんでもこれはマズイので本妙寺が身代わりとなった。などの説がありますが③が当たりのようです。実際は1月18日14時頃に本妙寺から出火。1月19日10時頃に小石川伝通院付近から出火。1月19日16時頃には麹町で出火と3回の出火が連続して発生しています。この大火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や大名屋敷、市街地の大半を焼失してしまい、江戸城の天守閣はこれ以後再建されていません。この火事での死者は3万から10万人及ぶそうです。「明暦の大火」を蹶起として政治・経済・習慣が大きく変化していきます。江戸時代を俯瞰すると重要な事件です。

写真は豊島区巣鴨5丁目の「本妙寺」です。明暦年間には本郷丸山にあり、明暦の大火の出火元との疑いがあります。火元とされた割には再建が許され、これが”身代わり説”の根拠となっています。明治43年豊島区巣鴨五丁目の地へ移転し、現在お寺には明暦の大火で亡くなった人々の供養塔があります。
この本妙寺には、北辰一刀流・千葉周作(中)や名奉行・遠山金四郎(右)などの墓所があります。
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