旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2013年06月

ブートCDの裏通り・07

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新聞広告によると6月29日は『日本記念日協会』の公式認定による『ビートルズの日』だそうです(!)。そんな記念日があったのかと検索したら…世界の音楽史上に永遠にその名を刻むイギリスのロック・グループ「ザ・ビートルズ」が、1966年(昭和41年)のこの日に最初で最後の来日を果たしたことを記念して「ザ・ビートルズ」の楽曲を手がける株式会社EMIミュージック・ジャパンが制定。日本公演は1966年6月30日から7月2日までの全5公演…と来ました(笑)。『ビートルズの日』とは考えましたねぇ(笑)。着飾ったところで化粧を落としたら皆同じなので、販売戦略はブート業界並みですね。ともかく、今日・明日は来日公演の聴き比べと行きましょう。
*それにしても来日公演の前座の”ブルー・コメッツ”の演奏はヒドイですねぇ(笑)特に”青い瞳”の替え歌みたいな曲は、井上忠夫のお得意のコード進行で歌詞もメロディーも全員がうろ覚えでアドリブ並みです。こうやって”音”で残ると恥ずかしいでしょうねぇ。
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Pt↑)に【Sweet Zapple-Japan Classics】のブートCDがあります。日本独自の編集盤をCD化したものですが、これが発売になって時は思わずニヤリでした…。自分達が聴いてきたデビューLPの1曲目は断じて”I Saw Her Standing There"ではなく!”I Want To Hold Your Hand”でなくてはいけません(!)

銀座出世地蔵尊&三囲神社

062905062906銀座松坂屋のついでといってはなんですが、銀座4丁目・銀座三越の屋上には『銀座出世地蔵尊』と『三囲神社』があります。銀座出世地蔵尊は、明治のはじめ三十間堀の工事の際、掘出されたといわれる地蔵尊で、昭和43年に銀座三越新築に際して当所へ移設され「中央区民有る文化財」に指定されています。当初は4丁目の空地へ安置したところ、道行く人々や近隣の信心篤い人達が花や団子を供え参詣するようになり、この地蔵尊は開運・出世・延命・商売繁盛のあらたかなご利益があるされ賑ったそうです。しかしこの話の流れが【出世地蔵】との名称につながるのでしょうか…不思議です。三囲神社は、三越の前身三井家の守護神として屋上に祀らています。向島の三囲神社の銀座摂社としてこの場所に鎮座しています。そんな事から向島・三囲神社には閉店、売却の憂き目にあった三越池袋店のライオン像が置かれています。

銀座のきつね・靏護(かくご)稲荷

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中央区銀座6丁目の老舗のデパート”松坂屋銀座店”が建て替えのため06月30日に閉店になります。建替え工事中は、屋上にある靍護(かくご)稲荷神社も暫くの間はどちらかへ遷座となるでしょうね。この靏護稲荷は文化12年に伏見稲荷大社より上野・根岸に勧請され昭和4年に松屋銀座店屋上に遷座、今日まで火災から守ってきた稲荷社になります。 このPt撮影中にも、初老のご婦人から「父がここで働いていたので…」とカメラのシャッターを頼まれました。古くからの『街稲荷』には、それぞれの思い出があるのでしょう。
そんなことはともかく…。閉店セールは大変な事になっていました(笑) なんとレジ待ちが15分(!)でした。
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ビートルズ書籍・2013

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まだまだ様々な視点から書かれた関連書籍の出版が続いていますね。最近では”ビギナーズ・ザ・ビートルズ 全8年のキセキ”は大変に面白く読ませてもらいました。著者の「高瀬重良氏」、元々自費出版されるつもりだったようです。1950年東京生まれとありドンズバのビートルズ現役世代です。メンバーの伝記や楽曲の音楽的解説でもなく、ファンならではの視点から8年の歴史が淡々と綴られています(時にはマニアックに)。これが実に”いい感じ”なんです。…【ビートルズに関しては他のどんなロック・アーティストも比べものならない程の研究書・関連本が出版されており、膨大な情報が世に溢れているが、その90%は一握りの原資料の引用・孫引きであり、真に目を開かされるデータ・情報は少ない】…仰る通りの大拍手(!)です。他の作家ではとてもこんなことは書けないでしょう。タイトルに”ビギナーズ”とありますが「あの頃を知っている方、記憶している方」にこそ読んで貰いたいと思います。特に1952年生まれの某音楽評論家の方には…。

右)誰も知らなかったビートルズとストーンズ…本当に多作な著者ですね(苦笑)。 今回も”その98%は自分の著書や原資料の引用・孫引き”なんですかねぇ? あげくに”「まだ書ききれていない」との気持ちのほうが強い”とは呆れます。”いま明らかになる ロック史上最大の死角”…だれですかねぇ(笑)こんな腰巻文を考えた編集担当は!この方の場合はアマゾンのカスタマー・レビューの方が爆笑できます。
…【戴いた書籍ですが、本屋でパラ読で充分です】…

5代目の歌舞伎座

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伝統芸能としての『歌舞伎』を揶揄するとつもりは毛頭ありません(笑)。写真は新装なった歌舞伎座です。普通の映画館や宝塚劇場と同じ『歌舞伎』が演じられる”劇場”でそれ以上の特別なモノではありません。旅行会社などはツアーに組み込み「新装なった歌舞伎座を見学」なんてやるのでしょうが、さてさて…。施設5階には”歌舞伎座ギャラリー”などという有料見学施設があります。展示内容は実にお粗末、5-6分で見られる施設に入場料500円という泥棒料金となっています。屋上庭園にしても”猫の額”程度のモンです。これなら銀座三越の屋上の方が立派です。”売店”関係だけは軒数こそ充実していますが、地下の”木挽町広場”など名称はご立派ですが”デパ地下”以下といった感じです。これは観劇以外の物見胡散で出かける場所では決してないようです。

品川弥二郎って誰だ?

060901北の丸公園の田安門近く、靖国神社に面した歩道橋脇に『品川弥二郎』の銅像があります。このお方は申し訳ありませんが銅像になるような人物でとは思えません。長州藩の足軽の家に生まれ、松下村塾で吉田松陰に学んだ。明治維新後は、様々な大臣職を経て”維新の功”により子爵となる。とまぁこんな概歴です。所謂「長州藩」・「胡散臭い吉田松陰の弟子」・「明治政府のパワーバランス」と単なる『長州閥』で銅像となったのでしょうかねぇ。後世に残るエピソードで有名なのは、戊辰戦争時の新政府軍の愛唱歌…「トコトンヤレ節」の作詞担当とあるのですが、それにしたって作曲者は品川弥二郎の馴染みの芸者なのですから、芸者と遊んでいての『戯唄』にすごないようです。因みに「トコトンヤレ節」の4番は『♪おとに聞こえし関東ざむらい どっちへ逃げたと問うたれば 城も気概も捨ててあづまへ逃げたとな トコトンヤレトンヤレナ♪』です。やはり”勝てば官軍”としか言いようがありません。

060902さてもう一方は、北の丸公園内の『吉田茂』像です。吉田茂像は大磯や高知県にも存在し、なんでまた北の丸公園ないなのかは判然としませんが、色(赤銅色)といい艶といい、ステッキをもった立姿はなかなかの風格があります。この銅像は昭和53年に吉田茂生誕百年を記念事業として各界から寄付を募って昭和56年に閣議の了解を得て建てたのだそうです。

旧江戸城・平川門

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東京メトロ”竹橋”駅、パレスサイドビル・毎日新聞社の向かい側に「平川門」があります。この門は徳川御三卿(田安・清水・一橋)の登城門や大奥のお女中の出入り門だったのすが、大手門等などに比して面白い特徴があります。お堀を平川橋で渡ると、高麗門が正面ではなく右側にあります(橋に対して正面にありません)。高麗門を抜けると左側に渡櫓門がありますが、更に隣にもう一つの門があります。この門は「不浄門」とも呼ばれ城内で死者や犯罪者が生じた時は、この門より場外に運び出されたそうです。生きたままこの門から出たのは「絵島」と「浅野内匠頭」の2人だけと云われていますが恐らくは「江戸城後付伝説」の一つでしょう。御三卿や大奥女中の使用する門に隣接して死人・犯罪者用の門が並んでいるのは不自然だと思うのですが…。

左)こちらが不浄門と云われる門です。残念ながら正面には立ち入れません。
中)高麗門の左方向に渡櫓門があります。門をくぐると二の丸方面へ右へ左へクネクネと路が続きます。
右)意図的なのか改築や増築の結果なのか、この枡形門は不可思議な構造をしています。
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旧江戸城・展望台から二の丸庭園

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本丸休憩所の脇から少し坂を登った「台所前三重櫓」があったとされる場所に『展望台』があります。ややもすると見落としがちですが、眼下には二の丸雑木林と大手町のビル群が広がります。二の丸は将軍の別邸やお世継ぎの御殿が建っていた場所とされます。慶応3年の火災で二の丸の御殿が消失した後は荒れ放題だったのですが、昭和35年に旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備するにあたり、二の丸庭園は9代将軍家重時代の庭絵図面をもとに回遊式庭園として復元されました。”小堀遠州”作といわれる庭園の配置は現在とほぼ同じ場所になるそうです。二の丸庭園は四季折々に花が咲き、池には珍しい尾を持つ鯉が泳いでいます。この雑木林は”武蔵野の原風景を残すよう遭えて手をかけてはいない”とのこと…。子供の頃の東京近郊はこんな景色ばかりでした。

左)展望台から百人番所方向です。済寧館と呼ばれる宮内庁武道館の屋根が見えます。
中)汐見坂から見た白鳥濠です。濠の水源は地下水のみだそうです。
右)白鳥濠からの石垣は実に見事です。この石垣に上にこの『展望台』があります。
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東京駅・丸の内地下南口

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東京駅丸の内地下南口改札を出た脇あたりに、このモニュメントは設置されています。この改札口は土・休日は開いておらず通勤時間以外は人通りも少ない目立たない場所にあります。この付近が修学旅行生の団体待機場所になっている関係でこの場所に設置されたのかも知れませんが、設置までの経緯を思うと、もう少し目に触れやすい場所に設置しても良かったような気がします。設置当初はケース内の光の廻りで”ほとんど読めない案内板”だけでした。その後、解説文記載の案内板が造られ、更には素材の「雄勝石」が触れるようにと、徐々に増設されています。設置当初の”意味不明”とも云える状態よりは随分と進化しました。

053003053002東京駅の屋根(黒い部分)に使われている宮城県石巻市雄勝町特産の「雄勝石/硯の原材料」を使用した壁画は、東北震災で津波の被害を受けた石巻市雄勝町の小・中学生らが制作。この壁画は縦約1.9m、横約2.5mで、20㎝方の雄勝石のスレート108枚を組み合わせて造られています。

旧江戸城・本丸跡

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旧江戸城天守台跡です。江戸城の天守閣は江戸時代初期の50年間しか存在しておらず、慶長年間の「家康」天守と元和年間の「秀忠」天守閣は建位置が異っています。この天守台は「家光」の寛永年間のもので、天守閣は黒壁に緑の銅葺き屋根で5層6階建て、天守台は4方約40㍍、高さは約58㍍もあったそうです。寛永天守閣(家光)も明暦の大火(振袖火事)で消失してしまいます。幕府は加賀前田藩に天守閣の再建を命じましたが、将軍叔父にあたる保科正之(家光の異母兄弟)の提言により天守閣の再建工事は中止となりました。この再建工事では、加賀前田藩は止せばよいのに瀬戸内海から石を運んできた為、他の伊豆産の石垣と違って見えます。

左)本丸御殿への最後の検問所「大番所」で、最も格式の高い番所です。建物は再建されています。
中)「書院門」若しくは「中雀門」と呼ばれる門の跡です。火災の痕と思われ石垣はボロボロになっています。
右)本丸跡の芝生広場です。この場所に江戸幕府の中枢となる建物が林立していました。
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