旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2013年07月

暑さに霞む天橋立

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さて、日本三景の天橋立。京都府宮津市の宮津湾と阿蘇海を南北に隔てる砂州です。古くから名勝として知られ、平安時代の百人一首にも”大江山いく野道の遠ければまだふもみず天橋立”とあります。やはりと言おうか「天橋立-日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に世界遺産暫定候補としての申請を行ったものの遭えなく落選していおり、「提案書の基本的主題を基に、作業を進めるべきもの」 という訳のわからない評価を受けています。所詮は日本人の感性が全く文化の違うヨーロッパの毛頭どもに理解できるはずなどありません。日本三景・天橋立で充分だと思います。
最初の橋立を訪れた時はJR(国鉄)駅から砂州を歩いて横断しました。左右に海が見えるものの松林のなかを歩いたので、展望所に登るまで、何処が天橋立なのか分らなかった記憶があります。天橋立はここ海抜130mほどの「笠松公園」から遠望するに限るようです。

*この日は、残念ながら暑さと湿気の多さで写真が撮れず写真が似通ってしまいました。
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三方五胡・山頂公園

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三方五胡山頂公園には『大名だぬき角兵ヱ』なる親子の狸像がありました。古くからレインボーライン梅丈岳の麓の漁村に伝わる”大名行列が大好きな”狸の民話に基づいているようですが、なんとも愛嬌のある顔をしています。三方五胡は2005年に『ラムサール条約』に登録されています。ラムサール条約とは釧路湿原のような湿地の環境を保全する条約で、三方湖(みかたこ)、菅湖(すがこ)、水月湖(すいげつこ)、久々子湖(くぐしこ)、日向湖(ひるがこ)の水面積1.11haが登録となっています。この山頂公園一帯は㈱レインボーラインという会社の管理下にあり、観光リフトやケーブル。お土産店や食堂まで完備されています。公園まで有料道路で上っていきますが、この風景はなかなかのものです。

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敦賀・気比神宮

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日程の関係で金沢も山城&山中温泉も永平寺もとばして敦賀市まで到着しました。地元の方には申し訳ないですが、なんとも特徴のない街です。メインストリートは道幅もアーケードも整備されていますが、夜7時には閉店で真っ暗。地方の街にはありがちな風景です。敦賀市と云えば話題の原発の街。否定するつもりはありませんが、やはり依存の度合いは大きいのですかねぇ(?)。写真は気比(けひ)神宮です。越前国一之宮、旧社格は官幣大社です。『日本書紀』神功皇后摂政13年条には皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事があり、その以前から存在していたと思われるそうです。後には仲哀天皇・神功皇后を合祀し、更に日本武尊以下の7柱の祭神が祀られている格式のある神社です。

中)重要文化財の高さ11mの大鳥居。奈良の春日大社、広島厳島神社と並ぶ木造大鳥居だそうです。
左)居ました!松尾芭蕉。『月清 遊行のもてる 砂の上』は元禄2年のこの地での作だそうです。
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五箇山・合掌造り

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富山県側の越中・五箇山には『相倉合掌造り集落』と『菅沼合掌造り集落』があります。初めてこの地を訪れたのは遥か40年前の夏でした。富山駅から城端線の終点の城端駅へ。そこから日に数本しかないバスに乗って五箇山にたどりついたものです。今は国道は整備され「東海北陸自動車道」も開通して、「日本の秘境」とのイメージも全て過去のものとなっています。これも世界遺産に登録されたことの恩恵なのでしょうか…?

130726_2130726_6こちらは【世界遺産相倉合掌造り集落】です。五箇山ICから156号線を進み、国道からそれた山間にこの集落はあります。相倉集落と菅沼集落は国の史跡と伝統的建造物群保存地域に指定されています。建物の外観や土地の形状に手を加えることはできず、車庫や共有機械類は地下に掘られるなどの工夫がされ、電線、上下水道、ケーブルTV線などは地下に埋設されています。集落の入口には写真上の看板があり、そこには・屋敷内、田畑などの生活範囲へは立ち入らないでください。 ・草木、花、野菜などをとらないでください。 ・集落内は禁煙です。 ・車の乗り入れをしないでください。 等の”世界遺産見学の皆様へ”と記載されています。世界遺産であることを守るために多くの努力がなされています。

130726_5130726_4こちらが【世界遺産菅沼合掌造り集落】です。相倉地区とは車で10分ほど離れています。この集落は規模も大きく、駐車場も整備されているため観光バスツアーではこちらを訪れるのが一般的なようです。日本の民家として原始的な姿を残す切妻合掌造りは釘やかすがい等を使わず、数組の筋違いを組み合わせてた安定構造になっています。屋根はかやで葺かれており、耐容は約20年~30年だそうです。
もう記憶が曖昧になってしまっているのですが、以前にこの集落に合掌造りのユース・ホステルがありました。地元の方に確認したところ、確かに数年前までは存在し、オーナーが高齢になった為に閉鎖してとの事でした。恐らくは40年前に訪れ数日間滞在した施設だろうと思われます。

白川郷・合掌造り

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白川郷(こちらは岐阜県)は合掌造りの集落で知られ、1976年に『重要伝統的建造物群保存地区』…(面倒な名称)…に選定され、1995年には『白川郷・五箇山の合掌造り集落』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。…とはいうものの合掌造り集落は越中五箇山を含めると思いのほか数が多く、合掌造りの建造物についても多くの軒数があります。この地区は観光的には食事や宿泊の便も良く整備されています。それでも写真にある集落にはマイカーの乗入が制限されており、観光センターやバス駅のある地区の駐車場を利用し、そこから徒歩で集落のある地区へ行くことになります。そこのあるのはなんとも懐かしくなるような日本の風景です。無責任ではありますが、この風景はずっと残してもらいたい思います。そして残すための努力を考えると、関係する皆さんには頭がさがる思いがします。

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久々の飛騨・高山

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何年ぶりになるのでしょうか…、久々の飛騨・高山です。2005年に周辺の町村を合併したことにより静岡市や北海道・足寄町を抜いて日本で一番広い市町村になっているそうです。今回は松本から安房峠(安房トンネル:普通車¥750)を抜けていきましたが便利になったものです。昔はこの峠は大変な難所で観光バスでは大苦戦したものです。中央道・飯田廻りだと大変な時間がかかり…。飛騨・高山は思いの外、東京からは遠い街でした。
高山市の中心市街地には江戸時代 江戸時代以来の城下町・商家町の姿が保全されており、「飛騨の小京都」 として、「日本の原風景を残す街」呼ばれ、ミシュランの旅行ガイドでは必見の観光地として3ツ星を獲得しています。写真のように早朝の街並みは、いかにもこれが「飛騨・高山」といった感じです。…実際の飛騨・高山はさほど広い地域ではなく、街並み保全地区や桜山八幡宮を含めても半日もあれば充分なのですが、こうやって人通りの少ない街並みや朝市は、宿の泊まって早起きしてという事のなるでしょうが、高山の街は食事場所(ラーメン店含)が19:00頃には殆ど閉まってしまいますので、それなりの覚悟が必要です。因みにこの晩の夕食はようやく見つけたイタリア料理店でスパゲッティという事になってしまいました(笑)

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諏訪大社・春宮と秋宮

130723_06130723_07本宮に対して諏訪湖の北側にあるのが春宮と・秋宮です。諏訪大社には本殿が見あたらないという珍しい形式いなっています。ご神体は上社の本宮が「宮山」をご神体とし、下社の春宮では「杉の木」が秋宮では「イチイの木」をご神体としています。さらに上社の祀神はタケミナカタトミノミコトであり、下社の祀神は妃のヤサカトメイノヒメとなっています。出雲出身のタケミナカタトミノミコトは国譲りの大勝負に完敗したにも関わらず、信玄、勝頼の武田一族や徳川家康にも武勇の神として崇められてきました。その後は風雨の神、鍛冶の神、農耕や狩猟の神として変遷し、全国的に”諏訪”の名がつく分社が創建されています。

130723_08130723_09こちらが秋宮です。こちらも本殿は無く、7年ごとの遷座される「宝殿/ほうでん」があります。この遷座に合わせて申年と寅年の7年目ごとに神社の四隅の巨大な樅の木を曳き立てる行事を「御柱祭」と称します。冬季に湖面が全面氷結する諏訪湖でおこる自然現象は御神渡り(おみわたり)と呼ばれ、御神渡りが現れた年の冬にその年の天候、農作物の豊作・凶作を占う行事は無形民俗文化財に指定されています。
観光企画ツアーでは秋宮か春宮を訪れるだけが一般的です。神社の由来が理解しにくいのが諏訪大社でもあるのですが、ご神体が「山」であったり、「杉の木」や「イチイの木」であったりで、自然信仰の色合いの強い神社のようです。

諏訪大社・本宮

130723_01130723_02『出雲大社への長い道程』に出かけてきました。最初に訪れたのが全国に25000社以上あるとされる「諏訪神社」の総本社、長野県の『諏訪大社』です。この神社は実にややこしい神社となっています。諏訪湖の南岸には上社があり、本宮(ほんみや)と前宮(まえみや)の二社があります。湖の北岸の下社には秋宮(あきみや)と春宮(はるみや)とがあり、総数で二社四宮となります。創建の年代は不明とされていますが、日本最古の神社の1つなのは間違いないでしょう。古事記では天照大神系の神様が出雲系の大国主命に国譲りを迫り、戦いに負けた大国主命の次男である”建御名方命”はこの地まで逃げ、この地から出ないを条件に降伏したとされています。実はこの伝承と諏訪大社創建の因果関係はよく分らないそうです。

左)諏訪大社と云えば「御柱」と呼ばれる4本の柱です。拝殿に向かって左側に一之柱があります。
中)本社裏の林のなかに三之柱があります。樹皮が剥がしてあるので見つけ易いです。
右)江戸時代の”大関・雷電”に像があるのですが…。雷電と諏訪大社にはとりたてての関係は無いようです。
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見所満載の浅草寺境内…(3)

070601070602”見所満載の浅草寺境内”も3回目となりました。左は改装なった本堂です。大多数の方がこちらでお参りとなりますね。本堂左側あたりにも多くの遺跡があります。右は【宝篋印塔(ほうきょういんとう)】と呼ばれる1761年(宝暦11年)に浅草寺信徒によって建立され、1907年(明治40年)に改修再建された、高さ9.6mの銅造りの搭です。【宝篋印塔】とは、塔内に『宝篋印陀羅経』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得ると云われています。金龍山・草寺」とあります。

070606070605【宝篋印塔】の後ろ辺り、錦鯉が悠然と泳いでいる池があります。ここに架かる石橋は1618年(元和4年)に徳川秀忠が徳川家康を祀る東照宮を一般の武士や市民にも参拝させるために浅草寺境内に【浅草東照宮】を建立したおり、東照宮の神橋として和歌山藩主の浅野但馬守長晃の妻で、徳川家康の娘振姫が寄進したものとされます。その後1642年(寛永19年)に本殿などは火災で焼失していますが、この石橋は地震や戦災にも無事に残り約400年前の姿を伝えています。橋の全長は3.3m、幅は2.2.m、欄干高1.1m、都内最古の石橋と云われ重要美術品となっています。

070607070609こちらは【浅草六角堂】です。説明板には1618年(元和4年)の建立と記されていますが、一説では室町時代の建立ともいわれ、”都区内では最古の木造建造物”とされる。六角型造りの建物です。江戸時代の数度にわたる大火、大正時代の大震災、昭和20年の東京空襲と多くの災難を免れて残っている周囲が5.5m、背が低く瓦で全体を覆われている”奇跡の建物”です。もとは現在の影向堂の南に建っていたのを平成6年現在地に移りました。東京都の有形文化財に指定されています。

070610070611こちらが【影向堂/ようこうどう】です。平成6年に浅草寺中興開山慈覚大師ご生誕1200を記念して建立された境内では一番新しい建物です。内陣の須弥壇中央に聖観世音菩薩像、その左右に十二支生まれの年の守り本尊八体(影向衆)の像が安置されています。生まれ年の守り本尊は人それぞれの個性にあわせて、分担される仏様で、それぞれ真言を唱え、念持すると御加護が授かるといわれています。…因みに[子年]は千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)・無数の手により私たちを守ってくださる観音さまで、縁日は17日はとなっています…。【影向堂】のお隣に六角堂のご本尊【日限地蔵尊】のお堂があります。地蔵菩薩は慈悲の心で衆生を救われる仏さまとされ、この日限地蔵尊はお願い事に対し日数を定めて祈願すれば霊験があるとされています。

*浅草寺境内にはまだまだ遺跡・記念碑があるのですが、徐々に紹介していく予定です。

見所満載の浅草寺境内…(2)

070501070502浅草寺境内の旧跡の多くには由来が記載された案内板が付いています。案内板の種類も『重要文化財』、『金龍山・浅草寺』、『台東区教育委員会』や『東京都教育委員会』によるのもの等の種類があるようです。この優しい顔をした婆さんは、瓜生岩子(うりゅういわこ/1829-1897/福島県会津生まれ)という方で、その半生を社会福祉事業や児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年には”藍綬褒章”を女性としては初めて受賞している方です。”日本のナイチンゲール”とも称讃されたのですが、この辺は???です。以前に浅草生まれ育ちのお年寄りに…【この銅像の前を通ったら必ずお辞儀をしなさいと親から云われていて、どんな人かも知らずに通るたびにお辞儀をしていた】…との話を聞いて感激した覚えがあります。

070503070504写真は六区方面へむかった『淡島堂』にあります。説明版は『金龍山・浅草寺』の署名です。右の天水桶は1770年鋳造の貴重なものです。第二次大戦下、本尊の秘仏観音像を空襲から守るため一時的にこの天水桶に入れて地中深く埋めたそうです。幸い本尊は空襲被害を免れ戦後再び安置されています。写真左は「この灯篭の下を子供がくぐると病よけになる」と江戸時代から云われている灯篭です。確かに大人ではチョット無理かもしれません。こちらも説明版は『金龍山・浅草寺』です。

見所満載の浅草寺境内…(1)

070401070402大多数の東京観光ツアーには”浅草自由散策”が組み込まれています。観光バス利用の場合は二天門駐車場で下車、浅草寺・本堂をお参りして、仲見世辺りでぶらぶらと云うのがパターンのようです。それはそれで良いのですが、浅草寺境内には見所が数多くあります。写真左は【重要文化財・二天門】です。1618年(元和4年)に浅草寺境内に「東照宮」が造営され「随身門(ずいじんもん)」として建立されています。この東照宮は1942年(寛永19年)に焼失、再建はされていません。右の鳥居奥が【浅草神社】です。元は三社権現(さんじゃごんげん)と称していました。三社祭りはこちらの祖神(漁師兄弟と地主)のお祭りで、浅草寺のお祭りではありません。社殿は徳川家光が1649.年に建立によります。神社右奥には【被官稲荷】と云うチョット面白い稲荷社があります。

070404070403写真左は【宝蔵門】です。スカイツリーとの2ショットの受けが良いようです。この宝蔵門は元禄時代に創建されたのですが戦災で焼失しています。現在の門は1964年にホテルニューオオタニの創始者・大谷米太郎夫妻の寄進により完成しています。「小舟町」と書かれた提灯がかかっていますが、これは日本橋小舟町からの寄進によります。吊り灯篭には魚河岸講(水産会社で構成)からの寄進なので「魚かし」となっています。右の写真は、徳川家光建立の五重の塔があった場所の碑です。現在の場所と異なり宝蔵門を正面からくぐった右側にあります。現在の五重塔はコンクリート製で1973年の再建です。どうした訳か江戸時代のものより15m高くなっているそうです。

東京駅・北町奉行所跡

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”遠山の金さん”こと北町奉行『遠山左衛門尉景元』とくれば”この桜吹雪が~”で有名です。”遠山の金さん”が3年間、北町奉行として在任した北町奉行所跡が東京駅・八重洲側にあります。実はこの跡地は有名な割には不当とも思える扱いを受けています。上の「北町奉行所跡」の碑は丸の内トラストタワー敷地内にあるのですが、これが実に見つけにくい場所にあります。今の季節の様に、緑が深いと埋もれてしまいます。もう少しなんとかならないもんでしょうか?まるで"奉行所跡をさがせゲーム”のようです。

Pt下左はビル建築中に発掘された奉行所の遺構で奉行所を囲む下水溝のようです。石の角が丸く加工されているのは奉行所の鬼門にあたるので”角”をなくしているとの説明があります。Pt中は、八重洲口1F商店街からトラストタワー方面へ抜ける通用口(?)的なドアです。ポールの脇、壁の下方に埋め込まれたプレートがPt右です。「都旧跡・北町奉行所跡」とあり由来が書かれています。どんなはずみで、このように”膝まずかなければ読めない”場所になってしまったのでしょう。
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