旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2013年08月

河口湖飛行館の零戦

130828_4130828_5年間を通してほんの一ヶ月しか開館していない博物館が河口湖にあります。『河口湖自動車博物館』は8月のみオープントいう稀な博物館です。左は自動車館の入口で、なんと玄関の上にかっての空自の主力戦闘機”ロッキードF104/複座なのでF104DJ”がデンと置いてあります。こちらには「自動車館」と「飛行館」があり、各入場料が¥1000となっていました。今回は『零戦』が目的なので自動車館はパス、写真右(屋根にF86が見えます)の飛行館のみです。入口には…携帯電話での写真撮影のみ可、一眼デジカメ、Iパッド等のカメラ関係は持ち込み禁止…との掲示があります。キビシイようですが影禁止よりマシです。中に入ると理由は”なるほど”と思います。10人中マニアが7人他が3人という感じで、浅い知識を声高々にひけらかす航空マニアに溢れています。これで3脚&フラッシュを開放したらとんでもないことになるでしょう。まるで体育館の様な館内には、52型&21型の零戦。93式練習機、復原中の零戦、1式陸攻の胴体、1式戦闘機の尾翼部分などが展示されています(靖国神社の零戦はここの出身です) …館内にもなにげに掲示がありましたが、日本にはキチンとした戦争資料館が存在せず、思い浮かぶのが「靖国神社・遊就館」と「知覧・特攻記念館」くらいとは残念な限りです…太平洋戦争中の日本はすべてが『悪』だとしてきた教育によるのでしょうが、思えば馬鹿げた話です。 *博物館は今年も8月31日を持って休館になるようです

左)52型零戦です。これは中島航空機製でした。カウル下方が外されエンジンが見えます。
中)21型零戦です。真珠湾作戦時の塗装になっています。翼端がたためる艦上戦闘機仕上げです。
左)手前が復原中の零戦の骨格。奥に見えるのは52型、A1の尾翼が21型の零戦です。
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鳩森八幡神社

130827_2130827_3JR千駄ヶ谷駅を降りて、東京都体育館と津田塾大学の間を5分ほど歩くと『鳩森八幡神社』…御祭神は応神天皇、神功皇后、木花咲耶姫の三神…があります。鳩森八幡神社の創建は860年に慈覚大師円仁(じかくたいしえんにん)によるとあり、都内でもかなりの古社です。”空から降りてきた白雲を追うと森の中から白い鳩が飛び立った”というのが由来ですが、もっとものような、意味不明なような話です。ややこしい事には「鳩森八幡神社」は通称で「八幡神社」が正式名称で、「千駄ヶ谷八幡神社」とも呼ばれているそうです。身近にある神社仏閣の名称を、単に「お寺さん」・「神社さん」と呼んでしまうような感覚なのでしょうか(?)神社の境内には、都内でも有数な「富士塚」があります。1789年の創建で現在都内に残る富士塚では最も古いとされています。こちらの富士塚は登れるようになっているので、さしたる登山技術が必要なわけでもなく、誰でも簡単に”富士登山気分”が味わうことができます。

下の3点は、境内の都内最古の「富士塚」です。千駄ヶ谷・富士塚となっています。
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さよなら国立競技場ツアー

130826_1130826_2新宿区霞ヶ丘町の『国立競技場』が55年におよぶ歴史を閉じ新しく生まれ変わろうとしています。来年の7月から改築工事が開始される予定で計画では8万人の収容、開閉式の屋根を備えた全天候対応型の新スタジアムが想定されているようです。そんなことで”秩父宮記念スポーツ博物館”では「国立競技場55年間の姿を振り返る改装工事前の特別展」が2013.08.06~2014.5.6の日程で開催されています。またこれとは別に「Sayonara国立競技場・スタジアムツアー」が特定日の設定で行われています。今日出かけたのは、こちらの「スタジアムツアー」です。1回の定員が20名と小規模で、スタッフが3名付きます。最初に秩父宮記念スポーツ博物館を見学します。こちらには東京オリンピック関連や歴史的なスポーツ関連の品々が展示され、新(予定)競技場の模型なども展示されています。東京五輪世代としては興味深い”モノ”も意外と楽しめます。その後、観客席、聖火台、貴賓室、ロッカールーム、もちろんトラックにも立てます。時間にして1時間少々…。建物自体は施設管理が良かったのでしょう、50年以上経過した施設とは思えません。写真右は東京オリンピック時のメダル関連のモニュメントが残されています。記憶の彼方です…(笑)

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ブートCDの裏通り・08

r8191r8192『ストーンズずっこけ演奏愛好会』と称する組織がありまして…そんな訳ありません(笑)…この方たちは”伝説”のズッコケ演奏をたまにやらかしてくれます。個人的見解では、過去最高のズッコケ度は左下の「Hot August Night」が最高ではなかと思います。1976.08.21のKnebworthのLiveですが、つい数日前までツアーをやっていた”はず”なのですが、緊張感が緩んだのか「大メロメロ大会」です。let's spend~なんてヒドイ事、ヒドイ事・(同レベルの”トロント”も捨てがたいですが…)。ごく最近になって”大笑いのブツ”がまた登場しました(左上)。2013.07.06&13のロンドン・ハイドパーク、某店舗のギフトCDRです。キースの旦那、なんと(笑)1曲目(!)Start Me Upの一発目のコードを06&13の両日共にやってくれます。オープンチューニングのコードを間違えるのは考えられないのですが、見事にやってくれます。これには 1)ギターテクが渡すギターを間違えた。 2)キースがボーッとしていてスタートのQを見落として慌てた。3)やる気がなかったのでワザとやった。などが考えられます。ともかく他のメンバーは”アチャ~”の思いでしょう。この2日間を編集してCDが発売されるそうですが当然の大々修正でしょう。てな話をしていたら更なる”大笑い”があるとの情報がありました。右のブツ。1981年のUSツアーです。特に左はPAがぐちゃぐちゃで素人バンド並みの演奏です。恐らく自分の音さえ聞こえてないのではないでしょうか…。この年のツアーは会場が広いのでPAが不調だったらどうにもなりません。それでも観客は演奏を期待しているのですから”止めた、帰る”という訳にはいかないのが辛いところです。因みに、このCDは借物だったので購入しようとしたらすでに売り切れ(!)となっておりました。『ストーンズずっこけ演奏愛好会』は存在するのかも知れません。

岡崎五万石・岡崎城

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諏訪大社~高山~白川郷~天橋立~境港~出雲大社~石見銀山~松江~倉吉~大津~彦根~伊勢神宮~豊川稲荷と続けてきた2013年夏シリーズもこの【岡崎城】で終了です。この岡崎城へは20年ほど前に所要で出かけて以来になります。これがまたなんと整備されたことか(!)驚きました。元々岡崎城は徳川家康生誕の城として知られていますが、家康が生まれたころは松平家(徳川家)は地方の一豪族にすぎず、後世の天守を持つ城郭ではなく「砦」程度のものだったと思われます。

130815_2130815_4江戸時代の岡崎城は家康すなわち「神君出世の城」として崇められ、本多家(康重系)、水野家、松平家、本多家(忠勝系)と、家格は高いが石高は低い「譜代大名」が歴代の城主となっています。城主が本多康紀の時代の元和3年(1617年)に3層3階の天守が造られ、東海道が城下に移さるなど岡崎の街は東海道有数の宿場町として繁栄するに至っています。右の碑は”舟着き場”です。。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」という歌にもあるように、昔は帆掛け舟に荷物を積んで菅生川を上がり下がりし、ここで積荷を上げ下ろししたそうです。

130815_3130815_6久々に訪れたこともあるのですが、天守を含む岡崎公園は、いつの間にやらの充実ぶりとなっていました。昭和30年代に「本多康紀」時代の天守台を模して鉄筋コンクリート造りの天守を再建して、内部は資料館になっていますが、今でも他の再建城郭資料館に比べても見劣りすることはありません。公園駐車場側には「大手門」が再建されていたり、「三河武士のやかた家康館」などという資料館も造られていました。この公園は10㌶以上の広さがあり、江戸時代でも五万石の大名家にしては大きな城郭だったようです。これだけの敷地を公園として残した岡崎市はさぞ大変だったことでしょう。左の写真は2年ほど前に完成した徳川四天王の『本多平八郎忠勝』の銅像です。座像姿で、柄が6mもあったと云われるトレードマークの長槍「蜻蛉切」を携えています。誰の作かは知りませんが肖像画とは似ていません。こちらはまだ許せるのですが、右は天守にあった記念写真のボードで、家康の隣の黒い甲冑が本多忠勝だそうです。あまり愉快なものではありません。

左)天守台隣の龍城神社です。祀神は徳川家康と本多忠勝です。「鬼の本多」も神様になっていたとは…。
中)徳川家康の象です。晩年の姿になっています。駿府城公園の家康もこんな感じでした。
右)この公園もご多分の漏れず野良猫が多いようです。看板の絵が妙にかわいく書かれていますが…。
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岡崎ビスタライン・大樹寺

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岡崎市の中心から車で20分ほどの郊外に【成道山・大樹寺】という浄土宗のお寺があります。歴代の徳川将軍家の墓所は芝の増上寺や上野の寛永寺にありますが、この三河・大樹寺が松平家(徳川家の祖)・徳川将軍家の”菩提寺”となっています。松平4代の親忠が古戦場の近くに念仏堂を設けたのが始まりとされ、文明7年(1475年)に寺を建立して【大樹寺】と名づけていますが、この時代の松平家は三河の一豪族にすぎないのでたいしたモノではなかったでしょう。

130814_4130814_5織田信長と今川義元の「桶狭間の合戦」の時、今川方についた家康(弱冠19歳)は合戦に惨敗し、大樹寺まで逃げ帰っています。先祖からの墓所で自害を図ろうとしたところ、住職の「厭離穢土、欣求浄土」と説得され自害を思いとどまったという話は有名です。そんなことから、徳川家康は遺言で、「自分の遺体は久能山へ埋葬するように…」そして「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」と残しています。幕臣たちは遺言に従い家康の位牌を大樹寺に収め、以降の歴代の将軍達(15代慶喜除く)の位牌も寺に安置されるようになっています。実はこの位牌をどうしても見たかったのですが…(空調がしっかりコントロールされた部屋で、写真撮影は厳禁でした)…安置されている位牌は将軍の死亡時身長とほぼ同じ大きさとされ、昭和年代に増上寺の墓所の調査でも確認されているそうです。歴代の位牌のなかでも”生類憐みの令”で有名な5代綱吉公は124㎝しかなく、現代であれば小学生並みの身長です。4代将軍家継公は6歳で死亡しているにも関わらす135㎝もあります。この2人は何らかの病気であったと云われていますが…。実際に歴代将軍の位牌を目にすると様々な疑問点もでてくるのですが、それはそれとして興味深いものでした。

130814_2130814_3岡崎市のHPには、この大樹寺から岡崎市内の眺めが”「眺望・展望」を意味する「ビスタ」を冠し大樹寺と岡崎城を結ぶ約3㎞直線を「ビスタライン」と呼んでいます”とあるのですが…。実際に、大樹寺の本殿から山門、総門の延長線に岡崎城の天守が遠望できるのです。これは3代将軍家光(大の祖父好き)が、寛永18年(1641年)に菩提寺である大樹寺の伽藍の造営を行う際に『祖父生誕の地を望めるように』との考えから本堂から山門・総門を通して岡崎城天守が望めるよに伽藍を配置したことが始まりです。逆に歴代の岡崎城主は城から大樹寺を拝礼できたことになります。驚くのは以後約370年、この歴史的眺望は法や条例による規制がなくとも眺望を遮らないように配慮されています。こんな素敵な街があったとは感激モノです。谷中の富士見坂の富士山を望む眺望を遮るマンション建設をした大馬鹿野郎とは大きな違いです。
右)総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して彼方に「岡崎城」の天守台が見えるのですが、肉眼ではかなり苦労します。300㎜レンズ使用でかろうじて写っています。

曹洞宗・豊川稲荷

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日本3大稲荷と称する組み合わせ(?)は2通りあるそうです。1)では伏見(京都)・祐徳(佐賀)・笠間(茨城)稲荷神社での3大。2)では伏見・祐徳・豊川(愛知)稲荷神社での3大となります。伏見、祐徳は文句のないところですが…。あと一つとなると、やはり豊川稲荷社だと思います。以前に「豊川稲荷東京別院」で触れましたが、稲荷信仰には2系統(実際はさらに多く)があり、1)の組合せでは、祀神が3大とも五穀豊穣の神「宇迦之御魂命」になってしまいます。2)の組合せで、仏教系の稲荷である愛知県豊川市の曹洞宗・妙厳寺(みょうごんじ)…インドの神様・吒枳尼天(だきにてん)を祀る…を入れた方がよいかと思います。この妙厳寺は、一般的には「豊川稲荷」の名で知られ、神社系の稲荷ではなくとも”商売繁盛の神”として広く知られています。神使は仏教系も神社系も共通なので”きつね”がデンといます。本堂前の「鳥居」は何か妙なのですが、神仏混合の様子が多々見られるということなのでしょう。

左)本殿手前に立派な「鳥居」があります。再々ですが豊川稲荷は神社ではありません。
中)本殿の様子です。神使のきつね像はかなり大きつねです。東京別院のきつね像とよく似ています。
右)本殿の後方、吒枳尼天の幟が連なるさらに奥に、多くのきつね達が静かに時を過ごしています。
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伊勢神宮・幻の街・古市

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伊勢市中之町付近の風景です。今でもやや面影を残していますが、この道は外宮から内宮への旧伊勢参道です。この近辺「古市」の街は1782年(天明2年)頃に栄えた遊郭の街として知られています。最盛期には妓楼70軒、寺3ヶ所、芝居場2軒、遊女約1000人という江戸・吉原、京都・島原と並んで三大遊郭と云われる程の規模だったようです。1734年(安永3年)に遊郭が許可され1915年(大正4年)最後の古市三大妓楼の「備前屋」が廃業、1945年(昭和20年)の空襲で街が灰燼となるまでの230年間以上の歴史がありました。

130812_5130812_4今、歩いてみると街並みも変わりすっかり旧街道の体となっています。道幅も狭く観光バスはちょっと無理でしょうね。写真の施設は「伊勢市立 伊勢古市参宮街道資料館」と云い、古市の歴史館的役割を担っています。館内には古くからの伊勢詣の様子や古市歌舞伎、遊女1000人を擁したという全盛期の古市の資料が展示してあります。施設のパンフに記載があるのですが、『伊勢に行きたい伊勢路がみたい せめて一生に一度でも…』と伊勢音頭に歌われたように、伊勢参りは庶民の夢でした。江戸時代を通して「伊勢参り・おかげ参り」は何度かのブームがあり、最盛期には半年で458万人が参拝に訪れたと云われています。参拝者達は”御師”紹介の宿でご馳走を堪能するとこぞって古市の街へ繰り出し、女達は、多くの歌舞伎役者の登竜門として知られる「伊勢歌舞伎」に心をときめかせ、男達は故郷での質素な暮らしを忘れて美形(?)の遊女達と『精進落とし』と称して、乱痴気騒ぎを楽しんだそうです。川柳に『伊勢参り 大神宮にも ちょっとより』とあるように”はめ”を外した光景が浮かんできます。

130812_1130812_2昔の古市の面影を良く残しているのが、写真の木造6階建の【麻吉旅館】です。創業当初は「花月楼 浅吉/あさきち」として遊女をかかえ、現在でも麻吉旅館として営業しています。いまでも着飾ったお姐さんが手招きしてくる風情があります。色町で男と女がいれば当然トラブルはつきもの…武州(埼玉県)の清水源之丞の詠んだ『古市の古き狐に騙されて、一度は来たが、二度はこんこん、思うてきて思わず、去る者はなし、身代滅ぶに、古市の里』…古き狐=遊女に翻弄されている様子は爆笑もんです。かと思えば、堅物の医者・孫福斎(まごふくいつき)が妓楼「油屋」の16歳のお紺ちゃんに、手ひどく無視されキレた斎は刃傷沙汰の大暴れとなってしまいました。この事件は10日後には松坂で『伊勢音頭菖蒲刀』として芝居となり、70日後には大坂の芝居小屋で歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』として大評判をとっています。男と女のスキャンダル情報の伝達の速さは驚きです。

伊勢神宮の式年遷都の年でもあり、多くの参拝者や観光客が訪れています。内宮や外宮の荘厳さ感心し、おかげ横丁で美味しい物を食べて…。このような滅びてしまった遊郭のあった街・古市などは訪れる人もいないでしょう。観光ガイドブックに掲載されることすら少ないと思います。『神社仏閣に詣でて、精進落としでパ~ッと…。これが日本人の楽しみ方の根底です』  滅びてしまった遊郭の街・古市は是非とも訪れてみたい街でした…。
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伊勢神宮…(Ⅱ)

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こちらはJR伊勢市駅近くに鎮座している「外宮」です。この近辺は「山田の里」といい、内宮のある「宇治の里」とは異なっていました。旧参道の昔から現在でも参拝者は最初に外宮を参拝し、それから内宮へ参拝する段取りとなっています。歴史的には内宮の方がはるかに古く、内宮はアマテラスが鎮座してから2000年超の歴史があります。外宮はその後に丹波の国(京都府)から移されていますが、それでも1500年の歴史があります。火除橋を渡り神楽殿を過ぎ、その先にある正殿と、社殿の配置は内宮とさほど異なっていません。祀神は内宮がアマテラスオオミカミですが、外宮では元々は食物を司るトヨウケノオオカミ(豊受大神)が鎮座しています。いってみればトヨウケノオオカミはアマテラススの食事の世話をする料理係となります。「外宮」は神々の食事で神々の食事は日に2回、午前8時と4時(冬は9時と5時)と決まっています。この時間には内宮を参拝しても『食事に付き 不在』ということになってしまいます。

内宮も「式年遷都」となっています。火除橋先の鳥居は新しくなっていて、正殿奥には新正殿の完成した真新しい社殿が少しだけ見えます。内宮といい外宮といい、伝統の持つ”力強さ”には圧倒される思いです。
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伊勢神宮…(Ⅰ)

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今年は伊勢神宮の20年に一度の内宮と外宮の正殿や多くの別宮や摂社などの建物、装束、神宝をつくり直す「式年遷都」の年にあたります。その費用は前回の第61回の場合で総費用230億円と云われていました。神宮が200億円を積立て、残り130億円は寄進によるものだったそうです。「式年遷都」は天武天皇の時代に定められ、持統天皇の4年(690年)に1回目が行われ、莫大な費用をかけて1300年以上綿々と続いている行事です。理屈や批判は殆ど意味をなしません。これが”歴史”というものです。
伊勢神宮の祀神は、神話時代のイザナギ・イザナミの長女・「アマテラス」です。以降は天皇家の皇祖神として崇められてきました。伊勢の地に祀られたのは、垂仁天皇の娘・ヤマトヒメ(倭比売)の候補地選定のおり「この神風の国は永遠に浪がしきりと打ち寄せる国である。この国に居たいと思う」との神託をアマテラスより受け伊勢に決定したとされます。なんか変です(!)。皇祖神であれば天皇家の近くで祀られるのが自然でしょうが、”うるさい輩”は側に居て欲しくなかったのかも知れません。

130810_2130810_3伊勢神宮は「内宮/皇大神宮」と「外宮/豊受大神宮」の2つの正宮を中心に別宮、摂社、末社、所轄社まで100社を超える神社で構成され、日本の神社の頂点とも云える神域となっています。古代、神宮は天皇の許可なしに参拝することは禁じられていました。やがて武士階級からも崇敬され、荘園制の崩壊による経済基盤の揺るぎから全国的に信者を増やす”団体旅行のハシリ”でもある「御師」によるお伊勢講の制度が確立され、爆発的に参拝者が増加しました。
五十鈴川に架かる「宇治橋」を渡ります。五十鈴川の川べり、「御手洗場」で身を清めます。右の写真は「神明鳥居」と呼ばれる鳥居です。神明鳥居でも伊勢系の神社では「笠木」の断面が五角形になっています。

130810_4130810_5「神楽殿」、「五丈殿」を過ぎ樹齢7,800年杉並木の道を進みます。廻りの雰囲気に”ただならぬ場所に来てしまった”と云う感じがしてきます。石段を登り、鳥居を抜けると「正殿」です。残念ながらこの付近は撮影厳禁となっていました。通常であれば「正殿」の隣には古殿地(こでんち)と呼ばれる空地があるのですが、式年遷都の今年は古殿地に「新正殿」が建っています。まだ塀越し、テント越しで見ることができませんが、今年の秋には「旧」から「新」にご神体を移す行事が行われます。その後「旧」を取り壊しさら地にします。これを20年毎に繰り返していきます。この遷都に付いては様々な説があるようですが、「行事により神々と向き合うことで”神々の威光”を落とさないようにする」が有力ではないかと思います。

久しぶりに訪れて驚いたのが「伊勢おかげ横丁」と呼ばれる飲食店や土産の並ぶ商店街です。映画のセットのような建物が立ち並び、景観的にも統一されています。運営があの”赤福”の関連会社と云うのも驚きです。
左)あまりの暑さに、お店の看板ねこはヘロヘロ状態になっていました。
中)例の「赤福」のお店です。伊勢神宮参拝には欠かせません。
左)「このうどんゆで時間まちがえたのでは?」という感じに緩い「伊勢うどん」の人気店です。
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これぞ国宝!・彦根城

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【国宝・彦根城】の天守最上階の欄間には彦根城天守&多聞櫓二棟が国宝である旨の「国宝指定書」が掲示してあります。『建第45号・昭和27年3月29日・文化財保護委員会』とあり、60年も前の認定なのです。他の国宝では気が付かなかったのかも知れませんが、このような「国宝指定書」が堂々と掲示してある例は珍しいのではないでしょうか?

130809_6130809_1この城は慶長9年(1604年)から20数年の年月をかけて井伊35万石の象徴として建設されました。井伊家は、安政の大獄での「井伊 直弼」が有名ですが、井伊家(彦根藩)は幕府の中枢を担い、酒井、本多家を超えて譜代大名のなかでも最高の禄高を有する超名門でした。彦根城は1600年代の戦国状態継続中時代の城本来の機能が各所に見られる美しい城です。。現存する「天守で国宝」は姫路・彦根・犬山・松本のみとのことです。この彦根城は”世界文化遺産暫定リスト登載”だそうですが、ユネスコ(イコモス)の評価など受けずとも日本国の誇る”国宝”で良いと思います!

上)天守を撮っていますが、撮影の方向は90°違います。角度を変えても美しい姿です。
左)重要文化財の【天秤櫓】です。石垣の積み方が”落とし積み””牛蒡積み”と年代により異なるのが分ります。
中)観光客はあまり訪れないようですが、裏手からの敵に備えたこちらも重要文化財の【西の丸三重櫓】です。
右)4代藩主直興が造営した大名庭園で、中国の宮廷庭園の「玄宮」より【玄宮圓】と命名されたそうです。
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明智光秀と西教寺

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大津市坂本の天台宗真盛宗の総本山【西教寺】は、末寺の数400寺を有する名刹です。総門をくぐると本殿までの緩い坂道が続き子院が並んでいます。それらの本殿や子院の屋根瓦には「猿の像」が乗っかっています。伝承では1493年坂本の地で一揆が勃発。比叡山の僧兵たちは、西教寺の「真盛上人」の指導者と誤解して寺を襲撃してきました。その時に本堂の鐘を鳴らし急を知らせたのが”手が白い猿”でした。この猿は日吉神社の神のお使いであるとして、比叡山の僧兵達は撤退していったそうです。こんな伝承から屋根の上の猿は”護猿/ござる”と云われています。まもる猿で護猿とは日本語の妙です。元亀元年(1571年)9月には織田信長による比叡山焼討ち事件により西教寺も全山類焼しています。その後、明智光秀公が坂本に居城を築城し、西教寺の大本坊(庫裏・総けやき造り・重要文化財)を造築し坂本一帯の復興に尽力し、天正2年(1574年))仮本堂が完成、本尊の阿弥陀如来(重要文化財)を安置しています。そんな関係から細川ガラシャを含め明智光秀や妻・熙子など明智一族ゆかりの寺となっています。

左)西教寺の総門。灯篭脇の石柱に「明智光秀公と一族の菩提寺」とあります。総門左に駐車場があります。
中)江戸時代1598年(元文4年)完成の本堂です。重要文化財に指定されています。
右)坂本城主、明智日向守光秀とその一族の墓、天正十年六月十四日(一五八二)没、秀岳宗光禅定門とあります。
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大津・三井寺

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大津の【三井寺】は、正式には「長等山・園城寺/ながらさん・おんじょうじ」と云う天台寺門宗の総本山です。一般的には通称の「三井寺」として知られ、寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったと云われています。天智天皇の大津京造営時に計画され、壬申の乱を経て敵方の天武天皇により寺の創建の許可を得て、7世紀に大友氏により創建されています。平安時代は皇室、武家の信仰を集め、以後10世紀ごろからは比叡山延暦寺との対立抗争、さらには豊臣秀吉により寺領を没収されたりの苦難の歴史を綴ってきています。名刹です!

130807_2130807_3上の【仁王門/重要文化財】は1452年の建立で、1601年(慶長6年)に徳川家康により近江のの常楽寺より移設・寄進されたとあります。絵図の案内板があるのですが、境内は広く、ゆっくり見て廻ったら2時間以上は必要かと思います。
ここから、仁王門の右にはの室町時代初期の建築で重要文化財【釈迦堂】があります。参道を直進し石段を登ると、【金堂】…国宝の本堂です。本尊の阿弥陀仏は天智天皇が信仰していたものが祀られています。建物は秀吉の妻・北政所により慶長4年(1599年)に再建されています。

130807_4130807_5金堂の反対側に重要文化財の【鐘楼】があり、これが近江八景として有名な”三井の晩鐘”として知られています。宇治の平等院、高尾の神護寺とともに日本三銘鐘とされており「日本の残したい音風景百選」にも選ばれています。進んでいくと、三井の霊泉・閼伽井屋。一切経を納める一切経蔵。室町初期の建築・三重塔等など重要文化財が続々登場してきます。弁慶の引き摺り鐘の伝承を微笑ましい内容です。さらに登って、西国十四番札所観音堂あたりからは眼下に琵琶湖の景色が遠望できます。この大津が嘗ての都であり、条件的には奈良や京都にも景観でも劣らない様子が判ります。

三井寺を名刹といわないで何を名刹というのでしょう。この年月を経てきた空気感が素晴らしいお寺です。
左)慶長7年、毛利輝元より寄進された重要文化財・一切経堂の内、回転式の八角輪蔵です。
右)琵琶湖を眺望する西国十四番札所です。観音堂を中心に札所伽藍を構成しています。
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大津・ニコライ遭難現場

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 1891年(明治24年)5月、日本を訪問中の当時のロシア皇太子・ニコライ(日露戦争時はニコライ2世)が大津の街を通りかかった際、警備担当の警察官・津田三蔵に襲われ負傷した暗殺未遂事件『大津事件』の現場です。歴史に”もし”は許されませんが、もしこの場でニコライが殺害されていたら、ロシアは報復の為日本へ攻め込んできたでしょう。明治24年の日本にはロシアと戦える国力はなく、良くても北海道の割譲、悪くすれば日本はロシアの植民地だったかも知れません。この事件は日本が滅亡していたかも知れない程の大事件だったのです。歴史というのは皮肉なもので、皇太子ニコライは後にニコライ2世として日露戦争を戦い、ロシア革命により帝政ロシアは亡んでいくということになります。この事件でニコライを守った2人の日本人はロシアより高額な年金を受給しますが、日露戦争開戦により日本側から停止。敵の皇太子を救ったとして国賊扱いの憂き目をみたそうです。「世間様が許さなかった」のでしょう…。

左)上の写真の解説プレートです。簡略すぎるほど簡略に書かれています。
中)旧東海道である旨の表記です。道幅は意外に狭く、歓迎の大観衆が居たことを思うと…。
左)事件現場付近の旧東海道です。東京・品川あたりの旧東海道とは雰囲気がぜんぜん違います。
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赤瓦の風景・倉吉

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鳥取で宿泊したホテルの方に勧められて立寄ってみました。鳥取県倉吉市は、江戸・明治期に建てられた”白壁土蔵群”が多く残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。醤油屋や酒蔵として使われた蔵を店舗として改装して様々な観光スポッになっているのですが…。昨今良く聞く話のようでもあります。写真にあるように”ごく普通に見かける地方の街並み”と云う感じです。決して悪意はありませんが、雰囲気的にはは、先に訪れた飛騨・高山の街のような感じがしてしまいます。街の観光案内所などは思いのほか充実しており、地域を挙げての”もてなし”への取り組みは好印象ですが、どうにも関東の人間にはピンときません。

左)赤瓦の店舗です。青空と白壁&赤瓦屋根(!)「倉吉」はいい感じの街です。
中)スイマセン。どうしても白壁、酒蔵は九州・福岡・柳川の掘割りが思い起こされてしまいました。
右)地元倉吉出身の53代横綱・琴櫻/佐渡ヶ嶽親方の像です。記念館もオープンしているそうです。
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戦うための機能美・松江城

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島根県松江市の松江城は見た目の印象なのか「千鳥城」と呼ばれているそうです。いつもの事ですが、誰がどういう場面でそう呼んでいるのでしょうか?と、いつものように困惑してしまいます。この「松江城天守閣」は重要文化財に指定されており、見るからに”戦うための城”といった印象です。周囲は毛利や尼子と外様ばかり。徳川の親戚筋で、この地に配された松平家は常に戦いの準備を怠らなかったのでしょう。天守台の内部は往時の雰囲気を残しており宍道湖や松江の街並みが展望できます。他の現存する国宝指定の城郭と比べて、壮麗さでは姫路城。美しさでは彦根城。古さや希少性では松本城や犬山城に見劣りすると云われています。昭和年代行われた補修・復原作業では、現代の様に綿密な調査をしているわけではなく”適当にやっちまえ”の工事であったのが今となっては残念です。地元では「松江城を国宝に」との運動が行われており、大手門復元に向けては、高額の懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探していているなど盛り上がっている様子です。

左)この石垣の造作は適当の極みに見えます。渡櫓門らしき門の位置も適当に造られた位置のようです。
中)やはり天守閣は城郭の象徴です。特に松江城の天守は力強さに溢れています。
右)明治4年に一度廃城がきまり、松江城の払い下げ入札価格は驚きの180円だったそうです。
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石見銀山みて歩き

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1日に300㎞超えの移動にもなれ、出雲大社まで来ているので、すぐ近くの【世界遺産・石見銀山】まで足をのばしてみました。日本人には何故石見銀山が世界遺産なのか理解できないと云う話を良く聞きます。『石見銀山遺跡とその文化的景観』で2006年の「記載延期」…落選ではありません…を経て、2007年7月に世界遺産に登録さています。確かに、この辺りの経緯は良く分らないです。ユネスコやイコモスと称する怪しい組織、文化庁の考えには”胡散臭さ”もありますが、『来た・観た・帰る&お土産』の一般的な観光施設からの視点や考えでとは異なる観点からこのお話は始まっているようです。

130803_2130803_3石見銀山を訪れるには、”たてまえ”として交通規制(?)されています。尾根一つ異なる「世界遺産センター」の地区までは自家用車、観光バスで入れ、ここから銀山地区や街並み地区までは路線バスを利用するようになっています。最初に、この「世界遺産センター」でベーシックな部分を学びましょう。館内(有料施設)には鎌倉時代から明治時代に鉱脈が枯渇するまでの銀山の歴史が展示されています。この地で確立された「灰吹法」という銀の精製技術は、世界的に広まっていくのですが…。このセンターにはそんな歴史的な部分が展示されています。しかしながら”万”を超える鉱夫(一説には20万人?)が劣悪な環境のなかで働いていた様子、当時の鉱夫は30歳まで生きられれば長寿と云われていたそうですが、事故や脱走、喧嘩・殺人などは日常茶飯事。これだけの男たちが居れば遊郭や賭場もあったでしょう。このような極々の日常には触れていません。日本から世界への文化伝承についての世界遺産登録にはどうでもいい事のようです。

130803_5130803_6たてまえ的には「世界遺産センター」から路線バスで【銀山地区】の駐車場へ向かいます。…実際はこうではなかったのですが、ここでは書きません…登録から数年をへて一般的観光需要が落ち込み、交通の規制はさらに観光客の凋落をまねくこととなったようです。【銀山地区】では駐車場から左写真のような山道を30分位ほ登ります。間歩(まぼ)と称する銀山遺跡を見るのにトータルで約90分以上は必要となります。石見銀山には600を超える鉱道があるそうですが、通常てきに観光できるのが龍源寺(りゅうげんじまぼ)という昭和18年頃まで採掘されていた最大級の鉱道です。鉱道内は平均15℃で寒い位ですが、歩きやすく整備されています。それでも、山道をヒーヒーしながら登ってきての”これかよっ”感が強いようです。

130803_7130803_8こちらが石見銀山の政治経済の中心地だったとされる【街並み地区】です。ただの田舎町です(!)。遺産登録時は押すな押すなの盛況だったのでしょうか?数件の古民家を有料施設としていますが、なんの価値も見出せません。時代背景にもよりますが、江戸から明治の銀山の採掘はほとんど”強制労働”に近かったと思います。この平和そのものの街並みは、この町が歴史的な役割を退いたことの証でしょう。下の写真の(中)の「旧大森裁判所」の施設が街並み交流センターとして使用されていました。山間の町に裁判所があったなんて、それだけでこの町が大繁栄していたことがわかるのですが…。日本の地方史には大きな事も世界遺産的には意味の薄い事の例だと思います。

石見銀山が「世界遺産」登録事由としたのは、(1)世界的に重要な経済・文化交流を生み出した。 (2)伝統技術による銀生産方式を豊富で良好に残す。 (3)銀の生産から搬出に至る全体像を不足なく明確に示す。によります。日本人が日本の観光地に期待する事とは大きな乖離が見られます。「世界遺産・石見銀山」と大仰にかまえ「行ってみたら何もない」観光地は日本人には受け入れられ難いのです。石見銀山は普通に観光して4時間程度は必要です。旅行会社の企画ツアーでは無理な行程になってしまいます。そして観光ツアーで訪れた人達の多くは「なにもなくて面白みがない」との評価をします。この町が「世界遺産登録」で一気に盛上ってもすぐに凋落傾向になってしまったのも無理ありません。世界遺産登録には剥奪規定が存在します。「世界遺産」という勲章に固執して先細るより、ここに暮らす人達の生活には登録を返上して”普通の観光地”して割り切った方が良いのではないでしょうか?
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出雲大社…(Ⅱ)

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これは【八足門】です。出雲大社は他の神社と異なった造形が多々見られます。例えば1)本殿は南向きになっています。2)拝殿や神楽殿の注連縄の編みかたが伊勢系とは逆です。3)参拝の作法も2拝2拍手1拝ではなく2拝4拍手1拝となっています。”伊勢系とは違う”という感がアチコチニ見られます。後述する本殿の「ご祀神・大国主」も座っている位置も変なのですが…。元々の伝承では、「大国主」が治める出雲の国に「伊勢の天照」から「お前の国を譲れ」のいきなりの申し入れがあり、紆余曲折の後「大国主」は国を禅譲する代わりに壮大な社を建てて貰うことを条件に出雲の国を平和裏に譲っています。こんな理不尽な話はないのですが…。ここから先は歴史学者の分野なので興味のある方はそちらの方を…。

130802_2130802_3二の鳥居からようやく四の鳥居までやってきました。この【銅鳥居】は国の重要文化財となっており、1666年(寛文6年)に毛利輝元の孫、綱広により奉納された日本最古の銅製の鳥居です。高さ6m、柱は直径52mで中央が膨らむエンタシス様式となっています。当時では鋳造の技術もさることながら木製や石造りより遥かに高額だったようです。鳥居の柱は参拝者が触っていく跡で色変わりしています。由来を書いたらしい文字が記載されていますが実に読みにくいです。
写真右は【御仮殿】と称する拝殿です。通常は祈祷所や奉納行事に使われていまが、2008年より始まった「平成の大遷都」では神殿を建て替え中は祀神の仮の住まいとなっていました。2013年5月10日に”本殿遷座祭”は終了、祀神は無事本殿に戻られました。

130802_1130802_6いよいよ【八足門/やつあしもん】です。2013年5月10日以降は、この門からお参りすることになります。この門は重要文化財に指定され見事な彫刻が施されています。お正月の数日間のみこの門の中へ入り参拝することができるそうです。ここでまた不思議な事があります。八足門から参拝するとご祀神の”大国主”は正面にこちらを向いて鎮座していません。ここからは、そっぽを向いたご祀神の横顔をお参りすることになります。出雲大社の実に不思議の一つです。
写真右は【東十九社】・長屋の方と【釜社】・勝男木のある方です。東十九社は西十九と対をなし、通常期は遥拝所として神在月(10月)に全国から神々が出雲に集まった時には神々の宿泊場所となり、年に一度の神々の全国大会が行われます。お隣の釜社のご祀神は食物全般を司る神の「宇迦之魂神/うかのたまのかみ」若しくは「保食神/うけもちのかみ」とよばれる神様です。

130802_7130802_8塀越しに見えるのが、国宝指定の【御本殿】です。神社建築史上最も古い形式である「大社造」がもちいられています。平成の大遷都により檜皮葺きの屋根はすべて新しいものとなりました。60年ごとの遷都を綿々と繰り返して来ているのですが、純木造建築は60年が限界でもあり、この年月なら祖父・父・子供と技術の伝承が可能であると云われます。いずれにしろ日本民族の有する知恵なのでしょう。ご本殿塀の高さは実に微妙にできており、内までの撮影や建物の配置を覗き見ることはできないようです。残念と云えば残念です。

130802_9130802_10実は本殿の見学までで駐車場から2時間以上が経過しています。写真左は本殿の西側に造られて参拝所です。こじんまりと造りですが、この場所からお参りすると”ご祀神・大国主”と真正面に正対してお参りすることができます。ご祀神を”正面からお参りさせてたくない”と云う作為が働いているという説や”神社創成時には神様を正面から参拝する事はなかった”などの説があります。個人的には「作為説」なのですが…、ともかくこの神社には不可解な事が数多く存在しています。右の【神楽殿】の注連縄もその一つです。長さ約13.5m、周囲約8m、重さ約4.4.tもあり、出雲大社では何故か左側が神聖とされているため「大国締め」という一般的な注連縄とは逆から巻かれています。

仕事がら出雲大社には行ったこともあります。観光ツアーではどうしても「来た・観た・帰る&土産」となってしまいます。旅行企画商品としてはそれでいいのですが…。「いつかゆっくり訪れたい」と思っていました。ようやく実現させることができました。なんだか「忘れ物」を取り戻した気分です。


出雲大社…(Ⅰ)

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自宅から1200㎞あまり、ようやく出雲大社に到達しました。ご覧の様な青空で当然とんでもなく暑い午後となっていました。通常の観光ツアーバスでは出雲大社の駐車場→神楽殿→拝殿と進み「後はご自由に…」という感じになるようです。いわゆる『来た・観た・帰る&土産観光』です。今年は平成の大遷都に年。せめて時間をかけて参拝したいものです…。この【勢溜の大鳥居】…この辺りには芝居小屋があり”人の勢いが留まる”から勢溜の大鳥居です…この鳥居は二の鳥居で出雲大社駅方面に一の鳥居【宇加橋の大鳥居】があるのですが、さすがにこの暑さで神門通り方面はめげてしまいました。

130801_3130801_6【勢溜の大鳥居】から一の鳥居【宇加橋の大鳥居】方面です。彼方に一の鳥居が見えますが、二の鳥居までかなり距離があるのが分ります。面白い事に一の鳥居から二の鳥居までが昇り坂で、ここを頂点に三の鳥居までは参道が下り坂になっていくという珍しい地形になっています。意識的なのか偶然なのかは当然”謎”でしょう。写真右は【祓社/はらいのやしろ】という社です。ご祭神は、・瀬織津比売神(せおりつ)・速秋津比売神(はやあきつ)・気吹戸主神(いぶきどぬし)速佐須良比売神(はやさすらひ)祓戸の神四柱で、まずはこちらにお参りし”穢れを清めて”から進むことになります。

130801_7130801_4参道を降りきり祓橋を渡ると、松の馬場と呼ばれる樹齢400年以上の松並木が続きます。参道の中央は皇族や勅使が使用とし、一般の参拝者は左右の道を歩きました。この松の木は江戸・寛永年間に松江藩主の縁の方により寄進され、当時の松の木は現在60本程度が残っているそうです。


130801_9130801_10【手水舎】までやってきます。参道左右に”大国主”に纏わる銅像があります、本殿に向かって左が【御慈愛の御神像】という”因幡のしろうさぎ”のお話です。【ムスビの御神像】は大国主命が海原からやってくる”幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたまを迎え、「ムスビの神」となる場面の像です。


130801_8130801_5話がそれますが、左の写真は【八足門】前にある2000年に境内から出土した古代の柱に実寸です。直径3mほどで鎌倉時代に本殿を支えていた柱です。現物の【宇豆柱/うずばしら】は右の【島根県立古代出雲歴史博物館】に展示されています。この博物館には出雲大社本殿の復原模型が各説に基づいて制作、展示されています。最大値では本殿の高さは48m。地面からの階段の長さが約109mとなるそうです。現在の本殿の高さが24mなので倍程度大きさとなってしまいますが、実際にこんな柱遺跡が出土してしまうと、信憑性をおびてきます。博物館には前回の遷都(昭和28年)の際の千木(ちぎ)と勝男木(かつおぎ)の実物なども展示されています。(入館¥600)

境港・鬼太郎の街…(Ⅱ)

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水木しげる記念館あたりからJR境港駅(なんと鬼太郎駅だそうです)まで延々と(約800m)水木しげるロードが続きます。この通りには妖怪の像や水木しげるご夫妻の像など150体以上の像がならんでいて結構楽しめます。氏の作品に登場するキャラクターはほぼ造られていることになるのでしょう。ここまでやると”ご立派”という他はありません。たまたま夏休み前の平日で気温が36℃以上もあったので人通りは少なかったようですが…。市の職員の方なのでしょうか、ねずみ男の着ぐるみをきて頑張っていました。暑いのに苦労さまです。初期の貸本時代の氏の作品はおどろおどろしい内容だったのですが、アニメ化されたり映画化されたりで、さらにはご夫妻モデルの映画だったりTVだったりで、すっかり人気が定着しているようです。

左)歩道にはこんな感じの仲間たちの絵が置いてあります。
中)ATM付近で妖怪に暗証番号を聞かれても決して教えないでください。との看板のある鳥取銀行のATMです。
左)マンホールの蓋です。他にもねずみ男やぬり壁のものがありました。
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