旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2013年09月

中央区・勝鬨・月島・佃…(2)

130923_01130923_02中央区に限らず、東京には江戸時代の大名や旗本のお屋敷の片隅に祀られていた稲荷社などが、壊すに壊せず今に残ってしまった”激セマ社”が多く残っています。という事で、規模小の社も昨今は見慣れてはきているのですが…。こちらの『佃天台地蔵尊』には驚かされます。(写真左)民家と民家の間に、人一人がやっと通れそうな路地があります。佃天台地蔵尊の旗があり、看板にはその旨が記載されています。屋根の上を見るとこんもりとした銀杏の巨木が見えます。この路地を進むと左側の空間に石に刻まれた地蔵尊が安置されています(写真右、左奥)。驚くのは中央の銀杏の木が突き抜けて屋根上へと伸びています。表から見える銀杏の巨木の根元はこんなようになっています。『佃天台地蔵尊』の創建の年代は”享保年間”とあるのですが、なんだってこんな状態になってしまったのでしょうか?

130924_01130924_02住吉神社(すみよしじんじゃ)は、徳川家康が関東下降の際、大坂佃村近辺の漁夫33人と神主を江戸に移し、この地に幕府より約180m四方の干潟を与えられ、これを埋め立てて暮らすようになったのが始まりです。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」と命名し、正保3年には、住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)を祀神とした『住吉神社』が創建されています。住吉神社祭礼では、関東では珍しい「八角形神輿」が使われています。境内の鳥居には、これも珍しい「陶製の扁額」…文字は有栖川宮幟仁親王の筆による…があります。目立たないのですが、「手水舎」の梁の部分には佃島に漁の模様(?)の彫刻されています。
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佃の住吉神社付近にはあまり大きくはないのですが、稲荷社が4社あります。
左)佃天台地蔵尊近く、鳥居は1つですが、中には「浪除稲荷大明神」と「於咲稲荷大明神」の2社があります。
中)「森稲荷神社」です。大阪から移住してきた一族の長「森孫右衛門」邸内に祀られていた稲荷社だそうです。
右)住吉神社境内社の「入舩稲荷神社」です。前述の「八角神輿」はこのお隣の蔵に納められています。
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中央区・勝鬨・月島・佃…(1)

130920_01130920_02中央区役所には「中央区ふれあい街歩きマップ」という小冊子(全6冊)が用意されています(配布場所は中央区役所商工観光課・中央区の主要ホテル等となっています)。
今回は「月島・勝どき・佃・晴海編」が中心となります。勝鬨橋の築地側は明治以降は旧海軍の街として知られ、橋の名称の“かちどき”も日露戦争時の旅順要塞陥落記念として命名された「勝鬨の渡し」に由来します。勝鬨橋の工事は1933年着工事し1940年に完成しています。当時、月島地区で予定されていた「万国博覧会」の交通の利便を目的として、日本の技術力を世界に示すため、日本人の手で設計施工を行っています。完成した勝鬨橋は「東洋一の可動橋」と呼ばれ、開閉は設置当初1日5回程度で跳開しいました。当初から路面電車レールが敷設かれ1968年までは都電が通行していました。時代ともに流通形態が変り、船舶通航量が減少し道路交通量が増大したことで跳開する回数は減少し、1970年11月に開閉が停止となり『開かずの開閉橋』となってしまいました。時間帯によっては日常的の大混雑する「晴海通り」ですが、オリンピックに向けてどう変貌していくのでしょうか(?)

130921_01130921_02 約100年前の明治の中ごろに埋立により開発された町が「月島」です。運河に囲まれて下町情緒の溢れる街並みがある一方で、都市再開発が進み、最近では高層マンションが林立するようになりました。地下鉄「有楽町線」と「大江戸線」開通はこの街を”陸の孤島”劇的に変化させました。「月島」の地名を全国区にしたのが「もんじゃ焼き」です。国内外を問わず「懐かしい下町の味と雰囲気」を求め多くの人々が訪れ、最近では就学旅行の昼食に「月島でもんじゃを食べる」という学校も増えているそうです。「月島もんじゃストリート」を掲げる月島西仲通り商店街には、古くからのお店や流行に便乗した新参者など70軒以上のもんじゃ焼き屋が軒を連ねています。ご親切な事に現存する最古の交番の建物を使用した「西仲通地域安全センター」や東京メトロ・月島駅よりには土産用もんじゃを販売している「月島もんじゃ振興会」などで観光情報を得ることができます。

130922_01130922_02『佃』の風景と云えばこんな感じでしょう(左)。隅田川の河口の江戸情緒を残すレトロな街とリバーシティ21の高層マンション群。古い町並みや釣り船と超高層マンション群。独特の景観が本来はミスマッチのはずなのですが…。『佃』は、天正18年(1590年)徳川家康が関東に下降の際、摂津国佃村から漁民を呼び、鉄砲州向干潟を埋め立てさせて、この地に住まわせたことに始まり、故郷にちなんで「佃島」と名付けられました。元々佃島は”独立した島”だったようですが、現在の町名表記の佃1丁目・佃2丁目北部は、佃島と石川島の継承しています。昭和初期からの古い街並みが残っており、民家と民家の間の路地には何とも風情のある光景が見られます。

銀座・宝珠稲荷神社

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銀座晴海通り。歌舞伎座・歌舞伎稲荷の角を進みます。次の角が「小諸そば」で、向かいに「マガジンハウス社」があります。さらにもう少し進んだ右側に『宝珠稲荷神社』あります。写真の様にこじんまりとした神社です。ご覧の様に立派な”狛犬”がありますが、本殿前には神使の”きつね”もチャントおります。規模こそ小さいですが”宗教法人 宝珠稲荷神社”となっており、鳥居脇には稲荷神社の由来看板があります。…曰く、『宝珠稲荷神社は1615年頃三河の国深溝の領主”板倉内膳匠重昌”の江戸屋敷内に建てられています。板倉重昌は板倉勝重の次男として生れ、武勇に富み大阪冬の陣や島原の乱等に参戦するも、島原に於て年令50才にして戦死しています。屋敷は年経て宝暦年間には岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡され、更に大正7年に岡山の岡崎家に売却されています。この際に神社は敷地と共に木挽町3丁目氏子に寄進され、1950年地元氏子有志により隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至っています』 …と云うような社歴が記載されています。

左)クーラー室外機前には立派な石柱があります。
中)この板に稲荷社の社歴が記載されています。大名家の庭の片隅のあった稲荷社の様です。
右)これは「歌舞伎稲荷大明神」です。建物に添って3分程進むと「宝珠稲荷神社」にたどり着きます。
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新装歌舞伎座が大人気


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歌舞伎座の建替えが完了開場式4月2日から1年間の予定で"こけら落とし興行"が行われてます。観劇料金が¥20000前後ですから…。いや~っこれは大変な金額です(笑)。改築費用の償却込の料金設定ですかねぇ。仇討・お家騒動・心中ものなど日本人にしか通用しない筋立てが七面倒な約束事に基づいて演じられるという考えようによっては『摩訶不思議な世界』です。国の重要無形文化財でもあり、さらにユネスコ(!)の無形文化遺産にも指定となると、もはや大衆芸能の域を超えてしまっているような気がします。
この第5期の歌舞伎座は地下4階、地上29階で高さは143mあります。オフィス棟・歌舞伎タワーとの複合施設で「GINZA KABUKIZA」が正式名称です。歌舞伎座正面玄関の上方の櫓は、幅3.3m、高さ2.7m、正面には歌舞伎座の座紋である「鳳凰丸(ほうおうまる)」、左右の側面には「木挽町 きゃうげんづくし 歌舞伎座」の文字を染め抜いた三方の幕で囲われています。説明がないと全くの意味不明です。

左)屋上庭園やボッタクリの歌舞伎座ギャラリーより4Fフロアの展示の方が興味深いです。
中)歴代の歌舞伎座の模型があり。写真は今般の建物の模型です。舞台&客席の位置がわかります。
右)『木挽町広場』は単なる売店です。が、歌舞伎座来館者は必ずここを通るように工夫されているようです。
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羽田・穴森稲荷神社…(2)

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本殿前の穴森稲荷神社(羽田の穴森さん)御由緒書です。稲荷神社では日本書紀にある宇迦之御魂(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊受姫命(とようけひめのみこと)保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの五穀豊穣を司る穀物・食物の神々を主祭神としていますが、穴森稲荷社では伊勢神宮・外宮で天照大神の”食事係”として祀られてる豊受姫命が主祭神となっています。

130918_04130917_02「堤防に“穴”が開く水害から街を“守”る神社」が穴守の名の由来だそうです。本殿横の千本鳥居の先には“お穴様”と呼ばれる「奥之宮」があり、社のなかには大量の小さな鳥居やお姿が山積みにされています。こうなってしまうとゴミ捨て場と区別がつかなくなってしまうようです。鳥居群の社額が「穴森稲荷大明神」となっているので、この奥之宮が元々の本殿だったと思われます。こちらの縁起物の「神砂」(あなもりの砂)は商・工・農・漁業・家内安全の招福は玄関入口へ。病気平癒の場合は床の下へ。災・厄・禍除降の場合はその方向へ。新築・増改築は敷地の中心へ。撒くとご利益があるそうです。

130918_03130918_02江戸時代には、「穴守」という名前が「『穴を性病から守る』」に通じると考えられて、遊女達の信仰を集めたと云われています。なまじ稲荷社は身近に存在しているので、この様な事柄までお願いされていたのですねぇ。奥之宮にさらに奥に進み富士塚の様な場所にさらに数社の稲荷社があります。「開運稲荷神社」・「必勝稲荷社」・「福徳稲荷社」・「幸稲荷社」・「末廣稲荷社」・「築山稲荷」・「出世稲荷」…主だった境内摂社でもこんな感じです。こちらの神社は参道が三方向にあり、どれが一之鳥居になるのかよく判りません。駅前の鳥居が一之鳥居という事はないでしょうが、東京魚がし講寄進の標柱(写真左)があるこの参道が一番それらしいのですが…。

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羽田・穴森稲荷神社…(1)

130917_01130917_02江戸の昔、文化年間(1800年頃)に新田開墾されたおり、堤防が決壊して村々は海水被害を受けた。そこで村々で、稲荷大神を祀ると海が静まった。これが穴守稲荷神社の起こりだそうです(なんとも築地の波除稲荷と似通った話です)。1884年には暴風により崩壊し再建されています。さらに1886年には「穴守稲荷社」から「穴守稲荷神社」へと改称されています。この時代には周辺で潮干狩りや温泉が湧いたこともあり、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が、稲荷門前までの支線を伸ばすなど交通が整備され穴守稲荷神社の界隈は歓楽地と賑わったそうです。但し、これは現在と場所が異なります。神社は太平洋戦争が終わった直後の1945年に羽田空港の拡張のため、米軍より強制退去を迫られることになり、現在の地へ移転となっています。都市伝説としよく知られる”羽田空港の赤鳥居の怪”は移転前の穴森稲荷社の鳥居のことです。写真左は穴森稲荷神社本殿。右は本殿の裏手にある奥之宮で”神砂(あなもりの砂)”として有名な縁起物はこちらです。それにしても穴森稲荷神社、境内摂社がやたら多いようです。

本殿前の”狛狐”。左は「珠」、右は「子狐」です。年代はさほど古くありませんが、いい姿をしています。
右は京浜急行穴森稲荷駅前の狐像。地元の方による寄贈で、名前は「コンちゃん」だそうです。
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2020年東京オリンピックの…

開催地が東京に決定してから1週間過ぎました。考えてみれば7年も先の事、この大騒ぎも1ヶ月のすれば毎度のことではありますが沈静化していくのでしょうね。
様々な業界で「開催決定記念便乗企画」が考えれられているのでしょうが、意外な落とし穴があったようです。JOC(日本オリンピック委員会)によると商業目的の場合については、オリンピックをイメージさせる宣伝文句等は使用は不可なんだそうです。オリンピックに関する知的財産権を無断で使用した場合、不正競争防止法、商標法、著作権法に抵触する恐れがあるそうです。判断の基準は、(1)権利の主体者の許諾なしに、(2)商業利用の一環として、(3)企業、団体、個人のイメージアップ、商品価値をあげるために、(4)オリンピックの用語やマークを使用する場合、(5)オリンピックのイメージを使用して、権利の主体者と何らかの関係を有するとの誤認を生じさせる恐れがある場合を挙げているようで、「おめでとう東京」や「やったぞ東京」・「4年に1度の祭典がやってくる」などの表現もアウトとしています。スポンサー企業との兼ね合いだそうですが、「経済効果」のお祭りムードに水を差すようなお話です。

旧東京オリンピックの会場となった駒沢オリンピック公園(左)。国立代々木屋内総合競技場(中)国立競技場(右)です。1964年当時斬新な建築だったのですが、50年の月日は残酷なものです。単なるおんぼろな施設に成り果ててしまいました。
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駒形の諏訪神社

130901_01130901_02台東区駒形、江戸通りに面した諏訪神社です。失礼ながらこじんまりとした神社です。それでも鎌倉時代の創建とされ江戸名所図会にも記載があり、300年以上もこの地に鎮座している古社なのです。「諏訪」の名前を持つ神社は、主祀神は「建御名方神」と妻の「八坂刀売神」の二柱です。この長野県の諏訪大社を総本社とする「諏訪神社」は全国に約25,000社(神社数ランク6位)もあり、その殆どが鎌倉時代の北条氏の支配地域である関東に鎮座しています。諏訪大社~出雲大社でも触れましたが、国譲りの戦いに敗れた出雲系の神様が逃亡したのが諏訪の地ですが、さいたま市の武蔵一之宮である「大宮・氷川神社」も元々は出雲出身の神様です。…この氷川神社もそのほとんどが埼玉・東京・神奈川の地に鎮座しています…こうなると関東地方は『出雲の神々』がたどり着いた”安住の地”であり、関東地方は出雲の神々に護られているのかも知れません。

日本橋の激セマ稲荷社

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銀座の豊岩稲荷神社も激セマですが、この中央区日本橋3丁目の『於満稲荷神社』も激セマでは負けていません。東京駅八重洲口からの方が近く「日本橋3丁目養珠院通り」が目印とありますが、ご覧の様な環境(赤いドアの左に鳥居が見えます)なので大変に分りにくいようです。この神社の周辺は、徳川幕府の休憩所があり、家康の側室『お万の方』一行が、日本橋付近に物資調達に訪れたという謂れがあるそうです。『於満の方=養珠院』信心深さや人柄を慕う日本橋界隈の商人たちが”養珠院が商業発展に貢献された”として於満稲荷神社を建立しました。以来350年間、関東大震災や東京大空襲にも耐え現在も祀られています。中央区は平成16年に、この通りを『お万の方』の院号から通りの名称を「養珠院通り」にしています。

神社を正面から撮影することはできない程の激セマです。撮影するのにかなり苦労しました。
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三峰神社・狼

130831_03130831_04秩父・三峰神社のご祀神はイザナギ・イザナミの命とされています。2神を祀神とする神社は全国に多々ありますが、三峰神社では神使(もしくは眷属)が狼(山犬)となっています。鳥居を守るのは”狛狼”は珍しい例ではないでしょうか?三峰神社では江戸時代中期より山岳信仰の修験者により狼信仰が広められていました。この時代は秩父地方では狼はごく身近な存在だったのでしょう。上の”狛狼”は拝殿下の神木に並んでいます。顔が細めで狐の様な感じもありますが、間違いなく狼です。この石段は”築地三峰講”の寄進とあります。『講』とは、皆が共通の神仏を祀って神社仏閣に参詣する組合組織ですが、農耕民族である日本人は寄り添って協力し無ければ暮らしていき難かったので広まっていきました。

130831_06130831_07三峰信仰の中心をなしているのが御眷属(山犬)信仰です。 この信仰については、神社の「社記」には…享保年間、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる…とあるようです。山間の人々には農作物の猪や鹿による作物被害は深刻で、これらを追い払ってくれる狼の存在は心強かったのでしょう。時代が下がり三峰講が江戸の街まで広がると、さらに火災除や盗難除など都市部ならではのご利益が加わっています。

130831_01CIMG0153左は境内入口の「三ッ鳥居」です。こちらにも白い狛狼が守っています。この鳥居は明神型鳥居を三組組み合わせています。全国的にも珍しい形式の鳥居で奈良の大神神社(オオミワジンジャ)が有名らしいのですが…。左の東京・墨田区の牛島神社にもこの形式の鳥居があります。


風雪に耐えた狛狼です。折れ耳の様子など「犬」に見えないこともありません。三峰神社境内には此の他にも多くの狛狼があります。明治年間に絶滅したとされる日本狼は、シベリア狼とは異なり剥製で見る限りは大型の柴犬程度の大きさです。三峰講の伝承での狼は日本狼種なのが野生化した犬なのか判らない部分があります。
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さよなら国立競技場ツアー…(Ⅱ)

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兎にも角にも、本日早朝2020年オリンピック東京大会の開催が決まりました。7年後となると日本国も自分自身もどうなっているのか予測もつきませんが…。今は誘致に携わった皆さんに”ご苦労様でした”と申し上げます。

*写真は新国立競技場の模型です。国立競技場では改築前の”さよなら国立競技場ツアー”がおこなわれています。詳しくは『秩父宮記念スポーツ博物館』のHPに掲載がありますが、特定日・1日3回・各20名・参加料¥1000となっています。
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秩父・三峰神社・続

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ここでは多くの神社仏閣を掲載してきましたが、正直この『三峰神社』は”別格”です(!)。地質学的にも古い秩父山系の山中に神話時代から現代へ続く社歴を有する神社は、ある意味で「最も神に近い場所」かも知れません。秩父の山系に抱かれ太古からの杉の巨木に包まれた本殿までの参道は『パワー・スポット』なる表現が陳腐と思えるほどの圧倒的な”空気感”に満ち満ちています。
*本殿への石段下、左右に樹齢数百年の杉の大木があります。”神木”とされ幹に触ると運気が伝わるとあります。長い年月、人々に触られ続けられ木肌はテカテカになっています。

左)1800年建立。1962年に改修された拝殿です。社額は有栖川宮一品親王のに筆によるとあります。
中)極彩色で飾られた拝殿の意匠です。同じ埼玉県の妻沼聖天様と同様に見事な色合いです。
右)写真の左が本殿です。1661年の造営で”一間者春日造り”との説明があります。
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秩父・三峰神社

130830_5130830_4東京近郊の神社には訪れる機会が意外とないもので…ここ秩父・三峰神社へも数十年ぶりになると思います。いつの間にか”三峰ロープウェイ”が廃止(2007年12月)になっているんですねぇ。経営母体が弱小秩父鉄道ですから無理もないのですが、整備されているとは言い難い道路を登っていくはめになりました。名所旧跡、神社仏閣の観光要素にやや乏しい埼玉県としては充分にアピールできる古社なのですが…。創建は景行天皇の時代と云われご祀神はイザナギ・イザナミ命です。江戸時代には、まだ多数棲息する”狼”を神使とする「お犬さま」信仰がはじまり、盗戝や災難から守る神として狼の護符を受けること信仰が流行り、三峰神社に参詣するための講中が流行しています。今でも三峰講中が寄進した石碑が参道各所にあり、狛犬ならぬ狛狼が守っています。何より修復なった極彩色の本殿は見事です。鬱蒼とした杉の巨木に囲まれた境内は「関東最強のパワースポット」と云われるのも得心できます。

上左)狛狼像は新しくなっているので、お札に書かれた絵とは異なります。痩せたアバラが見事(?)です。
上右)弘化2年の青銅製の鳥居です。「天下泰平 国家安穏」の文字が刻まれています。
下左)関東ではここと、牛島神社だけらしい(?)珍しい形式の”三輪鳥居”です。
下中)杉並木の中に元禄4年建立の「随身門」です。平成16年に塗り替えられているそうです。
下左)「遥拝殿」からの展望です。秩父盆地や秩父市街、遠くに日光連山が遠望できます。
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甲州市・恵林寺

130829_1130829_2山梨県甲州市塩山の乾徳山・恵林寺は武田信玄、甲斐武田家の菩提寺として知られる臨済宗妙心寺派のお寺です。創建は1330年(元徳3年)とされ、武田信玄の墓所や国の名勝に指定された「庭園」をはじめ数々の重要文化財や県指定の文化財が残されています。町村合併で名称変更になっていますが甲州市より塩山市の方がしっくりくるのですが、とかくこの近辺から甲府、諏訪にかけては何かというと”武田信玄”が登場します。信玄公の隠し湯なんてその代表格で、信玄餅なんてのもそうかも知れません。閑話休題。恵林寺は写真の様に味わいのあるお寺です。特に恵林寺庭園の見事さは京都のお寺にも引けを取りません。左)恵林寺と書かれた石柱のある御門です。ここから右)国重要文化財の『四脚門』まで300mほどの杉の巨木の並木が続きます。

下左)県文化財の『三門』です。…安禅不必須山水 滅却心頭火自涼/あんぜん かならずしも さんすいをもちいず しんとう めっきゃくすれば ひもおのずから すずし…の有名な語句はやせ我慢の極地です。
下中)三つの門を過ぎると正面に『開山堂』があります。夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されています。
下右)『乾徳山・恵林寺』です。前庭の石碑は当然のことですが”信玄公遺言”です。
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