旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2013年10月

苫前町郷土資料館

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北海道苫前郡苫前町といってもほとんどの方はどのあたりの町だか判らないと思います。三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)…大正15年12月9日に、内陸へ30㎞ほど入った三毛別六線沢の開拓集落で開拓民7名が食い殺され、3名が重傷を負ったという事件が起こった町で、この事件は”ヒグマによる日本史上最大規模の獣害事件”とされています。札幌・共同文化社発行・木村盛武氏著の「慟哭の谷」という書籍や作家・吉村昭氏の、この実話を元にした小説「羆嵐」で事件概要を知ることができますが…。ここ苫前町郷土資料館には事件の資料が展示されているとの事で立寄ってみました。事件の「羆の侵入再現展示」はイマイチ感が否めませんが…、その他開拓民の日常生活道具等が展示してあります。実際の事件現場の「三毛別羆事件復原現地」はこの資料館より離れた場所にあり、しかも「羆出現注意」の情報でており、今回は(も)遠慮させていただく事となりました。
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左)いくら羆事件の起こった町とは云え、この看板は”あり”ですかねぇ・・・。
中)資料館の入口には、「三毛別羆事件復原現地には羆が出没します」の貼り紙がありました。
右)木村盛武氏の「慟哭の谷」と作家・吉村昭氏の「羆嵐」の書籍です。
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新千歳空港・全日空65便

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偶然、新千歳行きの全日空便は「ANA・スーパージャンボ・ボーイング747」でした。ANAでは現在このB747を4機(ピカチュウ塗装を除外すると3機)しか保有しておらず定期便での就航は10月で終了、後は臨時便等として使用し、来年3月には全機の退役が決まっているそうです。1979年(昭和54年)の就航ですから長い年月が過ぎたものです。…B2やB3(ボーイング727、737)、ロッキードL-1011(トライスター、通称”L10/Lテン”)の時代を経てB4が就航。500人から乗れるのですから早朝便や最終便ではノーマル運賃の旅客で満席にできる訳などなく、団体航空運賃(GIT)枠が一挙に広って航空機利用の団体ツアーが一般的になりました。『スーパージャンボで行く北海道周遊プラン!』なんてのが企画の”売り”だったこともあります。…そんな話を、荷物待ち時にスタンバイのCA達(昔は当然スチュワーデス/略してデスです)と話していたら、若いCA達はB2もL10もご存知ないそうです(苦笑)…

中央区・亀島橋あたり

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中央区・亀島橋の橋詰に”記念碑”が纏って建立されている一角があります。1)江戸時代の謎の浮世絵師『東洲斎写楽』の碑…天明・寛政年間に数か月の間に140点程の浮世絵を残し姿を消した『東洲斎写楽』がこの付近に住んでいたとの説の基づいての建立でしょう。2)枝が写っていませんが『銀座の柳四世』…ルパン三世じゃあるまいし、コメントに困ってしまいます。3)松尾芭蕉の句碑。…元禄6年に八丁堀にて詠んだ「菊の花 咲くや石屋の石の間」…芭蕉50歳の作品だそうです。”イマイチ感”に溢れた記念碑群のようです。
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131005_02131005_03亀島橋の川沿いに『純子稲荷神社』です。由緒書きによると…徳川氏入国後、町奉行所内の千代田稲荷の分霊を勧請し、岡崎町・亀島町の2カ町、組屋敷に居住せる与力同心の鎮守であったが、維新の際、純子稲荷一柱を届け出て以来町内鎮守となったとあり、鎮座は元和2年(若しくは元文2年)再建立が昭和48年となっています…。???の多い由緒書きです。江戸切絵図にはすでに「純子イナリ」と書かれているそうなので古社には間違いようです。祀神は伏見稲荷大社・豊受大神・神名純子大神とあるのですが、この「純子大神」がどういった神様なのか定かには判りません。
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131005_04131005_05純子稲荷神社を高橋方面に進むと、駐車場の一角のような感じで『日比谷稲荷神社』があります。元々の日比谷稲荷神社は、太田道灌により現在の日比谷公園あたりに建てられていました。徳川家康による江戸城の大拡張工事の際には、新橋4丁目(更に東新橋2丁目)に移転しています。度々の移転に際しても、どうしても海岸に神社が祀られないと困る崇敬者達が八丁堀の干潟を埋築し社殿を造営したのが、この日比谷稲荷神社です。昔は虫歯に苦しむ人が”鯖絶ち”をして、日比谷神社に祈って、治癒のお礼詣りに「鯖」を供えした人が多く、そこから「さばいなり」とも呼ばれ、鯖の絵馬、扁額が社殿に多く掲げられるようになったそうです。虫歯痛→サバ絶&日比谷稲荷参拝→虫歯痛解消。稲荷神社もいろいろと大変です。

南高橋と徳船稲荷

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中央区の南高橋(みなみたかばし)は亀島川の最下流に架かる橋で、亀島川水門の先は隅田川、マンション群は佃地区です。大正12年の関東大震災は東京の街を一変させ、震災復興事業では多くの橋が架けかえられています。この南高橋も大規模な区画整理の際に計画されたのですが、予算が乏しくなった東京市は改架された両国橋の中央部分を幅で1/3程度に縮小し、高さも下げ再利用しています。そんな事で、明治の鉄橋が現代に残り、都内に残る鋼鉄トラス橋としては、江東区の八幡橋(旧弾正橋)に次いで2番目に古く、車両通行可能な河上橋としては最古の橋(全国では6番目に古い鋼鉄トラス橋)となっています。
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左)明治~昭和初期の橋は、どれもが美しい姿をしています。
右)橋のたもとの「徳船稲荷神社」です。新川の福井藩松平家下屋敷内にあった稲荷社のようです。
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日本橋川・豊海橋

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港湾埠頭やコンテナ基地なら見かけるような鉄骨構造ですが、梯子を寝かせたような構造は「フィーレンディール橋」と称するそうです。
中央区日本橋箱崎町と新川を結ぶ豊海橋(とようみばし)は日本橋川が隅田川に流入する河口部にあります。
長さ46mほど。奇抜と言えば奇抜な面白い姿で「乙女橋」とも云われているそうです(例によって一体誰がそう呼んでいるのでしょうか?)。最初に橋が架けられたのは江戸時代中期で、河岸には土蔵が建ち並び活気に満ちていたようです。赤穂事件の折には、赤穂浪士は永代橋を渡り豊海橋を経て泉岳寺に向かったと伝えられています。豊海橋は幾度かの落橋・焼失、再架を経て1903年には、初めて鉄橋化され、関東大震災で落橋してしまい「震災復興橋梁」としての現在の姿に再架橋されています。
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左)豊海橋から遠目に見る永代橋は美しい姿をしています。
右)近くにある「日本銀行創業の地」の碑です。明治15年にこの地で創業だそうです…。
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中央区・鐵砲洲稲荷神社

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中央区湊の『鐵砲洲稲荷神社』です。「てつ」は「鉄」ではなく「鐵」です。色々と言い分もあるのでしょうが、変換が面倒です。
神社の創建は平安時代とあるのでかなりの古社のようです。当時の荏原郡桜田郷の住民が生成太神(いなりおおかみ)を産土神として祀ったのが始まりで、京橋→現銀座1丁目→と遷座て八丁堀稲荷神社と称し、江戸時代初期に現湊1丁目付近に遷座さらに8丁目に移転したとされます。埋め立てによる移転であったり、幕府の都合だったりでの移転なのですが、さぞや大変だったでしょう。ご祀神は稚産霊神・豊受姫大神・宇迦之御魂大神の三神です。社殿脇には江戸時代の浮世絵の『江戸名所図会』や歌川広重の『絵本江戸土産』にも描かれている中央区唯一の富士塚があり、富士山の熔岩を用い頂上には「富士浅間神社」が鎮座しています。”富士山世界文化遺産登録”で盛り上がるかと思いきやアッという間に先細りとなったようです。「わ~っ」と騒いですぐ沈静化、いかにも”日本的”です。この鐵砲洲稲荷神社は、関東大震災では被害を被るものの東京空襲では被害を免れ、今でも昭和初期の神社の形式がよく残っています。
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遊女高尾太夫・高尾稲荷神社

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中央区日本橋箱崎町の『高尾稲荷神社』です。こちらの稲荷社の由来は他社とはかなり異なるようです。由来の後ろに「吉原の容姿端麗の太夫、殺人事件絡み、ご神体は頭蓋骨」とくればサスペンス・ドラマ風になります。
江戸万治年間、花街新吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの遊女、野州 塩原塩釜村出身の当時19歳の2代目高尾太夫は『傾城』という娼妓の最高位にあり比類のない全盛を誇っていました。高尾太夫は仙台藩主伊達綱宗侯により身請されたのですが、意中の人に操を立てて伊達綱宗侯に従わなかっため、怒りをかって『吊り斬り』にされ川中に遺棄されてしまいました。数日後、遺体は当地大川端の北新堀河岸に漂着し引き揚げて手厚く葬られたといわています。この事件に同情した人々により、神霊高尾大明神を祀り 高尾稲荷社としたというのが起縁なのだそうです。創建時には約80m隅田川岸よりにあり 昭和20年03月20日戦災により社殿は焼失しています。昭和53年の再建工事に際して、旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋骨壷が見つかり、現在では稲荷社としては全国でも非常に珍しい実物の頭骸骨が祭神として社の中に安置してあるそうです。
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左)写真のように、そう規模の大きな神社ではありません。
中)神社内にある”由来書き”です。昭和51年3月 「箱崎北新堀町々会」とあります。
右)社より80m位離れた場所にある 「日本橋区北新堀町会」による”高尾稲荷社について”とあります
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築地・八紘一宇の碑

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築地の街に”河岸”ができたのは昭和10年のことです。築地は元々江戸時代に浄土真宗の人々により海を埋め立てて造成された土地で東本願寺の門前町でした。幕末から明治時代は「海軍さん」の街として知られ、その名残が晴海通りに数か所残っています。写真は「八紘一宇の碑」です。…八紘一宇(はっこういちう)とは、大正期に「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味を持つ語として生まれました。時代と供に軍部により日中戦争から第2次世界大戦の時代に「大日本帝国」の政策標語として使われました…。一般的な国語辞典では、「第2次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
この碑は晴海通りに面していますが何故ここにあるのかは判りません。やはり旧海軍ゆかりなのでしょうか(?)。市ヶ谷の亀岡八幡宮境内にも同様な碑があり、こちらは市ヶ谷台は旧陸軍士官学校縁かも知れません。もう一か所の千住大橋(足立区側)は旧軍施設とは関係がないようですが…。
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左)築地●●青年団。と記載されています。旧軍と関係ないのでしょうか…。
中)裏面の文字(恐らく由来?)は塗りつぶされています。何が都合が悪いのでしょう。
右)こちらは勝海舟による初代の軍艦操練所があったと書かれています。、
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旧万世橋駅が「マーチエキュート」へ…

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旧万世橋駅の遺構を再利用した「マーチエキュート神田万世橋」商業施設が最近オープンしました。昔の中央線の終点で、JR秋葉原駅から徒歩4分、神田駅や御茶ノ水駅からは徒歩8分になりますか…。「JR東日本ステーションリテイリング」なる会社の仕掛けとのことですが、これほど●●な商業施設は珍しいのではないでしょうか? 旧万世橋駅の2つの階段は修復され、旧駅のホームだった部分にはカフェと展望所が造られ中央線をガラス張り越しに見られる構造になっています。その他は相も変わらずありきたりの”食いもの屋”と”雑貨屋”が軒を連ねているだけです。写真の雰囲気に騙されると、ガッカリすることは間違いありませんねっ。
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左)距離にして200mほど(?)在り来たりの”食いもの屋”と”雑貨屋”が並んでいるだけです。
中)旧駅舎の駅階段を修復しています。見所はこの程度です(しかありません)。
右)写真後方は電車走行の見えるカフェと展望所があります。”ベビーカー立入禁止”にしてほしいものです。
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東京駅・グランルーフ

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『東京駅・グランルーフ』なる施設(?)がオープンしました。「八重洲駅前広場を中心にグラントウキョウ・ノースタワーとサウスタワー歩行者専用通路で結び賑わいのスペースを創出」という事になっています。一応新規オープン施設は見に行きますが、東京駅丸の内駅舎やKITTEに違い、『Tokyo Station City』の全体構想の一部が追加完成されただけです。報道の割には肩透かし的な施設です。
2階は大丸デパート(ノースタワー)とビジネスビル(サウスタワー)の屋根のある連絡通路(だけ)で、ドコモの店舗と意味不明な携帯電話グッズの店しかありません。地下部分にはめし屋施設が数件オープンしています。表現が難しいのですが、八重洲駅舎と八重洲地下街の間の僅かなスペースの「なんでこんな場所に感」に溢れています。「グランルーフ」=確かに「大屋根」です(笑)。
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左)この上の連絡通路にはドコモの店舗ともう2軒ほどあります(それしかありません!)。
中)見下ろせば何の事はない「工事中」で、見渡しても”絶景”は皆無です。
右)この柱の脇がめし屋街です。ややもすると見落とします。
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