旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2014年01月

皇居正門石橋&鉄橋

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面白いもので、皇居正門付近では中国・韓国・台湾からの観光客が多く見受けられ、特には耳障りな●国語が飛び交っています。
実は、「二重橋」の名称は手前の石橋がメガネ橋状で”二重”に見えるからでも手前の石橋と奥の鉄橋とで橋が”二重”になっているからでもありません。江戸時代には奥の橋あたりの堀が深く、橋げたを2段に重ねなければ橋を渡せなかった事から『二重橋』であり、明治時代に鉄製で架橋されてからは「皇居正門鉄橋」が正式名称となっています。つまり”二重橋という名称の橋”は存在しません。そうなってしまうと島倉千代子の歌が成り立たないという困った事になります。それでもそこは日本の事、地名としての「二重橋」は存在しています。
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左)正面の櫓は京都・伏見城から移築したとされるもので、伏見多聞と伏見櫓が接近して建っています。
中)現皇居の場所は、江戸時代は西の丸と称し、ご隠居達が住む御殿があった場所となります。
右)外桜田門渡櫓門です。初期の東海道は桔梗門(内桜田門)から外桜田門を経由していたとされます。
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桜田門の変(な人)

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昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された桜田門です。門の脇の案内板には、この付近が「桜田郷」と呼ばれていたことに名称は由来するとあり、現在の「桔梗門」が「内桜田門」でこちらの門は「外桜田門」が正式名称である旨なども書かれています。手前に見える門が外桜田門・高麗門で、その奥が渡櫓門。二つの門で囲まれた二重構造の枡形門の総称が「外桜田門」となります。万延元年(1860年)に大老・井伊直弼が暗殺された現場としても有名ですが、ここから遠望できる、国会議事堂手前の時計台のある公園が井伊家の屋敷だった事は意外と知られていないようです。下左)正面が渡櫓門です。高麗門と渡櫓門を閉じてしまうと、ここが防御性の強い「砦」となります。
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それにしても…。この時間帯でも多くのマラソンランナーが必死の形相で駆け抜けていきます。皇居一周が約5.5㎞ですから、距離的にはどうなんでしょう? かなりの確率で”形(服装)から入った方(女性)がおられます。さらには、確実に足を痛めるであろうフォームの方が多い事か(!)笑い事ではありませんが(笑) ”桜田門のへん(な人達)です。
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ブートCDの裏通り・14

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イースト・プレス社刊の「エリック・クラプトン自伝」のP346にこういう記載があります…。=【8月26日、シカゴとミルウォーキーの間にある、ウィスコンシンのスキー・リゾートのアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターという会場で演奏することになっていた。スティービー・レイと彼のバンド、ダブル・トラブルの演奏で幕が上がると、楽屋のモニターで彼を見ながら、「この後でトリで出るのかよ」と思ったのをおぼえている】=
このCDは西新宿の某ショップで2枚以上の購入でもらえるギフトCD(無料)です。正直これが”ギフトCD”でいいんでしょうかねぇ…?。ECが「奴のあとの演奏は嫌だっ」とさえ感じたスティービー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル演奏です。そして、このコンサートの直後にスティービー・レイはヘリコプター事故で亡くなっています。スティービー・レイが亡くなってから24年。録音状態の良し悪しなど関係なく記録としても嬉しいギフトCDです。

重要文化財・『明治生命館』

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国指定の重要文化財『明治生命保険相互会社本社本館』です。なんとも重厚感に満ちています。現在の社名は「明治安田生命」ですが重文指定時には前述の名称となっています。この明治生命館は建築家・岡田信一郎の設計により昭和9年(1934年)の完成で、「国会議事堂(昭和11年完成)」とごく近い時期です。近くの「●菱●号館ビル」とは”時間のもつ重み”が格段に違います。…忠実に再現してみましたのあざとさがあります…現在でも土曜・日曜(年末年始除く)の11時~17時には予約なしで見学することができます。(日比谷通り側から入って受付は2Fとなっています)
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左)「投函すると集配室へ手紙が落ちていく設備」=アメリカ製の郵便ポスト=です。国会議事堂内では現役で活躍中ですが、こちらは機能停止になっています。これが国会議事堂では見られない階下の集配部分です。
中)日比谷通りの面した2階の応接室です。過日の新任アメリカ大使殿はこの部屋で時間を調整して、儀仗馬車列で皇居へと向かわれました。
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徳川慶喜・巣鴨屋敷跡

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JR巣鴨駅を背に”おばあちゃんの原宿”と反対方向に進むと【徳川慶喜・巣鴨屋敷跡の碑】があります。徳川15代将軍徳川慶喜(1837年~1913年)が、大政奉還後、静岡での謹慎生活の後、この巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、慶喜61歳のことでした。翌年3月には皇居に参内、明治35年(1902)には公爵を授けられるなど徐々に復権していく事となります。お屋敷は、白山通り(旧中山道)に面しており、庭の奥は梅林になっており、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていたそうです。実際に巣鴨に住んだのは明治34年12月までの4年間で、後に現文京区小日向に移転、そちらで亡くなっています。巣鴨邸のすぐ脇を現在のJR山手線が通ることが決まり、その騒音を嫌っての事だそうです。
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それにしても”豊島区教育委員会”。たった4年しか住まなかった=それも”屋敷跡”=歴史的価値などのでしょうかねぇ…?

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お岩さん伝承・巣鴨

140110_01140110_00都電・荒川線『新庚申塚』を下車すると「お岩通り商店会」があります。少し進んで左折、線路を超えると「妙行寺/みょうぎょうじ」。四谷怪談のヒロインお岩さんはこちらで眠っています。お岩さんは実在の人物で、四谷には「於岩稲荷田宮神社」と「陽運寺」が”向い合せ”であり、中央区新川には「於岩稲荷田宮神社」があります。これだけ縁の神社仏閣のある女性も珍しいのではないでしょうか(?)。実在のお岩さんは、貞淑な女性で夫の田宮伊右衛門とも仲が良かったそうですが、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」により”あの”お話とされてしまいました。右の写真「由緒」が書かれた案内板があり、『異説』とも思われる記載があります。曰く”法華経の功徳により一切の因縁が取り除かれた”とは何んのことなのでしょうか…(?)
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左)門前には「明治42年に四谷より移転したきた、お岩さまの寺、妙行寺」との石碑があります。
中)墓所はこの奥なのですが、こちらに「由緒案内」の手前が唐突なことに”寺の墓所に鳥居”があります。
右)こちらがお墓ですが…お骨は埋葬されていないようです。となると”たたり”の実態とは?
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本丸御殿・天守台跡

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天守台の眼下には本丸御殿跡が広がります。江戸城天守は、1606年に着工され2度の改築を経て1640年に完成しています。以後焼失と再建を繰り返し1863年の明暦の大火以降は天守台は再建されることはありませんでした。ですから暴れん坊将軍(8代将軍吉宗)の時代には天守閣はある訳ありません。ここから中雀門にかけてびっしりと御殿が密集していたことになります。御殿は書院造になっており、最初に「表」と称する将軍への謁見や公式の儀式、政務を行う場所で幕府の中央政庁としての役割の区画があり、続いての「中奥」。将軍が日常起居したり政務をみたりする公邸がありました。弘化2年(1845年)造営の御殿では「表」と「中奥」を合わせて約1万8194㎡あったそうです。さらに現在の書陵部から楽部の庁舎にかけての地域には、最盛時には数百人の女中が居住していた約2万4520㎡とも云われる広大な「大奥」の敷地がありました。
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左)この近辺が”パワースポット”なんだそうですが…。意味するところが判りません。
中)天守閣再建の命を受けた前田藩は、遠く四国から石を運んできました。なので”石の色”が異なります。
右)正面は雅楽のコンサートホールで、樹木の影には宮内庁の雅楽練習場があります。
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初場所・土俵造成

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初場所準備が真っ最中の両国国技館で土俵の造成を見学してきました。土俵は場所初日の5、6日前から3日間かけて”機械”を使わず、すべて”人力”で造るのだそうです。鍬やらつき棒、スコップやらの特殊(?)な道具を(細部の仕上げには”ビール瓶”まで多用)を使って”叩く”と”踏み固める”の繰り返しで姿にしていきます。この土俵造りは「呼出し」の仕事だそうで本場所、地方巡業、海外公演など、場所の土俵は呼出し全員で造る決まりだそうです。
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左)ひたすら、叩く、踏み固めるの延々繰り返しです。それにしても完成までに3日間とは…。驚きです!
中)手前にあるのが、土俵の”俵”です。この時点では土俵上の丸い俵囲いはありません。
右)線引きをして、溝を掘って俵を埋めていきます。
*これらの模様はNHKとアドマチック天国が撮影していました。放送はいつなんでしょうかねぇ?
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【東京十社】 大宮・氷川神社

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【東京十社】の武蔵一宮 大宮・氷川神社です。上の写真は「JRさいたま新都心」近くの「一の鳥居」です。ここから本殿までは「氷川参道」と呼ばれる、約2kmほどの表参道が続きます。元々はこの参道が中仙道だったのですが神社の参道を街道とするのがはばかられるとのことから中仙道はルートを変えています。東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社であり、他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」と呼ばれます。
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140106_02140106_03「二の鳥居」・「三の鳥居」と過ぎ、神池の橋を渡ると色鮮やかな写真左の『楼門』、更には『拝殿』・『本殿』となります。ご祀神は須佐之男命 (すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・大己貴命 (おおなむちのみこと)の三柱で、出雲系の神様です。そうしてみると、こ大宮一帯は大和朝廷との戦争に敗れて故郷を追われた出雲の人達が移り住んだ場所であったとの説もしっくりくるようです。神話の世界では、高天原を追放され出雲の地でヤマタノオロチを退治したスサノウはクシナダヒメと結ばれ「須賀の地」で暮らしたとされます。この須賀の地と関わり合いのある出雲系の人々が遠く「武蔵国」に定着し、故郷の神々を祀ったのがお話としては自然なような気がします。
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140106_04140106_05ここからが今回の主題となります。拝殿/本殿に向かって右側の「東門」を出ると、由緒書もない摂社(末社)が2社並んでいます。右は『御嶽神社』で左は『門客人神社』とあります。この門客人神社は稲田姫命(いなだひめのみこと)の両親を祀るとされているのですが、かなり以前には違う神様が祀られていました。どうやら出雲の須賀の地を追われた人達が武蔵の国までたどり着き、この地に定着する際に元からこの地に暮らす人達と争って勝利して元々の神様を追い出してしまったようです。日本人は戦争で争った相手を徹底的に滅ぼすことをしてこなかった民族です。祟りが怖いからので「門客人神社」でお祀りするも、崇敬されるのは都合が悪いので説明もなし…。こんなところなんでしょう。
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左)神社敷地の配置図です。神社後方の公園まで含めるとともかく広大な神社です。
中)案内図には「●●稲荷」との名称はなく”稲荷神社”としか記載がありません。が、不思議な構造をしています。
右)さや堂(?)の柱は、良く見ると鳥居の形式で「社額」が付けられています。この形式は見た事がありません。
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初詣は明治神宮で…

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あけましておめでとうございます。東京は元旦から”まさにお正月”といった感じの穏やかな日が続きましたね。
ところで、今年も関東では明治神宮が初詣参拝者数のトップだそうです…。都会にあって広大な神社の”杜”があり繁華街の渋谷や新宿にも近く、”初詣がてら”となると、やはり明治神宮ですかねっ。遥か昔の高校時代には深夜に参拝。「渋谷の終夜営業の喫茶店で朝を待つ」が定番で、大学時代は「道玄坂の坂上地区で朝まで…」となっていました。思い返せば「正月料金」の高かったこと(!)。恥ずかしい事には、明治神宮にはどなたが祀られているのかすら知りませんでした。『明治天皇』と『昭憲皇太后』をご祀神としているのですが…。参拝者で混雑する本殿前を見ると”ご祀神が誰かを知らない参拝者はどれぐらいいるのかなぁ”とフトッ思ったりしてしまいます。まぁ正月ですから良しとしましょうか(笑)
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左&中)拝殿が混雑していないのは、このエリアの入場規制がされているためです。このように本殿が写り込む撮影は不可の場合があるのですが…。正月はOKなのでしょうか(?) 右)厄年一覧の横断幕です。ご参考までに…(笑)
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