面白いもので、皇居正門付近では中国・韓国・台湾からの観光客が多く見受けられ、特には耳障りな●国語が飛び交っています。
実は、「二重橋」の名称は手前の石橋がメガネ橋状で”二重”に見えるからでも手前の石橋と奥の鉄橋とで橋が”二重”になっているからでもありません。江戸時代には奥の橋あたりの堀が深く、橋げたを2段に重ねなければ橋を渡せなかった事から『二重橋』であり、明治時代に鉄製で架橋されてからは「皇居正門鉄橋」が正式名称となっています。つまり”二重橋という名称の橋”は存在しません。そうなってしまうと島倉千代子の歌が成り立たないという困った事になります。それでもそこは日本の事、地名としての「二重橋」は存在しています。
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左)正面の櫓は京都・伏見城から移築したとされるもので、伏見多聞と伏見櫓が接近して建っています。
中)現皇居の場所は、江戸時代は西の丸と称し、ご隠居達が住む御殿があった場所となります。
右)外桜田門渡櫓門です。初期の東海道は桔梗門(内桜田門)から外桜田門を経由していたとされます。
実は、「二重橋」の名称は手前の石橋がメガネ橋状で”二重”に見えるからでも手前の石橋と奥の鉄橋とで橋が”二重”になっているからでもありません。江戸時代には奥の橋あたりの堀が深く、橋げたを2段に重ねなければ橋を渡せなかった事から『二重橋』であり、明治時代に鉄製で架橋されてからは「皇居正門鉄橋」が正式名称となっています。つまり”二重橋という名称の橋”は存在しません。そうなってしまうと島倉千代子の歌が成り立たないという困った事になります。それでもそこは日本の事、地名としての「二重橋」は存在しています。
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左)正面の櫓は京都・伏見城から移築したとされるもので、伏見多聞と伏見櫓が接近して建っています。
中)現皇居の場所は、江戸時代は西の丸と称し、ご隠居達が住む御殿があった場所となります。
右)外桜田門渡櫓門です。初期の東海道は桔梗門(内桜田門)から外桜田門を経由していたとされます。