旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2014年05月

無縁坂と講安寺

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不忍の池から岩崎のお屋敷の煉瓦壁に添って東大行院へと続く緩い坂道。この坂道が”さだまさし”の歌に描かれた「無縁坂」です。森鴎外の作品「雁」に主人公の散歩道として描かれたほうが古いのですが…、歌の印象の方が強いのはしょうがないでしょう。…「♪運がいいとか、悪いとか、人は時々口にするけど~♪」…ところで、母は僕の手を引いて何処へ行っていたのでしょうか?東大病院に通院ですかねぇ?
元々、坂上に『無縁山法界寺』という寺があり、後に『講安寺』移転してきて境内に無縁寺と名付けた庵を建てたのが「無縁寺」の坂道で「無縁坂」の謂れのようです。もしくは松平備後守・榊原・前田(加賀)の武家屋敷に囲まれた坂なので「武縁坂」とも言われるそうです(例によって異説です)。
さてその「講安寺」ですが、無縁坂の北側に位置する山号は専修山で浄土宗のお寺です。本堂の外壁が漆喰で塗りこめられた珍しい土蔵造りになっています。米蔵かと見間違えるくらいの造りになっているのですが、火事に悩ませられた江戸の人たちの防火建築の知恵なんでしょうが…。
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Pt↑)♪母がまだ若いころ僕の手を引いてこの坂を上るたびいつもため息をついた~♪ 煉瓦壁は岩崎のお屋敷です。
Pt↓ 講安寺の山門と漆喰造りの本堂です。屋根の上に”猫”がおりました。
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三崎稲荷神社

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千代田区神田美崎町、水道橋駅徒歩2分の三崎稲荷神社です。創建は明確でありませんがかなりの古社であるようです。江戸城近くの神社のご多聞に漏れず、あちこちと移転を繰り返し、現在の地は明治38年(1905)に甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴って移転しました。創建当初は「和田倉付近」にあり、その後三崎村に移転したの説と現在の駿河台のふもとの「武蔵国豊島郡三崎村(現在の本郷1丁目)」で創建との説があるようです。社号は”三崎稲荷神社”ですが金刀比羅神社を合祀しているため”三崎神社”と称されているそうです。そうなってくると金刀比さん=海の近く=和田倉付近の方が自然です。東京都神社名鑑には、武蔵国豊島郡三崎村総鎮守として創祀と推定される。慶長8年家康の日比谷埋立て工事により移転。万治2年外濠神田川筋の堀割り工事により、現三崎町2丁目北部に移転。万延元年には幕府講武所開設のため、旧水道橋に移転、水道橋駅工事のため移転…お忙しい限りです。
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江戸時代には3代将軍家光(実に行動的な将軍のようです)が参拝し、その後は諸大名も参勤交代の折には参拝したといわれています。現在はビルに埋もれるような感じになっています。くまなく探したのですがきつね氏はいらっしゃいませんでした。
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旧江戸城・二の丸庭園の鯉

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皇居東御苑・二の丸庭園は、3代将軍家光の命により1636年(寛永13年)に”小堀遠州”の手によるものとされます。1867年(慶応3年)に焼失、明治以降は殆ど顧みられなかった庭園を復元したものです。回遊式庭園の池には、鰭長錦鯉(ひれながにしきごい)が悠々と泳いでいます。Ptで見るように(残念ながら曇天でしたが…)背鰭、尾鰭、腹鰭が長く、泳ぐ姿が優美です。元は日本のニシキゴイとインドネシア原産のヒレナガゴイの交配種で、陛下が皇太子時代にインドネシアからの打診によりニシキゴイの品種改良に着手し1982年位誕生した品種です。さいたま市・大宮公園には関連する碑があり、この品種は観賞魚として埼玉県を中心に広まっているそうです。以前「皇居の池の鯉がカワウに襲われた事件」はこの鯉の事です。
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Pt中)この菖蒲蒲は見事で蕪ごとに優雅な名称がつけられています。この日は咲いておりませんでした。
Pt右)以前は吹上御所にあり、昭和43年に点景として移築されたお茶室『諏訪の茶屋』です。
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旧江戸城・不浄門の謎

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Pt↑は、旧江戸城「平川門・渡櫓門」です。…【徳川御三卿の登城や大奥のお女中の出入り門で、平川橋から濠を渡り、正面右の平川門・高麗門を抜けると左側に渡櫓門があります。渡櫓門には二っの門が造られており、右側が城内で死者や犯罪者を城外に運び出す「不浄門」であったそうです。】…実際に写真の位置から(内緒で)門を見ると、なにか変です。死者の場合は棺桶(風呂桶状)で搬出したのでしょうが、棺桶を担いで平川橋を渡ったとは考えられません。この付近は帯曲輪と称する郭が濠に突き出すような構造だったので、この帯曲輪に舟を着けて日本橋川を利用して搬出したと考える方が自然です。Ptで見ると渡櫓門から不浄門へUの字状に道があり、不浄門の閂(かんぬき)も手前側にあるので、こちら側から搬出した事になるのでしょうか?資料集を見ても「不浄門/帯曲輪門」=「この門から犯罪者・死者」を搬出とあるのですが、位置関係がどうにも得心できません。
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旧江戸城・北桔橋門

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北桔橋門は皇居東御苑・天守台跡の後方に位置します。この場所は江戸城でも最も濠が深くなっており、石垣も堅ろうな造りになっています。橋の構造は吊り橋状で橋を上げ下げすることで、有事の際には外部に脱出したり、交通を遮断する仕掛けとなっていました。可動構造となっているため 「橋」 の部分は5~6mの程度しかありません。江戸時代は高麗門と渡櫓門からなる「枡形門」であったようですが、現在は高麗門しか残っていません。皇居東御苑の散策では大手町方面の”大手門”から”北桔橋門”から出て北の丸公園~靖国神社へと散策することができます。
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Pt中)天守台跡です。再建の命を受けた前田藩が四国産の石材を運んできため、”伊豆石”とは色が異なります。 Pt右)乾通りからの西桔橋門(中央部分)です。本丸と西の丸の連絡道(因みに”狐坂”)になるため、この橋も有事には破壊できる構造になっていました。桜通り抜け時の撮影で、通常は一般人は近寄れませんし皇居参観のコースにも入っていません。
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台東区寿町・本法寺

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台東区寿町に本法寺(ほんぽうじ)という日蓮宗のお寺があります。…昭和10年代日本は国をあげて戦争状態へと向かっていました。政府から「時局に合わない不真面目なことはいかん」との命令により自粛が求められた落語界では多くの噺(演目)をこの本法寺の『はなし塚』に葬ってしまいました。…
ということで、このはなし塚を見にいったのですが、本法寺には面白く謎深い”モノ”が数多くありました。
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140509_03140509_04左が「はなし塚」の由来です。封印された”不真面目”は噺とは、遊郭・妾・不義・好色に関連した噺53の演目だったそうです。江戸文芸の名作、明烏・五人廻し・木乃伊取りなどが高座では聞くことができなくなってしまい、この噺を得意にしている噺家はさぞや困ったことでしょう。”重大時局で国民の滅死奉公”を政府が要求していた時代ですから、当然だったのかも知れませんが…。昭和16年10月31日に当時の講談落語協会の方々が発起人となり、本法寺の境内に「はなし塚」を建立、53種の禁止演目の台本を納めています。この”自粛”は第2次世界大戦の終結後、昭和21年9月まで続いたそうです。この「はなし塚」は、台東区文化財の史蹟して台東区教育委員会製作の案内板も立てられています。
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140509_05140509_06左が「長瀧山・本法寺」のご案内です。開山から現在の地に移るまでの歴史が書かれています。面白いのは「熊谷稲荷の由来」とあるのですが、確かに山門の石柱は右が「本法寺」で左が「熊谷稲荷」とあります。が、左には稲荷社らしき鳥居もきつね氏もおりません。Pt右が「熊谷稲荷」と思われます。本法寺HPによると…『この稲荷は、江戸中期に熊谷安左衛門が勧請した稲荷で、数ある稲荷とちがって、白狐を祀った稲荷で、江戸浅草の熊谷安左衛門の墓所のある本法寺と、青森弘前の津軽藩公が祀った二ヶ所だけの、極めて珍しい稲荷です。もう一ヶ所の津軽の熊谷稲荷は、藩公が江戸へ参勤交代のさい、白狐があらわれて、不思議な霊験があったことで知られています。狐(きつね)にもさまざまな稲荷の神として種類があり、そのなかで人間に福徳を分かつ福狐(ふっこ)、つまり白狐(ぴやっこ)だけが、稲荷明神の御脊属(けんぞく)[侍者、従者、随伴者、取り巻きの者]に選ばれる資格があるといわれています。しかも白狐は一種の霊体であって、通俗の人間には姿を見せず、稲荷信仰のあつい人に対してだけ、その正体を現わすといわれています。江戸時代から巷間に熊谷稲荷の信者が多く、門前は人で賑わっており、熊谷稲荷がいかに栄えていたかが覗えます。(略)』…とあります。という事は、神道系(倉稲魂神)の伏見系でも仏教系(ダキニ天)の豊川稲荷系でもないという事でしょうか?。
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「はなし塚」の関連なのでしょうね。正門右側の玉石垣の塀は各放送局、落語協会や落語家、芸人達が奉納したものです。日本放送協会・ラジオ東京・日本文化放送・ニッポン放送や本牧亭・末廣亭等の寄席、伊豆栄(鰻や?)の名前も見えます
右は「吉見稲荷」です(熊谷稲荷とは違います)。所謂”町稲荷”のようで変遷をへてこの場所にあるようです。
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猫地蔵・自性院(無量寺)

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都営大江戸線「落合南長崎駅」の駅コンコース・A1出口辺りに↑の看板があります。”商売繁盛・猫地蔵尊…子育て、開運、厄除け”さらに・道灌招ぎ猫供養地蔵・猫面地蔵尊とあります。こちらが新宿区西落合1-11-23にある世田谷・豪徳寺とはちがった「招き猫伝承」で知られる自性院(無量寺)です。縁結びにご利益があるとされ浅草今戸の某神社は「招き猫」ではなく「招き猫人形」という紛らわしい伝承です。
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140512_02140512_07「落合南長崎駅」をでて徒歩2-3分でPt左の青い看板が見えてきます。こちらが自性院(無量寺の入口です。看板に反対側に石柱の上に乗った”ネコ”の像があります。この小判(?)を抱えたネコはねこ長80㎝くらいと大型です。
さて”太田道灌招き猫伝承”とは…文明9年(1477)の江古田ヶ原の戦で、太田道灌が戦に敗れて道に迷っていると、黒猫が現われて手招きをし「自性院」に案内してくれたので道灌は命拾いをし、後の戦いで勝利することができたといいます。この黒猫の死後、手厚く祀ったのが「猫地蔵」の始まりとされています。”ネコの招かれて難を逃れた”の部分は豪徳寺の伝承と似ているような気もしますが、時代的にはこちらの方が古くなります。いずれにしろ浅草の某所のような嘘臭い招き猫伝承とは異なるようです。
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Pt左)が”猫地蔵堂”で秘仏の猫地蔵が祀られており、2月3日の節分会にのみ開帳されます。自性院は真言宗のお寺で豊島88ヶ所霊場の24番札所となっています。猫地蔵堂の前に「猫地蔵和讃」の碑(Pt中)があり、2系統の猫地像の由来が2&3番に書かれています。Pt右)猫地蔵堂の中には入れませんので、ガラス越に強引に写してみましたが、どれが猫地蔵なのか判然としません。
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太田姫稲荷神社

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御茶ノ水の『太田姫稲荷神社』の平成25年から改修工事が完成の運びとなったようです。街に神社の幟が林立したいたので寄ってみました。石鳥居を始めやたら綺麗になっています。こうなると”味わいが失われた”なんて事を言い出す人が登場するかもしれません。
神社の縁起書きによると、太田道灌の娘が疱瘡にかかったおり、疱瘡に霊験のある京都・一口稲荷神社(いもあらいいなり)に回復祈願したところ治癒したので、感謝した道灌が一口稲荷神社を道灌時代の江戸城内に勧誘、その後に江戸城の鬼門方向のにあたるげ現御茶ノ水駅聖橋口付近に移設。さらに昭和6年の総武線の拡張工事のため現在の地へ移転しているとのことです。ややこしいのは太田姫稲荷神社の「太田姫」とは道灌の娘のことではなく、陰陽師の”小野篁”の元に「疱瘡に罹らないように祀れ」と告げ、また”太田道灌”の元に狐の姿で現れて「江戸城鬼門に祀れ」と告げた「太田姫命」とことだそうです。 …縁起書きを要約するとこれで良いと思います…
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日常的に見ている神社さんではないので、どこがどうと云われても…判りません。鳥居、社殿、社務所は見違えるくらいに修復・改築されています。
ただし、下右の”太鼓の上をキツネ殿が飛翔”している姿は見当らなくなりました。(このPtは古いモノです)
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館林・茂林寺

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東武伊勢崎線・館林駅の1つ手前の「茂林寺前駅」より徒歩700m(館林駅から約3㎞)に曹洞宗・茂林寺があります。日本昔話に登場する『分福茶釜』で有名と言った方が判りやすいかも知れません。 =多くの人が”ぶんぶくちゃがま”でなく”ぶんぶくちゃまが”と言ってしまうようです= 流石に”狸”で有名なお寺だけあって総門から山門までの参道には約20体の狸の像が建っています。1体毎に造作が異なり戯れ唄などがあって結構楽しめます。その昔、館林在住のペン・フレンド(死語ですね)の女の子とデートしたのが、つつじの季節に茂林寺から花山でした。茂林寺の狸たちも今ほど狸像がカラフルでなく、もっと大きかったような気がするのですが…。
左)山門から総門方向です。狸が動員されてお出迎えといった感じでしょうか。こちらは”分福茶釜伝承”で”狸囃子”の證誠寺は木更津市です。
中)本堂です。昔は狸が飼われていたような記憶があるのですが…曖昧です。
左)茂林寺前駅。狸親子が出迎えです。茂林寺までの道すがら昔話が13枚のパネルが造られています。
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館林・つつじが岡公園

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群馬県は館林市つつじが岡公園へ行ってまいりました。この「つつじが岡公園」は日本でも有数の”躑躅”の名所で、日本一どころか世界一だとのたまう研究者もいらっしゃるようです。歴代の館林城主や市民に保護され、季節には樹齢800年を超える高さ5mのヤマツツジや50品種以上約10,000株のツツジが咲きほこります。昭和9年には国の名勝に指定されています。…「つつじが岡公園」は新旧の園を合わせると5haあります。確かに年々整備されてはいるのですが、遥か以前の方が”花のトンネル”などはもっと迫力があったような記憶があります。 花の盛りが過ぎているので”絵”になる場所探しは大変でした…。 ↓中は館林駅前に設置された温度計です。この時点の気温が24℃。”熱中症に注意ボード”によると、この温度は”注意”の下限にあたります。館林は真夏日は当たりまえ猛暑日の全国最高記録をしてしまう街として今年の夏も賑わしてくれることでしょう。 
右は館林第二資料館で、旧上毛モリスン㈱の事務所の建物が資料館となっています。同資料館付近には文豪・田山花袋の旧居や記念文学館、向井千秋記念子ども科学館なんてのもあります。歴史的、文化的見所が多い街なのですが…。暑いのは勘弁ですね!
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上野東照宮修復完了

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2009年から5年間(!)修復状態だった『上野東照宮』が何時の間にやら工事が完了して一般に公開されておりました(笑)。長いこと東照宮の絵を描いた目隠し幕で覆われていたのですが、春のぼたん苑の開園時期に合わせたのでしょうか、本当に”いつの間にやら”という感じです。修復前は朱塗りの建物だったような記憶があるのですが蘇った東照宮は俗称「金色殿」の復活に相応しい仕上げになっています。
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140501_04140501_03「東照宮」といえば日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、港区・芝、台東区・浅草、埼玉・川越をはじめ全国各地に数多く存在します。上野東照宮のご祀神は徳川家康(東照大権現)・8代将軍徳川吉宗・15代将軍徳川慶喜となっていますが、何故に慶喜が祀神なのかは疑問があります。『上野東照宮』は1616年2月静岡駿府城で危篤状であった徳川家康が病床に居合わせた幕府顧問で上野寛永寺の開祖天海僧正と大名の藤堂高虎に”3人1つ所”に末永く魂鎮まるところを作ってほしいといの遺言を残し、藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営したとされます。都内、芝・東照宮はこじんまりと、浅草・東照宮は浅草寺”二天門”以外は殆どが消滅しています。そういう意味では貴重な東照宮とも云えます。
写真=左は社殿から唐門方向です(社殿には上がれません)。右は拝殿、幣殿、本殿からなる権現造りです。
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140501_06140501_05現存する社殿は、1651年に3代将軍・徳川家光(爺ちゃん大好)が造営替えをしたもので、金箔をふんだんに使い、日光東照宮といい勝負の豪華絢爛の造作で「金色殿」とも呼ばれたそうです。 当時は東叡山寛永寺の一部でしたが、第2次大戦後の神仏分離令により寛永寺から独立しています。戦争や震災などの災害で一度も倒壊することなく、江戸の面影をそのまま現在に残す貴重な文化財建造物です。 写真は左)は唐門を表側から、左)は社殿側からです。唐門の柱には”左甚五郎”作の「昇り龍・降り龍」の彫刻があります。これはこれで良いのでしょうが…。細部までの塗装の色合いや修復具合は、埼玉・妻沼聖天様に比べると疑問点が多々あります。あちらは「国宝」でこちらは「重要文化財」の差なのでしょうかねぇ。
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140501_08140501_09社殿脇の回廊に『栄誉大権現』が祀られています。『栄誉大権現』は「お狸様」「夢見狸」と呼ばれ、江戸時代に江戸城大奥で大暴れして追放され、その後も安置された大名、旗本諸家を潰した四国八百八狸の総帥の大悪狸で、大正年間に東照宮に奉献されてから災いがなくなったという伝承があります。 現在では”他を抜く狸”という縁起から強運開祖の受験の神様として信仰されています。 とあるのですが…修復期間中はこちらへも立ち入れませんでした。付近には『五条天神社』・『上野大仏』と受験の神様や古社の『花園稲荷』もあります。「お狸様」もうかうかしてられません。それにしても、大奥で大暴れとは…何をやらかしたのでしょうか?
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左)1633年(寛永10年)酒井忠世建築奉納の備前御影石の鳥居。国指定の重要文化財です。
中)社殿の建築の年(1651年)に全国の諸大名より奉納された石灯篭が200基以上並んでいます。
右)幹の太さが8mを超える上野公園一の「大楠」。樹齢600年以上の上野の祖木といわれる御神木です。
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目黒・蛸薬師

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東急目黒線・不動前駅で下車、目黒不動尊への道すがらの「通称蛸薬師/不老山薬師寺成就院」です。成就院は天安2年(858年)慈覚大師円仁によって開山されています。ご本尊は大師の自作と伝えられる3匹の蛸に支えられ蓮華座に乗った薬師如来像なんだそうですが、見ることはできませんでした。「蛸薬師」と呼ばれ疫病除けとして賑わうそうです。境内には、徳川2大将軍秀忠の側室「お静の方」が、我が子の保科正之の栄達を祈願して奉納された「お静地蔵」が建てられています。この保科正之は2代将軍秀忠の第3子で3代将軍家光の異母兄弟にあたります。高遠城主から会津松平の祖となっています。4代将軍家綱を補助して振袖火事で丸焼けになった江戸城再建を”江戸の街の再建が先だ”と前田藩に命じた江戸城天守台再建計画を中止にしたりしています。このお地蔵の上方には”ありがたや福をすいよせるたこ薬師”と書かれたユーモラスな看板が見られます。
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