旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2014年07月

会津若松・鶴ヶ城

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会津若松・鶴ヶ城なのですが…。これが意外なほど面倒なお城で一般的には「鶴ヶ城」の呼称なのですが「会津若松城」と呼ばれることも多いようです。文献では「黒川城」もしくは「会津城」と表現されることもあり、さらには国の史跡としての呼称は「若松城址」となっています。 要するに、会津藩や会津若松の住人にとっては「お城」は「お城」であって”呼称”などたいした問題ではなかったのでしょうね(苦笑)。
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140714_06140714_09鶴岡や弘前の城址公園と同様に鶴ヶ城も大事に管理されていると思います。戊辰戦争後の城郭は取り壊されるか、軍隊の駐屯地えをへ役所などの美術館などの公共施設や学校になっている例が多いようです。駐車場から天守への途中に2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の新島八重役の「綾瀬はるか」のパネルがあります。前項の白虎隊を含め「会津戦争」がTVドラマや映画化されています。『八重のさくら』に付いてはある意味残念な事に新島八重ご本人と「綾瀬はるか」のギャップが激しすぎますねっ。個人的な感想ではありますが、タイトル等は失念しましたが、”お笑いの森三中・大島美幸”が新島八重を演じたのが一番の適役だった思います。
そういえば天守閣の一画にスペンサー銃のレプリカ(?)がありましたが、銃床から弾丸7発を装填する特異な形式で、アイディアはともかく実用性には不安があり、火縄銃からの過渡期といった感じです。何故一般化しなかったのか、これなら無理は無いなと積年の疑問が解消しました。
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天守閣や廓、本丸跡などなど管理の行き届いた城址公園です。平成27年は天守閣が再建されて50周年だそうです。このようにキッチリした街であるにも関わらず、あのラジオアンテナは残念至極です。 Pt↓右)はスペンサー銃を持った新島八重の像です。実際の本人は、大島美幸風なのですがねぇ(笑)。
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会津若松の大馬鹿者

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愛知県岡崎市には『岡崎ビスタ・ライン』と呼ばれる”遺産”があります。岡崎市郊外の『徳川家菩提寺・大樹寺』の山門から遥か彼方に岡崎城の天守閣が遠望できます。歴史のイタズラかもしれませんが、「岡崎市民は寺からの岡崎城の眺望を遮る建造物を…法律や権利関係云々ではなく…建てない」と云う話を聞いた覚えがあります。いずれにしろ岡崎の街を、歴史を大事にしてきたことだと思います。 それがどうでしょう(!) Pt↑)は会津の名所、白虎隊の少年達が自刃した飯盛山から鶴ヶ城を(⇒)を見ています。白く見える柱状は写真の傷ではありません、なんとラジオ局のアンテナだそうです。住民なら当然知っていたのでしょうが、会津若松史遺産をないがしろにすることができたのか、この大馬鹿者ラジオ局の見識を疑ってしまいました。
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Pt↑)は鶴ヶ城天守閣から飯盛山の白虎隊最後の地を遠望しています。当然大馬鹿者ラジオ局のアンテナが見えます。…隊士A:『大変です!鶴ヶ城が炎上しています』。 隊士B:「城の方角は…?」。 隊士A『ほらっ、白いラジオアンテナが見えるでしょう。そのすぐ隣です』。 隊士B:「なるほど。目印があると判り易いねっ」…まさか、コントみたいな話を想定してアンテナを建てたのではないでしょうが…(笑)。どう考えても馬鹿げた振る舞いです。 この街を歩いていると”あいづっこ宣言”なる看板を見かけます。【項の4が、卑怯なふるまいをしません。項の5が、会津を誇り、年上を敬います。そして、やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことは ならぬものです。】とあります。 
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Pt↓左)飯盛山の白虎隊士像です。この目線の先にラジオアンテナと城が見えます。
Pt↓中)この角度だと城がアンテナに隠れてしまいます。
Pt↓右)会津若松駅前の白虎隊士像です。この街での歴史遺産なんでしょうけどねぇ。
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会津若松・飯盛山

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当初は「会津若松」は予定にはなかったのですが帰路途中という事で…。この飯盛山(いいもりやま)は標高314mの小さな山でJR会津若松駅の真東あたりです。江戸から明治期の「会津戦争」では、16~17歳の会津藩の少年達で構成された「白虎隊」と称する部隊が結成されます。局地戦に敗れた彼らは飯盛山まで敗走、ここから見た鶴ヶ城付近が炎上しているのを城の落城と錯覚して自刃した地です。Pt↑)は自刃した「白虎隊十九士の墓」です。いまでも年間約200万人の観光客が訪れる会津の有名な観光地です。 この史実は見方を変えると…実戦経験のない少年兵が戦いに敗れて極限状態のまま、指揮官(リ-ダー)不在で判断を誤った…という事なのですが、彼らを否定するもではありませんが、冷静に判断すると”美談”でもありません。ただ、この会津若松の歴史として決して色褪せてはならないものだと思います。 …ところが、なんですが…
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Pt↑)から進んだPt↓左)が「白虎隊自刃した場所です。♪唇かんで眉上げて♪…こんな表情できますかねぇ?
Pt↓中)白虎隊とは関係ありませんが、国の重要文化財、栄螺(あざえ)堂です。珍しい建築構造をしています。
Pt↓右)墓所には急階段を登るのですが…。迷わすスロープコンベア(¥250)を選びました。
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世界遺産・平泉…(Ⅱ)

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ユネスコの世界文化遺産=【平泉・仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群】。今年の石見銀山などと比べ日本人の感性には判り易いと思います。…聖徳太子の時代に大陸より伝来した”仏教”が時をかけて平安時代に東北・平泉の地に至り、その平泉には受け入れる藤原氏による文化があり、さらには平泉仏教文化が今に伝承されている…。東北地方屈指の観光地でありながら、足枷ばかりを要求するユネスコ世界遺産などよくなったと思います。
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140712_11140712_12毛越寺ではまた雨脚が強くなりました。毛越寺は中尊寺同様慈覚大師により開山され、藤原氏2代基衡と3代秀衡により中尊寺の釈迦如来に対し薬師如来を本尊とする多数の伽藍が造営されました。Pt↑)の毛越寺伽藍復元図にあるような180m X 90mの大泉が池を中心とした庭園となっていました。奥州藤原氏の滅亡後、多くの災禍により建物、伽藍は焼失してしまいました。 平泉には添乗業務で何度か訪れていますが、中尊寺での自然の中の圧倒される仏教遺産よりも、いかにも「強者どもの夢の跡」といった感じの毛越寺の方が好きです。…そうして見ると生憎の雨模様も楽しむ余裕が出てまいりました…
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Pt↓左)毛越寺の本堂です。あったけ?と思ったのですが、平成元年(1989)完成では知る訳はありません。 Pt↓中&右)無量光院跡です。奥州藤原氏の3代秀衡が宇治平等院を模して建立した寺院跡で、ここも世界遺産です。学生時代に最初に訪れた時の”毛越寺”もこんな感じだったような気がします。
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世界遺産・平泉…(Ⅰ)

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世界遺産・平泉は強雨(!)でした。駐車場に一番乗(08:30~)して少し待っていると雨も小降りに…。第1駐車場から「月見坂」を登って行きました。 現在の平泉町を中心としたこの一帯は、平安時代末期に奥州・藤原氏の都として栄華を誇り、現在でも多くの遺跡や寺院が残っています。そのうちの5件が平成23年(2011)にユネスコの世界文化遺産に【平泉・仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群】の名称で…”いかにも”面倒な表記です…日本の世界遺産としては12件目の登録されています。ここ中尊寺には国宝・重要文化財が3000点以上もあるそうで、とてもじゃなくけど全部見る(非公開もあります)のは不可能な事です。
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140712_02140712_03月見坂を登りきると”平泉・不動のセンター”中尊寺・金色堂です。あまり知られてはいない話ですが金色堂は我が国の国宝建造物第1号なんです。逆に金色堂以外が第1号とは考えにくいほどです。ただの金ピカの建物ではありません、栄華を誇った藤原氏の文化が凝縮されています。彫刻の一ツ一ツや…。この時代に東南アジアからはるばる輸入して建材なんて信じられません。金色堂手前の宝物殿・讃衛蔵も圧巻で平安時代の仏教美術が多数収蔵されています。時間に余裕があれば宝物殿だけで1~2時間は楽しめます。…宝物殿と金色堂の拝観料は両方で¥800ですが、他のお堂は無料です… 中尊寺は天台宗の東北大本山で慈覚大師(円仁)により創建され、奥州藤原氏の藤原清衡により前九年、後三年の役で亡くなった人々の霊を慰めるために12世紀に造営しています。平安時代に都から遠く離れた奥州の地にこれだけの文化があったと思うと身震いするような感動を覚えます。 …人物の映り込みは極力避けているのですが、右のご夫婦のPtは妙に気に入っています…
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140712_05140712_09月見坂途中に「本堂」です。中尊寺は戦乱・火災などで奇跡的に残った金色堂以外はほぼ消失しています。この本堂も明治42年(1909)の再建で、安置されている釈迦如来坐像は、藤原氏初代の清衡公が釈迦如来を安置したことにならい平成24年(2013)に丈六釈迦如来坐像の新本尊として開眼法要されたものです。一丈六尺の大きな仏様なのですが、如何せん本堂内部が広く、大きさがピント来ません。写真の様な雨模様です。中尊寺自体はさほど標高がある場所ではないのですが、月見坂参道を登って行くと江戸時代に伊達藩により植えられた樹齢300年越の鬱蒼とした杉林Pt↓中)を抜けていきます、天気が良ければ「衣川の古戦場」Pt↓右)も一望できるのですが…。それにしても雨脚の弱まったり強まったりには参りました。
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下北・恐山霊場

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恐山菩提寺は地蔵菩薩を本尊とする曹洞宗のお寺です。伝承によるとて貞観4年(862年)に最澄(天台宗)の弟子である慈覚大師(円仁)であるとされます。慈覚大師円仁は「東へ向かうこと三十余日、霊山ありその地に仏道をひろめよ」との夢のお告げに従い諸国を行脚そして辿り着いたのが、この地 恐山であると言われています。恐山は宇曽利湖(うそりこ)を囲む外輪山の総称で、釜臥山をはじめとする八峰で構成されています。
『日本文化の根底では死者の霊は存在し続け、日本人は死者との対話や彼らへの敬意と想いを持って世代を重ねてきた民族である』…誰の文だったのか覚えていませんが…。下北半島・恐山。ここには間違いなく私達の”死者への想い”があります。
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Pt↑)地形自体は登別温泉・地獄谷や箱根・大涌谷と大差ないように見えます…。無数に置かれた風車、ぬいぐるみ、故人との想いを繋ぐ品々…やはり胸をうつものがあります。 Pt↓左)東日本大震災犠牲者追悼のため、宇曽利湖の極楽浜に建てられた地蔵菩薩像です。 Pt↓右)昔、訪れた時はこの長い塀はなかった気がします。駐車場から荒涼とした敷地の先にお手があった様な記憶なのですが…。
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津軽・弘前の街…(Ⅲ)

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東北地方屈指の美しい城【弘前城】です。江戸時代には弘前藩4万7000石の津軽氏の居城として政治経済の中心となっていました。現在でも堀・石垣等の城郭の多くが原型をとどめており、現存する建造物は国の重要文化財となっています。弘前公園として整備されており、本丸・北の廓・弘前城植物園は有料で、それ以外は自由に散策することができます。弘前城址は桜の名所としても知られ季節には多くの観光客が訪れます。
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140710_10140710_11Pt↑)の橋からの満開の桜越しの天守閣が観光ポスターとして有名なアングルです。この天守閣は文化8年(1811)に9代藩主により櫓造営の名目で再建されたもので、規模からしたら”櫓”の大きさしかありません。この天守閣は東北震災の影響もあるのでしょうか石垣に歪みが生じ崩落の危険が予想されるそうです。平成26年度より本格的に石垣修理計画が始まるそうで、平成26年の弘前さくら祭りの終了後、三層の櫓(天守)をそのまま別の場所に移し、石垣の修理となるようです。元禄12年(1699)の石垣完成後、明治29年(1896)に石垣の崩落、この修理は大正5年(1916)に盛岡工兵隊により完了しています。今回の平成の修理はそれから100年を経ての大修理ということになります。天守閣をフォークリフトで持ち上げて移動することとなるのだそうで”ほんとかヨ”と思ってしまいます。
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Pt↓左)工事完了まで10年の予定なので、堀に映る天守の姿は10年ほど見られなくなります。
Pt↓中)本丸城址から岩木山を見ています。残念ながら頂上付近に雲がかかっています。
Pt↓右)武徳殿休憩所です。壁一面に歴代の”弘前さくらまつり”の観光ポスターが掲示してあります。
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津軽・弘前の街…(Ⅱ)

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弘前の名刹【金剛山・最勝院/さいしょういん】は真言宗智山派の寺院で、市内でも寺社仏閣の多い地区にあります。明治時代の神仏分離令のにより弘前でも多くの寺が廃止となってしまい、残った最勝院が廃寺の檀家衆を引き継いだとあります。現最勝院の敷地は元々「真言宗・大円寺」のもので、明治5年(1872)に大円寺が大鰐町へ移転した為、跡地を最勝院が譲り受けたそうです。境内の五重塔も旧大円寺の塔で、寛文7年(1667)に造られ、高さが31.2m、国の重要文化財です。日本最北端の五重塔だそうですが、そりゃあそうでしょう(苦笑)。
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140710_03140710_02三門に『卯一代様』との社額が掛けられています。まったく知りませんでしたが。「津軽一代様」といわれる津軽地方独特の習慣があり…自分の生まれ年の守り神を本尊とする各神社への信仰ある。とくに津軽では藩政時代から「津軽一代様信仰」として広く信仰されています。現在の津軽では、除夜の鐘が鳴ると各家で家族それぞれの一代様へお参りしたり、干支の絵馬を奉納したり、厄年に参拝するという風習が定着しています。…ローカル信仰と云えばそれまでですが…子から戌亥まで弘前・岩木・黒石・大鰐・碇ヶ関の寺社に割り振られているようです。因みに最勝院は文珠菩薩で「卯歳」担当というです。真言宗の寺なので弘法大師像は不思議ではありませんが…お寺なのに眷属(?)に兎(?)。Pt↓の不思議な絵図らはこう言うことでした。
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津軽・弘前の街…(Ⅰ)

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津軽・弘前市を訪れたのは実に38年振りになります。『お城・さくら・林檎の街』なんて言われて久しいようですが、「他には…?」と云われても”弘前ねぷた”くらいしか浮びません。江戸時代は津軽藩の城下町として栄え、現在でも津軽地方の中心都市となっています。弘前の市のマークは『卍』なのですが、ユニークです。いわれは知りませんが津軽藩と関係があるのでしょうか? 38年前の記憶を辿ろうとしたのですが、如何せん地方の街のありがちでJR弘前駅前はスッカリ変貌していました。繁華街に若干と弘南鉄道・中央弘前駅付近になんとなくの記憶があるだけです。これではあの頃の忘れ物を探したくて無理というものです。
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Pt↑)弘前城・追手門です。時間が遅かったので有料の本丸公園は閉園していました。 Pt↓左)街の中心街、時間は19:30頃ですが車は走っていません。人も歩いていません。店舗は閉まっています。これが地方都市の普通の姿です。 Pt↓中)弘南鉄道・中央弘前駅です
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津軽半島・龍飛埼

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津軽半島・龍飛埼へ到達しました。旅の後半は台風の影響が東北地方にも及び暫くは快晴の日がありませんでした。そういった意味ではこの天候は幸運でした。津軽海峡越しに北海道がくっきりと見えます。断崖の上から見下ろす海…。襟裳岬を彷彿させる景色です。考えてみればこの海峡の下を鉄道(青函トンネル)があるのですから大変なモンです。それにしても、竜飛崎・龍飛埼&崎・埼…日本語の表記は面倒です(苦笑)
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140709_02140709_03住所表示であは「青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩龍浜」となります。津軽半島北端の岬が絶壁となって海に落ちて行きます。灯台がある位置が北緯41度15分、東経140度20分となります。日本の灯台50選にも選ばれたそうですが、なんなんですかねぇ。戦時中は旧軍の施設があり一般人は立ち入ることができなかった様です。海峡を挟んで北海道までは19.5kmしかなのですが、日本三大潮流”龍飛潮流”が流れているので泳いで渡るとはいかないでしょう。数年前に24時間TVで”盲目の女の子が海峡泳いで横断”なんて企画がありましたが。「煽るだけ煽って終われば知らん顔」…これだけ下品な番組が毎年続くのは何故なんでしょうかねぇ(?)。
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140709_04140709_05よくTV等でも紹介されているので…「国道なのに車が通れない」…龍飛埼の観光名所と云ってもよいでしょう。近くを通る国道339号には、海岸線の集落を通る道と丘陵を登って灯台へ向かう道が連続しておらず部分的に石段だけの場所があります。Pt左)階段国道の看板と339号国道の標識があり、Pt右)の階段が国道の入口で、ここから階段下の集落まで362段の石段が続きます。もともと地元の人達の生活道だったという事だったのが、村道が県道にさらに国道に昇格した全長388m標高差70mの”歩行者専用国道”という事になります。なんでも”日本唯一”だそうですが…。現在は灯台付近の遊歩道はよく整備されています。太宰治や大町桂月などの文学碑はともかく吉田松陰詩碑となると??です。この日は天気晴朗で、風もたいして吹いていませんでしたが、どうにも襟裳岬同様に風の強い場所なのでしょう。風が強い=飛ばされて雪が積もらない=とてつもなく寒い。予想はつきます。
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140709_06140709_07龍飛埼と云えば石川さゆりの1977年(昭和52年)のヒット曲、『津軽海峡・冬景色』…作詞は阿久悠、作曲・編曲は三木たかし…ときます。歌の主人公はこの岬には来ておらず、青函連絡船(当時)の船窓から『見知らぬ人が指をさす』とご丁寧に教えられて見ただけ…。その程度の繋がりなのですが、立派な「歌碑」が建っています。苦肉の策なんでしょうか(?)歌碑は山型に3段で、中央の部分が『♪ごらんあれが竜飛岬、北のはずれと~♪』になっています。「恋に破れて北海道へ帰る女心と真冬の津軽海峡・青函連絡船等の情景をこめて歌った曲」なのですが、「♪上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪のなか~♪」→という事は…”夜行列車を降りる前には雪は降ってなかった”事になります。「♪北へ帰る人は誰も無口で~♪」→夜行列車を降りた人は大体が寝不足なのでテンションが高い訳ありませんよねぇ(笑)
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龍飛崎・眺瞰台展望台

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【眺瞰台展望台】=(ちょうかんだい)と読んで良いと思います。北津軽郡中泊町北小泊山。津軽半島最北端の西側海岸線国道339号を小泊から龍飛崎方面に向かいます。十三湖から日本海の海岸線を走りると、いきなり山道へと変わっていきます。…地図やナビの表記では判りにくいのですが嬉しい驚きです…「龍泊ライン」と称し「日本百名道」に一つだそうです(苦笑)。眺瞰台展望台は海抜475mにあるので、これだけ天気が良いと陸奥湾、八甲田の山々、龍飛崎、そして津軽海峡の先に北海道が見えます。Pt↑)だと判りにくいのですが津軽海峡の海面上空を雲が流れていきました。海峡が気候の変わり目なのでしょうか…?
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Pt↓左)海峡の先は北海道です。半島の先には風力発電の風車が見えるのですが…。
Pt↓中)北海道の海岸線激似の道路がカーブが連続する道となります。見えるのは日本海で、いい雰囲気です。
Pt↓右)駐車場から117段階段を上ると展望広場さらにコンクリート製の展望台があり、眺めは最高です。
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青森・津軽・十三湖

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十二湖があって紛らわしいのですが【十三湖】は十三潟とも呼ばれ、五所川原市・中泊町・つがる市に属する周囲30㎞の汽水湖です。岩木川によって運ばれた土砂が砂州を形成し海から切り離されて汽水湖となったようです。シジミが特産でシジミ汁が有名なのですが…。今回は時間の関係で残念ながらパスとなりました。当たり前ですが青森県もこの辺りまでと来ると風景が北海道と似通ってきます。竜飛岬へ向かう海岸線の道などは函館・江差で見られる風景とほとんど同じです。十三湖周辺には旧跡として神社仏閣群があり城跡や遺構も残っています。今でこそ荒涼とした景色になっていますが、歴史的にはそれなりの栄華があったようです。写真の橋を渡ると湖の小島に「中の島ブリッジパーク」と称する宿泊やキャンプ施設があります。
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つがる市・高山稲荷社

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鯵ケ沢から竜飛岬へ向かう12号線で【高山稲荷】の看板を見かけて軽い気持ちで立寄って見ました。失礼ながら津軽の地にこれだけ広大な規模の稲荷社があったとは全く知りませんでした。縁起によると創建は不確かながら鎌倉時代から室町期と伝えられるそうですが、元々は山王神社であったのが江戸時代に稲荷信仰の隆盛とともに稲荷社に様変わりしたようです。今も青森県一の霊験あらたかな神社で、農業・商業・工業・漁業・家内安全・病気平癒・道中守護・憑物落とし等多様なご利益があるそうです。Pt↓中)の千本鳥居はご本家の伏見稲荷なみとは云いませんがインパクトがあります。但し、ここへたどり着くまでが大変で…。Pt↓右)の境内案内図から石段を登って拝殿。更に丘を下った場所にあります。
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Pt左)敷地の広大な事(!)。津軽のひなびた稲荷神社と思っていたのですが、とんでもない事になりました。
Pt中)遥か丘の上まで鳥居が続き、この奥には役目を終えた眷属の狐たちが休んでいます。
Pt右)朱に塗られていますが、元々が山王神社だった事を示す(?)山王鳥居が建っています。
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青森・津軽・十二湖

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『世界遺産白神山地』に分け入りたかったのですが、山歩きの装備もなにも無し…。なにより体力に不安があるので途中まで車で行ける深浦町の・十二湖(それも青池+)で白神山地の行ったつもりになっています。十二湖は世界遺産地域ではありませんが、神秘の森、美しい湖群、が楽しめる人気の観光スポットです。十二湖は江戸時代の宝永元年(1704年)の大地震によって沢がせき止められ地盤が陥没して33の湖や沼が形成された用です。崩山の中腹から眺めると12の大きな池だけが見えたことから「十二湖」と言われるようになったそうでが、”テキトウ感”も漂います。日本の世界遺産でも”自然遺産”は屋久島・知床・白神山地の3ヶ所しかなく、ここから先に青森と秋田にまたがるの大規模な広大な山系に原生的ブナ林が広がっています。国道101号線から林道(舗装)を15分ほど入ります。駐車場までは路線バスもあり、昨今はこの先の「黄金崎不老不死温泉」が大人気とかで観光ツアーの12m車両も入ってきます。まぁツアー団体は1時間もすればキレイサッパリといなくなりますが…。この日は残念至極の曇り空でした。晴れていれば…。この青池の面積は975㎡で深度は9.0mもあります。
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角館・嘘くさい街

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埼玉県に「蔵づくりの街」として知られる川越という街があります。不思議な事には蔵づくりの街並みは年々増殖の傾向にあります。古い商家風にそれらしく新築する工法がすすんだという事ですが…。角館にも同じような事が起きているようです。シダレザクラ”や檜木内川の桜並木は時期的なもの…。風情のある街並みと云っても猫の額のような広さ…。江戸時代の角館は秋田の佐竹氏の出先機関のような地で大城下町を形成していた訳ではありません。武家屋敷にしても、たかだか1500石程度の家では武家と呼ぶには微妙です。近年でも基幹産業に恵まれない貧しい街が先人が残した”古い街並み”を核に観光産業の波にのったのは当然と云えば当然な事ですが…。数年ぶりに角館を訪れたのですが、川越的な変貌には驚きました。その多くが土産屋と意味不明な資料館です。あまりにも整理整頓されテーマパーク的な街並みには”嘘くささ”を感じてしました。30年以上前の話ですが、角館出身の知人に「角館は小さな何もない街ですけど、桜の季節だけは見事なんです…」と聞かされていました。それがなんということでしょう(笑)。昨今は『みちのくの小京都』と称して年間約200万人が訪れる東北屈指の観光地となったそうです。時の流れとは良くも悪くのそういうものなのでしょうね…。
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Pt下左&↑)角館と云えばの武家屋敷街です。が…、距離にしたら300mもありません。
Pt↓中)角館の駅舎です。角館町は平成17年に町村合併して現在は”仙北市”となっています。
Pt↓右)檜木内堤のソメイヨシノは1934年(昭和9年)に後の昭和天皇の誕生を祝って植えられたもので、約2km続く桜並木です。
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山形・鶴岡・庄内藩

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土地勘はなかったのですが、データでは新潟駅から秋田駅まで直行で280km。これなら楽勝と思ったのですが、予想な事になって、結果480kmも走行する羽目になってしまいました。新潟駅を出発して150km・3時間で山形県鶴岡市です。鶴岡市は江戸時代は庄内藩(鶴岡藩)の城下町として栄えた街です。Ptの致道博物館(ちどうはくぶつかん)には、庄内藩校で使用されていた品々や庄内地方の農業・漁業の資料が展示されています。近隣から移設した建造物も保存してあり見所に溢れた街です。写真の【旧西田川郡役所】はよく知られていますね。
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140707_02140707_03 昭和25年(1950)、旧庄内藩主酒井氏より土地、建物や酒井家文化財などが寄附され財団設立されました。この後、昭和32年(1957)年より【致道博物館】として運営されています。致道博物館は、旧鶴ヶ岡城の三の丸にあたり、庄内藩の御用屋敷地で広壮な屋敷があった場所です。藩主の隠居所である「御隠殿」の一部は現存しており、屋敷からは国指定名勝の書院庭園「酒井氏庭園」を望むことができます。入園料は¥700(大人)とやや高めです。園内には御隠殿・酒井氏庭園やPtの明治天皇の東北巡幸の際に宿舎となった旧西田川郡役所、一重三階寄棟造茅葺きの民家を移築した旧渋谷家住宅。庄内地方の米づくり用具や漁業道具を収蔵した建物があります。残念ながら重要文化財・旧鶴岡警察署庁舎は解体修復工事中でした。
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140707_04140707_05「致道博物館」から徒歩5分ほど。鶴岡公園にある大正時代建築の【大寶館/たいほうかん】という洋館です。山形の田舎になどと言ってはいけません(笑)。元々は大正天皇の即位を記念して創建され、大正4年(1915)10月に完成、11月10日の即位の日に開館、物産陳列場や図書館などとして使用されました。大寶館の大寶とは、易経の「天子の位を大寶という」よりとられています。…このあたり”気が付けと”といっても無理でしょう(苦笑)。…オランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドームをのせた様式で、赤い尖塔屋根と白亜の殿堂として大正建築の優美さが内部を含めて完全に原型を留めている…とありますが”風格ある大正建築”で良いでしょう。入館は無料でした。
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140707_06_140707_07大寶館の奥に【荘内神社/しょうないじんじゃ】です。庄内ではなく荘内です。庄内藩の居城であった鶴ヶ城の本丸跡に鎮座しています。ご祀神は、庄内藩主酒井家の4人の殿様、酒井忠次、酒井家次、酒井忠勝、酒井忠徳公で、明治10年(1877)に庄内地方の人々により創建されています。このような例は全国的にも稀有な事と言ってもよいでしょう。江戸から明治へと時代が変わり、政治の様も変わってしまいます。それでもなお旧藩主を慕いご祀神として受け継がれていく…。いい話です(!)。創建から120年越を経ても、庄内地方の人達に「神社はん」の愛称で親しまれている神社です。
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140707_08140707_09時間の関係でもう一つだけ訪れたのが、江戸時代の庄内藩の藩校【致道館/ちどうかん】です。文化2年(1805)7代目藩主・酒井忠徳公により創設された学問所で、8代目酒井忠器公により鶴ヶ城三の丸(現在の場所)へ移されています。東北地方にはこのような学問所跡は残っておらず昭和47年(1972)に復元が完了、国指定史跡として公開(無料)されています。表御門、聖廟、講堂、御入間など、質実剛健な教育文化の風土の礎であった事でしょう。江戸時代では学問が盛んなのは必ずしも中央(江戸)ばかりではなく、地方の藩主も競って優れた人材を養成する藩校を創設していました。とは云うものの、孔子を祀る御廟があるように儒教を主とした素読の勉強なので、現代の様な教育課程とは異なります。

新潟ブルース歌碑

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JR新潟駅付近にはとりたてて観光名所がないのですが…。唯一(?)はこの萬代橋西詰袂歩道の『新潟ブルース』の歌碑でしょう。1967年に美川憲一と黒沢明&ロス・プリモスの競作で発表されたヒット曲です。この碑は新潟市政百周年記念で作られたそうですが????です。
Pt↓左)JR新潟駅東西連絡通路になんやら犬の銅像がありました。【忠犬タマ公】…知りませんよねぇ。台座に謂れが書かれていましたが…「タマ公は雌の柴犬で、2回(も)雪崩に巻き込まれた主人(猟師)の危機を救ったそうです」…昭和9年と11年の事なのですが、話がどんどん拡大しローカル・ヒーローとなったようです。この銅像も上越新幹線の開通を記念して造られたもので、なんだかんだて新潟県内には4基のタマ公像があるそうです。
Pt↓中)JR新潟駅在来線側の駅舎、ごく普通の駅前風景です。新潟も地方都市にありがちな駅前=殺風景でバス・センター付近に商業店舗が多く、更に離れての繁華街といった街になっています。 Pt↓右)夕景の萬代橋。端を渡ったホテル・オークラの向かいに「新潟ブルース」があります。140706_10140706_09140706_12

新潟・弥彦神社…(Ⅱ)

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古くから「おやひこさま」して知られる新潟屈指のパワースポットなのだそうです。ご祀神は【香山命/あめのかごやまのみこと)】。古代より朝廷・将軍家、武将達の篤い信仰を集め”万葉集”にも彌彦神社を詠んだものがあるそうです。「古社」であることの表現なのでしょうが、”万葉集”云々は???です。明治45年(1912年)に大火により社殿の殆どが焼失し、大正5年(1916年)に再建されています。高さ8m程の一の鳥居を抜け、左折して二の鳥居(Pt↓左)を進み、熊野から天香山命(あめかごやまのみこと)に随行してきた随神神を収めた随神門(Pt↓中)があります。門を抜けると大正5年に再建され、平成10年には国の登録有形文化財指定された「拝殿」です。奥の院は弥彦山の上になるのですが、一の鳥居から拝殿までの杉や欅に囲まれた深い神社の杜は、神々しい魅力に満ちています。
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神社隣が”弥彦競輪場”です。神社に似つかわしくない方々が多いと思ったら、こちらのファンに方々でした。
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新潟・弥彦神社…(Ⅰ)

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今回は東北6県を巡ってきました。年々の気力&体力の衰えと、何よりETC割引の条件悪化により昨年より短い日程となりました。1回目は新潟・弥彦神社です。東京より関越高速で300km弱。【年末鮮魚買出しツアー】で有名な”寺泊”が近くなので”ついでに”参拝された方もいると思います。…寺泊魚アメヨコとはよくぞ言ったもんです。道路沿いにドライブイン的な魚屋が密集しているだけです。3時間以上もバスで行くところではありません(苦笑)…さて、弥彦神社。正しくは彌彦神社で、読み方も『いやひこじんじゃ』ですが、蒲原郡弥彦町にあるため弥彦神社(やひこじんじゃ)となったようです。越後一宮だけあって風格があります。笑ってしまうのが奥の宮にあたる、弥彦山が標高634mだそうで、スカイツリーと同じ高さなんだそうです。
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なかなか立派な一の鳥居です。弥彦神社の社額は畳1帖の大きさがあるそうです。Pt↓右)ロープウェイの看板に634m云々と書かれています。
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松戸市戸定(とじょう)歴史館

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JR松戸駅から徒歩10分程度の『松戸市戸定歴史館・戸定(とじょう)邸』です。この戸定亭は水戸藩11代(最後の)藩主・徳川昭武の住まいとして1884年(明治17)に完成しています。徳川昭武は徳川15代将軍・徳川慶喜公の実弟で、慶喜公が紆余曲折のすえ東京に住まわれるようになった明治30年代には何度かこの地を訪れ趣味の狩猟や写真を楽しまれています。徳川家の住まいが公開されているのは全国でもここだけですなんだそうです。
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140702_02140702_03昭武の没後1911年家督は徳川昭武の子・武定に譲られ「松戸徳川家」を興しこちらが松戸徳川家の本邸となりました。1951年(昭和26)に戸定邸とその敷地が武定から松戸市に寄贈され、江戸時代屋敷の色合いを残す建物は1986年には千葉県指定名勝に、2006年に国の重要文化財に指定されています。1991年より「戸定が丘歴史公園」として一般公開され2007年には公園全体として「日本の歴史公園100選」に選ばれています。…♪またまた聞きなれない”日本の歴史公園100選”なんてのが登場です♪… この『戸定邸』は関心してしまうほど管理状態がゆき届いています。Pt↑)の広間には必要最小限の解説だけで不要な飾りも装飾もありません。庭越しに見える東京方面の景色がまた”良い”です(!)。写真の”客間”に座って慶喜公と昭武公の兄弟が一緒に江戸川の景色を見ている姿が浮かんできます。この日は池袋サンシャインや新宿方面まで遠望できました。残念な事には金町駅前に高層の建物が建ち、これがちょうど「富士山」に被る位置となってしまったようです。…緑越しには、当然スカイツリーが見えます…
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140702_05140702_04毎度の事ではありますが…下調べ無しで出かけたのが災いして、公園内に併設された『戸定歴史館』が展示物入れ替えのため休館(平成26年6月23日~7月18日まで)していました。この歴史館には 松戸徳川家の伝来品の展示や、徳川昭武が15代将軍徳川慶喜の名代として派遣された1867年パリ万博関係資料や幕末から明治にかけての写真の展示されているのですが…残念でした(苦笑)。さらには毎月の10日と20日は「とじょうの日」と称してPt↑)のお庭に降りて庭園から戸定邸を見る企画なども催されているそうです。上野駅から常磐線30分(¥310)。松戸駅から徒歩10分。入館料(共通入館¥240)ですから気楽に出かけられそうです。
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