旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2014年08月

イバニーズ・タルマン

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イバニーズ・タルマン(アイバニーズではありません!)がやって来ました。ヤフ・オクで落札、調整を依頼されたものです。…ギター購入は手に持った瞬間に手に馴染むか否かで、それでも手元に残るか否かは3~6ヵ月使用してみないと判りません。ヤフ・オク購入は見合結婚のようなものでなんかピンときませんが、この「タルマン」の様なギターが出ているのなら捨てたモンではないようです。…「タルマン」は1994年の発表されたシリーズで、なによりの特徴はボディ材が圧縮合板を使用している事でした。圧縮合板…いまでこそ珍しくありませんが、当時は斬新だったのでしょうかねぇ?日本製は¥50000以下で、ピッアップの組合せにより様々なシリーズがあったような記憶があります。要は、面白いギターだが”ヘビメタ・ギター屋”が作ったという感じでした。このシリーズズはどうにも不人気で暫くすると絶版になり、以後再発はされていません。
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このギターが何というタイプか不明ですがヘッド裏には”日本製”と記載されています。リップ・スティク型の3シングル登載で、セレクターは5段階、ジャックはオリジナル形状です。ブリッジはフロートタイプでアーム使用可能です。ボディは小ぶりでショート・スケールに見えてしまいます。出音ですが…。今風ストラトのようでストラトではありません。チュープ・アンプで鳴らすと悪い意味でなくチープな音です。さすがイバニーズ、”おもちゃ”を噛ませなければ使えない事なのでしょう。確かに人気沸騰のギターにはならないでしょうが、この形状は”ブルース系”のバンドにはお似合いかも知れません。
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大塚・天祖神社

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JR山手線・大塚駅より徒歩3分の天祖神社祖(てんそじんじゃ)です。創建は鎌倉時代末の元亨年間(1321~4)とされ、領主であった豊島氏が伊勢より「天照大御神」を迎え祀ったのが最初だとされます。創建時から明治初期までは「神明社・神明神宮」と呼ばれ、明治6年に天祖神社と社名が変わっています。社歴のある鎮守社らしく稲荷神社・厳島神社・菅原神社・三峰神社・榛名神社・熊野神社が境内社があり”いかにもの古社感”があります。大塚駅前には最近新しい商業ビルが完成、駅前の様子変わりました。元々は現山手線の一部(池袋~大塚)が明治36年に開通し、更には現都電荒川線が王子~大塚間(王子電気軌道)と大塚~上野広小路間の市電の開通と交通の便に恵まれ、駅前には白木屋出張所、天賞堂、資生堂、高島屋などの店舗があり賑わったそうです。また、昭和の30年代までは大塚には三業地が賑わい最盛期には600名超える芸妓が在籍し”花街”としても賑わっていた歴史のある街なのです。
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谷中・徳川慶喜墓所

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谷中墓地の徳川15代将軍・徳川慶喜公の墓所です。徳川15代将軍の内、初代の家康公と慶喜公は神式での葬儀のためお墓の形も神式になっています。一般的には徳川慶喜公の「慶喜」は「けいき」もしくは「よしのぶ」とされていますが、実はこれで「よしひさ」と読むのが正しいようです。世継として生まれ幼くしては「若」で長じては「殿」や「上様」と呼ばれ、読み方などどうでも良かったのでしょう。正面左が慶喜公。右が2歳年上の正室・美賀子夫人の墓です。慶喜公は一条忠香の娘・千代姫と婚約していたのですが、千代姫が病に侵され婚約解消。身代わりに美賀子夫人が一条忠香の養女となって輿入れしています。目立たないのですが、慶喜公の墓の真後ろに仲良く並べられている墓標は新村信子と中根幸子のお二人の側室の墓です。慶喜公は意外に子沢山で21名(24名とも)の子供に恵まれています。30歳で将軍就任、11ヶ月後に政権を放り出して32歳から75歳で亡くなるまでの隠匿生活となると時間は充分あったのでしょう。
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Pt↓左)中央の碑は”徳川慶喜公事蹟顕彰碑”で漢字とカタカナでモロモロが書かれています。
Pt↓中)霊園には猫はつきもの…。谷中霊園にも多くの猫達がいますが、毛皮はこう暑いと大変でしょう(笑)
Pt↓右)上野寛永寺の根本中堂の裏手に慶喜公ゆかりの場所があります。塀の中なので覗けません。
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フェンダー・アメスタ

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"Fender USA American Standard Stratocaster"。現行のアメリカンスタンダードとは違う"旧"のアメスタで、「アメリカンスタンダード」を名乗りながら『スタンダード』にならなかった笑えるストラトです。20年ほど以前に地元の「質屋」で¥30000以下という笑える価格で購入したモノです。…この店舗も代変りして2代目はヤフオク価格を参考に店舗売価を決めているようです。楽器店でもない地方の質屋がこんなんで商売になるのでしょうか…?困ったモンです(笑)…さて、このアメスタですが、当時としてはかなり斬新な機能となっていました。オールドレプリカに比べるてみると…、ブリッジの形状が違います(2点指示ですが詳細省略です)。トーン2がTBXと称する独特なトーンコントロールとなっています(詳細省略)。ピックガード内側が弁当箱状にくり抜いてあります(空洞の面積が広くなっている)。これらが原因でしょうが…トーンの掛りが他のストラトと異なります。これがなじめない理由だったのですが…。
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ジョイントはネック角の微調整ができる”チルト構造”になっています。ペグはFenderペグです。トラスロッドは頭からで、シリアルはFenderロゴの下にあります。ジャンボ&22フィレットなどなの…。Fender USAも売れなくて困っていた時代ですから、今にしてみると様々な工夫がされたストラトです。
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見所満載の浅草寺境内…(5)

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少しばかり浅草寺から離れますが…。浅草寺の東側の門「二天門」を背にして隅田川方面に歩くと「台東区産業貿易センター」に隣接して「花川戸公園」があります。台東区産業貿易センター駐車場は浅草寺周辺では貴重な大型の観光バス駐車場なのですが、昨今の観光バスは車高が高くなり多くの車輛が入庫できなくなってしまいました。そんな事での改装工事なのでしょうか(?)。今日も多くの一般観光ツアー客がこの付近でバスを降りて徒歩で浅草寺に向かっていきます。
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140818_02140818_03この花川戸公園内にある「姥ヶ池」は、池が明治24年に埋め立てられるまでは隅田川まで繋がる大きな池だったそうです。この姥ヶ池には、浅草寺の子院・妙音院の伝承によると、とんでもなく恐ろしいお話が残っています。…【この周辺が浅芽ヶ原(あさじがはら)と呼ばれていた頃、老女と若い娘が住んでいました。娘が旅人に宿を貸すと言って家に連れ込み、深夜になると老女が旅人を殺し金品を剥ぎ取ってしまう、といった手口で殺害れた旅人は都合999人におよび、記念すべき1000人目にこの家に泊まったのは、なんと観音様が変装した若者でした。老女はいつものように深夜にこの若者を殺して…のはずだったのが殺害したのは自分の娘。嘆き悲しみ悪行を悔やんだ老婆はこのとき仏眼を目覚め、自らを龍の姿に変えて「姥ヶ池」の中に消えて行った】…というのがこの池に伝わる伝説です。この伝説はオリジナルなんでしょうかねぇ?どこかで聞いたようなお話が混ぜ混ぜになっているような気がします。Pt右の池が龍になって消えて行った池なのですが…。祀られているのは弁天様のようですが「福寿稲荷大明神」とあります。
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140818_04140818_05位置的には「姥ヶ池」の反対側になりますが、こちらは「嬉の森稲荷神社」です。”うれしのもり”とはなんとも語感の良い神社です。案内板によれば…【嬉の森稲荷は、江戸時代、浅草三大池といわれた花川戸近辺の達磨池のそばの嬉の森に祀られていた。嬉の森は、(略)一説に入り江に面した花川戸のこの森が、船の着くための目標となったことから、この名が起こったものであろうとされている。(略)嬉の森稲荷は、関東大震災に消失を免れ、また昭和20年3月の東京空襲の戦火も免れたという。嬉の森稲荷は火伏の神として信仰され、4月の2の午の日には、近隣人たちによって祭礼の伝統が受け継がれている。】…とあります。地元の方によると、この4月の祭礼時に開かれる社殿の内部の狐関連の造作が施されており、それもかなりに傷みが生じてしまっているようです。

谷中・幽霊画・全生庵

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”谷中・全生庵・幽霊画特別公開”は以前にも掲載があります。昨年は公開を忘れるいう失態をやらかしてしまい、幽霊だけに8月限定なので、今年は暑さにめげず行ってきました。今回は記憶にない作品が多々あったので尋ねてみると「コレクションが膨大なので2年毎に入れ替えています」との事です。そうなると全作品を全てまとめて展示というのを見てみたいものです。
・・・・・今年も谷中・全生庵(台東区谷中5-4-7)では幽霊画が公開されています。以前から『三遊亭円朝(1839~1900)』のお墓がある谷中・全生庵では円朝の忌日の前後に円朝幽霊画コレクションを虫干を兼ねて公開されてきました。今年も公開日は8/1~8/31の10時~17時、拝観志納金500円となっています。という事で暑さにめげずに出かけてきました。東京メトロ千駄木駅下車。団子坂下交差点を谷中方面に坂道を上がると約5分程で「全生庵」に到着です。この全生庵は明治16年に山岡鉄舟により建立された臨済宗のお寺なのですが…。円朝コレクションの方が有名かもしれません。正面階段を上がり左の部屋に幽霊画が数十点展示されています。写真の撮影は厳禁となっていますが、どの作品もとんでもなく印象深い作品です。(全生庵HPに幽霊画コレクションの掲載がありますが、是非とも谷中まで出かけて実物を見られることをお薦めします。)…やはりと云おうか、多くの幽霊画には”足”がありません、太った幽霊もいません。・・・・・・・・・・
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Pt↓左)本堂隣のスペースで公開されています。本堂では法事な真っ最中で読経の声が響いていました。
Pt↓中)全生庵は、さんさき坂途中です。門前に円朝まつりの幟がたっていました。
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見所満載の浅草寺境内…(4)

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久しぶりの「見所満載の浅草寺境内」となりました。浅草寺の境内は、石碑・記念碑などがやたらに建てられているので当分ネタは尽きないでしょう(笑)。さて、浅草寺の境内、本堂を正面に見て手前の左側に「鳩ポッポ」の歌碑があります。ご存知の♪ポッポッポ鳩ポッポ~♪という童謡です。歌の正式タイトルは「鳩ポッポ」、作詞は東くめ。作曲は滝廉太郎のコンビによる作品とあり、浅草寺の境内で鳩と戯れる子どもを歌ったものということが定説のようです。なかなかご立派なブロンズの碑にはリアルに造形された鳩が停まっています。この歌碑は昭和37年の建立されたもので、以前はこの辺りに”鳩のエサマメ”を売る店があったそうす。この時代は鳩も優遇されていたようですが、現在は「ドバトにエサをあげないで下さい」という立て看板が建っているのに苦笑してしまいます。
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Pt↓右)は鳩の碑隣に「迷子しるべ石」があります。この石柱を使って迷子を「見つけた人」と「探している人」の情報交換が行われていました。(昭和32年の再建)
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田安稲荷神社

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新宿区四谷4丁目、田安稲荷神社です。正式には『田安・鎮護稲荷神社』と称します。”田安”とくれば8代将軍(俗にあばれんぼう将軍)徳川吉宗が自身の血筋を残すために興した田安・清水・一橋のご三卿の田安家の下屋敷があった場所になります。明治4年に屋敷が撤去となった際に残された『田安稲荷神社』と更には付近にあった柳生家の『鎮護稲荷神社』とを合祀しています。昔(江戸時代)に大名屋敷や商家の一角に祀られて、壊したいが、壊せないの「屋敷稲荷」の典型のようです。時代を経てマンションの一角に取り込まれてしまいましたが、東京にはこのような稲荷社が数多く残っています。誰でも”祟り”は怖いものです(苦笑)。
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新宿通りと外苑西通りの交差点から側道を入るような形で進みます。Pt↓左)の看板が造られていますが…、
看板まである割にはPt↑)のように、こじんまりとした稲荷社です。地元の方々が稲荷社を大事にしてきた証のようです。
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田安家の門と幸国寺

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地下鉄大江戸線・牛込柳町下車、大久保通りからほんの少し裏手に入ると、「日蓮宗・幸国寺」があります。Pt↑)が幸国寺の山門ですが、この山門は明治維新後に譲りうけた田安家の屋敷門と伝わる門です。田安家は一ツ橋、清水家と共に徳川御三卿であり、尾張、紀州、水戸の御三家とは異なり領地は持っていませんが、御三家に次ぐ十万石の格式を持ち、北の丸公園「田安門」付近に大きな屋敷を構えていました。 東京大学の「赤門」のように徳川大名家の屋敷門が移築や流用され今も残っている例は多いのですが、この門は構造や形式等から江戸後期の建築と推定されています。幕末から明治初頭に幸国寺の檀家「長嶋家」より寄進されていますが…田安家と長嶋家の関係がイマイチ微妙です…「田安家の門」であるという史料は確認されていないそうです。
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Pt↓左)Web検索で「田安家」・「門」で検索すると出てくる写真ですが、高麗門、渡櫓門の「枡形門」になっているので「清水門」と思われます。
Pt↓中)諸説あるようですが、幸国寺の山門=田安家の屋敷門は違うと思います。この規模の門が10万石大名家の門とは到底思えません。貧弱すぎます。140807_05140807_04
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東北取材の番外編

このところは、ラフな日数だけ決めて後は気ままの日程で出かけています。この歳になると地方の名物料理に興味がある訳でもなく(多くが東京で食べられます)、宿泊も東横イン・スーパーホテル・ホテルα1等のビジネス系のチェーン・ホテルを利用しています。今回は東横イン・チェーンがメインとなりました。何気に宣伝臭い話をすると…。1)料金=シングル利用の1泊朝食¥6000弱です。部屋のクオリティは充分ですが、朝食は”オマケ”と思ってください。 2) 駅に近い=多くが賑やか街とは反対側です(苦笑)。 3)駐車場あります=欠点もありますが探さないで済むというのは楽です。 4)カレー程度の夕食サービスのホテルがあります。 …続いて【注意事項】です…駐車場(有料の場合あり)は多くが立体型で早い者勝です。チェックイン後に車を使うや、荷物の出し忘れはエライ事になります。 さらにビジネス客が多いので08:30前後がチェック・アウトが出庫が集中します。下手すると出庫に30分以上必要です。*東横インには年会費制で、宿泊代の割引等の特典がありWeb予約でさらに割引になります。
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1407120114071202【新潟駅】…Pt左)は新潟駅万代口です。昔からの賑やか街はこちら側ですが…。ここ新潟も地方都市にありがちなJR駅付近=繁華街ではありません。地方都市の場合はバス・センターや官庁や城址のある場所が賑やかな場合が多くなっています。左の建物が東横インのあるビルなのですが、ホテルは4階より上、正面がバス乗場で接近し困難でした。駐車場(タワー型)が裏手、さらに交通規制が複雑でホテル付近をぐるぐる廻るはめとなりました。Pt右)上越新幹線側の南口であっけらかんとした景色です。駅を背に万代口を直進し信濃川の萬代橋を渡って進み三越のある辺りが(地価の高い)繁華街のようです。道路幅も広くよく整備された街だと思います。
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1407120314071204【秋田駅】…Pt左)は秋田駅西口駅前です。東横イン秋田駅東口は反対側の「秋田拠点センターアルヴェ」なるビルにあります。駐車場の条件は最高に良いです。秋田でははや夕食難民になってしまいました。Pt右)は秋田駅コンコースの19:30頃(!)です。人通りがありません。夜が早く寂しい限りです。「トピコ」とかいう駅ビルも閉店して、食事場所を選べる状況が遠のいていきます。西口付近を進んで行くと、廃墟になった商業ビルや廃墟のホテルの建物はあるものの、ご飯屋は見つかりません。ラーメン店すら見つけにくい状況でした。ラーメン店ならあるだろうと思う方が間違いのようです。反省しながらのファストフードの夕食と相成りました。
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1407120514071206【弘前】…Pt左)奥羽本線弘前駅です。人口約18万人、りんごの生産量が全国一の街です。「城とさくらとりんご」がウリです。あとは…。明治25年の「八甲田山死の彷徨」事件で被害の少なかった弘前歩兵31聯隊の駐屯地ですかねぇ。東北地方の城下町って独特の雰囲がありますが、特に弘前街は城址を中心として道幅も広く良く整備された街だと思います。地方都市の多くにありがちなショッピングセンター等は郊外の国道沿い店舗を連ね、街の中心部の商店街は寂れていく一方となっています。Pt右)は19:00頃の旧商店街で、すでにシャッターは降りています。左の弘前駅ビル「アプリーズ」もこの時間(20:00頃)では閉店でした。東京的な感覚で行動すると”夕食難民”になってしまう可能性が大なので気を付けねばなりません。
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1407120714071208【八戸駅】…前日の午後から雨模様、八戸は土砂降りでした。朝の7:15頃、学生の通学時間にあたるのでしょう。八戸市は同じ青森県でも”南部地方”となり、文化も津軽とは異なるようです。人口は約33万人と弘前市の倍近くです。2002年の東北新幹線の八戸までの開業で、東京駅まで約3時間、思えば近くなったものです。この八戸駅は八戸の街とは離れた場所にあります。東北新幹線と旧東北本線の路線が切り離された為なのですが、そのため「青い森鉄道」やら「いわて銀河鉄道」などの第三セクター鉄道が増える事となりました。Pt左の駅舎は西口ですがご立派なのは駅舎だけでコンビニと居酒屋がポツンとあるだけです。Pt右は駅舎内の自由通路で「うみねこロード」なる爆笑もんの名称が付いています。前述の事情で、ここらは言わば”新駅”です。八戸はこんな寂しい街ではありません(笑)。
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1407120914071210【盛岡駅】…さて、盛岡です。南部氏の城下町。明治時代以降は岩手県の県庁所在地とて栄えてきました。さすがに東北地方有数の街だけあります。Pt左は盛岡駅西側の「マリオス」とかいう複合施設です。20階の「マリオス地域交流センター」なる地方感あふれる展望ホールから駅の越しに市の繁華街方面を写しています。とてつもない強雨でした。市内を散策したかったのですが、この雨ではどうにもなりません。何気に看板を見ていたら東京⇒盛岡の夜行バス(旅行会社系ではなく地元バス会社系)の運賃は驚くほどに安い日があるんですねぇ。東京23:00頃で盛岡07:00頃。どうなんでしょうねぇ、体力的には…? Pt右)は、第三セクターの「いわて銀河鉄道」の改札口です。扱い上は東北新幹線が「東北本線」で、旧東北本線の一部が第三セクターという事なんですが…。
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1407121114071212【会津若松駅】…JR駅付近にはビジネス系のホテルが数件あるだけでした。流石に会津といえば「白虎隊」なんですかねぇ。駅前にも隊士の像があります。もう一つの会津の巨匠、大きな「赤ベコ」の像まであります。ラーメンで有名な喜多方は隣町なのですが、だからといって会津若松には喜多方ラーメンの店などありません。飯盛山あり鶴ヶ城ありで観光地はそこそこですが、夜は早い、閉店は早いのごく普通の地方街です。駅舎の向かいに会津バスの駅があり、早朝から混雑していました。それもそのはず06:30出発で新宿11:00着、最安の料金適用なら片道¥2500です。実際のところ高速バス網がここまで便利になっているとは知りませんでした。忘れてはならないのは旅行会社がツアーとして扱う長距離バスとバス会社が運営するバス網とはいろいろと条件が異なっています。こればかりは安いのがベストとは云い難い点が多々あります。
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天候の関係で、出羽三山、山形、米沢方面がパスとなりました。次回にはそのあたり予定ていう事で…。

”ありゃあ”の大内宿

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東北シリーズの最終回は『会津・大内宿』です。最近よくTVの旅番組に登場しますねっ。ここまで大事になる前に行った事はあったのですが、帰路なので寄り道してみました。驚いたのは、当たり前ですがTV番組と同じなんですねぇ。数年前まではとにかく交通の便の悪い所で、東山温泉・芦ノ牧温泉のバスプランを作成しても見向きもされない場所でした。観光地といったらPt↓)の「塔のへつり」のほうがポピュラーで「大内宿」は話題の”わ”にもなりませんでした。 
…それが なんという事でしょう…
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140715_02140715_03元々は江戸時代に会津西街道として整備され、会津藩の参勤交代などに利用されていました。時代の変遷で参勤交代街道としても物流の道としても忘れられていくこととなります。それが大内宿の街並みを今に残す要因となったのですが、観光的要素の開発は昭和59年(1984)年以降と、そう古い話ではありません。平成2年(1990)に会津鉄道と東武鉄道の直通運行が開始、平成9年(1997)の磐城・新潟の磐越自動車道の開通、そしてお決まりのTV番組への露出により爆発的に観光客が増えることとなります。ここまで整備された「大内宿」を訪れると、映画関連のテーマ・パークもしくは白川郷のイミテーション感は否めません。駐車場からPt↑)撮影場所まで歩いたら15分程で、この上は集落の墓地です。1時間強で充分に観光できます。Pt↑)の茅葺屋根の民家の多くは物産&土産関連の店舗や食事処です。観光で生計を立てる方法を選んだのを批判するつもりはありませんが、今後は無責任極まりない旅行会社とどう向き合っていくのかが課題になってくると思います。 
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PT↓)は『塔のへつり』という大内宿近くの国の天然記念物の景観です。Pt↓中)の吊り橋の先には200mほどの遊歩道があり景観が楽しめたのですが、崩落の危険が多くなり、ほぼ通行禁止になってしまいました。そんな理由もあるのでしょうが、訪れる観光客も減少傾向にあるようです。
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