旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2014年09月

北(ほく)トピア・17階

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【馬鹿と煙は高い所へ上りたがる】という言い廻しがあります。本来の意味とは違って「危険な場所にわざわざ上ることを戒める」に意味に普通は使われるのですが…。その話はさておいて…。都内には無料で上がれる高い所が結構あります。今回は北区王子駅前に1990年にオープンした北トピア(ほくとぴあ)からの展望です。展望ロビーは17階なのですが、北区あたりは高層ビルも少なく都心や埼玉新都心に展望がききます。施設のHPによると【開館時間】08:30~20:00・【休館日】12/29~1/3(他臨時休館日有)とあります。モチロン無料です。 Pt↑)は新幹線の上下列車の交差した瞬間です。”鉄”の方々には当然、有名なスポットなのでしょう。
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Pt↓左)赤羽&埼玉県方面です。左側の緑は”名主の滝”の杜です。新幹線・京浜東北線・東北線・湘南新宿ラインの上下線の線路が一望です。全列車が1枚に収まる瞬間はあるのでしょうか? Pt↓中)恐らく足立区方面でしょう。とりたてての建築は見あたりません。 Pt↓右)都心方面です。スカイツリーや東京ドームが目立ちます。眼下の緑は桜の名所”飛鳥山公園”です。
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フェンダー・エアロダイン

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ヤフ・オクで落札た大胆な改造が施してある日本製のストラトです。元はフェンダー・ジャパンのマッチング・ヘッド・バインディング・独特なコンター・ボディ、ヒールカット・ジョイントと現代的(?)なオリジナル・ストラトです。ここまでやってしまうと、本家Fender社の許可が下りなかったのか”Stratocaster”ならぬ"Strato”で、"Aerodyne”にTMが付いています。Ptでは判りにくいのですが、フロントにダンカン59、センターがクルーレイル、リアがダンカンJBになっています。つまりシングルX3のストラトをシングル・ハムバッカーX3に載せ替えてあります。これだけで4~5万の費用が費やされています。ピック・アップの改造は配線が完了して音を出すまで判らず、大体が労多くして多くは失敗となります。ここまでやってしまった前オーナーには敬意を表します。 さて出音ですが…。微妙な表現ですがパワーの落ちたハムの様です。この改造は誰にでもお勧めできるものではありません。フロント&リアをシングル・ハムにしてセンターを撤去のほうが費用的にも良いでしょう。"Aerodyne Strato”はさすがに日本製の造りで、オリジナルのシングル登載を弾いてみたい気になります。
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ボディの厚みが通常ストラトより薄いようです。ネック。ジョイントがヒール・カットになっています。ヘッド部分のロゴは"Aerodyne Strato”となっています。
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中央区・明石町あたり…(Ⅲ)

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中央区・明石町のカトリック築地教会です。最近はTVドラマの影響で訪れる人が増えたそうです。でも、実際は…。ネタバレは止めておきます(笑)。1858年締結の”安政の五か国条約”により現明石町一帯は外国人居留地となりました。それにより外国からの様々な文化がこの地へ流入したわけですが、当時御禁制だったキリスト教も1873年の切支丹禁制解除により、1878年この地に築地教会を建てられ宣教の中心となりました。「東京都選定歴史的建造物」&「中央区の区民文化財」に指定されている現在の聖堂は、関東大震災で焼失し昭和2年に再建されたものです。当時の東京大司教の要望で古代ギリシャ神殿風に造られていますが、実はこれ、木造モルタル造りになっている興味深い建物です。
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築地カトリック教会の反対側、明石小学校の一角に「築地外国人居留地跡」・「居留地時代のレンガ塀遺構」・「ガス街灯の柱」の説明板があります。
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中央区・明石町あたり…(Ⅱ)

140918_01140918_02聖路加国際病院の旧病棟区画は、創立者の出身地であるマサチューセッツ総合病院をイメージしたと云われる旧病棟の建物の屋上に十字架が見えるように内部には礼拝堂があります。Pt左の正面から入って行くと礼拝堂への階段手前にハエ・ノミ・ダニなどの伝染病を媒介する動物、及びアラジンの魔法のランプ(迷信を象徴するもの)がレリーフとして彫られています。礼拝堂に入ると、失礼ながら”質素”な造りとの印象を受けます。壁にはキリスト教の殉教の歴史を象徴する画があり、ステンドグラスの一部には漁船や魚の図となっています。”築地市場のある土地を反映したもの”との説もあるようです。室内にはパイプ・オルガンが設えてあるのですが、考えてみるとここは病院です。大音響でのパイプ・オルガンは大丈夫だったのでしょうか(?)
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140918_03140918_04明治年間に外国人居留地であった築地に、イギリス国教会長老派の宣教医師ヘンリー・フォールズが病院を設立…実はこのお方、日本のこの地で”指紋捜査法”を発見しています…しています。フォールズ帰国後、病院建物を宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り聖路加病院としています。Pt左がその記念館です。1923年関東大震災で病院が倒壊、皇室、米赤十字の寄付により病院が再建されています。第二次大戦中は「大東亜中央病院」、戦後のアメリカによる接収では「米軍極東中央病院」と変遷しています。聖路加国際病院がこの地にあることで東京大空襲を免れた言われているようですが、当時の爆撃機にそれだけの精度があったのでしょうか(?)どうにも偶然の結果のような気がします。 …敷地内には「立教学院発祥の地」との碑がありますが道路を挟んで「慶応義塾発祥の地」もあり、ミエの張合いの気もします。

中央区・明石町あたり…(Ⅰ)

140917_02140917_03中央区・明石町は築地本願寺の裏手に辺り、築地市場散策ついでに訪れる方が増えたようです。江戸時代には町人街と武家地の混在地で占められ、忠臣蔵(赤穂事件)で有名な浅野家の藩邸や九州中津藩の屋敷があり、前野良沢らにより「解体新書」がこちらで制作されました。。明治年間には『築地居留地』が設けられ多くの外国文化が入り「日本初の様々な施設」が造られています。居留地は明治32年の廃止後も聖路加病院や築地教会などの東京空襲の被害も免れ残っています。 …確かに「日本初めて施設跡」や「築地居留地跡」と中央区は宣伝していますが、多くが”かってここにありき”の記念碑的なものとなっています。 Pt↑)路地を入ると空襲を免れた民家が残っています。
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140917_04140917_05Pt←左が聖路加看護大学前のロータリーに「蘭学事始地の碑」と「慶応義塾開塾の地の碑」が並んでいます。この辺りが中津藩の藩邸で中津藩医師・前野良沢や幕府医師の桂川甫周、中川淳庵によりオランダ語で書かれたドイツの医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版しました。蘭医者・杉田玄白は”翻訳”よりも解体新書の”出版”に尽力したのですが、出版時に前野良沢の名前を記さなかったため、杉田玄白の「仕事」として一般的には知られています。開発担当より販売担当の方が評価されるのは現代でも良く耳にする話です。慶應義塾の碑は1858年に福沢諭吉が中津藩奥平家屋敷内に開いた蘭学塾を始まりとし1958年4月に義塾創立百年記念事業の一つとして「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられています。福沢諭吉の名前が出ると「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパの一員となる」との明治時代のスローガン『脱亜入欧論』の元凶とされるようなのですが…。これは甚だ疑問です。
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140917_06140917_07遺跡(?)続きです。聖路加看護大敷地の一角に「芥川龍之介生誕の地」と「浅野内匠頭邸跡」の碑が並んでいます。芥川龍之介は明治25年にこの地で誕生しているのですが…。案内板によると、誕生後7ケ月で家庭の事情により現両国吉良邸付近の親戚、芥川家に引き取られ12歳で芥川家の養子となりました。”生まれ7ケ月”…これで「生誕の地」とは…。間違いではないのですがピンときません。  Pt←右)は赤穂事件(忠臣蔵)で有名な赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所です。ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の土地に屋敷があり、一部は築地川に面していました。赤穂事件(忠臣蔵)は誰もが知っている話ですが、事件発生時点では浅野内匠頭は24歳。朝廷饗応役は以前17歳で経験済み(指南役のた吉良義央は以外にも59歳です)。この事件は殺人事件ではなく傷害事件で、幕府により有罪判決が下されています。判決の異議は幕府の責によるもので、事件の被害者である吉良義央を徒党を組んでなぶり殺しにするとは、言語道断な話なのですが…。ともかく事件後、内匠頭は切腹命、江戸屋敷及び領地は没収、赤穂藩主浅野家は断絶の憂目となりました。

鴻巣・鴻(こう)神社

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ついでと云ってはなんですが、鴻巣東照宮が一時『鴻神社』にあったというので寄って見ました。…鴻神社は鴻巣の総鎮守社として明治6年に近くの三ヶ所の神社を合祀したもので、「鴻三社」と云われていました。。明治40年には「鴻三社」から社号を『鴻神社』と改め現在に至っています。…この説明があれば納得なのですが、ともかく良くわからない神社です。合祀されたのは…「氷川神社/スサノウノミコト」・「熊野神社/ハヤタマノオノミコト」・「雷電神社/ワケイカヅチノミコト」の三社という事が、他にも三狐稲荷神社、幸の宮弁天社、夫婦銀杏、なんじゃもんじゃ稲荷なんてのもあり、さらに鴻巣の地名の由来となった「コウノトリ伝承/安産祈願」のご利益もありで、なんでも任せてくだい的な意味不明感がただよっています。
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Pt↓左)神社名称とバス亭の名称が異なります。元々は”雷電神社”の場所に他の神社が合祀されたようです。「鴻神社に行くには雷電神社まえバス停で下車です」…なんか変です。 Pt↓中)一の鳥居です。石柱には「鴻神社」とあり、幟には安産祈願の文字が…。 Pt↓右)”三狐(さんこ)稲荷神社”は、天狐・地狐・人狐の三狐を祀る神社で、縁結びや縁切にご利益があるそうです。ウガノタマノミコトともダラニテンとも関連がないようです。
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鴻巣御殿・東照宮跡

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埼玉在住の方には”運転免許センター”のある町として知られる鴻巣市は、江戸時代には中仙道69次の鴻巣宿として日本橋から数えて7番目(板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣)の宿場町として栄えていました。…『鴻巣御殿』は1593年、徳川家康により鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として一町四反歩(約1.4ha)の及ぶ『鴻巣御殿』建てられ、秀忠、家光の3代に渡って将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されていました。1630年頃を最後として用済みとなり、1682年頃には建物も腐朽、倒壊し、1691年には御殿跡に『東照宮』を祀り空き地状態に…。その東照宮も明治30年代に「鴻神社」に合祀され、御殿跡は民有地となっていました。最近まで鴻巣御殿の場所は不明だったのですが、平成6年の試掘調査によってその一部が確認されています…。 この東照宮は史跡としてイマイチなのか街の観光案内板にも書かれておらず、探すのに大変に苦労しました(笑)。
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と、いうような解説がPt↓左)にあります。JR鴻巣駅から近いのですが、国内最小(?)の東照宮なら知名度があると思ったのですが、地元の方に聞いても”おばさん数人”は知らず、かろうじて”おばあさん”はうろ覚えで知っていました。 Pt↓中)それもそのはず、幅1m程度の路地の奥に鎮座しています。「東照宮入口」との石碑がありますが…。余程注意していないと見落とします。 でPt↑)が「東照宮」です。実際には「熊野神社」となっています。 *鴻巣駅を背にして右手に宝くじ売り場があり、そこから”ひなの里通り”…カラー煉瓦道…を300m程進みます。牛乳店を右折して100mほど進むとPt↓中)となります。
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谷根千…諏方台通り

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日暮里村・谷中町の総鎮守『諏方神社』は…”諏訪”でなく”諏方”です…JR日暮里駅を谷中銀座方面に進み諏方通りを右折、富士見坂の先に鎮座しています。神社を谷根千に含めるのは無理があるかも知れませんが、神社のある道灌山近辺は上野・日暮里・王子と馬背状に続く台地にあり、縄文、弥生時代から人々が暮らしていたようです。『諏方神社』は1202年に地元の豪族豊島氏が信州諏訪神社より勧請して創建したとされます。神社付近は江戸時代には”道灌山・ひぐらしの里”として筑波や日光の山々が展望できる行楽地とて賑わったそうです。
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神社名の「諏訪」ではなく「諏方」と表記するのは古来の形式で、現在は全国で1万を超える「諏訪神社」のうち、「諏方」を使うのは極少数だそうです。
Pt↓中)神社手前の坂道が「富士見坂」です。前方にマンションが建ち富士山は見えなくなりました。
Pt↓右)JR日暮里駅から谷中銀座への途中老舗の「谷中せんべい」…お勧めです!
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防衛省・市ヶ谷ツアー

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防衛省を見学する『市ヶ谷ツアー』は月~金の午前・午後で行われています。所要時間は約2時間10分ほどで、その広大な敷地には驚かされるのですが、戦車等の展示はありません。そちらのマニア(戦車や兵器)の方には正直物足りないでしょう。しかしながら、日本国の歴史で重要な舞台となった建物の見学はそれだけで価値があります。『市ヶ谷記念館』では講堂の施設や旧陸軍大臣室、旧便殿の間などを説明を受けながら充分な見学時間が設けられています。内部の写真撮影も指示がない限りはOKです。…因みに、防衛省の建物内部、食堂・売店のある厚生施設棟(恐らく肖像権でしょう)や”いかにも感”がある迎撃ミサイル”パトリオット”の発射台付近は撮影禁止です。可笑しいのが、発射台付近は法政大学等のビルからは丸見えになっています。
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この地は都内でも高台となるので高低差がかなりあります。Pt↓左)は庁舎A棟(地上19階、地下4階)で防衛省の中枢期間となっています。左隣の220mの通信鉄塔があります。 Pt↓中)市ヶ谷記念館です。この建物はオリジナルを縮小し向きを変え移設されたものですが歴史的な価値を損なうものではありません。次に向かう厚生棟は撮影不可です。 Pt↓右)が庁舎D棟(地上10階、地下1階)で、建物前の広場は”儀仗広場”となっています。
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防衛省・市ヶ谷記念館

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新宿区市谷本庁の防衛省では『市ヶ谷台ツアー』と称して事前申し込みによる見学ツアーが実施されています(月~金の午前・午後の2回、所要時間2時間15分程度)。専任の担当ガイドによる案内があり写真撮影も、指示以外の場所はOKとなっています。Pt↑)は市ヶ谷台を象徴する施設の「旧1号館」。”歴史的建造物”として建物の一部を移築復元した「市ヶ谷記念館」です。右の鉄塔が東京で3番目に高い220mの通信鉄塔です(左は敷地外の一般マンション)。
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140902_02140902_03江戸時代、この地には徳川御三家の尾張家の5万坪に及ぶ広大な上屋敷があり、明治年間には陸軍士官学校、昭和年間には大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部と変遷しています。昭和20年には米軍が接収、極東国際軍事裁判(東京裁判)行われています。昭和34年に返還され昭和35年から陸上自衛隊と自衛隊幹部学校が置かれ、平成12年には防衛庁が六本木・檜町から移転してきています。  Pt左右)は記念館講堂の内部です。左は陛下の玉座からの視線で見ています。右は入口から見ています(中央の四角部分が玉座付近です)。さすがに陛下がおいでになる施設だけあって様々な設計工夫がされていますが、説明を聞くと「そこまでやるかい!」の仕上げが多々あります。因みに極東国際軍事裁判(東京裁判)はこの講堂を改装して開かれていました。
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1970年作家・三島由紀夫が自衛隊員にクーデターを呼びかけ割腹自殺を図った事件はPt↓)左の旧陸軍大臣室が舞台となっており、室内の扉部分には刀による傷跡が残っています。Pt中)は当日、自衛隊員に向かって演説をしたバルコニーです。演説の内容はヘリの爆音で殆ど聴こえなかったそうです。 Pt↓右)は行動入口の”防衛庁”時代の看板です。書は中曽根康弘氏のものだそうです。
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谷中銀座の迷店

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Webでボロクソに言われている”谷中銀座の迷店”です。下町にありがちな普通の店舗なのですが、ここまでボソクソに言われるなんて…。
【一富士(いちふじ)・二鷹・三茄子】

谷根千の谷中…(Ⅰ)

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相変わらず「谷根千(やねせん)」のTV露出は続いているようです。特に谷中銀座は有名無名を含め300人を超えるタレントがロケで訪れたのではないでしょうか…?店先の芸能人との記念写真がお店のステータスとは…笑える限りです。谷中銀座は全200m程度なのでTV番組の登場する店もほぼ同じで金太郎飴状態になっています。ずっと以前は昼と夕刻に地元の人で賑わう程度で、夜も早い時間に人通りがなくなってしまう商店街でした。 『谷根千』という表現は、地元のミニコミ誌の編集者が使いだした表現なのですが、寛永寺の末寺だらけの街”谷中”と根津権現と遊郭の”根津”と下級武士の屋敷街の”千駄木”を一緒にするという”暴挙”が(それだけ広く街色も異なります)TV局とつるんで「下町散策の王者」として立派に君臨するようになりました。20数年前の谷中銀座を知る身とすれば信じられない街に変貌してしまったようです。=訪れる人なかった観光地がTV放送で脚光と浴びると、以前の素朴さなどは何処へやらで、意味不明な”名物”とぞんざいな客あしらい。これが国内観光地の多くの姿なのですが=ここ谷中銀座でも高級なメンチカツが売られていたり、店先にに”撮影禁止”と表示して撮影者を怒鳴散らす惣菜屋(このお店Web検索ではボロクソです)があったと面白い現象が見えてきました。確かに毎日がお祭り並みの大混雑ともなれば『素朴な人情溢れる下町』なんてこと言っている余裕などないでしょうねっ。
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Pt↑とPt↓左)は、谷中銀座の象徴”ゆうやけだんだん”の景色です。夕刻ともなると猫達がうようよいた場所なのですが…。それにしても”猫グッズの店”が谷中にはやたらと増えました。なんと35年前では”猫グッズ専門店”は、東京都内でたったの1軒(池袋)しかありませんでした。
Pt↓中)谷中銀座最寄りの日暮里駅の跨線橋です。人だかりは下を通る京浜東北・山手・高崎・東北・常磐・新幹線と京成線を見るためです。
Pt↓右)は、昭和5年創業の『ヤマネ肉店』です。かなり以前に荻原健一(ショーケン)のサントリー・モルツのCMでのコロッケを担当した店です。谷中銀座の佐藤や鈴木さんより有名なお店でした。”今でしょ”で有名な先生は学生時代に向かいのアパートに住んでいたそうです。
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下町風俗資料館

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”風俗資料館”となるとどうしても”あちら”の関係を思い浮かべますが、不忍の池の畔(台東区上野公園2-1)にある『上野風俗博物館』は小規模ながらもほのぼのとした博物館です。入館料は¥300/大人。ゆっくり見ても1時間程度でしょう。写真撮影OKの1階部分は、上野近辺(?)の大正時代の下町を再現してあり、高級鼻緒の奥山商店、路地を入った駄菓子屋、鍛冶屋風の民家などが展示されています。2階に上がると昔々の素朴な玩具の数々、人形等(一部撮影不可)があります。蠅を捕獲する機器やのど薬の吸入器などは子供の頃にはどこの家庭にあったもの…。何点がは使用した記憶があります。上野公園や浅草近辺などのパネル展示も面白く、なにより笑いがこみ上げるのが、男なら誰もが憧れた「風呂屋の番台」のホンモノです。
ここだけを目的で行ったら物足りませんが、上野公園やアメ横のついでという感じがオススメです。
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Pt↓左)路地を入ると「駄菓子屋」があります。商品も何処から集めてきたのか…ホンモノです。
Pt↓中)銭湯の番台部分(だけ)です。番台は登って着席可です。まさに”憧れの場所”です。
Pt↓右)博物館横に面白い顔のネコがいました。顔の左右の縞々模様がまるで異なっています。
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新撰組・試衛館跡

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幕末マニア・新撰組マニアにはつと有名な新宿区市谷柳町の試衛館(しえいかん)跡(?)です。天保年間に近藤勇の養父である天然理心流の近藤周助が創設した剣道場で、後に新撰組の中核をなす土方義三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助や長倉新八・原田左之助・藤堂平助・斎藤一らがこの道場で出合ったこととなります。 10年ほど前にNHK大河ドラマでムチャクチャな「新撰組」を放送した時は、それなりだったのでしょうが…。今は昔”強者どもの夢の跡”と言った体になってしまいました。 東京メトロ大江戸線下車。大久保通りを神楽坂方面に緩い坂道を登ります。交差点から100m程の右側「柳町病院」の路地を入り、50mほどの右奥がこの場所です。 それらしき”もの”はPt↑)の標柱だけです。表現も”この辺りにあった”と自信なさげです。夏草の雑草に覆われててしまっています。すぐ右手の神社も…フェンス囲まれ施錠されており、荒れ果てていてどちらの神社なのか良くわかりません。社の彫刻からかろうじて稲荷社(?)と判断しました。…ご覧のありさまですPt↓)。
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新撰組と会津藩の関係は、正社員と派遣社員の関係に置き換えると面白いのですが…【治安のよろしくない京都の警備を請け負った㈱会津藩は、家臣(正社員)がダーティ仕事を担当すると万一の時には本人や家族への保障やらなんやらでメンドクサイ。ダーティ専門の暴力派遣社員(新撰組)に担当させれば、万一の時には㈱会津藩は知らぬ存ぜぬで逃げられる。用済みになったら契約解除でオシマイ…と、置き換えると現代でも良くある話となってしまいます。
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奥の方に朽ち果てた神社があり、まさかと思って近づくとPt↑)の標柱があります。ここまでたどり着くまで、なんの目印もありません。
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