旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2015年01月

森鴎外記念館

150122_01
文京区千駄木1丁目(東京メトロ千代田線、千駄木駅徒歩5分)の『森鴎外記念館』です。この記念館は1892(明治25)年から60歳で亡くなる1922(大正11)年まで30年間暮らした「観潮楼」の跡地で、実質2年間住んだ某旅館とは違います。この地で小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医とはば広く活躍したという事です。それにしても「観潮楼」の名前にあるように、当時はここから”海が見えた”とは…。信じられない思いです。
・・・・・・・・・・・・・・
記念館のパンフには、筆名「鴎外」の由来があります。曰く…本名の森林太郎のほか、鴎外・鴎外漁史・千朶山房主人・観潮楼主人・陰流・帰休庵など30以上のペンネームと使い分けしました。鴎外の名は千住に存在した「かもめの渡し」に由来とする説があるそうです。「かもめの渡し」は吉原を指す名称でもあり、遊興の地に近寄らす、遠くはなれて千住のにいるとの意味が込められているようです。この情報だけでも¥300(入館料)の価値はあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
区立の記念館となると予算の関係もあり、刊行物や本人の遺品や写真でお茶を濁す施設が多いのですが、リニューアルされた森鴎外記念館は、建物からして気合いの入り方が違うようです。なにより学芸員の説明がしっかりしていました。
150122_02150122_03150122_04

梅なし・湯島天満宮

150127_01
Pt↑は(1/27)の湯島天満宮・男坂の模様です。当然ですが「梅の花の”う”の字”もありません。『湯島天満宮』…旧称は湯島神社で通称湯島天神。正式には平成12年3月31日に湯島神社から湯島天満宮に改称されています。学問の神様・菅原道真公を祀り、梅の花(20種類・300本・80%が白梅)の名所です。
。雄略天皇2年(458年)に天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建。南北朝時代に菅原道真公を合祀しています。江戸時代は徳川家の崇敬を受け”富籤の興行”が盛んにおこなわれていました。 Pt↓左)は本殿の屋根の部分です。大砲のような飾りは”鰹木”と称し、数が5本(奇数)なので男の神様いう事になります。飛び出ているのは”千木”で、先端が縦に切れるのが男神、横に切れるのが女神です。社歴にもあるように創建時は『手力雄命』がご祀神。後に菅原道真公を合祀なのですが、この鰹木&千木の下にはどなたがいらっしゃるのでしょうか?因みに創建時の『天之手力雄命』は春日通り側のPt↓中)『戸隠神社』に追いやられているようです。
150127_02150127_03150127_04

東大・鉄門と無縁坂

150121_01
森鴎外、1911年の作品『雁』登場する東大・鉄門と無縁坂です。主人公の東大生「岡田君」はこの近所に住んでいて、散歩コースの「無縁坂」に住む美人妾の「玉ちゃん」と微妙な関係というお話ですが…。やっぱり明治44年の作品なので今風でないのは致し方ありません。この鉄門の場所には江戸時代の種痘所があり、その門扉が板を鉄板で囲い、更に黒くに塗ってあったので、人々は種痘所を「鉄門」と呼んでいたそうです。 後に、種痘所の門扉が東大医学部の門扉となり、医学部正門は本郷キャンパスの全体の正門も兼ねていました。1884(明治17)年に本郷通りに新しく正門が設けられたのを機に、医学部正門が再び「鉄門」と呼ばれるようになっています。現在の鉄門は、東大医学部創立150周年を記念して2006年度に再建されたものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Pt↓中)は無縁坂の由来となった講安寺から坂下方面です。レンガ塀は岩﨑邸です。このお屋敷は金持ちの悪趣味感が否めません。
150121_02150121_03150121_04

吉田寅次郎の不可解

150119_01
毎年、毎回デタラメな歴史観を繰り広げる「NHK大河ドラマ」の今年の主人公は吉田寅次郎。それも妹のお話だそうです。そんなんでも世田谷・松陰神社が大そう賑わうのかも知れません(苦笑)。 この松陰神社ほど突っ込み処に溢れる神社もそうはありませんよ。…吉田松陰(松陰神社)は、国の進路は開国と決まったのに、無理に喧嘩を吹っかけて国を奪っていった連中が自分らの拠り所にするための”神様とその神殿”というところなのでしょう。 ”吉田寅次郎(松陰)=松下村塾=維新の元勲の育成”として語られますが、寅さんが関わったのは1857年11月から投獄されるまでのほんの1年にすぎず、教えを受けた門弟といっても、当時、久坂玄瑞(17歳)・高杉晋作(18歳)…この二人は士分ですが…伊藤俊輔(博文・16歳)と山県小助(有朋・19歳)に至っては、最々下層足軽の子供です。この二人については、有能な先輩達”一流が皆死んで、残った二流が権力にしがみついた”とはよくいったものです。寅次郎先生にしたって、藩から睨まれて幽閉状態にあり、1年後には挙動不審で逮捕&江戸送り。更には余計な事を喋って斬首の刑(29歳)つまりは長州藩の厄介者になってしまいました。 この神社の場所は、長州藩の別邸があり、斬首された4年後に高杉晋作らにより回向院から改葬されたとありますが、このあたり怪しいですね(苦笑) 松陰神社として創建されたのも1882年。先生の斬首から実に23年後です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
教科書等の吉田松陰の画は妙に老けていますが、29歳没ですからこの像の感じだったのでしょう…。
遺体が返されたという事は、斬首でも『下手人』と呼ばれる最も穏やかな死刑です。つまりは、とても極悪人とよべるような罪人ではありません。
こちらでは「吉田松陰」呼び捨てはよろしくないようです。あくまで『吉田松陰先生』なのです(苦笑)。
150119_02150119_03150119_04

曹洞宗・豪徳寺

150120_01
世田谷の名刹・豪徳寺です。小田急線の「豪徳寺駅」が最寄駅と錯覚しますが、小田急豪徳寺からだと徒歩15分ほど必要で…。最寄駅は東急世田谷線の「宮の坂駅」です。豪徳寺は彦根藩・井伊家の菩提寺で「桜田門外ノ変」のテロ事件で襲撃された『井伊直弼/井伊家』の墓所があり”国の史跡・彦根藩井伊家墓所”や”東京都指定史跡・井伊直弼墓”となっています。
寺は1480年ごろ臨済宗の寺とて創建され、後に曹洞宗に変わっています。1633年(寛永10年)に彦根藩主・井伊直孝により整備され、寺号も直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」によります。有名な『招き猫伝承』は井伊家と寺の結びつきの話で、猫が招いたお蔭でのちのちの寺が繁栄していきます。要は猫のお蔭で”得”をしたのは「寺」ということです。まぁ良しとしましょう(笑)。境内には願掛け成就で収められた猫達が役目を終えてずらりと休んでいます。招き猫伝承は浅草・今戸神社にもありますが、各々伝承話の内容が違いますのでよくある「元祖」と「本舗」のような話ではありません。
豪徳寺から15分程で世田谷区役所~国士舘大学~松蔭神社とぶらぶら歩きができます。安政の大獄の敵関係の、井伊直弼と吉田松陰が世田谷区役所を挟んで眠っているのは、本人達は気まずい思いをしているかも知れせん。
150120_04150120_02150120_03

懸魚・靖國神社

150116_01
神社仏閣の屋根、多くの建物が切り妻屋根か入母屋造の屋根には懸魚(げぎょ)と呼ばれる飾りが取り付けられています。とは云っても大体が何気に気づかずに見過しているのですが、神社仏閣ならでは意匠を凝らした造りをしています。懸魚は木造寺院を火災から守るため、水に縁のある魚の形をした飾りを屋根に付けて火除けのまじないとしたのが始まりのようです。城郭の天守に乗っている鯱(しゃち)や鴟尾(しび)も同様な考えかたによります。Pt↑)は靖國神社拝殿の屋根です。ここに目に停める方はそうはいないと思いますが、凝ったデザインを持った立派な造りです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
靖國神社は明治2年の創建で、日本の軍人、軍属等の戦没者246万人を祀られています。神社の表記は…「靖」の旁の「青」の下部が「月」でなく「円」、「国」は旧字体が正しい表記です。…神社名の由来は、孔子が編纂したとされる『春秋左氏伝』にある『吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」から明治天皇が命名し、1879年(明治12年)に改称さています。
150116_02150116_03150116_04

猪の目・東京大神宮

150113_01
『東京大神宮』が婚活の神様として賑わうようになったのは何時からのことでしょうか?今年もご縁を求めて初詣に来られた方々も多かったようです。今さらですが、ご祀神は天照大神と豊受大神で正統なる伊勢神宮の遥拝殿、いわば東京支店です。なんでも「東京大神宮のハートマークを待ち受け画面にすると、恋愛面で素敵なことがおこる」というジンクスもあるそうなんですが…。よく聞きなさい馬鹿娘ども!あれは「猪の目(いのめ)」という日本古来の文様で厄除の象徴なのだよっ。似てはいるけど由緒ある神社にハートのマークなどある訳はないでしょうに…(苦笑)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150113_02
東京大神宮には300個以上の「猪の目」があるそうなんですが、これを称して”隠しハート”とか”総門の扉の猪の目を待ち受けにすると恋が叶う”とか言われてもねぇ。まったくこんな”ヨタ話”誰が言い出したのでしょうか?「猪の目」文様は、四方を睨む魔除けとして お城や神社仏閣などの門扉などに見られます。この文様の歴史は非常に古く、古墳時代の倒卵形鍔にもみられ、日本の歴史の中で最も古い文様であるとも言われています。名称としての「ハート印」より遥かに日本古来の歴史のある文様なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
手水社の懸魚(げぎょ)の部分にも”ハート・マーク”がありますねぇ(苦笑)。 その気になって見れば探せばアチコチに猪の目があしらわれています。 正統なる”伊勢鳥居”です。由緒正しき伊勢系の証です。 
150113_03150113_04150113_05

デジカメいろいろ

150109_02
普段使いで使用しているデジカメです。HP程度なら携帯電話のモノで充分なのですが…。ブログ写真は自前と撮りなので画像処理を考えたらデジカメ使用のほうが気楽です。それにしても、ご自分の朝・昼・晩の食事を撮ってブログ掲載する方がおりますが、あんな気色の悪いことがよくできるもんだと感心してしまします。”一般人の何を食べたか”なんて気になりますかねぇ(?)。気になるのは家人か主治医くらいでしょうに(笑)。まぁ趣味のコレクション自慢も同様な気もしますが…(苦笑)。 後方はCASIO-Exilim Ex-H15で2010年の製品です。ズームの広角側が24㎜で、風景や室内を撮るには24㎜はお役にたちます(!)。予備機のEx-Z800は広角側27㎜で、とても広角としたは役にたちません。コンデジ購入には広角側24㎜の機種がお勧めです。 散々お世話になったH-15の次がEx-ZR200で、いまも常用しています。CASIO製はモニターが明るく、オート撮影機能はとても優れています。CASIOは次々と後継機を投入してくるのですが、性能もそう変わらず価格もミラーレスに近づいてしまいました。となると、そろそろという事になりまして…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150109_01
オリンパスペンE-PL6という運びとなりました。いわゆるミラーレス一眼というやつです。低価格のデジカメが携帯電話(スマホ)に凌駕されてしまい、メーカーとしてもこの辺りが販売の戦場となったようです。まだ使用日数は浅いのですが、やはりCASIO等のコンパクト・デジカメとの性能差は(当然)明らかです。Pt↑はオプションのファインダー(別売)を乗せています。『撮影はファインダーを覗く』と身についているのでモニターを撮影がなじめません。どうしても水平、垂直が雑になってしまいます。それにしても流石はOLYMPUS、名器ペンを名乗るだけあって持った瞬間に”良くできたカメラ”だと感じます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150109_03
Nikonのデジタル一眼です。銀板一眼カメラを処分して(3台+αで1万円)購入したものです。予算がなかったので入門機にしたのですが、これは大失敗(!)でした。入門機は一年程度で(カメラに慣れれば)物足りなくなります。結果、上級機が欲しくなり一年で2台購入になりかねません。購入を検討している方は、少なくとも中級機種で検討するのをお勧めします。因みにこのNikonでは標準ズームとTamron社の10㎜-24㎜の超広角レンズで仕様します。レンズ単体は高額なのですが、北海道の雄大な景色や周辺が歪む超広角レンズ世界は面白い絵になります。

それでも隅田川七福神

150106_01
お正月ならではの『七福神巡り』ってのがあります。七福神は言わば「神様の多国籍軍」で1)日本神話の『恵比寿』、2)インド出身の『大黒天』・『弁財天』・『毘沙門天』、3)中国出身の『福禄寿』・『寿老人』が神様。唯一4)『布袋尊』は中国の実在の禅僧です。七福神が担当する七福とは…『寿老人』=寿命、『大黒天』=有福、『福禄寿』=人望、『恵比須』=清廉、『弁財天』=愛敬、『毘沙門天』=威光、『布袋尊』=大量と細分化されています。神道には「あちこちの神様にお願いごとをすると、どの神様も助けてくれなくなる」という考え方があるので七福神=格の低い神様と称されるようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の【隅田川七福神めぐり】は、江戸の昔、墨東の風流人のあった佐原鞠塢(さわらきくう)が今から約200年前に墨東の地に「百花園」を開いた。たまたま福禄寿像を所持していたことから友人の太田蜀山人谷文晁らが七福神あそびを思いついた。つまり【隅田川七福神詣】は風流人の遊びに源を発し、いい加減なところもあるのです。それでも平成15年10月墨田区無形民俗文化財に登録されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150106_03150106_02【三囲(みめぐり)神社/恵比須神&大黒神】…1300年代、近江の国三井寺の僧「源慶」が東国を巡礼、この地の荒れ果てた小祠を見つけ、源慶は自ら社殿の修復にとりかかる。埋もれていた壷から「白狐の神像」見つかり、どこからとも現れた白狐が神像の周りを三度廻ってどこかへ消えたという故事から「みめぐり」の名がついた。実はここ三囲さんは「稲荷さま」なんです。つまりお寺ではなく神社に恵比須&大黒天が祀られていることになります。恵比寿(大国神)は天照大神の兄弟とされ、豊漁の神様で、商業繁盛関係にも手を染めているようです。大国神(大黒天)はインドのヒンドゥー教の神から仏教の神となる。大国主命と同一視され、恵比寿とともに福徳の担当とされています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150106_04150106_05Pt左の【弘福寺】は京都の宇治の“萬福寺の末寺で、本尊は釈迦如来。中国に近い禅宗として知られ唐風建築様式が見られるのですが…なんと本堂は工事中でした。祀られている(布袋尊)は、中国の実在した禅僧・契此(かいし)で、満面の笑みと、施しものを一つの袋に入れていたため、布袋さんと呼ばれていた。ドラエモンでいう”どこでもなんたら”の類でしょう。 Pt右は【長命寺】には弁財天を祀っています。ヒンドゥーの神から仏教の守護神となった川の神である弁財天は唯一の女性神で、音楽・弁舌・財福・知恵の神とされます。して慕われる。長命寺はむしろ「草もち」の方が有名となっていますが。天台宗延暦寺の末寺で、3代将軍家光が鷹狩の折、腹痛を起こし、境内の井戸水で薬を飲んで快癒したところから、家光はその井戸に“長命水の”名を与え、寺も長命寺となっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
隅田川七福神を三囲神社ルートから始めると長命寺あたりまでは近接しているのですが、この先は距離のある場所を歩きます。また隅田川七福神ならではの胡散臭さも漂ってきます(苦笑)。【向島百花園】…文化元年(1804年)佐原鞠塢により梅360株を植え梅園が開かれ、その後名花名草が集め『百花園』と命名されています。タマタマ福禄寿像があったので風流人と称する意味不明の方々が余興的に造成したのが隅田川七福神で神社仏閣でも百花園に福禄寿が祀られているのはこんな理由です。 福禄寿は、幸福・金銭・長寿の三徳を備える神。 次の白髭神社はさらに嘘臭さが漂います。白髭神社のご祀神は“猿田彦命”で道案内の主神です。白鬚神社の祭神が「白鬚」→白い鬚の老人→寿老人ということにしてしまいました。さすがに後ろめたさがあるのか「寿老」ではなく「寿老」となっています。 寿老神は、中国の伝説上の人物で、頭に頭巾、白髪、人間の寿命が書かれた巻物を杖に結び、鹿を連れています。 都内の七福神巡りは得てして1社のみがとんでもなく離れています。隅田川も例外ではなく、ここから毘沙門天/多聞寺までは約30分程黙々と歩くことになります。 【多聞寺】に祀られる毘沙門天はインド出身の神様で 仏教の守護神としての四天王(持国・増長・広目・多聞)の内、北方を護る多聞天と同一です。七福神として司るのは威光"とされています。 …さすがに天気晴朗なれどで、体調を崩してしまいました。七福神の威光はなかったようです… 
150106_06150106_07150106_08
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ