旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2015年02月

梅盛り・湯島天満宮

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【菅原道真】…政争に敗れ九州に左遷されたのを恨んで、都に雷を落としまくるは、挙句には疫病を流行らせる大暴れ。平将門、崇徳上皇と共に”日本三大怨霊神”の菅原道真が学問の神様に祭り上げられたのは妙な話なのですが…。これ今風にいうなら「褒め殺し」ってやつですねぇ。煽てに煽てて神様に持ち上げておけば「祟りなし」です。菅原道真⇒学問の神様の正体見たりという事です(笑)。これ以上は祟りが怖いです。
さてPt↑は)湯島天神境内の奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)です。一石橋で触れた「迷子しらせ石柱」です。柱の右側は「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されていますが、かなり崩した文字が彫られています。果たして江戸の人達はこの文字が読めたのでしょうかねぇ?
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1)満開の白梅の中の”泉鏡花筆塚”です。恩師から妹を嫁にと乞われて同棲中の彼女を棄てるという話はいつの世も”良くある話”です。「別れるくらいなら死ね言ってくれ…」とはいかにも時代です。現代なら殺されかねないでしょう。 2)本殿の屋根には無数の魔よけの猪目があります。間違ってもハートのマークではありません。 3)銅鳥居左の「火伏三社稲荷」です。何故か湯島天神公式サイトにも記載がありません。
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中央区・一石橋

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外堀通りの日本橋川に架かる橋は一石橋(いっこくばし)と呼ばれています。江戸時代、北橋詰めには幕府金座御用の「後藤庄三郎」の屋敷が、南橋詰には呉服商の「後藤縫殿助」の屋敷がありました。橋が損壊した折には両後藤の援助により再建されたとのことから、「後藤/五斗」+「後藤/五斗」=一石で、「一石橋」と名付けられたと云われています。 この近辺は江戸から明治にかけてはかなりの繁華街だったそうで、近隣で迷子や尋ね人が生じると、Pt↑)の「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」と彫られた石柱の右側の「志(知)らする方」に保護した側が特徴を記載した紙を掲示し、逆の場合は左側の「たづぬる方」に探す側が掲示するという事になっていました。TVもラジオも新聞もない時代ですから、情報収集の場としては有効だったのでしょう。 万一保護した迷子の親が見つからない場合は、迷子を保護した町内で責任もって養育する決まりになっていたそうです。
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同様の”石柱”は浅草・浅草寺や湯島天神の境内、両国橋などの当時の繁華街にも置かれていました。この石柱は、昭和17年に東京都指定旧跡に指定、昭和58年には東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。 この石柱の脇にある「いちこくはし」橋柱は、旧橋が老巧化により撤去される際に、関東大震災にも耐えた都内最古の親柱としてその価値が認められ、平成14年に中央区が区民有形文化財建造物に指定されています。
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ジョン・フォガティの歌声

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今回はブートCDは登場いたしません。実は先だって台東区谷中の『指人形笑吉』さんで指人形劇を観る機会がありました。約30分程度の演目なのですが、なんと劇の音楽がCCRの楽曲なのです。これには苦笑してしまいました。
Creedence Clearwater Revival(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル・略してCCR)は1968年にデビューして1972年にあっけなく解散したアメリカのバンドです。1968年当時はCreamのような長尺曲が全盛の時代に平均3分で終わる聴き易さ、カリフルニア州のバークレー出身でありながら、ブルースのようなカントリーの様な楽曲、歌声だけ聴いたら”黒人”と思ってしまうボーカル。ヘタウマ演奏でありながら真似しにくいという不思議なバンドでした。さらに活動中には多くのヒット曲を連発したのですが全米1位が1曲ないという残念さ。中心人物のジョン・フォガティはマネージマントの縺れから自分の新曲が以前に自分が作曲した曲の盗作だと実に妙な訴訟を受けています。訴訟社会のアメリカならではです(苦笑)。
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Pt↑)は2008年の40Th記念盤です。彼らは活動期間中に7枚のオリジナル盤と解散後にライブ盤を2枚出しています(Best盤は除く)。忘れられたバンドなのでしょうねっ。CDショップでもBest盤くらいしか見かけません。この40Th記念盤にしても1972年の”Mardi Gras(マルディ・グラ)”は除外されています。1980年の”The Concert”は遅れて仲間入り。1973年の”Live In Europe” はブート以上に音が悪いというLive盤なのでやむを得ないのでしょうが完全に無視です。お勧めなのは”The Concertの40Th記念盤”です。以前にCDより数段音圧が上がっています。懐かしのヒット曲満載で楽しめます(!)
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Webで見つけた1972年の来日公演のPtで、武道館公演のようです。フォガティ兄が脱退して3人編成になってからの来日でした。この編成ですからねぇ、音は想像できます。演奏曲は”Live In Europe”と同じでアンコールもなにもなし、あっけなく終了となったコンサートでした(苦笑)。

博物館動物園駅

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Pt↑)は上野公園の『博物館動物園駅舎』です。昭和8年の京成本線の開通に合わせ、当時の帝國博物館、科学博物館、東京音楽学校、東京美術学校、上野動物園の最寄駅=とは云っても京成線沿線ですが=として開業しています。時代を経て乗降客の数が減少し、駅舎も老巧化したため平成16年に廃止となりました。薄っすらと記憶がありますが、駅全体が薄暗くホームの長さも寸足らと、とても長い編成の電車が停車できる駅ではありませんでした。反面、現在の機能性重視の駅舎とことなり、当時ならでは意匠がこらされた駅舎でした。今も駅のホームなどは壊されていないハズなのですが、地上部分の駅舎は少しは手を入れて欲しいものです。
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Pt中)は旧正門を表側からみています。昔の写真を見ると門左右のレンガ建ての部分(切符売場?)の上の傘状の建造物が乗っかっていました。  表門前の郵便ポストは動物園ならではの”パンダ”をイメージした塗り分けになっいます。郵便局員が集配にきており、ポストとしてチャント機能しております。
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上野動物園の大物達

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上野動物園は=正式には東京都恩賜上野動物園=都立の動物園で公益財団法人東京動物園協会が管理運営しています。1882年の開園で日本で最も古い動物園で、西園と東園を結ぶモノレール(90秒/¥150/大人片道)も日本で一番古い設備となるようです。 Pt↑)の門は旧正門として使われていた門で、パンダ舎を右に進んだ方向にあります。上野動物園の表門は何度か改装され、この門は明治45年~昭和08年まで使われた2代目の門のようです。
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こちらが現在の表門です。正門ではなく”表門”と呼称するところが面白いです。昔も今も子供連れで賑わっています。旧正門とは200mほど離れているので門自体を移築したより、この位置に門を造り直したと思う方が自然かもしれません。上野動物園は大人が出かけても意外と楽しめます。五重の塔がどうのとか、藤堂孝虎がどうのとか云ってるよりだらけきった動物を見ている方がほのぼのします(笑)。

有名な話ですが…。左のパンダ(だらけた寝方です)・中のオカピ・右のこびとカバの世界珍獣会の巨頭が同じ動物園に所属しているのは日本ではここ上野動物園だけです(!)。いずれ劣らぬ希少価値の絶滅危惧種です。
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ブートCDの裏通り・26

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ブルース・スプリングスティーン(面倒なので以下Boss)の初来日公演、1985.04.11と04.13のCDです。2日分の同時購入で04.15&04.16のCDRがもらえるのでBossでお腹一杯状態です。さらに下記の大阪公演、04.22&04.23を加えると初来日公演6日分となります。遊びに来ている外国の友人の”お土産”にと購入したモノで聴き通すことはないでしょう。まぁ寿司やらなんやらより安上がりです。1985年来日は日付こそ忘れましたがチケットが余ったからという事で(無理やり)代々木のコンサートにはいっています。実はどうにも好きなアーティストでないのであまり気乗りはしませんでした。案の定、曲間のやたら長い”英語の語り”や…それも日本人にはほぼ理解不能な内容の…挙句にはバォバォ吹くだけのヘタクソSAXとコントらしきものまでやりだして…。元気だけが取り柄の”まぁアメリカ人にはうけるよなぁ”程度の感想しかありませんでした(笑)
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それまでに発表されていたスタジオ盤とディランのまねみたいですが、コンサートではかなり違うんですよねぇ。歌詞の内容にしても、あの顔はどう見てもWASPではないでしょうし、歌詞にはハンサムな父親と優しくて美人な母親や仲の良い兄弟のいわゆる絵にかいたようなアメリカ人達は登場しません。大ヒットした『Born in the U.S.A.』にいたっては…『黄色い人間を殺しにベトナムに行かされた』とか『兄貴はベトコンと戦い、兄貴は死に写真だけが残った』とか『ベトナムから帰っても仕事なんかありはしねぇ』など、殆ど『ランボーⅠ』の世界です。日本人がこぶしを突き上げて歌うような歌詞ではなんいですよねぇ(!)
しかしまぁ、このジャケ写真は実にまぎっらわしい限りですねぇ(笑)

東京ジャーミィ…Ⅲ

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体調も徐々に回復し(苦笑)、今日は某旅行会社のなんともマニアックな都内めぐりに同行してきました。湯島天満宮(梅祭り)…築地本願寺(浄土真宗本願寺派)…カトリック築地教会…聖路加チャペル…御茶ノ水・ニコライ堂と見学し、最後が代々木上原の『東京ジャーミィ・トルコ文化センター』です。天神様・仏教・カトリック・ロシア正教・イスラム教の施設を巡りです。”築地市場を散策して寿司食べて的”ありきたり企画とは大いに異なります。

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Pt↑)は15:00のお祈りが終わった直後の模様です。正面の方向が”メッカ”になります。東京ジャーミィへは数回訪れているのですが…。今日は実に多くの”見学者”が訪れていました(背名を向けているのは殆どが一般見学者です)。ツアー団体や都議の後援会などで、昨日はTV局の取材もあったようです。時節柄と云っても良いのでしょうが”イスラム教について知りたい”と言う意識が高まっているのでしょうね(!)
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東京ジャーミー・トルコ文化センター( 東京都渋谷区大山町1-19) 小田急線「代々木上原」下車・徒歩5分です。

上野の山の不思議な関係

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上野動物園入口付近に小松宮親王=正式名を小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)=の騎馬像があります。小松宮は戊辰戦争(1868年)での上野戦争や会津戦争・佐賀の乱(1874年)・西南戦争(1876年)等の内乱鎮圧に正規軍の象徴として従軍した皇族です。彰義隊戦争ではこの像の付近にあった寒松院が彰義隊の本陣だったようなのでこの場所が選ばれたのでしょうか?この戦争で彰義隊側は北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう)が指揮を執ったとされています。形だけの指揮官として祭り上げられたのでしょうが、二人の宮様は実の兄弟なのです。つまりは上野戦争は宮様兄弟による戦争だったのです。皮肉と言えばこれ以上の皮肉はありません。
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上野戦争は蟄居恭順した徳川慶喜を警護するという大義名分で結成された「彰義隊」を、大村益次郎指揮の西軍が攻撃した戦争です。戦い自体は1日で終了し、彰義隊戦死者は埋葬もされず放置されたままでした。紆余曲折の後、この場所に墓所が造られたのですが、なんと前方50mに憎っくき薩摩の西郷隆盛が丸腰状態で犬1匹連れて背中を向けています。恨みを晴らすにはこれ以上のチャンスはありません。
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これが考えられた配置だったら恐れ入ってしまいます。一時は国家への反逆者となった西郷ですから軍服なのの正装という訳にはいかなかったのでしょうが、背中から「てめぇ、西郷!」と睨みつけられ、更にその後ろから「彰義隊も西郷もいい加減にしろ!」と小松宮が睨んでいるのですから、たまったモンではありません。実際はこの三者は一直線上にはないのですが、これすらワザとなのかも知れません。

池の端・七倉稲荷神社

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台東区池之端2丁目の『七倉稲荷神社』は、不忍通りから少し奥った目立たないながらも中々の稲荷さんです。ご祀神は稲荷社ですから「倉稲魂命」でしょう。七倉稲荷神社境内掲示によると=当神社は古く江戸幕府の米蔵のあった浅草蔵前に鎮座7つの倉の守護神として崇められこれが社号の由来となっている。 その頃の社伝によれば阿部豊後守が当社に祈願、その加護により隅田川馬上渡河の功を奏したと伝えられ霊験顕たかな社として江戸町民の振興篤かった。明治維新後蔵前より七軒町十八番地に遷り更に明治9年8月現在の地に遷座した。現社殿は平成元年7月の御造営である。=とあります。社殿の造りは「権現造り」のようです。鰹木が飾られ千木は縦方向に切られた「外削ぎ」は「男神」が祀られる例が多いのですが、神使の”きつね氏”もいないので、どうやら豊受大御神(とようけのおおかみ)を祀る伊勢系稲荷社なのでしょう。
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弥生式土器ゆかりの地

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文京区弥生の"言問い通り"沿いに「弥生式土器ゆかりの地」という碑があります。日本史に登場する縄文・弥生時代の”弥生”なのですが、この碑は”発見場所”ではなく”ゆかりの地”となっています。1884年(明治17年)に東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人がこの付近の貝塚から「壺」を発見しました。壺は縄文式土器と異なる様式で、発見場所の地名をとり「弥生式土器」と名付けられました。ここまでは良かったのですが…。都市化が進むとともに正確な発掘場所がわからなくなってしまったのです。1974年(昭和49年)には大学構内で弥生式土器等が見つかり、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されるなどその重要性が認識されていますが、1884年当時はどうでも良かったのでしょうかねぇ。貝塚があるくらいですから、古代でも人口が多かった土地なので”エイヤッこの辺”でもいいのでしょうが、苦肉の策での「ゆかりの地の碑」なのでしょう…。
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↓左)碑の裏面ですが立ち入れないので読むことができません。 ↓中)弥生町の町名の由来が書いてありますが弥生式土器とは関係ないでしょう。
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麟祥院・からたち寺

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文京区湯島の麟祥院(りんしょういん)です。森鴎外の『雁』では岡田君の散歩道で「陰気な臭橘(からたち)寺の角を曲がって帰る」…とあります。寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので「からたち寺」と呼ばれていtたそうですが、臨済宗妙心寺派のお寺で山号は天沢山がお寺の名称です。徳川3代将軍・家光の乳母である『春日局』の菩提寺として知られ、”春日通り”の名称も”春日局”に由来しています。春日局の話となると長くなるので別校としますが、面白い話では、埼玉県川越の喜多院内には「家光誕生の間」や「春日局化粧の間」があります。これらの建造物は寛永15年の川越大火で喜多院が全焼したおり、家光の命により江戸城御殿の一部を移設した建物です。その後江戸城が燃えてしまい、結果として川越の街に江戸城の建物が残ったいう事です。この建築資材を運ぶ為に江戸~川越の運河が整備され、後日の川越の繁栄に繋がるのですから大したモンです。
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