旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2015年08月

”うらめしや~”東京芸大

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2015年9月13日までの日程で、上野の東京芸術大学で『うらめしや~、冥途のみやげ』展がおこなわれています。=全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に= というのがウリなのですが…。 Pt上)は会場の本館展示室の近く(守衛室の裏あたり)にひっそりと展示してある『皇居二重橋飾燈』です。解説によると明治19年(1886)に当時の宮内省がドイツのハーコート社に発注し明治21年(1888)の竣工したものとあります。後年、東京芸大・吉村教授の設計により新宮殿造営に時に二重橋も架け替えられ、その際に旧飾燈の四基のうち一基を宮内省から移管され設置されたものとあります。犬山・明治村、武蔵小金井・江戸東京たてもの園、皇居東御苑にも置かれているのですが…。どう見ても東御苑のものとはデザイン(特に足の部分)が違うんですよねぇ。
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さて、『うらめしや~、冥途のみやげ』展ですが…。サブタイトルに「全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に」とあります。やられましたねぇ(苦笑)。そもそも圓朝コレクションは谷中・全生庵で毎年8月限定で展示されますが、会場の関係でコレクションは入れ替え展示となっていました。今回は二会場での展示ということで、圓朝コレクションのすべて(?)が見られ、結果として谷中・全生庵の展示が充実という現象が生じました。それはそれ嬉しいことなのですが。今回の東京芸大の展示内容は、圓朝コレクションについては「二軍」しかありません(笑)。圓朝とは関係のない「錦絵」なんかで水増追加して展覧会の体になっていますが。一般1100円も払って二軍をみせられたのではたまったものではありませんねっ。主催は東京芸術大学、東京新聞、TBSだそうですが…笑っちゃいます。 
…因みに、谷中・全生庵の幽霊画展示は8/31までだそうです…
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千束稲荷と樋口一葉

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台東区竜泉2-19-3の『樋口一葉の名作「たけくらべ」ゆかりの千束稲荷神社』です。東京メトロ・三ノ輪駅下車、国際通りを浅草方面に5分ほど、台東区立樋口一葉記念館はここではありません。一葉の『たけくらべ』や『塵中日記』に祭礼の模様が描かれている(らしい)をもって”ゆかり”という事です(苦笑)。ご本人は千束には1年も住んでいませんから、微妙といえば微妙です…。千束稲荷神社は、江戸寛永年間の4代将軍徳川家綱の時代の創建とされています。当時は三ノ輪から浅草一円を「千束郷」と称し、北千束郷あたりの氏神となっていました。明治年間になってからは竜泉寺町一円の氏神として今に至っています。神社の境内は「たけくらべ」にあるお祭の場面で子供達が遊んでいる神社としも知られています。そんな訳で平成20年に一葉の胸像を建立されているのですが、病気がちな本人のイメージとかけ離れているような気がします。”せめて胸像位は…”という配慮でしょうか?
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麻疹祈祷・太郎稲荷神社

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こちちらが台東区下谷2丁目の『太郎稲荷』」です。ごく普通の街稲荷ですが、江戸時代には築後柳川藩立花家の江戸下屋敷があり、柳川より勧請した「太郎稲荷」が祀られていました。享和3年(1803年)頃、江戸の街に麻疹が大流行し柳川藩の若殿も罹患しています。下屋敷内の「太郎稲荷」に病気治癒を祈願したところ、たちまち病状が回復したそうです。この話が広まってご利益にあやかりたい人々が大挙して柳川藩下屋敷に押し寄せることとなりました。噂が噂を呼び、翌1804年になっても参拝者が殺到し続けたようです。江戸時代の町民は許可なく大名屋敷に立ち入れないため、立花家では月に4日間だけ神社を限定的に開放し、結果として益々の人気を煽ったようです。「陽がのぼる前から立花家下屋敷の門前には参詣者が詰めかけ、道脇に下水に落ち、泥だらけになる者数知れず」。…大変な混雑ぶりです。流行の拡大とともに、縁起類、はやり唄、小唄なども数多く創られたそうで、近くの浅草寺を上回る人気となり「太郎稲荷」近辺には新しい盛り場が形成されるというスゴイ事になりました。通常、流行は一過性ですが、「太郎稲荷」については、享和3年から文化元年にかけてが第一ピーク。天保年化に人気が再燃し、慶応3年(1867年)にも流行が再燃しています。
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現在の神社には繁栄の名残はありません。それでも人々に大切にされてきた様子が感じられます。 1)間口はこれだけです。住宅地に鎮座しているので注意しないと見落とします。 2)こじんまりとした本殿ですがさや堂が創られています。地元では大事にされてきたのでしょう。 3.)本殿の様子です。額の写真は講中での慰安旅行の記念写真のようです。
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伊勢神宮…(終)

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Pt↑)は営業時間前の「おかげ横丁」の様子です。訪れる度に「赤福」による”観光スポット”の充実には驚かされます。まさに川柳にある『伊勢参宮大神宮にも一寸より』の世界です。2000年の歴史にも関わらず、伊勢神宮が何故この地にあるのかは判っておらず、舒明天皇の孫の「倭姫命」が”八咫の鏡”を安置する場所を求めて各地を巡り、この地で天照大御神よりお告げを受けたと云うのがその伝承です。天皇家の氏神ということで長い年月「私幣禁断」でした。江戸時代には「おかげ参り」という観光ムーブメントが突然おこり、1830年の3月~6月には当時の総人口(推定3000万)の13%、400万人が訪れ、この現象は周期的に発生し多くの人々が訪れるようになりました。民俗学では急激に流行り、やがて廃れる神仏を「流行神」というそうですが、伊勢にもあてはまるのでしょうか?妓楼40軒、遊女1000人の「古市遊郭」の大繁栄、「精進落文化」の隆盛をみると、お伊勢参りは「信仰の地」よりも、現代でいう「テーマパーク」的要素が主流のように思えます。意味不明な「パワー・スポット」説や某赤●の仕掛けた「グルメ信仰」の踊る現代の旅行者の姿とたいして変わりません。
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別項でも触れましたが…この「大神神社」は伊勢神宮が造られる遥か以前からこの地にいらっしゃるという事です。日本最古の神社と云われ、ご神体が「三輪山」そのものというで”神々がいらっしゃる場所”という感を強く感じます。元々皇室の祖先神である「天照大神」はこの奈良(桜井)付近に祀られたはずですが、なぜに放浪の挙句”伊勢の地”に移ったのでしょうか?皇室が簡単には行幸できない地に祀ったにのは、もしかして「邪魔な存在」になったのかも知れません。 それにしても「大神神社」のご祀神は、大和の地でありながら出雲系の神様が祀られているのも不可思議です。
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熊野には、天照の母親の伊邪那美命が亡くなった場所という神社(?)があり、滋賀には天照の両親を祀る多賀神社など興味深い神社までありました。つくづく思うに、この国は振り返れば神々が身近で見守ってくれている国ですね。 …この項はこれで終了です…
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伊勢神宮・内宮…(Ⅱ)

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昨年は「式年遷宮」がメディアで話題となり「日本人の心の故郷」や「日本随一のパワースポット」などという”苦笑モン”の表現もされていました。確かに神宮の杜は別格な雰囲気はありますが…。2000年の歴史がありながら長く庶民の参拝は許されず、明治天皇以前では持統天皇を除いてどなたも行幸していません。実に不可思議なことです。江戸時代に突然ブームとなった「おかけまいり」にしても、「参拝不可の神域が解放される」→「遊郭や歌舞伎のお遊びが充実」→「押すな押すなの大盛況」の図式のようです。なんだか現代のTV情報メディと尻馬にのる旅行業会の図式と同じですね。ひとたび”人気スポット”となれば”我も我も”とは、まさに現代の「おかげまいり」です。いかにも日本的なお話で嬉しくなります。
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多くの伊勢系の神社では、1)屋根の部分で角のように飛び出ている(千木)の切断面が地面と平行 2)屋根の上の大砲のような(鰹木)の数が偶数なのが「女性神」 3)千木の切断面が縦切れ、鰹木数が奇数なのが「男性神」が原則なのですが…。伊勢神宮では内宮⇒天照大御神⇒女性神⇒千木は並行切⇒鰹木は偶数で原則通りです。しかし外宮⇒豊受大御神⇒女性神ですが、千木は縦切、鰹木は奇数となっています。内宮には男性の別宮もあるのですが女性神の造りに統一されています。神宮は例外と云われればそれまでですが、良くわかりません(苦笑)。
↓)”空勇号”という名前の”神馬”です。皇居の儀仗馬車等で活躍した馬が神宮に下賜される例があるそうです。
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伊勢神宮・内宮…(Ⅰ)

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朝早い時間の伊勢神宮・内宮です。まだ参拝客の姿もまばらです。実のところは、この時間は皇大神宮(内宮)に祀られる「天照大御神」を始めとした神々は、衣食住の神である「豊受大御神」の豊受大神宮(外宮)へ食事に出かけています。…神々の食事は日に2回、午前8時と4時(冬は9時と5時)と決まっています。…特には『食事に付きご遠慮ください』とはありませんので「宇治橋」を”右側通行”で進んでいきます。
昨年の「式年遷宮」ではいろいろとメディアで取り上げられましたが、知れば知るほど”所謂ヤヤコシイ神社”なのです。第一が伊勢神宮の正式名称は「伊勢」の付かない『神宮』で、他の神宮と区別するために便宜上「伊勢」が付きます。「神宮」が管理する正宮・別宮・摂社・末社・所管社の計で125社あり、伊勢市近郊の4市2郡と広い地域に分布し、内宮の神域だけでも正宮・2つの別宮・10の所管社もあります
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さらにメディアで登場してきませんが、日本の宗教史に出てくる「本地垂迹説」では天照大御神は「観音菩薩」や「大日如来」を本地すると考えられ、鎌倉時代には仏教のメッカと化し多くの高僧が相次いで参宮しています。エッと驚くのは、室町時代には天照大御神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮が、どちらの神が上位かをめぐって騒乱状態となり神域が血で穢されたりで、1434年~1563年の129年間は式年遷宮が廃絶しています。意外と波乱に富んだ歴史を有しています。
↓)五十鈴川の川端は石畳で桂昌院の寄進とも云われる「五十鈴川御手洗場」です。昔は参拝者の禊はここで行われていました。
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伊勢・古市街道

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外宮から内宮は御木本道路・御幸道路を進みます。江戸時代にはこの道はなく、現在の宇治山田駅付近から丘(尾根道)を超えて猿田彦神社に出る「伊勢古市参宮街道」を通るのが一般的でした。そして、この街道沿いに江戸の吉原。京都の島原に匹敵する遊郭街がありました。最盛期には妓楼70件、遊女は軽く1000人を超えていたそうです。興味深いのは吉原などとは異なり、古市遊郭には俗世間と隔てる「塀or囲い」がありませんでした。芸妓はいつでも”脱走”できたという事ですねぇ。色街では男と女のトラブルは付きもの、この句は爆笑もんです。
『古市の古き狐に騙されて、一度は来たが、二度はこんこん、思うてきて思わず、去る者はなし、身代滅ぶに、古市の里』…。
女達の為には「古市三座」と呼ばる「芝居小屋」が建ち、古市で評判にならなければ、江戸や大阪での檜舞台は無理とわれるほどの「役者の登龍門」だったそうです。”神社仏閣に詣でて、厄落とし”これがお楽しみの原点なのですが、遷宮で話題になった年でも「古市」話題になった事ありませんでした。TV的には難しい問題があるのでしょうが、こういうお話を含めての「文化」なのですが…。 
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旧の伊勢街道(狭い街道ですが路線バスが走っています)が御木本道路ち合流するところに『猿田彦神社』があります。ご祀神の「猿田彦大神」は、日本神話では天孫降臨の際に「瓊瓊杵尊」の高千穂への案内を務めた後伊勢の地に戻っています。時を経て猿田彦の子孫により五十鈴川流の地が献上され「倭姫命」に「伊勢内宮」が造られています。これを持って「みちひらき」の神様と言われ”伊勢参りの前に参拝すると”行程の安全を守ってくれるとも言われています。猿田彦神社の本殿に向かい合うよ、元祖ストリッパーである奥さんの「天宇受賣命」を祀る「佐留女神社(さるめじんじゃ)」があり、こちらは芸能関係の人達の信仰を集めています。
Pt)では判りにくいのですが、猿田彦神社の本殿は「さだひこ造り」と称する特殊な妻入造で、欄干や鳥居は八角形の柱が使用されています。
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伊勢神宮・外宮

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早朝、松坂市内のホテルから『伊勢神宮』へ向いました。伊勢神宮には「天照大御神」を祀る皇大神宮(内宮)と衣食住の神である「豊受大御神」を祀る豊受大神宮(外宮)の正宮があり、参拝者は最初に外宮を、それから内宮へ参拝する段取りとなっています。季節により閉門時間は異なりますが通年午前5時から参拝できます。そうは言っても時間的制約もあり、観光ツアーでは「内宮参拝」・「おかげ横丁散策」が一般的となっているようです。
内宮は約2000年の歴史があり、外宮は約1500年前に丹波の国(京都府)から移されています。火除橋を渡り神楽殿を過ぎて進んでいきます。面白いことに「内宮」は右側通行、「外宮」は左側通行となっています…。2013年8月の来ているのですが、その時は式年遷都の作業中で正宮は見られませんでした。Pt↑)では奥側が遷都された正宮、手前の空き地が旧正宮跡となります。
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熊野・花の窟神社

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熊野には日本神話に登場する神社が多く、ここ熊野『花の窟(いわや)神社』もその一つです。ご祀神は『日本書記』の「国うみの舞台」に登場する「イザナミノミコト」と「カグツチノミコト」、神話では「イザナミノミコト」が火の神である「カグツチノミコト」を生んだ際に大やけどを負い、それがもとで亡くなっています。その亡くなった場所がこの地であるとされています(!)。他とは異なり社殿など一切なく、ご神体は高さ45mの巨大な岩(窟)です。
この巨大な岩窟を見た古代の人々が「イザナミノミコト」終焉の地として神話の世界と結びつけたのは、無理からぬことです。まさに太古の自然崇拝の名残そのもの。熊野三山信仰や伊勢神宮信仰が確立する以前から信仰されていた、考えてみればとんでもない神社です。
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桜井・大神神社で触れましたが『花の窟神社』も”日本最古の神社”とされています。ご神体の前に立つと神社というより「墓所」の性格を強く感じます。平成16年に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されています。昔は国立公園や国定公園、TVドラマの舞台などで観光客がドット増える現象がありましが、今の時代はそれが「世界遺産登録」なのでしょうかねぇ。お話によると、ここへ来て”パワーをもらった”と喜んで帰る輩が増えたそうです。それはそれですが…。確かに巨大なご神体には圧倒されるのでしが、由緒来歴を知れば、とてもパワー・スポットなどと言う安易な場所ではないのが、おのずと判ると思うのですが…。
鳥居の奥に本殿などはありません。画角に収まらない巨大な岩壁が御神体で「イザナミノミコト」と「カグツチノミコト」が素朴に祀られています。
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圧巻・那智の滝

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青岸渡寺の三重塔の先に見える『那智の滝』景観は有名です(惜しむらくは自家用車が邪魔なのですが…)。 この那智の滝(なちのたき)は、滝壺までの落差は約133m、ほとんど垂直の断崖に沿って落下しています。滝の落差では日本12位なのですが、ここからの滝の姿を見るとそんなとはどうでも良くなります。那智山中の原始林にある多くの滝は、自然信仰の聖地であり瀧篭修行の場でした。那智の滝(一ノ滝)は『飛竜神社』ご神体として崇められてきました。その昔、熊野の原生林にわけいった人達が、この滝を見て「神」を確信したのも無理からぬところです。
那智の大滝は、1972年には国の名勝に指定され、2004年にはユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』として登録されています。
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熊野・那智大社

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標高500m近くまで登れば多少は涼しいかと思ったのですが…。Pから本殿までの476段の石段は”苦行”そのものでした(苦笑)。この熊野・那智大社の社殿並びに境内は、2004年にユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されています。つくづく思うのですが「ユネスコと称する怪しい連中」に日本古来の山岳自然信仰やら理解できるんでしょうかねぇ? 那智大社は須美神(ふすみのかみ)を御主神として。上5社・中4社・下4社と別れ、第1殿から第6殿まであり多くの神様が祀られています。天台宗の「青岸渡寺」とともに熊野信仰の中心地として古来より多くの人々の信仰を集めてた神域なのですが…。ユネスコにねぇ?
社殿は仁徳天皇の時代(317年頃)に創建、織田信長の焼討ち、豊臣秀吉の再興を経て。徳川吉宗により享保の大改修されています。
日本サッカー協会のロゴに使われている“八咫烏(やたからす)”の烏石があります。拝殿右の”大楠”は樹齢約850年の古木です。
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徳川御三家・和歌山城

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予定には全くなかった和歌山市で泊りとなりました。高校総体とやらで込み合っていましたが、何とかなるものです。なにはともあれ『和歌山城』へ…。虎伏山(とらふすやま)にある平地でありながらの山城です。徳川御三家の紀州徳川家の居城で、あの”暴れん坊将軍・吉宗公”の出身地でもあります。現在の城の面積はオリジナルの4分の1程ですが、紀州の殿様の居城だけあって思いの外広く、昭和33年に再建(コンクリート)された天守閣までは結構な”山登り”となります。江戸城よりも築城年代ごとに異なる石垣積み工法(特に野面積み)や城の縄張り構造(跡)が良く残っています。天守と廓の復元構造物は昭和年代の復元にありがちな造りですが、Ptのように見上げる天守&廓の姿はなかなかのモノです。
犬の像は駅の地下通路にありました。新潟駅の”忠犬たま公”を思い出したのですが、ここは天然記念物「紀州犬」の故郷だったのです(笑)。
JR和歌山駅前はこんな感じです。駅と繁華街&飲み屋街が離れていて、夜が早いという地方の街の特徴はここでも生きていました。
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高松塚への幻想

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和歌山への道すがら飛鳥村の「高松塚古墳」へ(だけ)立寄りました。高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、1972年に発見された藤原京期(694年~710年)末期に造られた円墳で、内部の極彩色壁画の発見は当時のトップニュースとなりました。 ですけどね…。余程考古学に興味のある方以外には面白みがありませんねっ。街道沿いの”国営飛鳥歴史公園館”から、Ptのようなのどかな景色を超え「高松塚古墳」まで約10分程あるきます。発見現場は”こんな場所だったんですねぇ”。ちょっとした丘陵がみんな古墳に見えてしまいます。炎天下を10分以上歩いて「高松塚壁画館」なる有料施設(観覧料¥250)に着きます。期待する方が間違いなのですが、一部の副葬品を除いてすべてレプリカ(偽物)です。この程度の展示内容ならわざわざ足を運ぶ必要はありません。確か歴史的大発見を即座に国宝指定はよかったのですが、あれこれと手が加えられて…。結局は保存が上手くいかなかったんですよねぇ。ここまでやって来て見られるモノが殆どがレプリカ(偽物)とは…。なんだか釈然としませんねっ。
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奈良桜井『大神神社』

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今回、一番訪れてみたかったのが大和一之宮の『三輪明神・大神神社』です。特産の素麺は「三輪」ですが、神社名は「大神」と書いて「おおみわ」と読みます。ご祀神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀る日本最古の神社と言われています(この”日本最古”は後日また別の項目で登場しますが) 三輪山をご神体とするため、神社は拝殿のみで本殿がありません。三輪山全体をご神体とする古代信仰をそのままに古代祭祀信仰の形態が今に残っています。
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とにかく違うんです(!)存在感も神域の空気感も…。ともかく圧倒されます。特にお願いして拝殿の裏側の拝殿と禁足地を区切る場所にある重要文化財の『三輪鳥居/三ッ鳥居』をみせていただきました。神域なので撮影は不可ですが、ここは「神」を感じる場所そのものです。この鳥居の形式が珍しい形状をしています。今まで「墨田区・牛島神社」と「秩父の三峰神社」でしか見たことがありません。ここがオリジナルなのでしょうが…。こちらの三輪鳥居は三輪山の御門といった佇まいです。神官も何故この形式なのか判らないという事ですが…。遥か昔の素朴な山岳信仰によるのでしょう。参道を登り拝殿前の鳥居も珍しい形式です。”大物主神”と”大国主神”は同一視されたいたことで「撫で兎」が社務所の置いてありました。
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奈良の街・唐招提寺

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法隆寺・東大寺・興福寺&薬師寺と有名どころが続いて来ましたが、続いて薬師寺のお隣(歩いても行ける)『唐招提寺』です。聖武天皇の招きにより、様々な苦難の末、日本にやってきた「唐僧鑑真和上」によって建立されました。鑑真和上は日本に着いてから5年間は東大寺で聖武天皇・光明皇后・孝謙天皇らに菩薩戒を授けるなどをおこない晩年の10年をこの地で過ごしています。どちらかと云うと煌びやかさの少ないお寺なのですが、金堂に置かれた国宝の薬師如来立像、盧舎那仏坐像、千手観音立像(手が千本ありそう)は圧倒的な説得力があります。Pt↑)はその金堂です。ちょうどどこぞのTVの撮影をしていました。番組名は知りませんがせっかくなので思いっ切り映り込んであげました(笑)。
奈良の街には京都と違ってお洒落な観光地も美味い食べ物が溢れている訳ではありません。昨今は訪れる修学旅行の学生を減少し、それが社寺の拝観料値上げにつながっているようです。確かに”時の流れが醸し出す独特な雰囲気”はある程度の年齢にならないと理解できないでしょう。
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奈良の街・薬師寺

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奈良市でも西ノ京町地区の『薬師寺』です。東大寺や近鉄奈良駅近辺に比べると”古い都”と云う感じが漂います。元々の『薬師寺』は天武天皇と持統天皇により飛鳥・藤原京に建てられています。和銅3年(710)の平城京への遷都に際し飛鳥から現在地に移され、天平2年(730)に建てられています。そんな事で、現在解体修理中の『東塔』とご本尊の『薬師三尊像』は飛鳥から移したのか、平城京で造ったのか今でも決着がついていません。Ptのある大きな構造物は、高さ34.1mもある修復作業中の『国宝・東塔』を覆う構造物です。東塔は天平年間の唯一の建造物で、修理完成は平成31年ごろの予定です。因みにPtに『西塔』は1981年に再建されたもので、この日はちょうど「西塔初層内陣釈迦相像」が特別公開されていました。
↓3点目のPtは薬師寺駐車場から寺へ向かう途中にある重要文化財「休岡八幡神社社殿」です。本地垂迹=神仏習合の日本古来の信仰の姿としてお寺の敷地内神社が鎮座しています。さらにお隣は「孫太郎稲荷大明神」なる稲荷社も鎮座しています。
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奈良の街・興福寺

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近鉄奈良駅からで5分ほど、古都奈良の文化財の一部として世界遺産に登録されている『興福寺』です。神亀3年(726)に聖武天皇により、薬師三尊を安置する堂として創建された国宝・「東金堂」が手前側。天平2年(730年)に光明皇后によりで創建された国宝・五重塔【五重塔(応永33年(1426)頃の再建】は、高さ50.1m、木造塔として日本で2番目に高いとされています。興福寺僧兵と平氏との戦いや落雷による焼失。明治維新の神仏分離では寺は空家同然となり五重塔が売りに出されたりの紆余曲折をへて今に至っています。平成10年(19980)からは、伽藍の復原整理事業がすすめられ2018年の落成を目指して境内の整備が行われています。数年前に大ブームとなった国宝・興福寺「阿修羅像」は興福寺・国宝館にあります。
早朝、猿沢の池から興福寺へ向う鹿の群れと遭遇しました。宅急便のトラックも一時停止。鹿達が優先です!
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奈良の街・鹿

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東西約4km、南北約2帰路km。総面積はおよそ660㌶に及ぶ正式名称『奈良県立都市公園・奈良公園』には、約1200頭の鹿が生息しているそうです。意外な事には、この鹿たちは「国の天然記念物」に指定されている「野生動物」で奈良市や寺社が飼育している動物ではないのです。そもそもは768年に『武甕槌命(たけみかづちのみこと)』という神様が白鹿に乗って春日大社の裏手にある御蓋山に現れたのに由来するようです。 これほどの数の鹿たちがウロウロいるのは珍しいのでしょう。国立博物館から東大寺近辺では何人の外国人にカメラの撮影を依頼されたことか…。どこぞの国だったら全部食べられてしまうでしょうなぁ(笑) 共存とはいえ事故も多いのでしょうねぇ。注意喚起の案内が4ヶ国で書かれています。
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奈良の街・東大寺

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大仏殿へは参道を南大門(国宝)へと進んで行きます。南大門は応和2年(962)に崩壊、鎌倉時代の正治元年(1199)に復興され門です。大仏殿にふさわしく、わが国最大の山門で阿形吽形の金剛力士立像が安置されています。正面上層には2006.年に造られた「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられています。東大寺の大仏さまは、毘盧舎那仏(びるしやなぶつ)と称し、銅像製で像高14.85mに大きさがあります。聖武天皇の発願により造立、752年開眼供養が行われています。戦乱のため2度に渡り焼失し、現在のものは胴部は鎌倉時代、頭部は元禄3年(1690)の鋳造されたもので、台座の蓮弁の一部と大仏殿前の金銅大灯籠はオリジナルであす。収められて大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mあり、奥行きと高さは創建当時と同じですが、創建当時の横幅は約86mあったそうです。
大仏殿のPt)には人が写っていません。大仏殿の扉も閉じています。それもそのはず、閉門5分前に着いて何とか拝観させていただきました。大仏様は撮影禁止ではないのですが…。如何せん暗くて…(苦笑)
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世界文化遺産・法隆寺

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奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1の『法隆寺』です。1993年に世界文化遺産に指定された聖徳宗の総本山である法隆寺は、約19万㎡の広大な敷地に1400年の年月を経て19棟の国宝建築や多くの文化財が残っています。法隆寺が建立されたのは推古15年(607)とされ、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈願して薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築した始まりとされています。この初期法隆寺は、創建から64年後(670年)に火災で焼失し、現法隆寺は672年から689年にかけて再建を始めたものとされています。それにしても1400年(!)前の、世界最古の木造建築が現代に残っているとは奇跡的な事なのですが、云いようのない感激に包まれます。
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法隆寺はお気に入りの寺で何度となく訪れていますが、この季節は初めです。暑いともかく暑い(!)。この炎天下を広大な法隆寺を歩いて行きます。拝観料は1500円/大人なのですが、これで金堂・五重塔・大講堂・百済観音堂(百済観音や玉虫の厨子)の西院伽藍と夢殿のある東院伽藍の国宝の多くが見ることができます。日本の”世界遺産”は何処でもその傾向があるのですが、一時的なブームが過ぎると”閑古鳥”となりがちです。法隆寺にしても拝観者の減少が進み、2015年に22年ぶりに拝観料が値上げ(1500円→2000円)されています。
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