旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2015年08月

驚きの宇治・平等院

170727_12
世界遺産でもあり国宝の宝庫でもある宇治の『平等院』です。数年前から屋根の葺き替えや柱などの塗り直し修理が行われ鳳凰堂内部の観覧が出来なかったのですが修理工事が完了との事で立寄りました。驚いた事には、遥か昔に訪れた平等院とは、全く別モノとなっていました。鳳凰堂のくすんだ色合いは鮮やかな色彩に変わり、それでいて別料金で拝観できる鳳凰堂の内部は往時のままとなっています。この極彩色の平等院は、藤原一族が想い描いた「西方極楽浄土」のイメージに近いのではないでしょうか…。
150727_12
この宇治の地は『源氏物語』の舞台でもあり、平安時代初期には貴族の別荘が多くあった地です。現在の平等院の地は、長徳4年(998)に摂政・藤原道長の所有となり、その子供の関白・藤原頼道により、天喜元年(1053)阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されています。1990年代には庭園の発掘調査・復元作業が行われ、平成13年(2001)にオープンした「平等院ミュージアム鳳翔館」には数々の国宝が展示されており充分に楽しめます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平等院滞在中だけが、残念なことに天候に恵まれませんでした。建物の朱色がくすんでいます(苦笑)
150727_09150727_10150727_11

関ヶ原古戦場跡

150727_01
新幹線なら米原駅に近づいてから、ものの30秒で通過してしまう【関ヶ原古戦場跡】です(笑)。慶長5年(1600)9月15日(現暦10月21日)に徳川家康の東軍(88800.人)と石田光成の西軍(83200人)が、大激突した地で「天下分け目の決戦」として知られています。戦闘員の数は旧日本軍部の「日本戦史」によりますが、TLLで17万人とは、「天下分け目の決戦」としては意外なほど少ない気がします。ところでこの戦いの『大義名分』はなんなのでしょうか…?今風に云うなら…「先代社長の社外重役が2代目社長や重役達に反旗をひるがえした」という事になるのですが…(苦笑)。
150727_02
戦いは午前8時頃に始まり一進一退を繰り返したのち、小早川秀秋の裏切りにより東軍有利となり2時過ぎには決着してしまいます。もっとも裏切ったのは小早川だけではないのですが…。家康の事前工作の巧みさや石田三成の人気の無さが重要な要素になったと思います。 一度はこの場所に立ってみたいと思ってきました。「激戦の地」に立つと関ヶ原の地形が良くわかります。標高のない山が連なり、激戦地は盆地のような平坦地です。資料による東西軍の配置を照らし合わせると不思議な気分になってきます。本来はもっと長期戦になるはずの戦いが半日で決着は両軍とも予想外のことだったのでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
150727_03150727_04150727_05

多賀大社

150726_07
関東の人にとっては関ヶ原・彦根・琵琶湖はどうしても新幹線での京都・大阪方面の通過点との認識が強いようですね。歴史ある神社・仏閣や戦国武将の居城が数多くあるのですが…。この【多賀神社】も「お多賀さん」の名で親しまれた「古事記」にも記載がある滋賀県第一の大社です。ご祀神は伊邪那岐命・伊邪那美命とあり、延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉~江戸時代にかけては伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わっています。戦国武将の武田信玄は25歳の厄年に厄除け祈願に黄金2枚を寄進しており、天正16年(1588)には、多賀社の信仰が篤かった豊臣秀吉は母親の病気に際して「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い1万石の寄進をしていたそうです。 ご祀神の子供が伊勢神宮の天照大御神とあることから【 お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる】・【お伊勢7度熊野へ3度 お多賀さまへは月参り】との俗謡もあったそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
150726_08150726_09150726_10
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ