旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2016年02月

有楽町は有樂齋?

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織田長益=織田有樂齋如庵は織田信長の13歳年下の弟です。有楽町の地名はこの【織田有樂齋の屋敷があった】のが由来との説がありまが、信長の弟とはいえ関ヶ原以前は豊臣家臣(つまりは外様)ですからこの説には無理がありますね(苦笑)。閑話休題。有楽町駅の開業は1910年(明治43年)で、烏森駅(現新橋駅)から延びる高架に鉄道院東海道本線の駅として開業しています。という事は…普段何気に見ている煉瓦造りの高架はこの時代からの構造物なのですねっ。無粋ともいえる橋桁構造や煉瓦壁に残る丸い装飾の跡などに歴史を感じさせる雰囲気に満ちています。駅前には大岡越前守で有名な”南町奉行所”が中央口駅前に近辺に遺構がありますが、奉行所正門は数寄屋橋側なので、この場所は奉行所の裏手となります。
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東京駅・事件現場

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1921年(大正10年)11月4日原敬首相が丸の内南口の改札付近で暗殺され、1930年(昭和5年)には構内の中央通路付近で濱口雄幸首相が銃撃されています。原首相はその場で即死。濱口首相は、1930年(昭和5年)11月14日、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するために東京駅構内を第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃されています。駅長室で輸血が施され、東京帝国大学病院にて、腸の30%を摘出する大手術を受け一命を取り留めてたのですが、この傷がもとで昭和6年8月26日に亡くなっています。二ヶ所の現場には「事件経緯の解説」が設置されていますが、濱口首相銃撃現場の方が人通りも多く判りにくいようです。手前の床面が”現場”で奥の円柱に解説板があります。
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北町奉行所跡(の碑)移転

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2013・7/1の項に東京都旧跡(1918年指定)の割には東京駅構内の「北町奉行所跡の碑」が【まるで"奉行所跡をさがせゲーム”のように不当とも思える扱いを受けている】とありますが、丸の内トラステシティ界隈の整備が完了したという事でしょうか、外堀通り・グラントウキョウノースタワー前と判り易い場所に移転しました。東京駅・八重洲構内ではなくなったのですが…。”この桜吹雪が~”で有名な『遠山左衛門尉景元』こと”遠山の金さん”が3年間(実際は3年で罷免、後に南町奉行として返り咲き)奉行として在任した北町奉行所=”金さんファンの聖地”が訪れやすくなったのは喜ばしい限りです。
以前は通用口の膝まずかなければ読めない場所にありました。ここのあった碑がそのまま移転しています。
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東京駅・第二乗車場…続

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旧第一乗車場(3・4盤ホーム)から見える緑の柱は開業時の遺構です。という事は…Pt↑)5番ホームの煉瓦積み部分は1914年東京駅開業時のホーム遺構なのでしょう。東京駅の開業時には、現丸の内南口が出発者専用改札口(現丸の内北口は到着者専用)で現八重洲側には改札設備はありませんでした。一日の列車数が40本程度と、現在からは想像すらできません。実はこのホームは”老巧化”という事でいつの間にか屋根の造作が変わっています。数年前までは開業時の架線支柱が残っていたのですが…。ホーム神田よりの錆錆&ボロボロの架線支柱は開業時のものではないと思います。
官設の旧新橋駅(1872年開業)と私鉄の上野駅(1883年開業)の上野~新橋間を結ぶ為に皇居正面の原野に造られたのが東京駅(中央停車場・1914年開業)で1919年に万世橋駅(1912年開業)~東京駅間が開通して、現在の原型となっています。
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東京駅・第二乗車場…壱

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いわゆる鉄道マニアではありませんのでサラットいきたいと思います。Pt↑)は東京駅5・6番ホーム(京浜東北線&山手線)の有楽町よりに残る東京駅開業時からのホームの柱です。ご親切に”案内板”を作っていただけたので見つけやすくなりました。戦前までは丸の内駅舎から第一乗車場(現3・4番ホーム)、第二乗車場(現5・6番ホーム)が中央・山手・京浜線の電車用として使われ(因みに第三&第四乗車場が東海道本線と横須賀線)ていました。後に中央線は高架となり東海道線はホームが嵩上げされていますが、第二乗車場(現5・6番ホーム)はホームが延長されるものの開業時の遺構(?)は残りました。
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Pt↑)の柱には『明治四十一年 株式會社東京・・・』…東京以下は削られて判読不能です。ホーム上に白く塗られた柱が何本、緑に塗られた柱が何本とは書きませんが、その他にも当時の構造物(?)のなごりが散見されます。特にPt↓)の階段真上にある構造物は『紋章』に見えるのですが…???。
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あヽ上野駅…(3)

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上野駅中央改札口の頭上の壁に大作の壁画です。この作品は高松出身、東京美術学校(現東京芸術大学)洋画科を卒業の『猪熊弦一郎画伯』の『自由』という作品です。昭和26年(1951)から上野駅の中央改札口を見下ろす位置にある(あった)そうですが、実はじっくりと見上げた記憶がありません(苦笑)。それだけここの景色としてあたりまえの存在になっているのでしょう。猪熊画伯は、調べていたら三越デパートの包装紙を手がけた方とありました。
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こちらも大作です。中央改札口の券売機上に設置されたステンドグラス。『ふる里日本の華』というタイトルです。作者は文化勲章受章者の『平山 郁夫』。東北・上越新幹線の開業にちなんで、
扇形に描かれた種々の花がいろどり美しく咲き乱れる作品です。
Pt↓)中央改札口付近です。平山郁夫のステンドグラス、猪熊画伯の壁画、朝倉文夫の翼の像の位置関係はこんなです。他に石川啄木の歌碑やらも、駅前の跨線橋には”ジュエリーブリッジ”…なんすかねえっ?
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あヽ上野駅…(2)

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お住まいが近く(台東区谷中)なのが理由なのでしょうか(?)上野駅構内には明治から昭和を代表する彫刻家「朝倉文夫」の作品が2点あります。”美術館クラス”の作品なのですが無造作にデンとあるのも上野駅らしいようです。Pt↑)中央コンコース(改札の外)”待ち合わせの場所”として有名な『翼の像』です。上野駅開設70周年&『特急はつかり』運転開始記念として1953年(昭和28年)に作られたとあります。いつも待ち合わせの人達が取り囲んでいます。
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もう一点は中央改札から入って中距離電車の下のホームの『三相』…智・情・意という題の作品です。…【昭和33年10月10日上野駅開設75周年式場に出席した浅倉文夫が、たまたま明治16年自分の誕生日と同じなことに感激し台東区を通じて像を寄贈した。 昭和34年5月5日 日本国有鉄道】…とあります。こちらの方が無造作感に溢れ「なんでこんな所に裸のねぇちゃん像が?」という感じです。 あの”朝倉文夫”の作品なのですが…。

あヽ上野駅…(1)

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上野駅の開業は1883年(明治16)、私鉄の『日本鉄道』の上野~熊谷間の起点駅として完成。翌1884年(明治17年)に開業式が行われています。「民」の開業式でありながら明治天皇が臨席するなど、当時としては”特別感”に満ちていたようです。駅の構内には首都を代表する駅である様子が各所に残っています。Pt↑)は広小路口にある昭和50年に廃止になった集団就職列車の様子、昭和39年の大ヒット曲「あヽ上野駅」の歌碑です。廃止となった18番ホームへ集団就職列車で着いた子供達には”東京の街”がどう感じたでしょうか?上野駅=集団就職=映画「Always三丁目の夕日」で描かれました。
Pt1を1つとばして、正面玄関にある皇族や外国からの賓客が利用した「貴賓室」の入口です。東京駅駅舎のような駅舎復原工事は無理でしょうが、貴賓室だけでも復元して欲しいものです。
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NHK放送博物館

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港区愛宕の『NHK放送博物館』が2016.01.30にリニューアルオープンしました。…【月曜&末年始休業、09:30~16:30、入館料・無料】…。リニューアルと云われても”以前”の記憶が薄れてしまって、どこがどう変わったのか定かではありません(苦笑)。ただし、間違いなく放送機器の変遷展示は充実しています(!)。個人的には…朝の連ドラも大河ドラマも紅白歌合戦も殆ど見ていないので、この辺りは困ってしまうのですが…。
Pt↑)は終戦時の陛下の玉音放送音源のコピー盤で、現在放送に使用される玉音放送はこのレコードを音源としているおり、窒素ガスを充填したケースに入り保管・展示されています。宮内省のでの録音の模様や録音機器も併せての展示となり、ここだけでも一見の価値があります。玉音放送の全文も展示されていますが、この放送内容でどれだけの方々が正確に理解できたのでしょうか…???
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