旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2016年04月

そうだっのか?今戸神社

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江戸幕藩体制化から明治初期に関八州の穢多・非人身分を支配する『弾左衛門』という職名(同時に人名)がありました。身分的は被差別階層で、皮革加工や行灯の芯などの製造販売の独占的な支配が許されてた人達です。学校教育の場には絶対に登場しませんが『弾左衛門制度』を調べていくと『そうだったのか!』と目から鱗の話が続々と登場します。山谷堀を渡たり、現今戸神社近辺が弾左衛門屋敷跡なのですが、今戸神社は江戸の地図には「八幡社」とあります。神社縁起には1063年頃源頼義・義家が創建した「今戸八幡」と弾左衛門縁の「白山神社」を1937年に合祀したとあります。という事は…白山神社の祭神が”伊弉諾尊・伊弉冉尊”の夫婦の神なので『縁結びの神』ですかね(?)。「招き猫発祥の地」の伝承も、浅草寺で売られた”今戸焼きの猫”によるらしいのですが(?)猫の伝承なら山谷堀の西芳寺(巣鴨に移転)の”高尾太夫伝承”のほうがしっくりきます。さらに『新撰組・沖田総司の終焉地』との碑もあるのですが、お墓ならともかく”終焉の地”は千駄ヶ谷にもあります。実にミステリーに溢れた神社です(笑)。
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待乳山の聖天様

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浅草寺の裏手(徒歩約10分)の待乳山の聖天様。浅草寺子院の「本龍院」で待乳山は”山号”です。隅田川の川端ですがこの付近だけが小高い丘になっています。『江戸名所図会』によるとここから見る隅田川の眺めが絶景とされていたそうですが、今は見る影もありません。本尊は歓喜天(聖天様)・十一面観音が安置されています。本堂へは階段を登っていきますが、裏手の駐車場側には年配者の参拝が多いのか”ミニ・ケーブルカー”が造られています。本堂から振り返ると聖天様の地形が”前方後円墳”のような形状です。例によって「日本三大聖天」と称されているようですが、他には浅草の待乳山聖天、奈良の生駒聖天、静岡県小山町の聖天堂、桑名市の桑名聖天(大福田寺)、熊谷市の妻沼聖天とあり、「三大」を選べということでしょう。作家の池波正太郎氏の生家はお隣との事で記念碑が造られています。
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築地・日本海軍の街…(Ⅱ)

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Pt↑)は場内市場の「水神社遥拝所」にある『旗山』と刻まれた石碑です。「遥拝所」は昭和10年に魚河岸が移転してきた際に造られ、ここから神田明神境内の「水神社」本殿を拝むことができ、『旗山』と刻まれた石碑にはこの地に日本海軍があった旨が記載されています。日本海軍以前の江戸後期の寛政年間には松平定信の下屋敷があり『浴恩園』と名付けられた”汐入回遊式庭園”がありました。この「水神社」の場所が築山と思われます。朽ちて判読困難な碑の近くには通常は車両が駐車しており、女子トイレ奥の碑は金網越しで見られませんが、手前の碑には『浴恩園之図』の文字が判読できます。
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皇居参観当日受付の愚

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【事前申請が必要な皇居の一般参観について、4/18〜22日は当日の受付も実施し、6月下旬から当日受け付けを本格実施】との発表があり、今日(4/20)出かけてみました。結論から言うと、これは”皇居参観”ではなく”皇居ぐだぐだ歩き会”です。通常の事前予約による1回あたりの定員はMax250名(?)、これに当日受付枠300名(AMの場合)が加わりMax550名(!)です。(今日のAMは450名。宮内庁の目標は500名/1回との事です)。これでは粛々たる皇居参観は無理というものです。日本人年配者や訳も判らず参加した外国人で450名ですよ(笑)。職員さんの案内説明は聞こえず参観者の列は100mを超え、写真を撮りながらぐだぐだ歩くとなりました。桔梗門前の受付け待機場所には”日陰”などありません、6月以降となれば熱中症の方が続出するでしょう。さらには”民度の低い国の方々”が大挙押し寄せたら事件・事故確実です。正直「皇居参観当日受付」は再考された方がよろしいかと思います。粛々たる参観のイメージが失われ単なる観光地に成り下がることになるのでしょうか…?「皇居参観当日受付」での参観者水増しは愚行です。
Pt)は参加者待合室の「窓明館」です。この部屋にこれだけの人がいるのを見たことがありません。宮殿では先頭と最後尾が100m以上離れています。折り返しの正門鉄橋の橋上。いやいや大変な人数です(笑)
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築地・日本海軍の街…(Ⅰ)

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Pt↑)は築地場内市場からの築地癌センターです。今迄にも触れてきましたが、幕末から明治時代は築地は日本海軍の街でもありました。1869年(明治2年)元芸州屋敷内に「海軍操練所」が創立され、翌1870年には「海軍兵学寮」と改称さらに1976年には改称されて「海軍兵学校」が開校となっています。築地癌センターの敷地には「海軍大学校」・「海軍病院」と変遷していきます。…癌センター裏には海軍兵学校と医学校跡の記念碑があるそうなのですが、ご覧のように工事中立入禁止となっていました。1855年(安政2年)長崎に「海軍伝習所」が完成、2年後の1857年(安政4年)に築地の地に「軍艦教授所」が創設され勝海舟が「軍艦操練所」と改称し教授方頭取を務めています。、晴海通りの”かちどき橋の資料館”の晴海通り寄りには「海軍経理学校の碑」があります。
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築地・新島原遊郭

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江戸末期から明治初年にかけて築地が「外国人居留地」であったのは知られていますが、1868年(明治元年)から約3年間、現新富町に130軒の遊郭と1700人の遊女がいる大規模な遊郭があったのは知られていません。居留地造成時に家田中蔵、木下宗四郎の両名が5万円の冥加金を上納して、本多隠岐守・井伊掃部頭の屋敷跡に『新島原』と称する外国人向け遊郭を開いています。この遊郭は不人気で1871年(明治4年)には廃止になり、翌1872年、跡地には「新富座」が開場されるも関東大震災で倒壊。そのまま廃止となっています。現在は『新島原遊郭』を思わせるモノは何一つありません。現京橋税務署敷地(中央区新富2-6)に「新富座跡」の案内板があり、税務署近くの「新富稲荷社」は新島原遊郭の中万字楼(家田中蔵)前にあり「中万字稲荷」と呼ばれていたようです。この辺りが遊郭の中心だったのでしょう。
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気象庁・気象科学館

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千代田区大手町1丁目の気象庁内に「気象科学館」があります。思いっきり目立たない施設ですが、展示内容は、気象や地震の観測機器・天気予報・緊急地震速報・津波・火山等が意外なほど多岐に渡る展示内容です。開館は10時~16時、恐らく土・日・祭の休み無し、無料、見学所要時間1時間程度です。
庁舎入口でガードマンに「気象科学館」見学の旨を伝え入館証を交付してもらいます。この辺りはいかにも官庁と云った感じですが書類への記入などは不要でした。わざわざ目的として行く施設ではありませんが…。何かのついでという感じなら宜しいかと…(笑)。
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ブートCDの裏通り・39

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2016 年4月13・15・16・18・19の5日間でEC御大の日本公演(武道館)が予定されています。という事で、シンコーミュージックより【クラプトン・イン・ジャパン】なるムック本(¥2200別)が発売されておりました。、1974年の初来日公演から2014年(前回)までの告知ポスターやらステージ写真やら、圧巻は全公演日のセットリストや全曲目・演奏回数ランキング等々、使用ギターの変遷もあり「こんな本売れるのかぁ!」という内容です。これでブートの一覧があれば…。そうもいきません。Beatleg誌 2004 Janには1974~2003年までの来日公演ブートが掲載されており重宝しております。
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それにしても2014年の来日公演は”神は死んだ”と思えるくらい。音だけ聴いてもソロはそこそこで、ミストーンを多発。”インフルエンザ”で絶不調だったらしいのですが…。”もうだめなのかぁ”と思っていたら2015年5月のロンドン公演では別人の復活劇(!)。さて、今回はどうなることでしょう…?

野菜&果物・築地青果市場

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築地市場はどうしても『魚』のイメージが強いのですが、どうして『青果/野菜・果物』も扱われています。Wikiによると…2005年の取扱数量は、全品目合計で約916,866㌧(1日当たり水産物2,167㌧、青果1,170㌧)、金額にして約5657億円(1日当たり水産物1,768百万円、青果320百万円)…これはかなりの数字です。
市場正門から隅田川に向かって右側が青果市場です。見学に行った時間にはすでにセリは終了しセリ場もきれいに片づけられ、仲買いさんの店舗も多くは閉店していました。セリ場の掲示によると、野菜:促成は6:30、その他は7:00。果実は7:00(アールスメロンは8:00)とありました。Ptのように段ボールに入った商品が並べられているのですが、見慣れた魚の仲買いエリアとは印象がかなり異なります。
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太田道灌「追慕の碑」

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皇居東御苑・平川門近く(毎日新聞社前)に太田道灌「追慕の碑」なる碑があります。解説板によると…この碑は太田道灌没後(主君による粛清)450年を記念して建立されたとあり更には平成19年が太田道灌江戸城が長禄元年(1457)に築城550年ということで都市東京と千代田区の繁栄を築いた…云々とあります。解説板の内容は間違いではないのですが、”粛清”で死んでから450年記念とは…。太田道灌透資長(1432~1486)は室町時代の武将で、「江戸」という地名は道灌が滅ぼした豪族「江戸氏」によります。武蔵国の田舎娘に馬鹿にされるくらいですからたいした教養ではありません(笑)。一方、豊臣秀吉の国替え命令で徳川家康が江戸の地に入ったのは1590年。両者は100年以上の隔たりがあり関連性などありません(!)。江戸城といっても、諸説はありますが実際のところ”太田道灌江戸城”の場所は正確には判っていません。なんでこの場所にこんなモノを作ったのでしょうか…?釈然としません(笑)。
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目黒川・さくら

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『目黒川・さくら』…説明はいりません。見事です(!)。今日は午前中は皇居・乾通り、午後は目黒川と「さくら」のハシゴとなったのですが、この絵こそイメージ通りの”満開のさくら並木”です。某社のアンケートでは「この春行きたい国内の絶景スポット」の8位(微妙)だそうですが、池尻大橋駅付近から目黒駅付近までの約3.8kmの川沿いに約800本のソメイヨシノが並木が続きます。玉川通りから目黒橋までは川幅が狭く、さくらがより密集しているように感じます。
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