旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2016年06月

ブートCDの裏通り・43

160630_01
Pt↑)は”Top Gear”と称するメーカーのLed Zepplinスペイン製(?)CDです。 現在(6/30)Amazonの通販で¥4480(右)と¥5980(左)で掲載されています。どう見たってこれはブートですねっ。手違いor勘違いなのでしょうが”あの”Amozon通販に掲載されてしまう事があるようです。因みに右は1669年10月のパリ公演、ラジオ放送音源でしょう。左は1970年9月のLos Angeles Forum公演、マニアには”BlueBelly Hill"として知られる超有名音源です。ライブバンドとしてのZepのピークの演奏なので音質はともかく内容が悪い訳がありません。…(カ●ハシ・レコードの通販サイトではお安く売られているようです)…
160630_02
西新宿某店舗のギフトCDRに面白いブツがありました。1976年のZepの映画=『永遠の詩(狂熱のライヴ)』=のサントラ盤で1973年のNY公演です。LPそのままでCD化→2007年にボートラ6曲追加で「最強盤」として再発されてきましたが、全曲収録でも演奏順でもありませんでした。それをまぁ、どこかの阿呆が”オリジナル・リリース40周年記念”とかであっちこっちから集めた音源を切り貼りやら並べ替えの技を駆使してコンサートのフル再現しています。これが思いのほか内容が良く充分楽しめます(!)。こういう阿呆なら大歓迎です。

東大農学部ハチ公像

160627_00
さて犬の銅像シリーズ(?)の今回はスーパースター”忠犬ハチ公”です。この像は東京大学農学部の正門を入ってすぐ左側にハチ公没後80年にあたる2015年3月8日に除幕式が行れたもので、ハチ公がうれしそうに上野博士とはしゃぐ姿が表現されています。ハチ公単体での銅像は秋田や渋谷などにありますが、両者での作品は初めてではないでしょうか?上野英三郎博士没後90年、ハチ公没後80年で両者が再会となった事になります。ハチ公の”忠犬神話”は新聞社による捏造とか修身の教科書にも使われた軍国主義時代のシンボルだったとかの話がありますが、この「ハチ公と上野英三郎博士像」を見ると純粋に「ハチ公よかったねっ」と思えてくるのは何故なのでしょう…。正門を入った右側には“農学資料館”があり、こちらには上野博士の功績と銅像や、ハチ公死亡解剖時の内臓(死因はガンとフィラリア)が展示してあります。Pt↓)は上野科学博物館にあるハチ公の実物の剥製です。
160627_01160627_02160627_03

三宅坂・謎の群像

160622_01
千代田区隼町、三宅坂に面した一画に「平和の群像」というタイトルの3体の裸婦の群像があります。最高裁判所の敷地の一角と云う感じで公園の造作はしっかりしており、最高裁関連の施設と思えるのですが…。なんとこの裸婦像は広告屋電通の前身である”日本電報通信社”が1950年に自社の創業50周年記念として建設したものです。近くで見ると台座と裸婦像のバランスがえらく悪いのですが、それもそのはずこの台座は元々寺内正毅陸軍大将の騎馬像が乗っており、寺内大将像の台座のみの流用使用したものです。それにしても一企業の記念碑が何故この地に…。委細は不明です。
160622_02160622_04160622_03

新宿・熊野神社

160617_01
西新宿の新宿中央公園西側にある「熊野神社」です。他の熊野神社と区別する為か「新宿十二社熊野神社」もしくは「新宿熊野神社」と呼ばれたりしています。場所がら”新宿の総鎮守”ですが、元々は室町時代の応永年間(1400年頃)地元の金持ちが、故郷の熊野三山より「若一王子宮」を勧請、後に熊野三山の十二所権現すべてを勧請、十二所権現とも熊野社とも呼ばれたといいます。新宿中央公園の敷地内のような感じですが神社の方が歴史があり、江戸時代は江戸郊外の景勝地として知られ、ご多聞にもれず最盛期には茶屋や料亭が約100軒もある歓楽街(花街)だつたようです。以前、神社近くに「新宿十二社天然温泉」というコーラのような色の温泉施設があったのですが、残念ながら2009年に閉店していました。
160617_02160617_03160617_04

新宿中央公園の…

160618_01
知事に会いに行った訳ではないのですが、所用で東京都庁へ行ってきました。都庁後方が「新宿中央公園」。総面積8万㎡を超えるかなり広い公園です。元々は別項の熊野神社の敷地の一部で、明治35年にコニカ(小西六写真工業/現コニカミノルタ)の工場があり、園内の「写真工業発祥の地」の碑はこの事です。同社の移転後、昭和38年の新宿副都心計画の一環として昭和43年に開園しています。緑の木々越しの新宿高層ビル群はいい感じです。
やはりと云おうか銅像を数点見かけました。髪の毛をかきあげているのはタイトルが「髪」像で制作者は渡辺弘行。膝を抱えて座っているのが「瞳」像で製作者は分部順治とあります。「髪」はまだしも、「瞳」はなんで「瞳」なのか判然としません(苦笑)。この他にも数点ありますが、どうでも良くなります。
160618_02160618_03160618_04

本願寺さんの自販機

160616_01
築地本願寺さんの北門を出て明石町方面へ、仏具店の先に某飲料メーカーの”ドギツイ赤”の奴と異なる5台+の自販機が並んでいます。Pt↓)の北門の色と同じなのですが、もしかしたらこれが本願寺カラーなのですかねぇ…?川越の街などは落ち着いた色合いの自販機があるにはありますが、壁面に書かれた絵柄、特に空缶入れの辺りの特徴的なタワーを中心として、5台+の自販機を使って築地本願寺さんの絵が描かれています。日常的に通る道ではないので気が付かなかったのですが”なかなかやるわい”の気分になります。
160616_02160616_03160616_04

「列車非常停止ボタン」を押すと?

160609_01
2001年の新大久保駅での3人が死亡した線路転落事故以来、JRホームには「列車非常停止ボタン」が駅によっては10m間隔で設置されるようになりました。以下は某書籍に載っていた「列車非常停止ボタン」が押されるとどうなるです。…【ボタンが操作されると停止信号・防護無線が半径1㎞に亘り発報され、無線を受けた電車は緊急停止される仕組みとなっています。操作された駅では救護の要不要に関わらず、線路などを入念に安全確認しなければならず、復旧に至るまでは最低10分ほどの時間を要することになります】…靴が脱げて線路に落ちた程度の原因でも、規定の安全確認後でないと運転開始はできません。「そこまでやるのか」といっても「規定は規定」なのです。「列車非常停止ボタン」は本当の緊急事態以外は押さない方が無難のようです。
160609_02

続・日比谷公園の諸々

160608_07
Pt↑)は「第一花壇」と呼ばれる日比谷公園のシンボル的な景観です。明治36年開園当時には、幾何学文様デザインの公園は、江戸時代の広小路や寺の敷地とはさぞ異質なものであったと思われます。林学博士・本多静六の設計による日比谷公園は「日本人による日本初の洋式公園」として造られました。同博士は、福島県の鶴ヶ城公園や埼玉県の羊山公園、福岡県の大濠公園などの公園造成に携わり「公園の父」とも呼ばれています。日比谷公園のある場所は、江戸時代は大名の屋敷地であり、現在の日比谷交差点付近には見張り役人が警備する”日比谷御門”がありました。Pt↓)の日比谷見附の石垣は江戸時代初期の築造物です。その一部が「心字池」として残されています。
160608_08160608_09160608_10

日比谷公園の諸々

160608_01
明治36年6月1日に開園した「日比谷公園」は161,636.6㎡の広さがあり”ビジネス街に勤める人達の憩いの場”というお約束の映像によく登場しています。 幕末までは松平肥前守らの屋敷跡地で、明治時代に陸軍練兵場、後に日本初の「洋風近代式公園」として誕生しています。公園設計には様々な仕掛けが施されており”なんじゃこりゃ”というモノも多々あります。Pt1)はルーパ・ロマーナ(ローマの雌狼)の像です。この像自体はローマ帝國の建国伝承として有名ですが、昭和13年にイタリアから東京市に寄贈されたものとあります。ということは日独伊三国同盟と関連があるのでしょう(?)
160608_02
Pt↑)は「雲形池」です。案内には“開園当初からの面影を残すドイツ風庭園洋式の池”ということですが、「日本庭園」そのものに見えます。PT2↓)池の中央にある「鶴の噴水」が置かれ…。冬場の凍りついてツララ下がる景色は日比谷公園の冬の風物詩です。この「鶴の噴水」は1905年(明治38年)に東京美術学校(現東京芸術大学)の津田信夫、岡崎雪声の作品だそうです。公園等に置かれた装飾用噴水としては長崎諏訪神社、大阪箕面公園に次いで日本で3番目に古いそうですが。どうでも良い話です。Pt3↓)腐食が激しい鋳物製の馬の水飲み場です。アルタ前広場のものとは印象が異なります。Pt4↓)は日比谷公園第一花壇の「自由の女神」の像です。
160608_03160608_04160608_05

八重洲地下街の獄門首

160606_01
東京駅八重洲地下街にある見ようによっては何とも異様な像です。モデルはヤン・ヨーステンという名のオランダ人で、いつの間にやらこんな場所に移転していました。Pt↓)のように”記念碑”というより”お墓”のような感じです。ヤン・ヨーステンは江戸時代初期に九州豊後沖で船が難破して日本に定住、後に徳川家康により和田倉門付近に屋敷を与えられています。和田倉の屋敷付近がヨーステンの名から八代洲(ヤヨース)河岸⇒「八重洲」の語源となっています。 この像はヤン・ヨーステンを記念してオランダ人の作者による作品ですが、獄門首、さらし首にしか見えません。
160606_02
で、こちらが1600年4月豊後(現大分県)沖で難破した時に乗っていた「デ・リーフデ号」です。 この彫刻は1980年オランダ首相来日の際に日本政府に寄贈されたものです。場所は東京駅を挟んで反対側の丸ビルの南西側にあります。こちらの方が ヤン・ヨーステンの屋敷に近いことになります。なお「難破船デ・リーフデ号」には航海長として英国人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)も乗っていました。
160606_04160606_03160606_05

銀座8丁目の踏切信号機

160603_02
”銀座の残された唯一の鉄道踏切信号機”として有名(?)なのが、銀座郵便局」の横に残された「浜離宮前踏切」です。旧国鉄時代に築地市場の「東京市場駅」への貨物引き込み線なごりで道路隅に信号機」だけが残されています。
案内板(1)には…【浜離宮前踏切 中央区銀座八丁目21番1号先・ この信号機は、昭和6年(1931)から昭和62年(1987)1月31日までの56年間、国鉄汐留駅と東京と中央卸売市場築地市場との間を貨物引込線の踏切用として使用されました。 最盛時には、1日150輌に達する貨物車が通過しましたが、貨物輸送の変化に伴い、汐留駅廃止と共に引込線も撤去される事になりました。しかしながら、地元民の要望により、銀座には珍しい鉄道踏切信号機として、保存されることになりました。昭和62年(1987)12月】とあり、
案内板(2)には…【保存理由・ 元この高速道路の下には汐留川が流れ、鉄橋も架っていました。汐留駅は、わが国の鉄道開業当時における始発駅の新橋駅でしたが、大正3年(1914)東京駅が中央駅になると、ここは貨物駅になりました。大震災後、築地に東京市中央卸売市場が完成すると、汐留駅と市場間に荷物運搬のための線路がしかれ、大きな働きをしたのです。都民の暮しの台所を支えて来たこの信号機を、国鉄廃止に当り捨て去られるのにしのびず、東京都中央卸売市場築地市場、東京都第一建設事務所並びに中央区教育委員会、地元各位の多大な御協力に依り、ここに永久保存されることになりました。昭和62年(1987)12月 銀座御門通り会 銀座金春通り会】とあります。
160603_01160603_03160603_04
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ