栃木市と言えばの”定番景色”です(笑)。白壁の土蔵が巴波川の水面に映り・・。テレビなどに幾度も登します。この白壁土蔵は「塚田歴史伝説館」で、江戸弘化年間(1844頃)に材木を巴波川から利根川経由で江戸まで運ぶ木材回漕問屋の商家跡です。実際はこの”遊覧船”は手前の橋脇の乗船場からの約120m(?)を往復しているだけです。映像で切り取れば九州・柳川や松江、倉敷、彦根、水郷佐原の景観と似ていますがホントに”これだけ”です。映像のマジックとはこの事です。
・・・・・・・・・贔屓目に見ても”物資の集配地”として栄えた街という共通項で、「小江戸」やら「関東の倉敷」とは言い過ぎです。県観光交流課によると平成26年度は563万人も訪れているようで、街の観光案内パンフ、道案内板などは充実しています。それはそれとして、街で感じる”違和感”は何なんでしょう?。古そうな街並み、似たようなB級グルメ、ノスタルジーを喚起する仕掛け、そしてユルキャラとお祭。どこの街も変わり映えがしません(苦笑)。栃木駅~新市役所~例幣使宿場町~県庁堀~ここまで、各々の間は徒歩15分程度なので1日で充分楽しめます。
・・・・・・・・・・・・・・・・Pt↑)も観光資料に良く使われる写真です。昔の県庁があった地に場所に”町役場庁舎”として建てられた木造2階建塔屋付の洋風建築です。数年前まで市役所庁舎として使用していたのですが、現在は空家のような感じです。栃木市は廃藩置県令により下野の国が栃木と宇都宮県に分割され、明治6年(1873)に宇都宮県が廃止、当時の栃木町が県庁所在地となのですが、明治17年(1884)には県庁が”宇都宮”移転し、県都の栄光は僅か13年です。当時の県庁敷地跡を囲む「県庁堀」と呼ばれる約1kmの掘割には旧市役所庁舎や県立栃木高校残っています。街には緑も多く巴波川や県庁堀、点在する古家や寺社などに街の栄枯盛衰の歴史風景が点在していますが…。
・・・・・・・・・このあたりが例幣使街道のようです。『例幣使』とは、徳川家光により日光東照宮に徳川家康霊廟が造営されると、幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納(要は”頭を下げに来い)と要求。朝廷側は正保3年(1646)から日光に勅使 (例幣使) を派遣するようになります。『例幣使』となった貧乏公家は朝廷と幕府の権威をを持って道中ここぞとばかりの我儘放題で、宿場町は大変な迷惑をこうむったようです。そのために整備された街道が『日光例幣使街道』で、中仙道倉賀野宿から日光西街道・楡木宿までの14宿を言います。日光東照宮では4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われ、これに合わせて京都を出発。15日に日光到着し翌日の奉幣後はとっとと東海道を通って帰っていきます。そんな宿場町跡が残っているようですが、面影なんざぁ何処にもありません(笑)。
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この倭町(ヤマチマチ)信号辺りが商業的に賑わった場所なのでしょうか(苦笑)。なんか寂しい感じがします.昨今は大型商業施設などは郊外に出店し、以前の街の中心の商業施設は寂れてしまいます。この街にも。登録文化財、看板と異なる商店、資料館などの観光施設がポツリポツリと並んでいますが、朽ち果ていく普通の店舗の方が圧倒的に多いようです。残念ながらこの傾向は全国的な現象です。
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栃木県栃木市には江戸から明治時代の蔵や商家などが残っており「小江戸」や「関東の倉敷」とも呼ばれているそうです。巴波川(うずまがわ) を中心とした船運や京都朝廷から日光東照宮への使者(例幣使/れいぜいし)の宿場町として繁栄した時代があったにしても 「関東の倉敷」は言い過ぎです(笑)。Pt↑)はJR両毛線と東武日光線の駅舎です。駅再開発の象徴にしても駅近には飲食店もまばらで、駅前は「蔵の街って何処じゃい?」の感があります。「蔵の街」へは、駅北口からは”蔵の街大通り”を1km(15分)ほど歩きます。道路は広く交通量は少なく、電柱は撤去され景観はよろしいのですが、高い建物がなく商店もまばらです。駅前広場には「山本有三氏」=路傍の石の作者の文学碑なんてのもあります。
・・・・・・・・・贔屓目に見ても”物資の集配地”として栄えた街という共通項で、「小江戸」やら「関東の倉敷」とは言い過ぎです。県観光交流課によると平成26年度は563万人も訪れているようで、街の観光案内パンフ、道案内板などは充実しています。それはそれとして、街で感じる”違和感”は何なんでしょう?。古そうな街並み、似たようなB級グルメ、ノスタルジーを喚起する仕掛け、そしてユルキャラとお祭。どこの街も変わり映えがしません(苦笑)。栃木駅~新市役所~例幣使宿場町~県庁堀~ここまで、各々の間は徒歩15分程度なので1日で充分楽しめます。
・・・・・・・・・・・・・・・・Pt↑)も観光資料に良く使われる写真です。昔の県庁があった地に場所に”町役場庁舎”として建てられた木造2階建塔屋付の洋風建築です。数年前まで市役所庁舎として使用していたのですが、現在は空家のような感じです。栃木市は廃藩置県令により下野の国が栃木と宇都宮県に分割され、明治6年(1873)に宇都宮県が廃止、当時の栃木町が県庁所在地となのですが、明治17年(1884)には県庁が”宇都宮”移転し、県都の栄光は僅か13年です。当時の県庁敷地跡を囲む「県庁堀」と呼ばれる約1kmの掘割には旧市役所庁舎や県立栃木高校残っています。街には緑も多く巴波川や県庁堀、点在する古家や寺社などに街の栄枯盛衰の歴史風景が点在していますが…。
・・・・・・・・・このあたりが例幣使街道のようです。『例幣使』とは、徳川家光により日光東照宮に徳川家康霊廟が造営されると、幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納(要は”頭を下げに来い)と要求。朝廷側は正保3年(1646)から日光に勅使 (例幣使) を派遣するようになります。『例幣使』となった貧乏公家は朝廷と幕府の権威をを持って道中ここぞとばかりの我儘放題で、宿場町は大変な迷惑をこうむったようです。そのために整備された街道が『日光例幣使街道』で、中仙道倉賀野宿から日光西街道・楡木宿までの14宿を言います。日光東照宮では4月15日から家康の命日の17日まで大祭が行われ、これに合わせて京都を出発。15日に日光到着し翌日の奉幣後はとっとと東海道を通って帰っていきます。そんな宿場町跡が残っているようですが、面影なんざぁ何処にもありません(笑)。
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この倭町(ヤマチマチ)信号辺りが商業的に賑わった場所なのでしょうか(苦笑)。なんか寂しい感じがします.昨今は大型商業施設などは郊外に出店し、以前の街の中心の商業施設は寂れてしまいます。この街にも。登録文化財、看板と異なる商店、資料館などの観光施設がポツリポツリと並んでいますが、朽ち果ていく普通の店舗の方が圧倒的に多いようです。残念ながらこの傾向は全国的な現象です。
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栃木県栃木市には江戸から明治時代の蔵や商家などが残っており「小江戸」や「関東の倉敷」とも呼ばれているそうです。巴波川(うずまがわ) を中心とした船運や京都朝廷から日光東照宮への使者(例幣使/れいぜいし)の宿場町として繁栄した時代があったにしても 「関東の倉敷」は言い過ぎです(笑)。Pt↑)はJR両毛線と東武日光線の駅舎です。駅再開発の象徴にしても駅近には飲食店もまばらで、駅前は「蔵の街って何処じゃい?」の感があります。「蔵の街」へは、駅北口からは”蔵の街大通り”を1km(15分)ほど歩きます。道路は広く交通量は少なく、電柱は撤去され景観はよろしいのですが、高い建物がなく商店もまばらです。駅前広場には「山本有三氏」=路傍の石の作者の文学碑なんてのもあります。