旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2016年09月

迎賓館赤坂離宮…参

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今年の夏「さよなら築地」と共に東京観光の目玉となった『迎賓館赤坂離宮』ですが、昨今は相次いで外国からの賓客の接遇のため一般公開が中止となる日が増えてきました。8月の最終週、9/25~10/1&11/1~30の公開は中止となり10月はほんの数日間だけが公開となりました。国家行事優先ですから致し方ありませんが、見学ツアーを目論んだ旅行会社は当て外れですね。なにせ明治42年から10年歳月をかけ、当初の予算の250万円が500万円(現在換算では900億円?)に膨らみ、昭和49年完成の”迎賓館改装”でさらに108億円が追加の「化け物建物」なのですから悪趣味とも感じる豪華絢爛鎖さは一度は見ておいても損はありません。聞くところによると、昨今は近隣住民から苦情が殺到しているようです。”交通整理の笛の音がうるさい”とは殆ど言いがかりですが・・・。迎賓館裏手は東宮御所、左はホテルニューオオタニ&上智大学。右は学習院です。となると苦情を訴えているのは東京最大の元大貧民街の”鮫河橋”辺りの住民ですかね?中韓が少ないだけ静かなのでしょうが(苦笑)。
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ブートCDの裏通り・44

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新宿某店舗のHPに”オッ”と思うものがありました。Pt↑右)は故Johnny Winter師匠の1974.San Diego.Sports Arena Liveの拡大(?)盤です。Pt↑左)はAmazonで購入したSan Diegoのキング・ビスケット・フラワー・ショーのFM Broadcast放送音源です。9曲中6曲がSan Diego+ボートラ3曲です。左からボートラ3曲が消え、未収録のBony Maronie.Rollin' Cross the CountryなどSan Diegoの4曲が追加されています。即買にはちょっと微妙です(笑)。とにかく1974年頃の師匠には手が付けられません。”Silver Train”での超絶スライドから”Jumpin' Jack Flash”へのStones2連発、怒涛のJohnny B. GoodeとJohnny・弾きまくり・ Winterの面目躍如です。この姿(演奏)が見たかったとつくづく思います。Winter師匠といえばPt↑右)のFirebirdですがPt↑左)のジャケではLes Paulです。音からするとLes Paulのようですが、やはり師匠にはFirebirdがお似合いです。

新宿駅上空・バスタ新宿

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つい最近(2016年4月)営業開始となった「バスタ新宿」へ行ってみました。「新宿高速バスターミナル」略して「バスタ新宿」かと思ったのですが、これが正式名称だそうです。新宿駅南口甲州街道の南側のJRホームの上空っていうんですかねぇ。7階建ビルの2~4階部分に高速路線バス関連施設が立体的に造られています。Pt↑)の発券カウンターはビル4Fにあり、外側に口の字状に方面別発車場が配置されています。新宿駅付近発着のバス会社をほぼ集約しているのですが、これで東京発の全路線という訳ではなく充実の高速バス路線網となっているようです。新宿からは九州博多が最長距離のようですが、ン十年前は東名夜行で大阪までは利用していましたが、もう体力的には無理か思います(笑)。
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そして太宰府天満宮

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長きに渡った「九州」の最終回です。アクシデントで回避した阿蘇・熊本・長崎・平戸は後日に譲ります。
鎌倉時代中期にモンゴル帝国が2度にわたり朝鮮半島経由で博多に来襲しました。平成の今は韓国人が財布を持って大挙して押しかけてきます。手には時代遅れの自撮棒、若い男は蔓の太い眼鏡に刈り上げ頭、若い女はみんな同じのサイボーク化粧。大陸民と違うのは会話が大声ないだけで容易に区別できます。Pt↑)は太宰府天満宮の本殿です。この造りは五間社流造といい明治40年(1907)に特別保護建造物指定、昭和25年(1950年)には重要文化財となっています。韓国の方々は、この神社が権力闘争に敗れ九州に左遷され失意のうちに死んでいった日本を代表する怨霊神「菅原道真」を祀る天神様だとご存知なのでしょうか?
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Pt↑)は、左遷時に詠まれた「東風ふかば~」の句にある梅の木です。実は梅・松・桜の木が道真の左遷先へ追ったのですが、桜は悲しみのあまり枯れ、松は神戸辺りで力尽き、梅だけが遥々九州までたどり着いたとの伝承があります。菅原道真には他にも様々な伝承があり、死後も京都で雷神として暴れまわるのですが、道真の故郷の「桑原」だけは被害がなかったので”雷除けのおまじない”が「くわばら、くわばら」となったとの話もあります。この方の「恨み」は恐ろしいもので、皇室系の神社だけの「宮」が付いた「天満宮」を許される(もう1社は徳川家康の東照宮)の好待遇の最たるものです。『あんたが大将!』と煽て『神様にするから、勘弁して!という事なのでしょう。
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1)太宰府天満宮の「心字池」には三つの赤い橋が架かり、過去・現在・未来を表しているといわれます。2)この撫牛は頭と顔が異様に光っています。足には盗難予防の足枷が…。盗む奴いるのでしょうかねぇ。3)天満宮への参道。名物の「梅が枝餅」の店はこの辺りに…。それにしても韓国人の多いことに驚きます。
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大刀洗・零戦32型

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大正8年(1919)完成の「大刀洗陸軍飛行場」は東洋一を誇る飛行場だったそうです。後、陸軍の飛行操縦教育の拠点(知覧は分校のひとつ)となり、戦争末期には本土防衛の基地となっていました。昭和20年3月。100機以上のB29の空襲により飛行場は壊滅してしまいます。大刀洗の分校があった知覧には「知覧特攻平和会館」があるのですが、本校の大刀洗には何もなかったことから、地元の個人により昭和62年(1987)に資料館が開館。その後、三輪町と夜須町の合併特例債を財源として平成21年(2009)「筑前町立大刀洗平和記念館」として開館しています。
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大刀洗空襲の資料や犠牲者の遺影、撃墜されたB29搭乗員の遺影などが展示してありますが、目玉は平成8年に博多湾から引き揚げられた世界で唯一機の旧陸軍97式戦闘機です。館内は97戦を含め資料関連は全て撮影禁止です。許可されているのは零戦32型だけですが、32型の実機はここだけなので実は貴重です。零戦32型はスピード・アップを図ろうと翼端を切り落とした形状をしています。生産は三菱のみで僅か343機です。
細かい話ですが…。大刀洗飛行場は陸軍さんの基地です。97戦はともかく海軍機の零戦は・・・許します(笑)。零戦の塗装(水平安定板の下)が中島の零戦です。日の丸の縁取りも・・・。32型にはこの組み合わせがあったかも知れませんが。
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Pt↑)の天井の針金細工のようなモノはB29の実寸です。零戦の実機と比べたらやはりデカイです。この記念館でも20分ほどの紹介ビデオが上映されています。お婆さんと曾孫が登場し「昔ここに陸軍さんの飛行場があって」から淡々と物語が進行していきます。東洋一の飛行場、賑わった街、空襲で死んだ友達、壊滅した街の記憶を曾孫に伝えるお婆さん。知覧での「お涙ちょうだい…」とは違った素敵な映像でした。
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なんじゃい佐賀!

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仕事柄全国の県庁所在地(の駅)は結構訪れています。地方都市(特に城下町)では駅と繁華街が離れていたりで、必ずしも駅前=繁華街ではないのですが、ここまで駅前に何もないのは佐賀駅がダントツかも知れません。駅前にはSEIYUがポツンと1軒(だけ)。ラーメン屋の一軒もありません(笑)。Pt↑)は「筑後川昇開橋」です。筑後川に架かる約507mの橋で昇降式架道橋としては国内唯一です。現在は遊歩道となっているそうですが、船の通過時は中央部分が上下に可動するという仕組みです。平成15年(2003)に国の重要文化財に指定、平成19年(2007)に良く判らない”日本機械学会”より機械遺産に認定されているそうです。翌日、寄り道して武雄温泉を目指しました。Pt↓)の楼門は東京駅のドームの壁面で留守扱いの鼠、兎、馬、鳥がいるのですが、台風の影響(台風は通過済)で残念ながら開店準備中でした。
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柳川はどしゃ雨…(2)

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この時間柳川はどしゃ雨で「川下り」なんてもんじゃありません。水郷と称される柳川には2㎞四方&延長距離60㎞の掘割りが網目状に巡らされています。江戸時代、柳川藩によって整備された掘割りは、生活用水や物資運送として利用されたきたのですが、「川下り」が街の観光要素となったのは昭和30年代とそう古い話ではないようです。西鉄柳川駅近くから乗船して約1時間。赤レンガの倉庫や”なまこ壁”(Pt↑)は柳川をならではの風景です。昔は仕事絡みで四季折々訪れていました。久しぶりで楽しみにしていたのですが…。「どしゃ雨の柳川」。これでは”絵”になりません。
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柳川はどしゃ雨…(1)

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Pt↑)は柳川市の「かんぽの宿柳川」の大浴場からです。台風の影響で雨が降ったり止んだり、天候が良ければ眼下には川下りの風景や御花、柳川の街が展望できます。柳川はかれこれ20年振りの訪問です。ここで暮らす方々はそうは思わないでしょうが、この街では時の流れがゆっくりしているようです。市の中心部は旧柳河藩の城下町、眼下の「御花」は旧藩主立花氏の別邸。ごくごく普通の城下町なのですが波長が合うというのか、お気に入りの街です。嬉しかったのは閉鎖が相次ぐ「かんぽの宿」の柳川の施設はまだ健在でした(笑)。
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旧藩主立花氏の別邸「御花」です。最初に訪れた時はホテル等もなく広々としたお庭でした。敷地内の船着き場に着いてバラ園を抜けて食事会場に向かいます。初めて食べた「鰻のせいろ蒸し」は…、今でも苦手です(苦笑)。「御花」も地震での被害を受けている様子であちこち修復中でした。和館にあった「ひな人形」達は、資料館に移され健在です。名勝「松濤園」は以前と変わらない佇まいで嬉しくなります。
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特攻平和会館の違和感

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昭和16年(1941)12月知覧町に福岡の大刀洗陸軍飛行学校の分教所となる陸軍飛行場が完成、昭和20年4月からは陸軍の沖縄戦特攻出撃基地となりました。この「知覧特攻平和記念館」の開館は1985年。館内には大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料が展示してあります。特攻作戦で死んでいった多くの若者達の遺影、遺書、絶筆の数々には胸をうつものもあります。時間をかけてみていくと、お涙ちょうだい的な資料映像や展示内容も多く不快感が湧き上がってきてしまいます。戦争マシンとして訓練され、人格を破壊された彼らが何を思って出撃して逝ったのか?後年、戦争の悲惨さを象徴する存在として来館者の涙を誘う事など望んだでしょうか?。現代の物差しや価値観で過去を判断するのはと良いことではありません。昭和20年の日本にそうやって死んでいった若者がいたこと覚えていてあげれば充分ではないでしょうか。『知覧特攻平和会館』の施設名にある”平和”の表現は何か変です(苦笑)。
館内の資料、展示物はすべて撮影禁止です。Pt↓)は昭和55年に鹿児島県甑島手打港から引き揚げた零戦です。・映画「俺は君のためにこそ死にに行く」の撮影用の「隼」三型の模型です。・撮影禁止の為流用しましたが、展示の目玉「四式戦疾風」の実機です。この機は里帰りした年に埼玉県の入間航空ショーで実際に飛行する姿を見ています。紆余曲折の末、知覧に落ち着きますが、飛行不可能な状態になってしまいました160908_02160908_03160908_04

懐かしの鹿児島…(Ⅵ)

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自論ですが、歴史の流れは必要な時に必要な人間が登場し役割が終わると不思議と退場していくようです。西郷吉之助(隆盛)にしても、勝海舟との江戸城無血開城までは徳川家撲派で挑発行為やテロ行為の急先鋒でした。勝とのこの一件で西郷の役割は終り、以降の西郷の立場や行動は変わっていきます。西南戦争でので西郷は自らの死に場所を探していたのでしょうか?。最強の薩摩軍が最低の作戦で敗れ城山に散っていきます。
Pt↑)は軍服姿での西郷像です。平成19年に地元の高校生が実測したところ、身長=5.257m、肩幅=1.368m、頭の長さ=92.4㎝あるそうです。像の後方の城山が終焉の地です。西郷はフィラリアに罹り睾丸が信楽狸状態で、検死確認の決め手となっています。
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もう一人が大久保一蔵(利通)です。2人の生家は驚くほど近く、同町内からは西郷従道、大山巌、東郷平八郎の生家があります。面白いことに2人の銅像は距離的にかなり離れています。大久保は鹿児島では嫌われものらしく苦肉の策のようです。明治以降の二人の立場を考えればさもありなんです。銅像は昭和54年(1979)に没後100年記念で造られています。大久保利通は明治11年(1878)齢47歳で現千代田区紀尾井町で、全身16ヶ所を切り刻まれた凄まじい殺され方をしています。同時に殺害された馬車の御者と馬は青山墓地の大久保の墓敷地に埋葬されています。青山墓地に人以外が埋葬されているのはこの馬だけです。
Pt↓)西郷吉之助&従道の生家跡です。・大久保一蔵の家跡で、生誕地はやや離れています。・桜島の姿が見えたのはこれだけです。
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懐かしの鹿児島…(Ⅴ)

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照国神社の鳥居から暮れていく”いずろ”方面です。鹿児島市照国町の照国神社のご祀神は「照国大明神」であり、嘉永4年(1851)に43歳で島津家28代当主となった「島津斉彬」のことなのです。斉彬は幕末の日本では国際情勢について確かな認識をもっていた藩主で、西郷吉之助や大久保一蔵らの下級武士も藩政に登用しています。安政5年(1858)に急死、跡を継いだのが島津久光です。 鹿児島市内では一番大きな神社で、藩主が神として祀られる例は江戸時代末から明治初期では流行だったそうです。日本国国旗の「日の丸旗」は、島津斉彬が1853年江戸幕府に対し”日本船の総印”として使用を発案したのが始まりとの説があり、境内にその旨の碑が造られています。
Pt↓)後方の山上が城山観光ホテルです。今は白い建物あたりにラブホテルが多く、城観で食事して階段を下って…がデートコースでした。
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懐かしの鹿児島…(Ⅳ)

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鹿児島市の交通局が運営する「鹿児島市電」です。大正12年(1912)から運行開始の日本最南端の路面電車事業です(苦笑)。なんでも全国の路面電車事業のうちでも健全運営を誇っているようです。Pt↑)車内の模様です。【赤字解消に向けて、年間あと2往復のご乗車をお願いします】との掲示があります。潔いというのかなんか良い感じです。運賃は全線均一料金大人¥170です。鹿児島市内にはバス路線が充実しているのですが、中央駅から天文館までなら市電の方が便利なようです。昔、西駅に着いて宿まで市電に乗ったのですが、地元の人に”それでも行きます”と教えられたのが反対廻り路線で、徐々暗く寂しくなっていく街並みに”鹿児島って寂しい街だな”と思った笑える記憶があります。

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懐かしの鹿児島…(Ⅲ)

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Pt↑)は南九州で店舗展開をする老舗百貨店「山形屋」です。Ptの建物は1999年に昭和初期の外装に復元されているのでお初にお目にかかります。あの頃「山形屋」絡みの”都市伝説”がありました。曰く≪山形屋前にいる靴磨さんにお願いすると”○階○○売り場のxxさんに靴磨さんの紹介だと言いなさい。デートOKしてくれます≫というお話なのですが、本当or都市伝説かは定かではありません。”そのうちに”と思いながら忙しさ日々続きで体験できなかったのが今さらながら心残りです。
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1970年代の東京には九州ラーメン店が殆どありませんでした。鹿児島に着いて取引に先に連れられて”鹿児島ラーメン”を体験したのが「こむらさき」です。白濁した豚骨スープにゆるく煮た麺。最初はとても食べられたモノではなく慣れるまで数日要しました。今の東京にはあらゆるご当地ラーメンがあるのでこんな経験もないでしょう。「こむらさき」は昭和25年創業とあり、65年の歴史とは驚きです。それともう一つ困ったのが独特のソースみたいな”たまりしょうゆ”でした。刺身でもなんでもコレなんですが、関東にはない醤油は今でも苦手な部類です。
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鹿児島発祥のかき氷の大盛りを「しろくま」です。かき氷のデカいのに練乳やらフルーツやらを乗せたモノなのですがともかく大盛りです。ツアー客と「10分でかき氷を食べられたら全額おごります」と賭けをして、クーラーの効いた場所に座らせます。「しろくま」登場(!)。この瞬間で勝負ありです。こんな些細な楽しみに良く利用したのが、この「むじゃき」です。店先にデカイ熊の人形がありまが、後方ウィンドウに内に白熊の剥製が置いてあります。当時と同じ剥製なのでしょう。

懐かしの鹿児島…(Ⅱ)

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鹿児島中央駅(”西駅”と言ってしまいます)から市電に乗って「天文館」まで行きました。江戸時代に薩摩藩25代藩主「島津重豪」が天体観測や暦の研究施設を建設したのが「天文館」のいわれのようです。そんな事はどうでもよろしい!。天文館は今もあの頃も鹿児島県屈指の繁華街&り歓楽街です。あの頃は鹿児島空港で仕事を終え”南国交通”バスで天文館へ戻り、食事をして宿舎へ帰るを繰り返す日々でした。市内名所より天文館の記憶の方が確かかも知れません。某有名デパートは屋号が変わり林田ホテルもキャバレービルもなくなりました。天文館のアーケードもなんか広くなっています。全国区の有名店は一通りありますが品揃えが落ちるようで、日帰りで福岡までショッピングなんて若い人もいるようです。Pt↓)待ち合わせの名所「永田シロアリビル」は健在です。”殺屋参上”って・・・?。かき氷の超大盛り(しろくま)で有名な天文館”むじゃき”も健在です。
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懐かしの鹿児島…(Ⅰ)

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暫く個人的な話が続きます。社会人1年生の年に数か月間、鹿児島で暮らしたことがあります。個人的には40年振りに訪れることになります。鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)前のあまりの変貌に愕然としてしまいました。駅舎は駅ビルとなり併設の商業施設の屋上には観覧車まで…。駅前広場には「鎖国時代の留学生」などと”ふざけた”銅像群まで建っています。新幹線で福岡via東京via函館まで行けるんですねぇ。
当時は東京からのツアー客を鹿児島空港で迎え鹿児島市内観光の後、南西航路の船に乗せる(もしくは逆コース)が鹿児島駐在員の担当でした。携帯電話もFAXなどなく台風などで日程がゴチャゴチャになると航空便やホテルの手配など…。よくまぁ1人でこなしたものです(苦笑)。この経験があったから以後40年旅行業界でやってこられたのかも知れません。台風さえ来なければ懐かしい街並みや郊外をゆったりと歩きたかったのですが残念至極です。
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そうなんだ都井岬

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台風13号により行程変更を検討しても、この『都井岬』は外せません。岬への途中のゲートで馬保護育成協力金を収めます。ここからは30㎞規制、馬の飛び出しに注意して進みます。ポイントだけ抑えようと「都井岬ビジターセンター」を訪れると、他に来館者が居らず詳細に話が聴けラッキーでした。≪都井岬の馬達は御崎(みさき)馬と呼ばれ、300年前の江戸時代に高鍋藩により放牧された馬達が後に野生化したものです≫。岬は野生の馬が棲息することで「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物となっています。
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馬を見るのに苦労するかと思えば、その辺り何気に居ます(笑)。Pt↑)はビジターセンターにある御崎馬の剥製、大人(3歳?)です。アラブやサラブレッドに比べてはるかに小型で道産子とも異なり、原産はモンゴル系のようです。都井岬に育成する草の量を超える頭数には馬は繁殖しません。自然の摂理が働いているようです。人による餌付せず死んだらそのまま、年に一度の健康診断とDNA検査とダニの駆除があるだけです。閉鎖環境での血が近くなる懸念もないようです。戦時中には軍隊により大型の馬が求められ数頭のサラブレッドが持ち込まれたそうですが、数十年経った今でもそのDNAが仔馬に出ることがあるようです。もう何年も昔の話ですが「都井岬ブーム」で賑わった時期がありました。その時期に施設の多くが今では廃墟と化していました。時の流れは残酷です。
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鵜戸神宮・猿より多い…。

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”陽光溢れる日南海岸を走る”予定だったのですが台風の影響が徐々に感じられます。宮崎県日南市の鵜戸神宮です。断崖の中腹に鎮座し岩屋のなかに本殿があり、本殿まで石段を下るという珍しい造りになっています。≪「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じ内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている≫との説明ですが判るような判らんような(笑)。ご祀神は「日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)、神武天皇の父親だそうです。
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この奥に海食でできた岩窟に本殿が鎮座しています。東西38m、南北29m、高さ8.5mと意外と広く感じます。駐車場から神宮まで丘越しに約10分歩きます。途中”野生の猿出没注意”とありますが、この地も甲高い声でVol・Maxで喋くる民族が多数跋扈しており、これでは野猿も出没できません(笑)。・手水の作法が書かれた案内板にウサギの絵が描かれています。お守りやらの縁起物にウサギ関連が目に付きます。「鵜」=「兎」という事なのでしょうか?・道すがら堀切峠の景色です。
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早朝に宮崎神宮

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以前からですが地方都市の宿泊はもっぱら某ビジネスホテルチェーンを利用しています。10泊したら1泊タダ、軽朝食付き¥4500以下/会員価格でお得感もあります。08:30頃はチェックアウトで混雑するのが難点なんですが、それ以前に出発すれば良いだけの話です。という事で早朝の「宮崎神宮」です。この時間参拝客は殆ど見かけません。ご祀神は『神日本磐余彦尊つまりは神武天皇』が主祀神で父の 鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と母の玉依毘売命(タマヨリヒメ)が祀られています。別称は『神武さま』と呼ばれているようです。神武天皇自体が神話上の存在とされるため創建など不確かな点が多いのですが、旧社格は官幣大社なのでそれなりの歴史は有しています。
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一の鳥居、二の鳥居と進むと以前にどこかで参拝したような気がしてきます。それもそのはずで宮崎神宮の設計者は神社建築大家の「伊藤忠太」の作品です。このお方はこのような配置がお好きなようで、伊勢神宮、明治神宮、弥彦神社と雰囲気が酷似しています。よくばれなかったものです。Pt↓)はJR宮崎駅です。まだ街は目覚めていません。宮崎も地方都市にありがちで駅と繁華街が離れています。地方都市の通勤時間は道路が恐ろしく混雑するので、その前の時間に脱出が理想です。
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千年の風雪・臼杵石仏

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大分県臼杵市大字中尾・深田にある国宝『臼杵石仏』です。石仏はPt↓)のようなのどかな山間の岩壁に、古園石仏、山王山石仏、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群の4群に60体以上が現存し、うち59体が平成7年6月には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されています。驚くことに石仏群がいつ、誰が造営したのか判然としません。仏像の様式などから平安時代後期一部は鎌倉時代の作と推定されます。阿蘇山噴火による脆い性質の「凝灰岩」に彫られかなり風化も進んでいますが、千年の時を経た磨崖仏はの微笑みは実に穏やかで、これぞ”国宝”という風格に満ちています。この日この時間は観光客の一人もおりません。約1時間、石仏の感激を独り占めです(笑)。
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宇佐神宮・朱色鮮やか

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稲荷様と八幡様はどちらが多いかなどと言われますが、大分県宇佐市の『宇佐神宮』は全国約44,000社ある「八幡宮」の総本社です。ご祀神は八幡大神(応神天皇)、比売大神、神宮皇后の3神で、欽明天皇の時代(571年頃)に初めて宇佐の地に現れ神亀2年(725年)には現在の地に御殿が造られています。皇室との繋がりも強く、奈良東大寺大仏の建立や道教・和気清麻呂事件での顛末は特に有名です。
ともかく広いです。駐車場から表参道商店街を抜けるとPt↓)の大鳥居です。更に進んで手水舎、左折して石段を登ります。西大門前の木造鳥居は宇佐古来形式の「宇佐鳥居」と称し大鳥居や他の鳥居は同じ形式のものです。「宇佐鳥居」を過ぎるとPt↑)の上宮の南中楼門(勅使門)そして国宝の本殿です。当たり前ですが社は「八幡造り」です。宇佐独特の”二拝四拍手一拝”で左、中央、右の順にお参りです。
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上宮から下ると嵯峨天皇の時代に創建の下宮(御炊宮)です。八幡大神)比売大神、神宮皇后の3神はこちらにも祀られています。本殿に参拝したら下宮にも参拝しないと『下宮参らにゃ片参り』と言われるようです。同じ境内に同じ神様が鎮座する社が二ヶ所ある珍しいですね。鬱蒼とした木々の緑””と”朱”のお社のコントラストは荘厳な美しさがあります。・Pt↓)宇佐神宮の奥宮である大元神社への遥拝所です。宇佐神宮の発祥は正面の御許山なのです。・奥側の橋が、西参道の屋根付きの神橋「呉橋/くれはし」です。西参道は昭和初期までは表参道であり、朝廷よりの勅使が通る街道でした。なんとこの橋は”日本百名橋”です。
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