旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2016年12月

川越城本丸御殿

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「川越城本丸御殿」は平成の大修理から5年が過ぎました。『東日本唯一の本丸御殿遺構・埼玉県指定有形文化財・川越本丸遺構』とモノモノしいタイトルですが、一般的なお城のイメージは堀で囲まれ天守閣がそびえるの感じですが、川越城は平地という地形もあって「天守閣」を持たない平城で、本丸御殿といっても武家屋敷という感じです。別名は初雁城、霧隠城で関東7名城・日本100名城に数えられています。嘉永元年(1848)に川越17万石・松平斉典の時代に造られ、現在の残っているのは玄関・大広間部分と家老詰所です。以前、TVドラマ『JIN-仁』の撮影でも使用されましたが、木材の重厚感や空気感はお寺や撮影セットでは表現できないでしょう。これで入館料¥100の価値は充分にあります。因みに本丸御殿跡には土産物売店などはありません。蔵造りの街並みと比べると観光客が少ないのは”B級グルメ”や”お土産”が絡まないとダメなのでしょうかねぇ。隣の三芳野神社側には焼きそばの有名店「小峰商店」が健在です。童謡「とおりゃんせ」の舞台の三芳野神社は東北震災の被害を被り修復中となっています。
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川越市の旧市街地は、平成11年(1999))に国の『重要伝統的建造物群保存地区』。国の『都市景観大賞』、『美しい日本の歴史風土100選』に選定、平成15年(2003)に『優秀観光地づくり賞』受賞。2011年には『歴史まち造り法』の認定。民間では読売新聞選出の『平成百景』・『遊歩百選』。毎日新聞の『ヘリテージング100選』などなど・・。探せばまだまだありますが、川越一番街の”時の鐘”に至っては平成 8年に環境省の「残したい日本の音風景100選」に認定。まぁまぁ勲章は豊富に取りそろえてあります(笑)。
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川越・仙波東照宮

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喜多院に隣接する『仙波東照宮』は、久能山、日光と並ぶ「日本3大東照宮」の一つなんだそうです。1617年徳川家康の遺骸を久能山から日光に移送する途中、川越・喜多院に4日間とう留し天海僧正が法要を営み、その因縁により1633年仙波東照宮が創建されています。江戸城内の建物を解体し移築・再建したものでしたが、寛永の大火で焼失し現在の建物は再建です。古墳を利用したのかと思っていたのですが、この丘は築いたものだそうです。面白いモンで『仙波東照宮』は昭和21年に建造物全部が”国宝”に指定されています。昭和25年には”国指定重要文化財”指定されていますが昭和34年の台風で大きな被害を被り、昭和36年からようやく復元修理されています。意外な事に「国宝・仙波東照宮」は台風による倒壊が理由ではなく「一県に国宝は二つまで」との妙な規定により”国宝”を剥奪となっています。*たまたま初詣に向けての”煤払い”に遭遇、Ptを撮らせてもらいました。
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川越・民部稲荷神社…(2)

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川越で「丸広百貨店」を知らない人はいません。しかし屋上に「民部稲荷神社」が祀られているのは意外と気づかないかも知れません。ここの稲荷社は三越の三囲神社のように川越八幡宮からの分社で、丸広百貨店の鎮守様かと思っていました。確証は得られないのですが、民部狐の昔話で八王子から川越へ逃亡したとの話がありましたが、丸広百貨店の場所こそが逃亡先だったようです。聞いた話では、百貨店の拡張に伴い古い稲荷社を川越八幡へ移したところ⇒数年のうちに業績悪化⇒某伊●丹に吸収されそうになる⇒「民部稲荷」が守り神として復活⇒無事に危機を脱する。物語としてはありがちです。
屋上には遊園地「わんぱくランド」があります。ある年代から上の人達にはデパートの屋上遊園地は何とも郷愁をさそうと思います。回転する飛行塔、ミニモノレール、観覧車。因みにこの観覧車は日本で二番目小さいそうです。
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川越・民部稲荷神社

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目的は「川越八幡宮」だったのですが、境内社に「民部稲荷神社」の話が面白いので紹介していきます。TVの「まんが日本昔ばなし」で紹介されたようですが=侍に化け「民部」と名乗り八王子辺りに住んいた老狐とお寺の小僧と和尚のお話で、寺に招かれ民部狐は家来を連れて宴に臨み和尚と意気投合、盛り上がって民部Gと寺Gとで相撲大会になってしまう。これで狐であることがバレてしまい、正体がバレた民部狐は「打ち身の治療術」を伝授して川越方面へ移っていった=こんな伝承があります。民部稲荷神社(相撲稲荷)には足腰を強くするというご利益があり、駅伝選手などに人気があるそうです。
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さて、川越八幡宮は後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創建と伝えられます。太田道灌がチョロチョロした時代や徳川時代の遥か以前のことです。関東平野は現在と地形と全く異なり、府中や川越の方が交通や文化的にも栄えていました。八幡神社となるとご祀神は15代・応神天皇で神社数は全国に約1万5000社あるとされます。川越八幡宮のように約1000年の歴史があると境内社などにはとかく面白い神様が祀られています。
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Pt↑)の「ぐち聞きさま」は聖徳太子のお姿で、一度に何人もの訴えを聞き分け苦しみ悩む多くの人の救いとなってきたとの伝承があるようです。「ぐち聞きさま」の前に腰を掛けて悩みを打ち明ける。そんな人が居る居ないは別として、興味深いお話です。また剪定がすすんでサッパリしていますが「縁結びイチョウ」とよばれる大木がと鎮座しています。
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千葉県佐原市…(追)

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佐原の町が平成8年国より選定され「重要伝統的建物群保存地区/略して重伝建地区」とは、=城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村など伝統的建造物群およびこれと一体をなして歴史的風致を形成している環境を保存するために市町村が定める地区を指す=平成28年(2016)7月現在、日本全国で43道府県92市町村の112地区が選定されています。これを多いと取るか少ないと取るか微妙な問題です。
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掲載した佐原重伝建地区のPtは”なるほど”と思わせる景観ばかりです。仕事がら全国アチコチの街へ出かける事も多いのですが、特に山陰・山陽地方や九州地方ではこんな雰囲気の街は沢山あります。そしてどの街も過疎化や建物の老巧化、保存に対する住民の意識のズレなど同じような問題を抱えています。受け継いだ歴史・伝統を後世に繋いでいく・・。その努力には頭が下がります。
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Pt↑)は、本来は農業用水を流すために造られた「樋」だったようで、今でも定期的に樋の水を小野川に落とし込んでいます。橋向こう左の建物が「伊能忠敬旧宅」です。規模からして地元の有力者だったようです。失礼ながら「伊能忠敬記念館」は地方の博物館としては驚くほど内容が濃く楽しめます。
Pt↓)の橋が「忠敬橋」、道路奥に見える煉瓦建築が「三菱館」です。この街は城下町ではなく徳川幕府の天領でした。その割にはクネクネ曲がった道ばかりです。意外と見通しが悪く交通量も多いので、写真の撮影時にはかなり緊張が強いられます。
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Pt↓)は忠敬橋から下流(?)方向を見ています。この橋の河岸を山車が通っていきます。忠敬橋から利根川側寄りは水路が広くなっています。江戸時代の物流は、迅速かつ大量に運ぶのは川を利用したもで、佐原から利根川、隅田川を経由して江戸城下へ・・。江戸城下も堀が網に目状に巡らされ物資は現飯田橋付近まで舟で運ばれます。飯田橋に残る「軽子坂」の地名は”物資の陸揚げ地”によります。
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忠敬橋から下流↑)と下流↓方向を見ています。この橋の河岸を祭の山車が通っていきます。この日は冬の平日なので観光客の賑わいはありません。佐原も他の地方の町と同様に大型店量販店や食事処などは駅から少し離れた国道沿いに集中しています。旧の街中には高齢者が目立ち、駅の待合室は高校生・・。この傾向は全国どこの地方の街へいっても同じです。
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佐原までは東京駅(浜松町)から京成バスと関鉄バスの路線バスがあり、今回は京成バスで行きました。京成バスは佐原駅北口に到着します。「重伝建地区」散策は約3時間程度が必要です。東京行バスは本数が少なく、成田方面のJRも1本/毎時なので、到着時に確認しておいた方がよろしいでしょう。バス、JRとも1800円前後/片道です。

成田山・新勝寺

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佐原探訪帰りに成田山新勝寺へ立ち寄ってみました。成田山新勝寺は真言宗智派の大本山で、ご本尊の「不動明王」から一般的には「成田不動」もしくは「成田山」と呼ばれています。初詣者数は毎年上位にランクされており約300万人位が初詣参拝するそうです。成田山参拝は車で近くの駐車場停めてという事が多く、JR成田駅からは本当に久しぶりです。参道も何もかもがすっかり整備されており、記憶と全く違う光景となっていました。それでも昔行った鰻屋や羊羹屋などなど、懐かしい感があります。あと数日で正月という事で初詣受け入れ準備も着々と進み、早くも初詣担当のガードマンが大人数で研修をしておりました。
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Pt↑)の狛犬は平成25年に復元なった「成田山薬師堂」にあります。狛犬は神様を守るガードマンの立場で、多くは獅子の姿をしています。こちらは珍しく「日本犬」の姿なんですねぇ。ついでながら稲荷神社と狐さんの関係は、神使=神様のお使い=つまりは”秘書官”という立場になります。
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佐原・諏訪神社

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こちらが『佐原の大祭』のうち、14台の山車が街中を曳き廻される10月の秋祭が行われる「諏訪神社」です。ご祀神は大国主命の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)で軍神・農耕神・狩猟神として知られています。社格は郷社ですが、現在の社殿は嘉永6年(1853)造営されたものとされ、本殿はPt↑)の様に丘(?)の中腹にあります。眼下には利根川の流れを見渡せたことでしょう。Pt↓)弐の鳥居(一の鳥居は駅近)を抜け石段を登ると本殿です。一方の八坂神社では神社入口が二ヶ所あるのが特徴(珍しいですかねぇ?)ですが、お諏訪さんの方が神社らしいと言えば・・。弐の鳥居隣には佐原公園があり町の名士「伊能忠敬」の銅像が建っています。小野川沿いに旧宅に建てられた銅像より”らしさ”があります。
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佐原の八坂神社

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2016年12月、佐原の山車(だし)行事が”重要無形民俗文化財・全国33件の屋台行事”で構成される「山・鉾・屋台行事」として「ユネスコ無形文化遺産」に登録が決定しました。この33件の屋台行事には唐津くんち・博多祇園山笠・京都祇園祭・高山祭・川越氷川祭・秩父夜祭などそうそうたるメンバーで構成されているのですが、7月の「八坂神社祇園祭」では10台の山車が、10月の「諏訪神社大祭」では14台の山車が街中を曳き廻される夏祭と秋祭を総称しての『佐原の大祭』がめでたく仲間入りとなりました。Pt↑)は夏祭の「八坂神社」です。ご祀神は”素戔嗚尊”とあり江戸初期に現在地に遷座したようです。佐原八坂神社の社格は”村社”とあり、正直『本当にここの神社の祭りかよっ』と思ってしまいます。境内の佐原の祭りを紹介する「水郷佐原山車会館」では、実物の山車や大人形など内容の濃い展示が見られます。
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佐原の三菱館

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Pt↑)の「佐原三菱館」は「佐原市佐原伝統的建造物群保存地区」のシンボル的な建物です。実際はこの煉瓦造りの洋風建築は他の伝統建築とは趣を異にするのですが・・。完成は大正3年(1914)、後に三菱銀行に吸収される「川崎銀行佐原支店」として建てられています。=大正の3年・三菱・煉瓦造りの洋風建築=となると東京駅舎と符合する点がありますが、併設の「佐原街並み交流館」で話を聞いたところ、設計・施工は現清水建設(設計者は辰野金吾の弟子との説あり)何処で焼かれた煉瓦なのか詳細不明だそうです。川崎銀行佐原支店は昭和18年に三菱銀行と合併、平成元年に三菱銀行佐原支店の新店舗移転により、建物は佐原市に寄贈され、平成3年には「三菱銀行佐原支店旧本館」として千葉県の有形文化財(建造物)となり、平成8年に国の「重要伝統的建物群保存地区」に選定されています。現在は老巧化により建物内部には入れませんが「佐原街並み交流館」には資料関係が展示されています。とても地方大都市とは思えない佐原の町には似つかわしくない建物ですが、この街が経済的に賑わった時代を思い起こさせます。
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珍しい郵便ポスト…6.5

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【珍しい(?)郵便ポスト…06】の続き・・佐原の重伝地区の丸型郵便ポストに”疑問あり”と記載しましたが、実際「佐原観光プロモーション推進協議会」観光パンフの地図には7件の丸型ポストの位置が記載されていて観光用に設置したとの疑念が湧いてきます。市街地の郵便ポスト設置については郵券(切手)を販売する店舗が付近にあることが条件だったような・・。実はこれらのポストが設置されている場所はオリジナル通りで、佐原重伝地区では古い街並みに似合うように「丸型郵便ポスト」をわざわざ設置しているようです。気付く方も気付く方ですが、一般観光客が気付かないような場所まで拘って街並み保全しているとは・・。”ポスト”自体が珍しいのではなく設置に至る事情のほうが珍しかったようです。
Pt↑)は八坂神社前”水郷佐原山車会館”前バス亭脇にありました。Pt↓)流石に郵便局前は大型郵便に対応できるタイプになっています。・観光船乗場前のモノは観光用の置物です。・諏訪公園入口にはポスト&公衆電話が設置されています。公衆電話BOXも”珍しモン扱い”になる日が・・・。
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珍しい(?)郵便ポスト…06

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Pt↑)はJR佐原駅前の郵便ポストです。駅前でこれですから、この街には”珍しポスト”があるであろうと期待できます。が・・、駅から数百メートルには丸型ポストが多く点在し、結果”珍しくない郵便ポスト”となってしまいました。珍しポストには色を塗りかえたり細工を施したりが多いのですが、奇妙なデザインをするよりは街の景観に似合うの方が自然です。疑ってみれば、ポストからポストの設置距離が近く作為的なモノも感じるのですが・・。
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Pt↑)駅から200mほどの商店街にあった小型の箱型ポストです。逆にこの街では珍しいのかも知れません。このタイプは住宅地や北海道の田舎街など郵便需要が多くない地では良く見かけますが、ここは普通に商店街です。Pt↓)は街角の丸型ポストです。郵便局やポストは探している時には見つからないものですが、ここにある5枚のPtのポスト間隔は数百メートルしか離れていません。そんなに郵便利用が多いのでしょうか?
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千葉県佐原市…(3)

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「佐原市の名士となると寛政12年(1800)から文化13年(1816)まで17年を費やして全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させた「伊能忠敬」でしょう。延享2年(1745)九十九里町に生まれ、佐原の伊能家に17歳で婿入り50歳までこの地で暮らしています。小野川水路沿いには「国指定遺跡・伊能忠敬旧宅」が保存されており、地元では結構な名家だったようです。実際に蝦夷地の測量を開始したのは忠敬は55歳の時で73歳で亡くなるまで全国を巡った、いやはや大変な御人です(!)。水路の向かい側には「伊能忠敬記念館」があり数々の資料が展示されています。地方の町の記念館(失礼)としては展示内容が濃く驚きます。貧弱な測量器具を駆使して現在の衛星測量地図に近い地図を完成させていたんですねぇ(!)。
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千葉県佐原市…(2)

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「香取市」は千葉県の北東部なんですよねぇ(苦笑)。地元の方によるとTV放送こそ少なかったものの、東北震災ではかなりの被害に見舞われ、ここまで復旧するには5年要したそうです。この日はPt↑)のような曇天で前日夜半からの雨の影響もあり観光客も少なく商店も休業が多く、「小江戸舟めぐり」も午前中は増水模様で運休でした。時間がなかったので急ぎ足で廻りましたが「小野川水路と街並みの絵になる景観」は琵琶湖・近江八幡や九州・柳川と比べても見劣りはしません。江戸時代は幕府「天領」として利根川水運の中継地として繁栄した町で、いわゆる「城下町」とは違った空気感があります。
Pt↓)で水路に架かる橋は「樋橋」⇒通称:ジャージャー橋」とも呼ばれ、元々は田圃に農業用水を送るための「樋」だったそうです。見えにくいのですが水が落ちています。このジャージャー落ちる水音は『残したい日本の音風景100選』に選ばれているそうです。
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千葉県佐原市…(1)

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冒頭からナンですが、千葉県北東部の「佐原市」は2006年の佐原市・栗原町・小見川町・山田町の合併により「香取市」となっています。同市内には下総一宮、香取神社の総本社「香取神宮」があることでも有名です。また、日本各地には(怪しい)蔵造りの町並の埼玉・川越や説得力に欠ける栃木県栃木市等々と”小江戸”と称する町が数多くあり、「佐原(サワラ)と呼ばれた町」もその一つです。実際Pt↑)のJR佐原駅舎が物語るように素敵な街並みが残っています。
Pt↓)街角の飲料の自販機はグレーカラーに「小江戸・佐原」と描かれています。この丸型の郵便ポストは街のアチコチで見かけました。この街の雰囲気にピッタリです。もちろん現役です。
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北千住の氷川神社

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氷川神社』は、さいたま市の「武蔵一宮・大宮氷川神社」を総本社とする神社で、埼玉・東京・神奈川で約200社以上もあるとされています。景行天皇の代に出雲からの氏族が『須佐之男命/スサノウノミコト』を祀ったことが始まりとされ、出雲からの氏族が土着氏族を駆逐して築いたのが「武蔵野国」で、社名の「氷川」は出雲地方の「簸川/ヒカワ」に由来するとの説などは興味深いものがあります。埼玉県南や東京都の荒川流域に氷川神社は多数ありますが、珍しいことには北千住駅を起点とした徒歩10分圏内には4社もの氷川神社があり、総本社の大宮近辺以上の数なのですが・・。今回の氷川神社は季節がらもあるのでしょうが、落ち葉落ち放題と掃除されている気配がありません。何とはなしに古くからあるだけで、地域で大切にされている感に乏しいようです(苦笑)。そんなことは『陽だまりの猫には関心のないことです。
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【千住本氷川神社】・・北千住駅からは一番近い氷川さんです。珍しいことに社殿が二つありPt↑)は旧社殿の方です。徳治2年(1307)の創建とされ千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期に現在地に移っています。昭和45年には新社殿が造られPtの旧社殿が末社として残されています。こちらのほうが龍や鳥類のなどの彫刻が施されるなど凝った造りで、経年変化の妙(?)で趣きのある社殿となっています。
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【四町目氷川神社】・・単に氷川神社となっているので便宜的に「四丁目氷川神社」の呼称なのでしょう。眼病に霊験のある「めやみ地蔵尊」で知られる長円寺のお隣です。明治の神仏分離までは長円寺が別当時の関係だったようです。とりたててどうのといった氷川さんではありません(苦笑)。大宮や川越の氷川さんは例外的で、多くの氷川さんは、こんな感じで地元の鎮守さんといった体です。
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【大川町氷川神社】・・北千住駅から15分程度歩きます。創建は永仁年間(1293ごろ)で、現社殿は鉄筋コンクリート造りで拝殿・幣殿・本殿の権現造りの構造となっています。この近辺は昔から「紙漉き」が盛んだったようで、境内には天保年間に幕府に紙を献上した記念碑が残っています。社殿横には江戸後期に造られてた足立区の文化財に登録の「富士塚」がありますが、もともと紙漉きの碑と富士塚は荒川放水路流域にあり、ここへ移されてきたものです。Ptでは判りにくいのですが”ギンナン”が落ち放題です。
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【仲町氷川神社】・・千寿七福神の1つ「弁財天」が境内社として祀られています。延喜年間(901頃)に離れた地に創建されし、元和2年(1616年)に現在地へと移ってきています。ついでながら『千住七福神めぐり』は千住氷川神社(大黒天)・大川町氷川神社(布袋)・元宿神社(寿老人)・千住神社(恵比寿)・八幡神社(毘沙門天)・川原町稲荷神社(福禄寿)・仲町氷川神社(弁財天)となっています。

橋戸稲荷と伊豆長八

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千住大橋を荒川区から足立区方向へ渡って、左へ200mほどにある『橋戸稲荷神社』です。前回の訪問は2012.4月からは”うらぶれ感”が進んでいるように感じます。創建は延長4年(926)とも1490年(延徳2年)とも云われ現在とは場所が違うようで、隅田川の流れの変化により移転を余儀なくされたようです。千住が宿場町として栄えると共に多くの人たちの信仰を集るようになったといわれます。現在の本殿は「土蔵造り」となっており、拝殿の前扉には”狐の夫婦の漆喰絵”が描かれています。文久3年(1863)頃に鏝絵の名工として名高かった「伊豆長八」の作で伊豆長八の作品として貴重な遺作だそうです。実物は公開されていませんが、Pt↓)の拝殿前に雄狐と子狐を抱いた雌狐の姿のレプリカが飾られています。社殿前左の狐象はかなり痛みが激しくなっていますが神使のきつね像は珍しい”飛翔系の姿”となっています。
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隅田川・千住大橋

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『千住大橋』は、墨田川に架かる橋で荒川区南千住と足立区千住橋戸町を日光街道(国道4号)が結びます。初代の橋は文禄3年(1594)の完成で隅田川に最初にかけられた橋です。当初は現在より200mほど上流で長さ120m、幅7mの橋で、当時の規模からすると大工事だったのでしょう。完成時には隅田川に他に橋が無く単に「大橋」と呼ばれ明暦の大火以降、両国橋などの完成により「千住大橋」と呼ばれています。この橋を渡って奥州、佐倉、水戸街道が続い行きます。現在の橋は関東大震災の帝都復興事業の一環として昭和2年(1927)に鉄橋が架橋され、交通量の増大に伴い昭和48年に新橋が造られています。
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千住大橋の荒川区側の橋のたもとに「八紘一宇」の石碑があります。今の東京では珍しい部類の石碑で、この地と旧軍との関連が良く判りませんが碑には「陸軍大将林銑十郎書」とあります。陸軍大将→陸軍大臣→第33代内閣総理大臣を務めた方ですが、天皇陛下の勅裁を受けずに朝鮮派遣軍を満州に越境展開させた張本人です。昭和12年の総理大臣在職中には理由なく衆議院を解散させるなど評判のよろしくない御人です。
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奥の細道旅立ち論争

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都内には台東区と文京区での「樋口一葉縁」の奪い合いや、生誕地と関係のない墨田区役所内に建つ「勝海舟」なんてのもありますが、荒川区と足立区の「松尾芭蕉・奥の細道旅立ちの地」の論争はある意味で笑えます。元禄2年3月、松尾芭蕉と弟子の河合曽良は深川の自宅(江東区)を出発、隅田川を舟で上り「千住で舟を降り日光街道を歩き始めます」。ここが争点で上陸地点が南岸なら荒川区南千住、北岸なら足立区北千住となります。ここへ「イヤイヤ旅立ちなら深川の自宅だろう」という意見も加わっての論争は三つ巴のようです。記念碑や芭蕉像などのパブリシティは足立区が大きくリードしていましたが、荒川区も負けてはいないようで(笑)。素盞雄神社の文政3年(1820)に建立の「奥の細道矢立初めの句碑/行く春や 鳥啼 魚の目は泪」では弱いと見たか平成27年に南千住駅前(小塚原刑場跡地前)に松尾芭蕉ブロンズ像(Pt↑)を建立しました。
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推測ですが・・。出発の前日には深川の自宅でスポンサーやら弟子やらとで壮行会が行われ、何人かは船で千住まで同行したでしょう。古社である「素盞雄神社」近辺には弟子やら知己も多く住んでおり、名残を惜しみ素盞雄神社を参拝して千住大橋を渡ったて日光街道と考える方が自然だと思われます。いずれにしろどうでも良い論争ですが・・(苦笑)。Pt↑)北千住側の千住市場にある芭蕉像です。Pt↓)は荒川区の街灯。千住大橋足立区側の句碑などです。
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素盞雄神社と須佐之男

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素盞雄と須佐之男、どちらも読み方は「すさのう」です。同じご祀神でも氷川神社は『須佐之男命』。足立区南千住の素盞雄神社のご祀神は『素盞雄大神』です。神社は南千住、三ノ輪、三河島、町屋の総鎮守で地元では「天王様」とも呼ばれているようです。創建は延暦4年(795)と古く、江戸時代までは牛頭天王社と称して牛頭天王と飛鳥権現の2柱が祀られていました。明治の廃仏毀釈によりご祀神を素盞雄大神・飛鳥大神へと改め、社名も素盞雄神社へ改称しています。分りにくい系譜ですが鎮座1200年超の古社には違いありません。「奥の細道」で有名な松尾芭蕉は元禄2年に深川から舟で隅田川を遡上して千住の地で最初の句を読み(矢立の地)、奥州へ向け歩き出しています。舟での行程はカウントに入れず千住の地が旅の始まりだという見解です。更には荒川区南千住の素盞雄神社近辺と足立区北千住とで”奥の細道出発の地”の不毛な論争なども繰り広げられています。

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小塚原刑場跡・・続

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小塚原刑場跡は南千住駅(JR&東京メトロ共)からホンの数分です。この地は常磐線の建設により当時の「南千住回向院」が分断され、現在は「首切地蔵」のある延命寺と回向院に分かれています。回向院の墓所には安政の大獄で刑死となった吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎の墓や江戸・明治期の悪党鼠小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝・腕の喜三郎らの墓がありますが、どうにも釈然としないものばかりです。吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らは小伝馬町牢屋敷で斬首(橋本左内は士分でありながら)となっています。吉田松陰に至っては斬首が1859年、高杉晋作らが改葬したのが1863年。これだけの時間が過ぎれば当然国事犯の遺体はある訳ありません。現代と「お墓」に関する考え方が違うのですが・・。鼠小僧次郎吉の墓所に至っては全国に何か所あるのやら(苦笑)。さらには「日本近代医学の黎明・解体新書」の碑がありますが、実際は前野良沢・中川順庵・杉田玄白らが明和8年(1771)に小塚原刑場で罪人の腑分け(解剖)を見学したことからの記念碑のようです。
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