旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年03月

東上野・下谷神社

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東上野3丁目の下谷神社です。浅草通りに面した大きな鳥居を有していますが、その割には本殿はこじんまりとしています。ご祀神は大年神(誰?)と日本武尊。神社の創建は天平2年(730年頃)とされ、けっこうな古社です。東京メトロ銀座線・稲荷町駅が最寄駅とですが、この「稲荷町駅」の駅名は下谷神社が古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と称する都内最古の稲荷社だったことにより、おみくじが『キツネおみくじ』ってのも「おぉそうきたか」という感じです。神社の歴史で主祀神が入れ替わるのは珍しい事ではありませんが。下谷稲荷社→下谷神社に下谷稲荷町→東上野に変わっても駅名に記憶が残っているのは面白いと思います。社内には「寄席発祥の地」の石碑があります。1700年代に神社境内で初めて寄席が開かれたことによります。
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台東区・秋葉神社

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秋葉神社も全国展開の神社で約400社を遥かに超える神社が点在しています。多くは浜松市の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする神仏習合の火防・火伏の神、秋葉大権現を祀っています。江戸時代(264年)などは火事と再建の繰り返しですから火災予防神の秋葉大権現の多さも得心のいく話です。面白い事にこのお台東区松が谷の『秋葉神社』は明治2年(1869)の東京大火のおり、明治天皇の命により現在の秋葉原駅構内に「鎮火社」として建てられたのですが、いつの間にか鎮火社と秋葉大権現と混同されてしまったようです。同じ火防の神様ですから、まぁ良しでしょう。明治21年(1888)に上野・秋葉原間の鉄道の延長工事により現在地に移動しています。社殿は立派な造りで、Pt↓)の方角からが参道となっています。
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恐れ入谷の鬼子母神…真源寺

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”恐れ入谷の鬼子母神”は「恐れいりやした…」の言い回しで、江戸時代の太田南畝の狂歌によります。この後に、「恐れ入谷の鬼子母神、どうでも有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」や更には「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」+「なんだ神田の大明神」などと続くようですが、その手は桑名の焼き蛤」なんてのも同様に何とも『日本語的』な表現です。この「入谷の鬼子母神」は台東区下谷に法華宗の寺院『真源寺/しんげんじ』として存在しています。豊島区雑司が谷の「雑司が谷鬼子母神」に比べると、ややスッキリした今風のお寺の感があります。江戸時代はこの地で朝顔の栽培が盛んに行われ市も開かれていました。中断の後に復活し現在でも7月の「入谷朝顔まつり」の会場として知られ大変賑っています。
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国立市・谷保天満宮

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国立市谷保(やぼ)の『谷保天満宮』です。延喜3年(903)の創建とあり東日本最古の天満宮で「湯島」・「亀戸」と並んで関東三天神と称されています。主祀神は菅原道真公。例の一件で道真公は九州へ左遷となり、三男の菅原道武は武蔵国に流されています。その道武公が父を祀る廟を建てたのが始まりとされています。適度な”うらぶれ感”もあって実に味わいのある神社です。JR南武線・谷保駅下車、徒歩5分程。甲州街道を渡り、一の鳥居から参道を進みます。付近は河岸段丘地形なのか、二の鳥居から本殿へは階段を下る出雲大社的な珍しい配置となっています。神域には「鶏」が神使なのでしょうか、鶏が数羽放し飼いになっています。狐や狸や猫に襲われる危険はないのでしょうかねぇ。
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明治41年(1908)有栖川宮威仁親王一行が日比谷公園から車列を連ねて甲州街道を谷保天満宮まで走ったのが”日本初のドライブツアー”なんだそうで、天満宮梅林には「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」の碑があり、宮様御一行が昇殿参拝して帰途に就いたことから谷保天満宮が交通安全発祥の地なんだそうです。実に説得力のあるお話です。
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珍しい郵便ポスト…09

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開業はナント嘉永6年(1853)!。日本最古の遊園地として知られる「浅草花やしき」。その料金所の前に『パンダが乗った郵便ポスト』が設置されています。良く見ると本体の花模様は「花やしき」の洒落かも知れません。乗っかっているのも遊園地にあるような子供用ゴーカート的なシロモノです。ハンドルや料金投入口が描かれており芸が細かくなっています。中国人を筆頭に外国人で連日賑わう観光地「浅草」なので、ほかにも珍しポストがあるかと思ったのですが・・・。↓)右は合羽橋商店街にあったポストです。褪色は進み柱の根元は腐食するなど珍しいくらいにオンボロです(苦笑)。
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墨田区・勝海舟銅像

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前項の続き的になりましたが、こちらは墨田区役所内(隅田川緑道3号)に建つ『勝安房(海舟)銅像』の銅像です。この像は生誕180年の平成15年(2003)7月21日(海の日)に「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり云々と謂れが描かれており、別に生涯年表も造られ詳しく功績が描かれています。ここ墨田区吾妻橋1-23-20は両国・回向院近くの両国公園で墨田区役所からかなり離れてますが、良しとしましょう。
区役所1Fには「勝海舟コーナー」なんてのもあるのですが、Pt↓)が展示のすべてとは笑いそうになります。本人の回顧録的な「氷川清話」はホントかよと思う話も多いのですが、資料集によるとこのお方のは身長156㎝との事で、肖像画や銅像のイメージとは”チョット違うかな”という印象です。因みに「フィラリアによる睾丸肥大の西郷吉之助(隆盛は本名ではありません)」は182㎝。梅毒による禿げ頭の坂本龍馬は170㎝。徳川慶喜は176㎝と江戸時代としてはかなりの高身長の方々です。
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洗足池・千束八幡神社

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洗足池は都内屈指の広さの池なのですが、実際は20分もあれば一周できます。勝夫妻墓所の反対側に唐突に馬の銅像が置いてありました。『千束八幡神社』の神域の名馬『池月』の銅像なのですが、薄い記憶を辿り案内板を読むと、源義経の「宇治川先陣争い」の名場面に登場する馬=字が違うようですが(池月/生食)=です。大田区の出身だったとは知りませんでした(苦笑)。八幡様ですからご祀神は宇佐八幡から勧請の応神天皇なのは容易に分りますが、後三年の役では奥州へ向かう源義家が必勝を祈願したとか、鎌倉へ向かう源頼朝がこの地で「池に映る月」のように見事な野生馬(後の池月)を捕えて、戦の”吉兆”と喜んだという伝承あたりにはかなり無理があるように感jじてしまいます。
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勝海舟夫妻の墓所

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東急東横線・洗足池駅下車、中原街道を渡ると洗足池。池の畔の一画に「勝海舟夫妻の墓」があります。勝海舟(海舟は号で諱は義那。麟太郎→安房→安芳と変遷)文政6年(1823)現在の両国・回向院近くで生まれ、幕臣として海軍奉行となり、西郷隆盛との江戸無血開城交渉は有名な話です。明治政府では海軍卿、枢密院顧問官を歴任し伯爵になっています。勝は洗足池周辺の景色を好み「洗足軒」という名称の別邸を有していました。明治32年(1899)没後、遺言によりこの地に葬られています。実に自由奔放なお方で「氷川清話」ではホラ話ばかりと云っても過言ではありません。赤坂の住まいでは正妻と妾(4人?)が同居していて、正妻の遺言が「旦那と一緒に葬ってくれるなっ」ですから(笑)。勝夫妻の墓所隣には勝が西郷隆盛の死を悼み現葛飾区四ツ木の浄光院に建て、大正2年にこの地に移してきた『西郷隆盛の留魂祠』があります。国家反逆者の死を弔うんですから政府側に人間としてはボロクソに非難されたことでしょうね。
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品川区・鈴ヶ森刑場遺跡

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前項の「涙橋」から旧東海道を進みます。旧道が第一京浜と交差するあたりが江戸時代の『鈴ヶ森刑場跡』です。慶安4年(1651年)に作られ江戸北方の小塚原刑場に対して江戸南方の鈴ヶ森刑場となるのでしょう。広さは小塚原刑場の幅108m、奥行54mに比して、鈴ヶ森は幅74m、奥行16mとの記録があり、やはり広大なという感はありません。明治4年(1871年)に廃止されるまでの約220年間で10万~20万の罪人が処刑が執行されたとありますが、罪人だけに実数は不明のようです。処刑された者には慶安の変(由井正雪の変)での丸橋忠弥や平井権八、天一坊や八百屋お七の名があげられます。この地は現在は隣接の大経寺の境内になっていますが、多くの慰霊塔や磔刑用の柱をたてた台石などが残されています。
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品川区・立会川

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京浜急行・立会川駅近くの商店街、”立会川繁栄会”はTVメディア等を賑せたことがあります。立会川にボラの大群が押し寄せた事件(?)。そしてNHK大河ドラマ「竜馬伝」が2010年に放送された時です。江戸時代にはこの付近に土佐藩の下屋敷があり、若き日の坂本龍馬と関わり合いがあるに違いないという話を拠り所に盛んに町興しがされました。「龍馬の足跡パン」やら土佐藩縁の「砲台そば」なんかが登場し、駅近くの児童公園には叩けばボコボコいう龍馬像まで作られました。こんな時流に便乗した話も在ったのですが・・。Pt↑)は立会川に架かる浜川橋で、渡る道が旧東海道です。この橋を渡り7分程進むと、江戸時代に南千住の小塚原刑場とともに設置された「鈴ヶ森刑場」がありました。処刑される罪人はこの橋を渡る際に秘かに見送りに来た親族らと涙を流しながら別れたという事から『涙橋』と呼ばれていたようです。
児童公園の坂本龍馬像の襷には「龍馬と進める火災予防」とあり、キャンペーン活躍中です(爆笑)。
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