旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年06月

川崎市立日本民家園

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Pt↑)は富山県五箇山から移築した合掌造の民家です。日本の古民家を象徴する景観なのかも知れません。「川崎市立日本民家園」は小田急線・向ヶ丘遊園駅から徒歩20分ほど、丘陵地に20数軒の古民家が移築されています。200-300年の建物でほとんどが関東圏の民家のようです。日本民家園は開業50周年だそうで、250年(移築時)+50年=300年(現在)となると「オリジナル状態では日本最古の建物」があるかも知れません。
今の季節は茅葺屋根の民家では湿気管理と害虫予防で囲炉裏炊きをしており、これが熱いのと煙いので往生します。ゆっくり見て歩くと1時間半くらいですが、丘陵地の点在しているのでかなりのハイキング気分です。現実には古民家の維持管理補修にはとんでもない費用がかかります。建材も職人も減っていきます。公立の施設でなければ経営は難しいでしょう。
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調布・布多天神社

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調布の駅北口から徒歩7分程。鬼太郎&妖怪たちの像が並ぶ”天神通り商店街の先に布多天神社(ふだてんじんしゃ)が鎮座しています。社伝では多摩地方有数の古社で、室町時代中期に現在地の遷座したきたようで、江戸時代には近郊宿場町の総鎮守とし崇敬されていたようです。ここは「墓場の鬼太郎」によると神社の裏手の雑木林に鬼太郎親子が住んでいるという設定の神社です。
今はもう滅びた商売形態ですが、小学校の登校路に「貸本屋」なる「有料貸出漫画図書館」があって、そこで墓場の鬼太郎やらの水木作品に出合っています。今だったら発売禁止にるだろうの不気な本で、それが「墓場」→「ゲゲゲ」にとなり、アニメ化やTVドラマ化、映画化と、いつの間にやら超有名人になってしまいました。それにつけても雰囲気のよい神社です。
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調布・鬼太郎の街

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久々に下車した京王・調布駅はものの見事に様変わりしていて、しばらくは呆然としていました(苦笑)。駅前の再開発の一環なのでしょうか、駅近くの自転車駐輪場(調布駅北第1自転車駐車場)が建て替えられ、建物壁面には鬼太郎・猫娘・一反木綿の絵が描かれています。入口に置かれたのがPt↑)の「妖怪ポスト」です。「墓場の鬼太郎」によると”妖怪ポストから鬼太郎宛ての手紙を投函すると助けに来てくれる”という設定ですが・・。某クマ氏のような”和風テイスト”に溢れる木目調に塗られていて、当然ですが屋根は藁ではありません。企画立案から設置まで2年を要したようですが、目白のまことちゃんと違ってこちらのは納得するだけのストーリーがあります。
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調布は「墓場の鬼太郎」の作者「水木しげる氏」が住んだ街で、ご夫妻を描いたNHK朝ドラや映画が公開されたのは2010年の事でした。「布多天神社」へ向かう天神通り商店街には所々に鬼太郎・目玉オヤジ・ネズミ男・一反木綿・猫娘・ぬり壁など鬼太郎の仲間たちの像が置かれています。数年前に水木氏の生まれ故郷の境港を訪れたのですが、こことは比べものにならない程の充実ぶりでした。空港名からして「米子鬼太郎空港」ですからねぇ。Pt↓)は店舗の廃棄物が映り込まないよう苦労しています。ブームが沈静化してしまえば単なる商店街に戻ってしまうのは仕方のない事ですが・・。
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日野・高幡不動尊

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京王線・高幡不動駅前のあまりの変貌ぶりに言葉もありません。いかにもの”門前駅”で素朴な参道だってのですが・・。高幡不動尊は通称で「真言宗宋智派別格本山・高幡山明王院金剛寺が号」となります。ご本尊は「大日如来」、創建は大宝年間とも奈良時代とも伝えられ、平安時代初期に関東を鎮守する霊場を開いたのが始まりのようです。例によって高幡不動・成田山新勝寺・不動ヶ岡不動・大山不動・高山不動からチョイスの「関東三大不動」とされています。前項の様に「新撰組・土方歳三」の菩提寺であり、奥殿(拝観¥300)では、重要文化財・木造不動明王像や何故か土方歳三の書簡を見ることができます。高幡不動尊は紫陽花(アジサイ)の名所として知られ、カメラ爺&婆で賑わっていました。Pt↑)が不動堂です。実際は線香の煙が立ち込めています。Pt↓)は奥殿、平安時代様式の五重塔は高さ45m。
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高幡不動尊・土方歳三

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新撰組副長・土方歳三、明治2年5月箱館五稜郭攻防戦にて死ス。享年35歳。土方さんの銅像が生家から近くの菩提寺でもある高幡不動尊(金剛寺)の境内にあります。平成7年地元のロータリークラブが建てたもので、167㎝と云われる本人の等身大なのでしょうか?隣の石碑は明治21年に建てられた近藤・土方の忠節を顕彰する「殉節両雄之碑/じゅんせつりょうゆうの碑」です。明治時代では「新撰組」は賊軍の代表みたいなもんで大変な苦労があったようです。1960年代に栗塚旭という俳優が演じた司馬遼太郎原作のTV作品「新撰組血風録」や「燃えよ剣」は、ある年齢層にとっては懐かしい作品で、新撰組関連史上最高の映像作品かもしれません。『近藤さん、俺は行くよっ』・・このセリフ、いまでも鮮明に覚えています(笑)。
高幡不動尊の「あじさいまつり」を見に行ったのですが、こっちが先になりました。
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大宮・漫画会館

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「大宮盆栽村」と同町内の『さいたま市立漫画会館』です。こちらは風刺漫画(新聞などにある1コマ漫画)の祖と云われる「北沢楽天」の美術館で、氏の晩年の住居跡に寄贈された作品群が展示してあります。昭和41年の開館で「日本初の漫画に関する美術館」ということですが、なにせ明治~昭和(1876年/1955)の方なので作風も現代の漫画とは全く異なります。氏の影響を受けたとされる手塚治虫や小島功等も鬼籍に入り、現代の感覚では氏の功績もピント来ないと思います。美術館は老朽化が著しく、古臭い感のある作品ばかりですが見ておく価値は充分にあります。
JR土呂駅~大宮盆栽美術館~盆栽村~漫画会館~県立歴史と民族の博物館~東武大宮公園駅
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大宮盆栽美術館…(2)

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2011年5月以来の大宮盆栽美術館です。「大宮盆栽村」はさいたま市の東武アーバンパークライン(東武野田線)とJR宇都宮線で囲まれた地区にあり、関東大震災で被災した東京・小石川の盆栽業者が移り住んだのが始まりとされています。日本屈指の盆栽郷としてく海外からも盆栽愛好者が訪れているそうです。盆栽村と盆栽美術館+αなら大宮公園駅が便利ですが、盆栽美術館なら宇都宮線「土呂駅」が便利です。とは云うものの土呂駅には盆栽村をアピールするモノが殆どなく、Pt↑)が辛うじてといった感じです。
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『さいたま市大宮盆栽美術館』は広く盆栽の魅力をしってもらうために2010年に開館した美術館です。盆栽を中心として、盆器、水石、絵画資料、歴史資料などの紹介や鑑賞のポイントとか製作の過程なども展示してあります。自然を細やかに表現する感性は日本人ならではのと思いますが、樹齢100年超えとか値段が付かないとか、どうしても意識はそちらへ向かいます(苦笑)。事実関係は良くわかりませんが、この美術館は累積赤字がすさまじいと聞き及びました。”外国人に人気”はそう信頼性のある報道ではないようです。
この美術館や他の盆栽園も盆栽の撮影禁止となっています。まぁ、民度の低い輩が触りまくって枝の1本でも折ろうなエライ事件になるので無理からん事です。Pt↓)美術館の撮影OKコーナーの撮ったモノです。
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亀沢・野見宿禰神社

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一般的には「相撲は国技」と云われていますが、これは(財)日本相撲協会の規定にあるだけで、正式には日本國には「国技」は昔も今も存在していません。伝承では日本最初の取組みとされるのが、約2千年前に第11代・垂仁天皇の時代に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのはや)との対戦で、これが相撲の始まりとされています。すみだ北斎美術館から1ブロックほどに祖である野見宿禰を祀る神社があります。元々高砂部屋があった場所に明治18年(1885)に創建したのが始まりとされます。神社は(財)日本相撲協会の管理で境内には歴代横綱の石碑が建立されています。新横綱が誕生すると神前土俵入りが披露されるのですが、これが10帖程度の広さしかなく”あの巨体が…”と妙に感心します。
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すみだ北斎美術館

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墨田区の両国駅近辺には小さいながらもユニークは博物館が点在しています。2016年11月にオープンの『すみだ北斎美術館』は展示内容、建物とも飛びぬけています。江戸後期を代表する浮世絵師・葛飾北斎が生まれ生涯を送った縁ある街に建てられたという事ですが、誰もが知っている富嶽36景・赤富士や神奈川沖を含め、墨田区による約30年前からの構想し20億円を費やして収集した約1800点もの作品には、世界的に有名な浮世絵コレクターの所蔵品も含まれています。これだけの作品群が散逸せず集まったのはスゴイ事です。Pt↓)は・EVの扉すら”神奈川沖”です。・誰もが知る両作品です。・妹との作業風景ですが、巨匠ならではです。この人形たちは腕が動きますが、不気味です(苦笑)。
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江戸博特別展ねぇ・・。

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『すみだ北斎美術館』のついでに江戸東京博物館にて開催中の「没後150年 坂本龍馬」・(2017.4.29-6.18)・に立ち寄りました。観覧料は特別展だけが¥1350。+常設展で計¥1560となかなかの料金です(苦笑)。展示のみだまは、龍馬直筆の手紙や暗殺された際に携えていた愛刀「吉行」等なんですがぁ・・。ここまで実像と虚像がいり乱れたお方の企画展ってのは難しいんでしょうねぇ。「手紙」と「愛刀」などの他は殆どが「水増し状態」で、水割りやカルピスなら薄くて飲める状態ではありません。明治16年に高知の新聞に小説として掲載されるまでは、誰も関心なかった「坂本龍馬」が”Japan's Favorite Hero”に祭り上げられたのは司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」によるところ大なのですが、この様な企画展はどうしてもこのイメージに添っています。まぁ電車賃かけて行くほどのモンではありません(!)。
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鎌倉・腹切りやぐら

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観光客やエセグルメで賑わう若宮大路(郵便局辺リ)から紅葉山方面に入って行きます。住宅地を進み大正13年(1924)に架けられた「東勝寺橋」を渡り坂道を進むと、国指定史跡「東勝寺跡」の案内板だけがポツンとあります。隣が”放置自転車保管場”ですから住宅地とは云え町はずれ感が漂います。更に進むとハイキングコースの入口、左側が「腹切りやぐら」です。この場所は鎌倉有数の心霊スポットとされています。元弘3年(1333)後醍醐天皇による「元弘の乱」の最後の戦いで、天皇側の新田義貞との「東勝寺合戦」に敗れた鎌倉方北条高時が北条一族(283人)と家臣(870人)が自害した場所で、鎌倉幕府(1192-1333)はこの地で滅亡しています。そうなれば落武者の霊だの心霊スポットとされるのは無理ありません。
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鎌倉・源頼朝墓所

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建久9年(1198)11月27日頼朝さんは相模川での橋供養の帰路に突然体調を崩して、建久10年(1199)1月11日に出家、13日に享年53歳で亡くなります。平家一門や源義経の怨霊に襲われ落馬したのが原因との説もあるくらい奇妙なことには幕府の公式記録「吾妻鏡」には死因についての記録がなく、前述の怨霊説、妻の政子による暗殺説、持病の悪化によるなど諸説が溢れています。「吾妻鏡」は、後年北条氏によって書かれて史書なので都合の悪い事は削除したのかも知れません。鶴岡八幡宮から徒歩10分弱、白旗神社内に頼朝さんの墓所があります。安永8年(1779)に頼朝さんの子孫と自称する薩摩の島津重豪により再建されたものですが、あながちハズレではなさそうです。Pt↓)墓所までは階段を53段(死亡時の年齢)登ります。階段手摺には源氏の印「笹竜胆」の紋がありました。
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鎌倉・荏柄天神社

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鎌倉宮からほど近くに太宰府天満宮、北野天満宮とともに日本三天神と称する「荏柄天神社」があります。ご祀神は、平安時代の政治家であった菅原道真です。創建は 1104(長治元)年。晴れていた空が突然かき曇り、雷鳴とともに菅原道真の肖像画が降臨した事によるそうです。1180年、鎌倉幕府を創設した源頼朝は、荏柄天神社を鬼門(北東)の守り神とし、源氏・足利氏・北条氏・豊臣氏・徳川氏と鎌倉の武士たちの尊崇を受けていたようです。以前にも触れましたが菅原道真公は中央での政争に敗れ九州に左遷されたのを恨んで、都に雷を落とすは疫病を流行らせたりの大暴れ。平将門、崇徳上皇と共に『日本三大怨霊神』と「されています。神様に祭り上げられておけば気分をよくして「祟りなくなる」ということなのですが・・。
お社は50段程度の階段の上にあります。結構シンドイ階段です。
Pt↓)はかっぱ漫画で有名な「清水昆」が愛用の筆を供養するために建てた「かっぱ筆塚」です。
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鎌倉・大塔宮(鎌倉宮)

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JR鎌倉駅4番からバスで約15分(¥180)で大塔宮(鎌倉宮)に到着します。位置的にはアバウト鶴岡八幡宮の奥になるのですが観光客は多くないようです。社格は”旧官幣中社”とあり、「護良親王」が祀られています。Pt↑)は一の鳥居です。白鳥居はコンクリートや石造りなどありますが、笠木(1本目の赤、2本目の貫が白)で島木が白く貫が飛び出ていない明神鳥居は珍しい造りです。神職に聞いたところ・・鳥居はコンクリート製で”白”は護良親王の純な心と捉えて下さい。この形式は全国で唯一でしょうが、あえて表現していません・・とのお話でした。
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祀神の護良親王は後醍醐天皇の子で、後醍醐天皇は建武中興により鎌倉幕府を滅亡させますが、後に足利尊氏と対立、護良親王は捕えられ幽閉のち殺害されています。鎌倉宮は明治2年(1869)に明治天皇が建武中興の功績を讃え護良親王を祀る神社の造営を命じたことによります。本殿裏には親王が幽閉された伝承の土牢(?)が残っています。面白いのが神社の宝物殿で、乃木希典や伊藤博文、幕末期の勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3舟の書が揃って展示してあります。
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ソラマチ・郵政博物館…(2)

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意外と「郵政事業」ってのは知らないものです。ましてスカイツリーに隣接してこの様な博物館があったとは・・です。あの胡散臭い豊島区の切手の博物館(総務省所管の一般財団法人)とは雲泥の差です。世界各国の切手の収蔵だけでも約33万種類(!)。これだけも丸一日かかりそうです。誰もが知っている「ラジオ体操」は郵政の前身の逓信省の発案で始まり簡易保険局、日本生命保険会社協会、日本放送協会が文部省の働きかけ郵便局員により全国に普及したそうです。ラジオ体操には第一、第二のほか幻の第三があるらしく、このあたり全く知りませんでした。さらにはゆうちょ銀行で松下奈緒と踊っている不気味なリス達は、郵政民営化で廃止される以前の郵便貯金のマスコットのシマリス「ユウちゃん」を継承していたとは・・(笑)。
正直、知らなくても困らない話ばかりなのですが、マニアでなくとも充分に楽しめる博物館です。
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珍しい郵便ポスト…12

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続きです。Pt↑)は明治45年(1912)製の「丸型庇付ポスト」とあります。回転式ポスト故障が多かったため、明治45年に回転板を取り外し、差入口に雨除けの庇と郵便物盗難防止の弁を付けた仕様に改良されています。差入口廻りの”丸いデザイン”は回転式の名残りで、その伝統は昭和24年(1949)の1号丸型ポストに受け継がれています。
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さすがにこれは存在すら知りませんでしたが…。昭和4年(1929)の4月に航空郵便制度が施行され、伴ってPt↑)の細身の航空郵便専用のポストが東京、大阪、福岡に設置されました。塗装も赤色からスカイブルーに変えられ、青系の塗装は後年の速達専用ポストに引き継がれたそうです。
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お次は、昭和9年(1934)にかさばる郵便物が投函しやすいように改良されたポストが登場しました。差し出口が大きく広がる構造で定期刊行物、新聞。書籍の投函に対応しています。
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「郵便差出箱1号丸型ポスト」が登場したのは昭和24年(1949)なんだそうです。ようやっとお馴染みの形、いまだ現役で活躍しているポストです。このポストの特徴は上部と下部が別構造となっており、設置場所の状況により取り出し口の向きが変えられるようになっています。大宮の博物館に展示されていたポストがまさにこの詩型になっていました。


珍しい郵便ポスト…11

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郵政博物館は博物館ないに向島郵便局臨時出張所が併設されています。という事で設置されているのが場所にちなんで「スカイツリー型」の郵便ポストが置かれています。ここから投函すると自動的にスカイツリーの消印が押されます。その消印を良しとしない場合は左のポストを使用します。
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郵政博物館ですから珍しいポストが当たり前に展示されています。館内最初には明治34年(1901)に明治の発明家・俵谷高七(たわらやたかしち)考案の「俵谷式ポスト」です。明治34年から日本橋北詰に設置されました。現存するのは写真のみで、Pt↑)はいわゆるレプリカです。
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考案者の中村幸治(なかむらこうじ)の名から「中村式ポスト」と呼ばれています。明治34年、俵谷式ポストの2週間後に日本橋南詰に設置されました。両者とも赤色鉄製の円筒形で差入口に雨除けが付けてあります。防火や郵便物消失の工夫や盗難予防機能が加味されました。
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明治41年(1908)製の正式に鉄製赤色に制定されたポストです。このポストは福井の郵便局で使用されていたもので、中村幸治の考案により、差入口が回転式になっています。日本で唯一現存する回転式ポストだそうですが、どこかで見たことがあるような気がしてなりません。

ソラマチ・郵政博物館…(1)

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東京スカイツリータウン・ソラマチ9階の「郵政博物館」です。2013年に閉館した「逓信総合博物館」を引き継いで2014年3月の開館した施設です。東京スカイツリータウン・ソラマチというと中韓を筆頭とした貧乏外国人目当ての店ばかりと思っていましたが、この博物館はかなりレベルの高い施設です。惜しむらくはやや判りにくい場所にあることでEVで8階まで上がりEVを乗り換えて9階へあがります。下層階の商店街とは雰囲気がかなり異なります。前島密による郵政事業のあらましや、現場で使われた物品の数々。「簡易保険/ラジオ体操」やら「郵便貯金」の歴史。圧巻は33万種(!)に及ぶ世界各国の切手の展示には正直眩暈がします(笑)。館内アチコチに置かれた郵便ポストは「珍しい」を超越しています。
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