旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年07月

尾道の追憶

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【四国・広島シリーズの最終回です】。北島三郎が ♪北の町から来たよ 潮風にふかれて来たよ あヽ尾道♪ と歌った「尾道の女」が1966年。大林宣彦の尾道三部作、「転校生」が昭和57年(1982)。「時をかける少女」が昭和58年(1983)。「さびしんぼう」が昭和60年(1985)。いやはや遥か以前の曲や映画の記憶となりました。今はこの三部作を知っている人の方が少ないでしょう。さらには文豪、志直哉や林芙美子の生まれ育った街と云われても・・。久々の”尾道の街”は時の流れが超ゆっくりのようです。
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なんとこの日は商店街の休業日で店という店が休業で残念至極でした。汗だくになって記憶をたどってでの街散策も苦行です。Pt↑)斑点模様の伸びきった猫は動くのも面倒といった様子です。「尾道・猫の街」と紹介されても彼らには彼らの都合があり、この暑さは猫には冗談ではなく過酷です。猫は肉球でしか汗をかないので、惰眠をむさぼるどころか涼しい場所を見つけて体力を温存しています。これが真夏の猫の正しい姿です。「猫の細道」に猫がいないのは至極当たり前です。
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伊予の小京都(?)大洲市

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『伊予の小京都』と呼ばれる(らしい)大洲市は、松山と宇和島の中間あたりに位置し、街のシンボルは丘に建つ国の重要文化財のPt↑)の『大洲城』でしょう。天守は復元も復元で【市制施行50周年記念行事】として、往年の工法と木造建築で平成16年に竣工したものです。大洲城の場合は往年の資料が多数残っており、ほぼ正確に復元されたそうです。それにしても天守内部が吹き抜けになっている構造など初めて見ました。
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もう一つが街を流れる「肱川」を見下ろすように佇む『臥龍山荘』。明治40年完成の”所謂金持ちの別荘”です。神戸で財をなした豪商河内寅次郎が10年の構想と4年の歳月をかけて桂離宮や修学院離宮などを参考に完成させた別荘です。使用したのは2年あまりとの事ですが、建物や各部屋の説明を聞くたびに”ホ~ッ、ホ~ッ”の連続です。山荘内の3棟が重要文化財で、2011年には『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』の一つ星を獲得しています。またしても”ホ~ッ”です。
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俗っぽい話では、市内の一画には「おはなはん通り」と呼ばれる江戸から明治期を彷彿させる街並みが残っています。昭和41年、樫山文江の連続テレビ小説「おはなはん」のロケが行われた場所なんだそうです。さらにPt↓)の街角の郵便ポストは1991年のTVドラマ「東京ラブストーリー」の重要な場面に使われています(残念ながら知りません)。偶然に立ち寄った大洲市だったのですが、伊予(愛媛)のあまり知られていない街にこんな素敵な景観があったとは、関東人には驚きです。
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続・松山の街つれずれに

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松山市は四国最大の都市にして人口51万人を数えます。因みに高知市が人口33万人。城を中心に発展した街は同じとしても、松山は道後温泉など多様な文化的観光スポットに恵まれ、商業施設、繁華街にしても閑散街の高知とは比べられません。Pt↑)は1929年(昭和4年)完成の県庁本館です。車寄せには旧漢字で『廰縣媛愛』とかかれています。居住性は最悪でしょうが建物はなかなかの味わいです。
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市内での市電や路線バスのほとんどが「伊予鉄道」です。Pt↑)の車両は極端ですが、オレンジ色を基調としています。地方の都市にはありがちですが、松山地内はJR松山駅と伊予鉄松山市駅と繁華街の「大街道」地区と道後温泉が離れています。この間の移動には松山市電が便利でした。
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Pt↑)は「松山ロープウェイ商店街」=松山城ロープウェイ乗場付近です。近くには「秋山兄弟生誕地」や「坂の上の雲ミュージアム」や旧松山藩主の子孫、久松伯爵の別邸などの見所があります。比べること自体に意味はないのですが、坂本龍馬だけにおんぶに抱っこの高知にくらべたら・・・。
【松山市内で見かけた猫達です。やはり暑いのは苦手のようです】。
・二毛猫は愛媛県庁のガードマン氏です。駐車場にデンと構えて威嚇しています。 ・バイク座席の茶トラは土産物屋の看板猫です。よく働いたのかお疲れ模様です。 ・どこから入ったのか「道後の提灯」の上の黒い物体は猫が寝ているお姿です。
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松山の街つれずれに

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司馬遼太郎&彼の作品が嫌いという訳ではありません。彼の作品の人物像が作者の好き嫌いで書かれている事、何より司馬作品を読んで単純に「史実と混同する輩」、TVをドラマを見て子供に龍馬と名付ける親の感性が苦手です。司馬作品の『坂の上の雲』は松山出身の秋山兄弟+正岡子規の日露戦争時代の歴史小説です。ここ松山城の城下にはNHKの臭いがする「坂の上ミュージアム」と財団法人の「秋山兄弟生誕地」の2つの施設があります。「秋山兄弟生誕地」は平成17年1月に公開された記念館で、生家は、彼らを知る人達の記憶により復古された家です。
【Pt↑は兄:好古の乗馬像で、目線の先、Pt↓)は弟:真之の像です】
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貧しい下級武士の家に生まれた秋山兄弟は、「生活費も無料&小遣付き」という事で(違うでしょうかけど)軍人の道を歩むこととなります。そして日露戦争・・。兄の好古は日本初の騎兵部隊をして世界最強の「コサック騎兵」と戦い、弟の真之は日本海海戦で東郷元帥の参謀として活躍します。小説『坂の上の雲』は「サンケイ新聞」に1968年~1972年に連載されていました。作者の個人的な”乃木希助嫌い”など史実とは異なる点も多々ありますが、『小説』としては群をぬく面白さです。兄・好古は退役後、故郷松山で教職に就き、昭和5年11月に東京で亡くなります。弟・真之は退役後宗教家となり大正6年に小田原で49歳で亡くなっています。日本海海戦時で魂を燃焼しつくしたのかも知れません。Pt↓)は友人の正岡子規。「野球」という言葉を造った縁で道後温泉の像はユニフォーム姿です。
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現存12天守の松山城

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連日の強行軍で疲れはて、松山の2日目は予備日or休養日です。松山城は当初からの予定に入っていましたが、はからずも”四国城廻り”となり、全国の「現存12天守」のうち丸亀城・高知城・宇和島城・松山城と四国にある城を全て見たことになす。松山城も平山城で市内中心部、標高132mの「勝山」山頂に本丸があります。有り難い事に山の8合目まではロープウェイが施設されており楽に上がれます。とは行っても天守までは、この先徒歩20分ほど・・(笑)。天守から見る松山の街並み・・。来たかいがあるってモンです。
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ロープウェイはAM08:30からですが、朝に弱いはずの中韓ゴキブリがウヨウヨいます。松山城は姫路城と同様に複数の天守や渡櫓の複合的な「連立式天守構造」になっています。勲章を列記すると史跡、重要文化財21棟・日本の歴史公園100選・日本100名城(81番)・美しい日本の歴史的風土100選・日本さくら名所100選など、なかには意味不明なモノもあります。さらには愛媛県には松山城&宇和島城と現存する天守の城が2ヶ所あ唯一の県だそうですが、これ自慢になるのですかねぇ(笑)。
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やっとこさ道後温泉

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やって来ました!『道後温泉本館』です。説明するまでもなく松山市の道後温泉の中心で、街のシンボルでもあり、国の重要文化財(1994年)であり、共同温泉番付(?)の西の横綱であり、ミシュランの日本観光地2つ星、経済産業省の「近代化産業遺産」と勲章が多々あります。縁が無いとはこの事で玄関先までは行っているのですが入浴したことはありませんでした。
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ホテルチックイン後、市電に乗って道後温泉へ・・。2階の「霊の湯」と1階の「神の湯」に入浴でき、浴衣・タオル・お茶&お菓子・館内見学付の¥1250のコースを選択しました(笑)。Pt↑)の部屋に案内されお姐さんから段取りの説明があります。ご覧のように冷房はなく扇風機が廻っています。利用時間が1時間となっており、時間内で大浴場を2ヶ所入浴して、寛いで、館内見学・・けっこう忙しいです。
道後温泉は3000年もの歴史を持つとされ、神話の時代からの数々の伝承があり、聖徳太子が病気療養にため滞在したとか、万葉集にも記載があるとかの温泉文化の原点みたいな場所です。夏目漱石が松山中学で教鞭をとったなん話はほんの”昨日”の事ですね。
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チョイト寄り道・宇和島城

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愛南町で念願の『紫電改』を見ることができました。ここから松山までは宇和島経由で2時間30分ほどの行程です。夕刻まで時間には余裕があるので『宇和島城』に立ち寄ってみました。このお城も標高80mの丘の上にあります。午後の日差しのなか吹き出る汗を拭いながらの山登りです。暑さボケで天守より駐車場から帰路の道を間違えると云う失態をし、エライめに遭ってあってしまいました。
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宇和島城は慶長年間に藤堂孝虎により築かれ、後に築城の名人孝虎を引き継いで、元和元年(1615)に入部した伊達家により現在みられる城の縄張りは伊達宗利により改修された城です。標高80mほどの丘に建つ平山城で、Pt↑)の独立式層塔型3重3階(というのだそうです)の天守は寛文6年(1666)に建てられた現存する【12の天守】の1つで、国の重要文化財かつ日本100名城の№83です。
天守からは宇和島はリアス式の海岸と「伊達10万石の城下町」が眼下に見えます。絶景という言葉が浮かびますが、それにしても暑いのです。天守までの案内板はハイキングコースのようです(苦笑)。
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愛南町・紫電改のタカ

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『紫電改のタカ』という”ちばてつや氏”の漫画がありました。調べてみると「少年マガジン」に1963年7月~1965年1月まで連載された作品で、太平洋戦争末期に本土防空戦のお話です。主人公・滝一飛曹の乗機が太平洋戦争末期に400機ほど生産された日本海軍の最強戦闘機『紫電改』です。現在はアメリカに3機と愛媛県南宇和郡愛南町に国内ではただ1機が保存されています。南宇和郡愛南町がどの辺りなのかさっぱり判りませんが、四国へ行くことがあれば何としても実機をみて見たいと思っていました。なにせ世界に4機です。
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この機体は川崎航空機(現新明和工業)が製作した水上機「強風」をもとに陸上戦闘機に改装したのが「紫電」、更に紫電の離着陸性能の向上のため中翼から低翼に変更したのが『紫電改=紫電二一型』です。『紫電改』は全長9.37m(9.12m)、全幅11.99m(11m) *()内はに零銭52型* と数値的には零戦とそう変わらないのですが、実機を見た感じは呉にあった零戦62型より大きく見えます。
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実機は松山の343航空隊に所属、昭和20年7月24日に豊後水道上空で交戦、未帰還となった機体と思われます。昭和53年11月南宇和郡城辺町久良湾の海底で発見され昭和54年7月に引き上げられ、ここ紫電改展示館に翼を休めています。プロペラは着水時に曲がったまま、他の部分も無理に復元したりせず”出来得る限の作業”といった感じで好感が持てます。
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こうした旧軍機の展示については”戦争礼賛”だのと訳の分からんことを言う輩や政党会派もおりますが、我々の先輩達が、当時の世界最高水準の戦闘機を造りあげていたことを誇りに思ってあげたいと思います。
この展示館には実機の他にも興味深い数々の展示があるのですが、実機の迫力の前には・・。この展示館1階フロアは冷房が効いていますが、2階部分まで冷気が届かず、2階に上がると途端にカメラのレンズが曇りだし撮影には苦労するほどの笑い事ではない高温多湿の極地でした。
・パネルには『紫電改』引き上げの模様や強風→紫電→紫電二一型(紫電改)の変遷の展示があります。・展示館の規模はさほど大きくなく『紫電改』だけが展示されています。白のフィットは今回の使用車です。
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来たぜ足摺岬!

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高知へ行ったら室戸岬と足摺岬を制覇と考えていたのですが、高知市からだと行きつ戻りつ大変な距離となります。で、室戸岬を却下して足摺岬へ向かいました。高知市内から約3時間の行程をひたすら走ります。道すがら四万十市あたりで名高い四万十川が登場するのですが、正直なところ日本国中で良く見かける「風景」であってそれほどの感慨はありませんでした。
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土佐清水の町を過ぎるころから、今回の行程では初めての晴天となってきました。ようやっとデジ1の12㎜レンズの出番がやって来ました。駐車場から徒歩数分で岬の展望台に出ます。以前にはこの地が極楽浄土への入口だと表現する小説により自殺者が急増したなんてこともありました。
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約80mの断崖の下は黒潮の海です。足摺宇和海国立公園に属し、ミシュラン・グリーンガイドでは「足摺岬」と「足摺岬からの眺望」がそろって二つ星★★と評価されているそうです。ここからの視界はどの位あるのでしょうか?地球が丸いのが実感できるとはこの景色です(笑)。足摺岬だけは本当に晴れてよかったと思います。ただ暑さは飛びぬけていましたが・・。
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展望台入口の広場には、太平洋を向いてジョン万次郎こと中浜万次郎の像ありました。土佐清水市中浜に生まれ14歳のころ漁に出て遭難、アメリカ船に救助されるて波乱万丈。紆余曲折ののすえ漂流から11年目に帰国、後日米の架け橋となる幾多の業績を残したというお方です。蛇足ながら土佐清水商工会議所では「ジョン万次郎」の生涯を大河ドラマにという活動をしています。

高知の街つれずれに

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「高知」と云われると・・1)坂本龍馬 2)鰹料理 3)よさこいまつりと出ますがこの後が続きません。この高知市にしても高知城以外は、これでも「県庁所在地」かと思うほど寂しく活気を感じない街でした。地方都市の現状としてもあまりにもさびしい限りです。観光で訪れたなら100%ガッカリします。
意味合いは違っても『日本三大がっかり』の巨頭でも他の追従を許さない『播磨屋橋』 Pt↑)は、元々江戸時代の播磨屋と櫃屋の2軒の豪商の往来の為に架けられた私設の橋が由来ですが、ご覧のように庭の池に架けられた橋にしか見えません。
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はりまや橋南が国道32号と55号などの交差点で土佐電の”はりまや橋駅”やバス亭があり、交通の中枢のはずなのですが、交差点の向こうにあるのはパチンコ屋です。ビルの規模からして似つかわしくなく、元は土佐電の「土電会館」として開業、後に西武百貨店となり、西武撤退後がパチンコ屋です。商業一等地ですらこれですから繁華街といっても想像がつきます。
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2006年に完成した『高知駅』はご立派な造りになっています。駅舎の愛称が「くじらドーム」で、駅のウリが「龍馬とよさこい、日曜市の駅」なんだそうです。またしても龍馬です。返す返すも司馬遼太郎は罪造りです。
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高知駅舎を背に3人の像が並んでいます。左から「武市半平太先生」・「坂本龍馬先生」・「中岡慎太郎先生」です。武市半平太=藩主の命により切腹、享年36歳。坂本龍馬=土佐脱藩の重罪人、京都で暗殺、享年31歳。中岡慎太郎=土佐脱藩の重罪人、京都で暗殺、享年31歳。歴史の流れが”あなたたちの役目は終わりです。お帰り下さい”と言っただけです。”先生”と呼ばれるほどの方々ではありません。
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坂本龍馬におんぶに抱っこ、骨までしゃぶってやろうかという街のようですが、これはダメでしょう。誰が好き好んで梅●はげのカプチーノなんて味わいたいと思うのでしょうか?
感心したのがPt↓)マンホールの蓋です。1)鰹とよさこいの鳴子 2)くじら 3)高知城・トサミズキの花・鳥はセグロセキレイ。他にもあるのでしょうか?
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『龍馬郵便局』だとぅ…。

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正直、全国的にもこれほど下劣なモノを見たことがありません。龍馬生誕地から徒歩5分ほどの『龍馬郵便局』には怒りすら感じてしまいます。1999年に名称を変更した全国で唯一の実在した人物の名前がついた郵便局だそうですが、それが何の自慢なんでしょう。玄関前には例の銅像(!)。さらには郵便ポストの上のガラクタは、子供の忘れ物かと思ったのですが、説明板には【ふるさと切手”桂浜と坂本龍馬”発売記念して設置され、「坂本龍馬」に「桂浜の波」と「地球」で坂本龍馬の偉大さを表現した】とあります。名称といい郵便ポストといい、この郵便局はなにか変です。司馬遼太郎教の信奉者なんですかねぇ。高知空港を高知龍馬空港とした以上の驚き(呆れ)です。
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龍馬生誕の町だそうで(苦笑)

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高知城のボランティア・ガイドさんに「この街で龍馬の悪口はだめですか?」と訊いたところ「大丈夫!あれはお話ですから」との返事でした。以前に高知出身の方に訊いたら「龍馬より武市半平太の方が人気があります」と・・。真偽のほどはわかりませんが、まぁそんなモンかも知れません。はりまや橋駅から市電(¥200)で数分、上町1丁目駅で降りると目の前に『坂本龍馬誕生の地』の碑がありますPt↑)。病院の一画で土産屋も何もないごく普通の街角です。正直、拍子抜けします(笑)。ここから徒歩3分程に『高知市立・龍馬の生まれたまち記念館』と称する移設がありました。「龍馬の成長や家族・友人との関わりを紹介」なんですが「脱藩という重大犯罪を犯して国を棄てた輩に何を云う」です。やや機嫌が悪くなって来ました。
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感激の高知城…(Ⅱ)

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関ヶ原の合戦に西軍に与した長宗我部氏は改易され、山内一豊が土佐24万石を与えられ掛川から移ってきます。山内一豊ってのは「悪運」と「お愛想」だけで出世したような御仁ですが、さすがに敵地着任の際は影武者を数人用意したようです。この領主の交代が後年の山内家直属の武家と旧長宗我部系の元武家との土佐藩の身分構造を生むことになるのですが・・。
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駐車場から追手門へ向う奥まった場所に『山内一豊』の騎馬像があります。銅像本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mあり、皇居前の楠木正成像を上回りますが、楠木正成像は内部まで銅入りで重さは約7トンあります。
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追手門を抜けると高知出身の憲政の功労者『板垣退助』の像があります。土佐藩上士の出身ですから城内にあっても不思議はありません。自由民権運動のおり岐阜でテロにあい『板垣死すとも自由は死せず』のセリフが有名ですが、当然こんな事は言っておりません。
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今度は初代・山内一豊の妻・千代(見性院)の馬の手綱を引く像です。例の有名な逸話、妻の千代は嫁入りの持参金(へそくり)で一豊の欲しがる名馬を購入、当時の主君織田信長の馬揃えの際に信長の目に留まり、それが元で一豊は加増されたと・・・。そんな馬鹿なと思う逸話によります。閑話休題。姫路城は別格として「高知城」の姿は感激もんです。坂本(嘘クサ)龍馬だけの高知ではありません!。

感激の高知城…(Ⅰ)

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いつのまにやらの「四国城郭巡り」も今回は大御所高知城です。高知平野のほぼ中心、大高坂山(454m)山頂に築かれた平山城です。駐車場から天守まで約20分、もう驚かなくなりました(笑)。オリジナルで残っている『木造12天守』の一ツで、数々の天災・火事・地震や明治の廃城令、太平洋戦争などの危機を越え現在でもその姿を残しています。Pt↑)は「追手門」、江戸時代の建物です。門脇には「国寶高知城」の石碑が残っています。
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現在の「高知城」は、天守、本丸御殿、を含む15件が昭和25年に国の重要文化財に指定されています。天守まではこう配続きですが歩きやすく、そう苦行ではありません(嘘)。天守内部は原型を留めたまま、築城の模型や当時の城下の民の生活模様の展示があります。オリジナルの急勾配の階段を最上層に登ると城下町が一望となります。長宗我部氏の後を継いだ山内一豊が1601年に築城を始め1603年に完成しています。1727年の高知の大火で「追手門」以外は殆どが焼失し、現存の天守と本丸は1749年(享保12年)に再建されています。天守が現存する全国12城の一つで、本丸部分が完全な形で残っている城としては全国唯一です。
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高知・桂浜の

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よさこい節に♪月の名所は桂浜♪と唄われる「桂浜」です。曇天で32℃、湿度は100%近くあります。冗談ではありません。山内家以前に土佐を治めた長宗我部氏の時代にはこの付近が土佐の中心地であったようです。ウリは【弓状に広がる白い砂浜が美しい】とありますが、残念ながら砂浜が白く見えません。。もう一つのウリが【坂本龍馬が郷里でもっとも愛した地】なんだそうです。龍馬の住まいから約20㎞あり簡単に来れる場所ではないのですが、龍馬の実母の実家が桂浜付近にあり、「姉の乙女とよく舟を漕いで遊びに行ったらしい」の極薄い伝承を拠り所にしているようです(笑)。
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で、その坂本龍馬像(全高13.5m/像高5.3m)は太平洋を眺める長宗我部氏の城跡に建っています。昭和3年に地元の成年有志によって建立されたもで、司馬遼太郎が『竜馬が行く/1963-1966』で新龍馬像を造りあげる以前の話です。写真好きだったとはいえご本人の写真は6-7枚しかなく、この像も慶応2年頃の写真を元にしています。明治の権力争いで長州・薩摩に敗北した土佐としては、嘘でもいいから土佐に関係する英雄ストーリーが必要だったのでしょうね。
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・曇天のため砂浜が白く見えません ・龍馬像の裏。NYCの自由の女神に対抗してこの地に造ったとの説は笑えます。 ・オフ時期ではないのですが土産屋・駐車場ともガラガラでした。
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「卯建」あがる徳島・脇町

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「出世できないとか調子がイマイチ」を『卯建(うだつ)が上がらないと』との表現があります。=「江戸時代の民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの袖壁。長屋建ての戸ごとの境にもうけたものもあり、装飾と防火を兼ねる。」(広辞苑 第六版)当初は防火の目的で造られましたが、設置に多額の費用を要したことから装飾の意味が強くなり、次第に富や成功の証の象徴となっていきました。
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吉野川流域の徳島県・脇町(現在は合併して美馬町)はかっての脇城の城下町として『藍』として栄えていました。町をつらぬく約400mに道路に表通りに面した町屋が50軒並び独特な景観を醸し出しています。本瓦葺きの屋根、2階部分の窓は防火に特化した「虫籠窓」。2階屋根の両端には防火壁の「うだつ」付けられています。
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明治時代頃の建物を中心として江戸中期~昭和初期の85棟の伝統的建造物は、文化庁が選定する「重要伝統的建造物群保存地区」に1988年12月に指定されています。Pt↑)のように猫の子一匹通りかからない静かな午後です。観光資料を探したのですが見あたらず、この文は美馬町HPよりパクっています。埼玉県・川越市一番街も「うだつ」商家の街並みで知られていますが、美馬町のほうがなんかとなくよい感じです。
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高松・栗林公園

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地元の方が早朝の散歩がてら来園するのでしょうか(?)。この季節の「栗林公園」は朝5:30から開園しています。けっこう広大な敷地の庭園なので当初は2時間の予定でしたが陽が上がると気温もド~ンと上昇で、南庭だけギブアップです(これでも所要1時間、北庭を含めると+40分)。ともかくこの「栗林公園」はお庭だけでも約16.2haもあり、後方のお山(紫雲山)を含めると約75haもある国内最大級の大名庭園なのです。
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「栗林公園」は国の特別名勝に指定です。元々は高松藩以前の地元豪族のお庭に初代髙松藩主・松平頼重から100年、松平家の別邸として歴代の藩主により造成されたお庭で、5代藩主・頼恭の時代に完成しています。讃岐地方独特の平地にいきなりの山=紫雲山を背景に6ツの池。築山だけでも13もあり、「日本三名園・水戸偕楽園、金沢兼六園、岡山後楽園」を遥かに超える名大名庭園です。
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広大な園内の清掃に使われていたのが、築地市場でおなじみの電動車両の”ターレー”です。なるほどの得心です(笑)。
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髙松城・早朝散歩

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前日の夕刻にはゲリラ的豪雨に遭遇、髙松到着が遅くなってしまいました。「早速ウドン・・。」と街に出たのですが、地方都市でありがちなアクシデントに見舞われました。地方は夜が早い(!)。20:00ともなれば商店・食事処は殆ど閉店しており居酒屋系の提灯ばかりです。繁華街とおぼしきアーケード街を歩いていると若い人達が所在なさげにウロウロとしているのに遭遇します。この若者達は殆どが韓国・中国(台湾)なんですねぇ。最寄りの高松空港は韓国・中国・台湾からの直行便が多く、四国・髙松の街はこんな状態になっています(苦笑)。
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Pt↑)は「高松市立玉藻公園・史跡髙松城址」です。なんと夏時間なら早朝5:30から開園しています。髙松城は別名:玉藻城と称し万葉集で柿本人麻呂が讃岐の國の枕詞を「玉藻よし」と詠んだことに因んでいます。1587年に讃岐の國の領主となった生駒親正によって築かれ、現在の遺構は徳川光圀(水戸黄門)の兄で松平頼重のものです。重要文化財の艮櫓(うしとらやぐら)と本丸と二の丸をつなぐ鞘橋(さやばし)が有名です。
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団体貸切夜行列車で東京を出発、宇高連絡船で早朝の髙松駅に到着したのが入社初の添乗員(サブ)の仕事でした。宇高連絡船は廃止となり髙松駅も様変りしました。感慨にふける要素はなに一つ見あたりません。
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「丸亀城」は山の上

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この季節に金毘羅宮の階段を登る気力などはなく高松高速を「丸亀城」までやって来ました。この辺りの地形はで平野なれどアチコチに小高い山(丘)が点在しています。「丸亀城」もこの平地にある約60mも小高い山(亀山)を利用して築かれています。ということは駐車場から延々15分程の山登りです。四国現存する城郭は平山が多く後々も高温多湿のなか酷い目に遭いました。
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天守までの坂道は石垣が4段構造に築かれていて石垣の積上げ姿も見事なのですが、天守までの石垣の高さはトータルすると日本一だそうです。天守台まで登ると3層3階の天守が城下を見下ろして建っています。小ぶりな天守なので”隅櫓”のようにも見えますが。『現存する12の木造天守』の1つで国の重要文化財に指定されています。つまりは「国の重要文化財」・「現存する天守」・「日本百名城」の星3ツです。
この後大変なゲリラ豪雨にみまわれ、車まで50mの軒下で30分の足止めとあいなりました。
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それは「今治城」から

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尾道から”しまなみ海道”を渡って四国・今治へ・・。今治はチョット以前は「今治タオル」で、最近は「加計学園」で妙に有名となりました。それとは関係なしに高松までの道すがら「今治城」に行ってみました。こちらも昨今は本屋大賞の受賞の「村上海賊の娘」で注目されているようです。今回は”城巡り”の意識はあまり無かったのですが、結果として「四国周遊城巡り」のようになりました。それは「今治城」から始まりました(苦笑)。
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瀬戸内海に面した今治城は築城の名人と称される藤堂高虎によって築かれています。明治の廃城令で城のほとんどが取り壊されてしまい、その後天守・多聞櫓・武具櫓が1980年に再建され、2007年に築城400年を記念して三の丸・鉄御門、多聞櫓、石垣が復原されています。説明で知ったのですが、現天守はオリジナルの再現ではなく萩城の天守を模しているもののトータルとして藤堂高虎の城の特徴を再現しているそうです。
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