旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年08月

文京区・澤蔵司稲荷

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文京区小石川の澤蔵司(たくぞうす)稲荷にも面白い伝承があります。「稲荷社」でありながら実際は浄土宗の「慈眼院」というお寺で、徳川家康の生母・於大の方や千姫の墓所の徳川将軍家の菩提寺「傳通院」の末寺なのです。その傳通院に太田道灌が江戸城内に勧請した「稲荷大明神」が修行僧の「澤蔵司」に化けて修行に入り、浄土宗の奥義を僅か3年で極めたのですが、尻尾を出して寝ていたので正体がバレてしまい寺を去ったという話で、去り際「私を祀りなさい」と言い残したため「慈眼院」に祀られたそうです。
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そんな事から「無量山傳通院鎮守・澤蔵司稲荷」が正式名称です。山門を入ると、お寺なので鳥居はありませんが、眷属の「キツネ」はおります。本堂軒下には「白狐」が見られます、本堂脇の窪地には稲荷社ではよく見かける「お穴様」が・・。さらにはお寺近くの「むくの木」の巨木には澤蔵司が宿るとされ、修行中の澤蔵司はこの木の葉をお金に変えて、傳通院前の蕎麦屋「萬盛」で大好物の天婦羅蕎麦を良く食べたそうです。悪い奴(キツネ)です。「萬盛」は現存していますが残念ながら休業日でした。
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赤坂・美喜井稲荷神社…3

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豊川稲荷東京別院まで来たので青山通り(246号)の反対側、現在改築中の「虎屋」のお隣の「美喜井稲荷神社」にも立寄ってみました。3回目の訪問ながらも委細不明、調査の進展はありません(苦笑)。Pt↑)のように虎屋が改築中なもで稲荷社の全貌が良く見えます。ご覧のようなこじんまりとした稲荷社です。元々稲荷社は人々の生活に寄り添うような身近な神様として祀られ、「五穀豊穣」の神様が商売繁盛や火災予防、甚だしくは「迷子猫の捜索」までお願いされるようになりました。この美喜井稲荷神社にしても「火事を知らせて飼い主を救い、自分は焼け死んだ猫の霊を祀ったもの」との伝承もあるようですが定かではありません。
Pt↓)劣化が進んだのでしょうか、猫の像にカバーが掛けられています。相変わらず摩訶不思議な彫刻です。案内板には『美喜井稲荷のご守護神は京都の比叡山から御降りになりました霊の高い神様です。この神様にお願いする方は蛸を召し上がらぬこと。この神様を信仰される方はなにも心配いりません』と書かれています。
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港区・豊川稲荷東京別院

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久しぶりの港区元赤坂の『豊川稲荷東京別院』です。名称のとおり愛知県の豊川稲荷の東京別院、曹洞宗のお寺です。創建者はあの「大岡越前守忠相」で元々は赤坂一ツ木の藩邸内にあり、1887年に稲荷社をこの地に移転したとされています。いまさらですが『稲荷社』には、五穀豊穣の神「倉稲魂神」を祀る伏見稲荷社の神道系と仏教系の吒枳尼天(だきにてん)を祀る豊川稲荷の仏教系の二系統があり、どちらもお使い(秘書官)は『狐』とされています。豊川稲荷から246号を挟んで反対側には説明に困ってしまう「美喜井稲荷」もありますが・・。
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ここ豊川稲荷は名称の通り神社でなく曹洞宗の『お寺』です。そんなわけで境内は見慣れた稲荷社とは鳥居の数が少ない等の雰囲気がやや異なります。赤坂見附側には神道系の鳥居は殆どありません。敷地の途中からが神道系の稲荷社のようです。お使い(眷属)は一緒なので境内には狐の像がワンサカとあります。Pt↑)の狐像の大きい事(!)。耳が強調されて一種異様な姿をしていますがデザイン的にはどうなんでしょう。神使(狐)が同じで神様が違う神社とお寺が同じ敷地にあるという考えて見れば不可思議な場所です。
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高橋是清翁記念公園

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メトロ青山一丁目駅から246号線を5分ほど、カナダ大使館の隣が「高橋是清翁記念公園」です。この公園は明治時代は日本金融界の親玉として大正、昭和初期と首相や蔵相を歴任した、高橋是清翁(1854~1936)の邸宅跡です。13歳で留学生として渡米、何故か奴隷として売られそうになったり、帰国後は明治政府で役人として働き、33歳で退官してペルー銅山開発事業に失敗。その後日銀副総裁や大蔵大臣(6回)や内閣総理大臣を歴任、、226事件で青年将校に殺害され一生を終えます。まぁ波乱万丈の人生を過ごされたお方です。翁の屋敷は移築され「江戸東京たてもの園」で保存公開されているのは別項で触れています。往時は現カナダ大使館も高橋邸の一部とあり、もっと広い敷地だったようです。
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ブートCDの裏通り・53

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2017年5月オールマン兄弟の一人、グレッグ・オールマン死去。最強のライブバンドもこれで終焉かも知れません。若い方達には時代遅れ感の”ジャムバンド”は興味ないでしょうが、オールマンズは2003年にデレク・トラックスが加入した「ヒッティン・ザ・ノート」以降のスタジオ新作は発表されていません。それでもコンサートを録音して自らのWebサイトでの販売や怪しいレコード会社から続々とFM音源CDが発表されてきました。つまりはブート盤の必要性が少ないライブ・バンドなのです。50年に及ぶオールマンズの歴史でバンドとしては2回、グレッグのソロで1回の来日公演しかしていません。なんと最近、1991年中野サンプラザと1992年新宿厚生年金会館の来日公演が登場したのです。オールマンズ日本公演(!)。それだけで感涙ものです。正月そうそうの御用始の日に後輩から「人見講堂のオールマンズ行きます?」と声をかけられ「オールマンズが昭和女子大で?」と大笑いした記憶があります。2度目の再結成をしたばかりのオールマンズのGは、レスポールが小さく見える巨漢のウォーレン・ヘインズ。度肝を抜くスライド・ギターとバンドを支配するハモンドB3。年月を経てまさか登場するとは・・ただただ感激です。
Pt↑)1991年の中野サンプラザ(上左)と1992年の新宿厚生年金(上右)。1992年のBeacon NYCです。
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Pt↑)はオールマンズのWebサイトから購入の2009年3月19.日と20日のBeacon Theatreです。流石に全日程は無理なのでECがゲストの日のみ購入しました。両日ともDisc3にECが登場のドミノス大会とAllmansがLaylaを演奏、ドミノス大会はとんでもない演奏です。「恋は悲しきもの」。イントロ&オブリがデレク・トラックス(指弾)、最初のソロがEC、次がウォーレン・ヘインズ(335)。むきになって弾きまくるECは微笑ましい限りです(笑)。

赤坂・乃木邸跡

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実は「乃木坂」という住居表示はないのだそうです。明治天皇に殉じた乃木希典将軍の自宅跡に将軍の殉死を悼んで「乃木神社」が創建され、その際に「幽霊坂」が「乃木坂」と変更され、1972年に「メトロ乃木坂駅」開業により乃木坂の名称は定着したのですが、住居表示は港区赤坂8丁目あたりです。Pt↑)は乃木将軍住まいとしてフランス陸軍の施設を参考に建てられたもので、大正元年(1912)の明治天皇大喪の日に乃木夫妻はここで殉死されています。当日の朝に撮られた写真も数点残っており、なまじの精神力の御人ではありません。
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建物外に回廊が付けられており、将軍自害の部屋も覗けます。退役したとはいえ世界的名声の将軍の住まいとはとても思えないほど質素です。某作家の「●の上の雲」では徹底して”無能な将軍”として描かれていますが、小説家が面白さを追求するのは良いとしても、旅順攻略戦の記述は史実と違う点が多く「悪意を持って書かれた」とすら思えます。乃木=無能説の元凶ろも言えます。ロシア軍が”3年は大丈夫”と豪語した旅順要塞を半年で攻略した乃木第3軍は奉天会戦参戦します。「あの旅順を攻略した乃木が来る」のですからロシア軍も恐れまくり、これが奉天会戦のかろうじての勝利に繋がるのですが・・。
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赤坂・乃木神社

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港区赤坂の『乃木神社』です。ご祀神は乃木希典将軍と静子夫人のお二人で、「乃木坂46」とは何の関係もありません。ただ、時代なんですねぇ。奉納された絵馬をには”○○ちゃんがセンターになれますように”なんてのが多く、武骨な乃木将軍にすれば何のことやら困ってしまうでしょう(苦笑)。乃木将軍は日露戦争の旅順203高地攻略戦で知られますが、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」や吉村昭の「海の史劇」では無能な将軍として描かれています。10日間の攻略戦で64000人の兵を投入、戦死5500名、負傷11800名の犠牲者は事実には違いありませんが、小説のお話ではなく実戦としては、乃木のとった作戦はあながち間違いではありません。
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乃木将軍夫妻は明治天皇大喪の日に殉死され、邸宅の隣接の地に将軍を敬愛する人達により大正12年に創建されたのが『乃木神社』です。神社創建前はこの辺りは「幽霊坂」と呼ばれ創建後に「乃木坂」と改められています。境内摂社には乃木将軍縁の「王子稲荷社」と吉田松陰を祀る「正松神社」が鎮座しています。社務所脇には将軍の資料館には書や木像、殉死時に使用した刀などが展示されています。
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原宿・東郷神社

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渋谷区神宮前の「東郷神社」の神社です。お盆時期の原宿なんて近寄るものではありません(!)。若い女子供で溢れ返っています。で、ありながらも神社神域はそれなりの雰囲気に満ちています。ご祭神は日露戦争・日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を壊滅した連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥です。創建は昭和15年の5月27日(海軍記念日/日本海海戦の日)で、日露戦争の旅順攻防戦での将軍・乃木希典が乃木神社として創建されたのに対し海軍軍人により東郷神社の創建が計画されたそうですが、海軍と陸軍、さらには乃木・長州に対して東郷・薩摩の対抗意識も否めません。東郷元帥は自分が死後「神」として祀られるのを嫌がっていたそうです。神様になりたくなかった神様にお参りするのもなんとなく妙な感じがします。
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ちょうどこの日は神社内で夏休み特別展示「東郷平八郎元帥展」をやっていました。東郷元帥となると、どうして日本海海戦の勝利を思い浮かべますが、この企画展の内容はなかなかのものがあります。Pt↑)の東城鉦太郎画伯の有名な「戦艦三笠艦上の絵」は、左の絵の構図がオリジナルだそうで、右の絵の構図はオリジナルが関東大震災で焼失した後に書き直されています。微妙に構図や位置関係が異なっています。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社…(2)

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赤坂氷川神社を別の入口の石段脇には『勝海舟』ゆかりの四合(しあわせ)稲荷神社と西行稲荷社があります。四合稲荷は文字通り稲荷4社が一緒になったもので社額は勝海舟直筆のものです。海舟さんは生活に困窮した旧幕臣の経済援助のために直筆の「書」や「社額」で収入源としていたようで、やたら作品が残っています。赤坂の地が好きで幕臣時代と明治政府時代の屋敷跡が神社を挟んであります。神社神域は元禄時代は忠臣蔵・浅野内匠頭夫人の『瑤泉院』の実家浅野土佐守屋敷で、仮名手本忠臣蔵・「南部坂雪の別れ」の南部坂がすぐ近くです。二ノ鳥居の向かって左の根元には、明治政府が高度の測量を行った際の、印となった「不」の文字のような記号が刻まれています。
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【東京十社】‥赤坂氷川神社

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東京十社に数えられる港区赤坂6丁目の氷川神社 (ひかわじんじゃ)です。港区には他に「白金氷川神社」があるので「赤坂氷川神社」と称されます。赤坂サカスや六本木ミッドタウンにも近く、近隣には「勝海舟」の屋敷跡(幕臣時代)や忠臣蔵に縁の「南部坂」などがすぐ近くですが、赤坂=繁華街というより高級住宅街といった場所です。徳川8代将軍吉宗の時代に現在地に鎮座し、現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されています。ご祀神は須佐之男命/すさのおのみこと。・稲田姫命/いなだひめのみこと・大己貴命/(おおなむちのみことの三神となっています。関東在住者には「氷川神社」は聴き慣れた神社名ですが、「氷川神社」は埼玉・東京・神奈川にしかない珍しい神社でもあります。
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旧氷川小学校跡

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NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放送されたのは2010年の事でした。港区赤坂の「旧氷川小学校跡」、現在は特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」となっていますが、小学校敷地は明治時代には勝海舟の屋敷跡で、敷地の一角には「勝安芳邸跡」の石碑&説明板が建っています。海舟さんは明治5年に静岡から東京に戻り、明治32年に亡くなるでここの屋敷に住んでいます。赤坂の地がお気に入りだったようで、幕臣時代は氷川神社裏手に、明治年間はこちらと多くの年月は”赤坂”に住んでいました。そんなことから、平成16年9月に『勝海舟・坂本龍馬師弟像』が建立されたのでしょう。子弟が会ったのは氷川神社裏手の屋敷なのですが、まぁ良しとしましょう(笑)。
Pt↓のように銅像がフェンスとアクリル板でガードされており写真が撮りにくいです。以前からあった石碑と案内板です。施設内には屋敷跡から出土品が展示品してあります。なんの碑かと思ったら銅像建立寄付者一覧でした。
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国立科学博物館・零戦

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上野国立科学博物館地球館2階にかなり以前から展示されている零戦(レイセン)21型改です。1972年ニューブリテン島沖の海中で発見された機体で、『改』とは通常の機体を複座(2人乗)に改造しています。ラバウル基地で中島製零戦に複数の機体を組み合わせて偵察用として使用されたようです。零戦には500機程度生産された複座の練習機がありますが、現場での必要性から造られた機体です。
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国立科学博物館内は原則写真撮影OKですが、この機体は宙吊りになっていて通常の姿では見えない部分も見え、エンジンのカウリングが外してあるで「栄エンジン」の構造が良くわかります。Pt↓)は福岡県大刀洗平和記念館の「零戦32型」です。旧陸軍飛行場跡に海軍機の展示は妙ですが貴重な32型の機体です。つぎは2012年に里帰りした時の「栄エンジン」登載の飛行可能な52型です。エンジンがすでにポンコツで展示とエンジン音デモだけでした。さらに、8月1ヶ月限定オープンの山梨県の某博物館の21型です。灰白色に塗装された零戦は美しい姿をしています。
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珍しい郵便ポスト…14

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「珍しい郵便ポスト」というカテゴリですが、東京都内では見かけなくなった郵便ポストも地方ではごく普通に見かけます。余程の珍品やいわく付となるとマダマダ出逢えるかも知れません。Pt↑)は 広島県廿日市は宮島町、土産屋街にある「宮島郵便局前ポスト」です。説明板には宮島郵便局長名での「書状集箱」は明治4年(1871)郵便事業創業時同じ型の復古である旨と”このポストは歴史と文化の町宮島にふさわしい町並みに合わせて設置したものです”とあります。あぁそうですかという感じです(笑)。
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別項でも触れましが、許しがたいの高知市上町の「龍馬郵便局前ポスト」で、坂本龍馬に桂浜の波と地球の組合せです。坂本龍馬という名前が知られるようになったのは、日露戦争の開戦直前に昭建皇太后の夢枕で【私は坂本龍馬(実際は名乗っていません)です。ロシアとの闘いに入る暁には、私の魂は我が国の軍艦に宿り忠烈義烈なる軍人たちを保護する覚悟です】と告げるまでは誰も知らない人物でした。この話を喜んだのが土佐で一新の功労者として龍馬を祭り上げたのが始まりです。ご本人は土佐郷士の家の生まれで、厳密には嫡子ではないので「郷士身分」ですらありません。郷士身分ですらない者が脱藩?これはの脱走です。英雄伝説なんてこんな程度です。
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『東京ラブストーリー』は原作は柴門ふみ原作の漫画で1991年にはTVドラマ化されヒットした作品です。原作もTVも知らないのでなんとも言えないのですが、「東京ラブストーリーロケ地巡り」というサイトには【リカに「案内してよ」と言われて散策するのは大洲市。リカが別れの手紙を投函するポストがあります】との記事が見られます。このロケ地の話は大洲市の観光マップに載っているのですが、ドラマは25年も前の話なんですねぇ。
Pt↓・1)厳島神社参道のポストです。ポストと消火栓などの色合いが妙にあっています。Pt↓・2)珍しさはさほどありませんが松山。道後温泉駅舎のポストです。やはりこの感じがお似合いです。Pt↓・3)尾道の市街地にあった小型ポストです。個人宅の郵便受けよりは大きいですが…。
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