旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年11月

都の西北・水稲荷神社

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新宿区西早稲田の「水稲荷神社」です。参道から本殿、本殿裏の摂社や富士塚などいかにも古社の風格がありますが、昭和38年(1963)に早稲田大学との土地交換により引っ越してきた神社です。元は早稲田大学の構内にあり「冨塚稲荷」と呼ばれていたのが、神域に元禄15年に霊水が湧き出したことで『水稲荷神社』と改名、眼病や水商売、消防の神様として有名だったようです。この地へ鎮座してからそれほどの年月ではないのですが、雰囲気は古社ならではの重厚感が漂っています。
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社殿左側に見事な飛翔型のきつね像があります。「耳欠け狐 身体の痛い所を神狐と交互に撫でると痛みがやわらぐといわれます」と案内板があります。さらに社殿裏には「戸塚の町名の起源となった富塚古墳」があるのですが、驚くことにはこちらも神同様引っ越してきたようです。
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現 水稲荷社の敷地は、徳川御三卿・清水家の下屋敷で、区立公園の『甘泉園公園』の敷地の一部のようです。現在でも大名屋敷の面影を残しているとのふれこみなのですが、区立公園の限界なのでしょうか、手入れの悪い荒れ果てた感じがあります。
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高田馬場と高田馬場駅

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端的に言ってしまうと元禄5年(1692)に中山(堀部)安兵衛らの「高田馬場の決闘」があってのは、当時の江戸郊外の戸塚村・高田馬場で現 新宿区西早稲田の「穴八幡宮」の裏手辺りです。「高田馬場」は寛永年間位に造られて旗本の馬術の練習場でした。「高田馬場駅」は新宿区高田馬場1丁目で明治43年(1910)に山手線の駅として開業し、旧跡「高田馬場跡」とは徒歩約10分離れています。駅名の決定には=本来は”たかだ”ではなく”たかた”=「高田馬場の決闘」に由来するようです。この決闘で名を挙げ中山安兵衛は堀部家に婿入り、で忠臣蔵仇討に続くのですから奇なものです。Pt↑)は西早稲田の交差点「八幡寿司」にある高田馬場の案内板です。この交差点近くの水稲荷参道には「堀部安兵衛の碑」がありました。
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新宿区・穴八幡宮

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東京都新宿区、早稲田大学近くの穴八幡宮(あなはちまんぐう)です。ご祀神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后となります。平成の修復では鳥居や随身門はきれいに直されています。本殿の黒い造りは神社の”色”としては珍しいようです。元は「高田八幡宮」とよばれ、蟲封じ・商売盛・出世・開運にご利益があるとされています。平安時代後期の1062年ごろ【八幡太郎義家】が奥州から凱旋の途中、この地に八幡様を祀ったのが始まりとされていますが、それにしても東京には八幡太郎義家⇒奥州征伐⇒八幡社勧請の多い事(!)。神社ばかり勧請してその合間に戦をしていたような感があります。江戸時代には3代将軍家光は穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とし、8代将軍吉宗は世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬奉納するなど幕府との結びつきが多くなり、江戸の庶民からも”蟲封じの祈祷”として信仰を集め、1879年のは後の大正天皇もの蟲封じの祈祷を行っています。人気スポットの「神楽坂」の名称の由来は(他にもああだ、こうだと色々ありますが)神楽坂に穴八幡(旧称高田八幡)の休所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奉納したから伝承もあるようです。
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微妙な感触・成子天神社

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その昔、京都での政権争いに敗れて左遷されたのは「菅原道真」本人だけではなく一族郎党の多くも同罪だったようです。新宿区西新宿の『成子天神社』も当主の死を悲しんだ家臣が当主の像を祀ったのが始まりとあり、社殿は徳川家光の時代に春日局により「天満天神社」として造営されたとあります。という事は、平安時代に創建され1100年を超える東京ではかなりの古社なのです。社殿は青梅街道沿から、「古社」というイメージとはほど遠いマンションやビル群に囲まれた150mほどの参道の先に社殿が鎮座しています。台湾や東南アジアのお寺のような微妙な感触にとらわれますが、神楽坂の赤城神社と同様に神社が土地を提供⇒不動産屋が賃貸マンションを建設⇒家賃収入で運営のパターンのようです。天神社にはつきものの「撫で牛」や神域に配置された「七福神像」もなんとなく微妙なのですが、赤城神社ほどの安っぽさはありません。
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紅葉の支笏湖

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最終日は悔しい位の晴天です。直行空港もシャクなので国道453号線を支笏湖へ向かいました。真駒内から恵庭市方面へ紅葉の山道を抜けていきます。北海道の紅葉は9月中旬に大雪山山系や知床に始まり、札幌方面へと下ってきます。例年早い遅いがありなかなかドンピシャは難しいのですが・・。PT↑)は邪魔な中国カラスが映り込まないよう苦労してます。コンデジの欠点ですがベシャとした絵にしかなりません。
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支笏湖は支笏洞爺国立公園に属し住所は千歳空港と同じ千歳市です。周囲約40㎞のカルデラ湖で、標高約250mながら冬でも凍らない”日本最北の不凍湖”なのです。Pt↑)の船着き場の先の山が標高約1300mの「恵庭岳」で、この立ち位置から左に振るとPt↓)の「風不死岳/フップシヌプリ」が見えます。千歳空港へ着いた観光客の多くが高速道路経由やJRで札幌方面へ向かうので、空港から約40分の距離ながら観光客は多くなく、中国カラスも大挙して群がってはおりません(苦笑)。≪2017秋北海道ここまで≫
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旭山記念公園・2017 秋・(終)

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旭山記念公園へ戻って来ました。(序)からは10日間が経過しています。札幌(旭山)~ウトナイ湖~日高の海岸線を~新冠~様似~襟裳岬~十勝平野~足寄~オンネトー~阿寒湖~釧路~別海町~野付半島~摩周湖・硫黄山・美幌峠~北見~石北峠~層雲峡~石狩平野~月形~札幌。走行距離は1500㎞を超え、それでも給油は2回(北海道の場合ゲージ半分で給油を心掛けないとガス欠危険です)、良く走ってきました。
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北海道の旅行シーズンが限定6月~9月だった時代から思えば夢みたいな話ですが、それでも10月中旬を過ぎれば道内の観光客は減っていきます。札幌にしても中韓観光客は減少傾向です。誰もが思い違いするのですが、札幌中心街の賑わいは渋谷の街がポンとあるようなものです。四季があり、自然があり。魅力的な街ですが、反面、帯広・釧路・旭川・函館などの街は思いの外の哀愁が漂います。
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近々札幌市の人口は200万人に届くそうです。この街には東京にあるもの殆どがありますが、北海道には200万都市があるかと思えば道東には人の数より牛の数の方が多い街があったりで・・。寂れていく地方都市、観光地、それに比べたら自然景観のかわらない事・・。何十年過ぎても摩周湖や美幌峠はあの時のままです。それにしてもお世話になったホテルや観光施設の栄枯盛衰(圧倒的に枯衰)には驚きます。理由はいろいろ思い浮かぶのですが時代の流れは圧倒的です。
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Pt↓)旭山から遠望する札幌オリンピック会場の手稲山です。市内から40分程度でこの規模のスキー場があるのですから羨ましい限りです。あと数日で冠雪が・・、北海道に冬がきます。毎年10月に道内を気ままに走り回るのは7年連続になりました。来年の今頃も旭山から札幌の街を眺めるていることでしょう(!)。

早朝の札幌散歩

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建物は建て替えられ現在はマンションとなっているようですが、以前この場所に『札幌ロイヤルホテル』がありました。1964年に開業した札幌ロイヤルホテルは札幌市内では屈指の名門ホテルであり何度かお世話になりました。ドアマン、ベルボーイ、フロント・・気持ちの良い従業員ばかりで「格の高いホテル」とはこういうものだと感じたものです。広々としたロビー、落着いた客室。当時の札幌では珍しかった高級中華料理店もありました。どれもが懐かしい記憶です。残念ながら諸般の事情により2008年に閉館してしまいましたが、あの頃のロイヤルホテルのあった場所の先、Pt↑)中央にビジネスホテル系の東横インがありますが、いわゆる夜な夜な「立ちんぼサン」が多くみられる地域だったのです。今はそんな時代を知る人も少なくなったことでしょう。
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Pt↑)は南7条西3にある真言宗の『新栄寺』で成田山新勝寺の札幌別院です。札幌のお寺ですから創建はそう古いことはなく、明治18年(1885)に成田山新勝寺から不動明王を勧請、 明治22年(1889)より成田山札幌別院新栄寺(新榮寺)と称しています。南7条となると薄野の明かりがやや暗くなってくるあたりです。
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Pt↑)豊川稲荷札幌別院です。歓楽街・薄野隣接という立地ですが、その薄野に遊郭が置かれたのは1871年の事です。商売繁盛を祈願する人達により豊川稲荷が勧請されています。以後は「薄野の守護神」として人々の崇敬を集めるているようです。なにゆえ神道系の稲荷社でなくて曹洞宗系の豊川稲荷なのかは判りませんが「吒枳尼天」を祀る豊川稲荷の方が薄野には似つかわしいのかも知れません。
Pt↓)の3点は定番の中島公園です。例年より数日早いので紅葉もイマイチ。季節は正直です(笑)。
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月形町・樺戸集治監跡

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札幌への道すがら思い立って「月形町・樺戸集治監跡」へ寄ってみました。2011年11月以来の再訪という事になります。明治政府は明治維新後に各地で続くことにより生じた多数の国事犯や重罪人を収容する施設として小菅・宮城・三池・樺戸に「集治監」設置しました。北海道では1881年に「月形町・樺戸集治監」が、続いて1882年には空知集治監(三笠市)、1886年には釧路集治監(標茶)に開設されています。強制労働による道路の施設、鉱山事業など北海道の開拓には彼ら囚人達の労働力に担うことが多々あります。『月形樺戸博物館』は、その歴史を伝える資料館として、集治監の建物を使い昭和48年に「北海道行刑資料館」として開設、平成8年に「月形樺戸博物館」、さらに平成24年に展示をリニューアルしています。
Pt↓)は樺戸博物館から5分/車にある「篠津山囚人墓地」です。1000名を超えるこの地で亡くなった囚人達がここで眠っています。
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石北峠と層雲峡

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北海道の峠には”なるほどの名称”が多々あります。日高と十勝の峠は「日勝峠」、釧路と北見の峠は「釧北峠」。石狩と十勝の峠が「狩勝峠」。ここ「石北峠」も石狩と北見の峠です。峠を越えれば石狩ですが札幌はまだ遥かなたです。天気晴朗なれど風強しの展望台に立てば、北見國が遠望できます。北見駅まで68㎞。北見市の外れまで110㎞。そして峠の標高が1050mです。足元に若干の雪がある程度ですが後、数日もすれば雪が積もり交通の難所となります。
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峠を下ると石狩川に沿って全長約24㎞の断崖絶壁が続く「層雲峡」です。大雪山の噴火により堆積した溶結凝灰岩が川の浸食により形成された柱状節理で断崖を構成しているのですが落石や崩落の危険性が高く、安全のためトンネル迂回路が造られました。これにより昔は見られた絶景の多くが見られなくなってしまいました。Pt↑↓)は層雲峡を代表する名瀑「銀河の滝」と「流星の滝」です。紅葉こそ終盤ですが、2年前と違い道路には雪はなく、結氷もありません。あと数日です・・。
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留辺蘂の北きつね

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いくら北海道とは云え足元に野生の北きつねがゴロゴロしている訳はありません。ここは北見市留辺蘂町の「北きつね牧場」です。温根湯温泉近くの国道沿いに1983年(昭和58年)に開業した観光施設です。温根湯温泉といえば40年ほど前、ツアー添乗で初めて訪れたホテルの大浴場は男湯女湯の仕切りが途中までしかなく、奥で繋がっているという構造になっていました。その当時の北海道では珍しいモノではなかったのですが・・。閑話休題。北きつね牧場では約60頭が飼育されていて園内を歩きながら観察できます。たまに話題になりますが北見のきつねの多くは「エキノコックス」という寄生虫持ちで、極々まれに人間に寄生することがあります。注意にこしたことはありません。朝食後の時間に訪問したようできつね達は食後のくつろぎタイム。怠惰そのものです。そういえば「黒い北きつね」の映像が話題になっていましたが、あれはどう見ても「銀ぎつね」の白い部分の%が違うだけの個体がたまたま映像に捕えられたようです。
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哀愁の北見駅前

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北見市の面積は14万㎡と全国的にも有数な広さがあり、それに比して人口は11万人といかにも北海道の地方都市の感があります。サロマ湖でのホタテ貝の漁、玉葱やハッカの生産量が多く「北見のハッカとハーブ」は環境省の「かおり風景100選」だそうです。駅近くのホテルへ到着したのが日曜日の16:30頃、散歩&夕食に出かけます。記憶にある商店街には営業している店舗は殆どなく銀行だった場所は駐車場。記憶に自信がなくなります。確か駅前に東急デパート&東急インがあったはずなので向かいます。建物はあっても名称が違い、北見市役所まで入居しています。
数点のPtは翌朝の散歩時に撮りました。月曜の朝ですが猫の子一匹写っていません。本当に人口11万人の地方都市なんでしょうか?その割には駅付近にはビジネズ系ホテルが林立しています。それなりにホテル需要はあるのでしょう。
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