旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2017年12月

渋谷氷川神社

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金王八幡宮から歩いても7分程、國學院大學の近くに『渋谷氷川神社』があります。ご祀神は素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴尊・天照皇大神とお馴染みの神々が名を連ねています。古くは氷川大明神と呼ばれこの近辺の総鎮守だったようです。大宮の氷川神社(武蔵一宮)を総本社とする神社グループなのですが、創建の謂れは微妙に異なったりしています。景行天皇の代に出雲の氏族が素盞嗚尊(須佐之男命)を奉じて関東に移り住んだのが始まりは共通しています。一の鳥居から参道を進んで左に江戸時代からの相撲場があり、神社例祭では江戸の昔から「渋谷の相撲」「金王の相撲」と開催され多くの見物人が集まったようです。
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玉造稲荷社と豐榮稲荷神社

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なんでも金王八幡宮摂社の『玉造稲荷社』は誰が言い出したのか、都内有数の金運パワースポットなんだそうです。玉造るから金造るとかいうのではないでしょうが・・。一般的には五穀豊穣、商売繁昌、金運の神さまとして崇敬されている稲荷社ですが、玉造稲荷社のそのパワーが強くこちらだけ参拝して帰る人もいるらしいのですがまさに『違うだろぅ~』です。
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金王八幡宮に隣接し道を隔てて『豐榮(とよさか)稲荷神社』が鎮座しています。この稲荷社は昭和36年(1961)に渋谷のいくつかの神社が合祀されたもので、辿ると道玄坂にあった「豊澤稲荷大神」が渋谷川沿稲荷橋付近の「田中稲荷大神」が合祀、街の変遷により巡り巡ってこの地へ移ってきたようです。扁額には「田中稲荷大神」「豊澤稲荷大神」併記され境内の庚申塔は田中稲荷にあった江戸時代のモノです。
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渋谷・金王八幡宮

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渋谷区渋谷の『金王八幡宮』です。山手線と湘南新宿ラインのホームがやたらと離れている駅ですが、新南口なる改札からだと徒歩5分程度でした。創建は寛治6年(1092)頃、豪族渋谷氏の祖である河崎氏が築いた「渋谷城」に八幡宮を勧請したのが始まりのようです。渋谷城が廃城となり八幡宮だけが残ったという事で、金王八幡宮の「金王」は平安時代末期に源義朝に従い、後年は源頼朝の時代に活躍した「渋谷金王丸」に由来しています。Pt↑)ではビルの谷間感にみえますが八幡宮は思いの外広いようで、春日局により寄進されたという社殿に施された虎や獏の彫刻は実に見事です。
・社殿前には「一重と八重が混じって咲く」いう妙な渋谷区天然記念物の金王丸桜が植えられています。新宿円照寺の右衛門桜、文京区白山神社の白旗桜と金王丸桜を称して江戸三大桜だそうです(苦笑)。 ・何故かパワースポットなんだそうですが渋谷城の砦石です。 ・境内社には日本武尊を祀る「御嶽神社」、「玉造稲荷神社」や渋谷金王丸縁の「金王丸御影堂」などがあります。
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失猫祈祷・三光稲荷神社

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中央区日本橋堀留町2丁目、大通りから少し奥まった場所に「三光稲荷神社」があります。元禄年間に中村座に出演中の大阪の歌舞伎役者が伏見稲荷より勧請したとされています。今は路地裏のひっそりとした稲荷神社という感じになっていますが、路地入口には「三光稲荷神社参道」との立派な碑がたっています。ご祀神は三光稲荷大神と田所稲荷大明神の稲荷神、田所大明神が合祀されています。江戸落語には「三光新道」や「三光神社」が登場している稲荷社です。面白いのは、本殿脇に猫の置物が数十体置かれています。これは・・【古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多くことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う】・・とあります。神社参道の石碑や猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に奉納されたようです。飼い猫行方不明→捜索するも万策尽きる→三光稲荷神社で祈祷→猫無事帰還と云う事になります。今でも祈願を依頼する方もいるようでご祈祷には『愛猫名、年齢、不明となった日時経緯』が必要となります。境内に神使のきつね氏がいないのは迷い猫の捜索活動中で留守なのでしょうか?。”探偵は三光稲荷にいる”です(笑)。
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氷川神社と気象神社

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この時期は午後の時間帯になると日の廻りが悪くパッとしないPtになりがちです。杉並区高円寺南、JR高円寺駅から徒歩5分にある『高円寺・氷川神社』です。氷川神社は大宮の氷川神社を筆頭に埼玉・東京・神奈川に数多く鎮座しご祀神は「素戔男尊」となっています。氷川神社は川や沼や水田に関連のある地形に多いのですが、高円寺も遥か昔にはそんな感じだったのでしょう。例によって源頼朝の奥州征伐の際に部下に命じて建てたとかの伝承があるようです。
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神社自ら「全国でここだけ」を標榜していますが、境内摂社に「気象神社」があります。こちらのご祀神は『八意思兼命/やごころおもいかねのみこと』で日本神話に登場する知恵を司る神なんだそうです。元は帝國陸軍の気象部構内に昭和19年(1944)に造られ気象観測の的中を祈願したのですが、戦後の撤去作業で漏れ昭和23年(1948)にこちらへ遷座したものです。後に気象予報士制度が始まると気象予報士を目指す人達が参拝するようになりました。摂社ですからさほど大きくはありませんが奉納絵馬の数は驚くほどの数です。
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阿佐ヶ谷神明宮

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Pt↑)本殿の中央には「天照大御神」。摂社(身内筋)には右に「月読命」、左には「須佐之男命」が祀られています。こちらはJR阿佐ヶ谷駅から徒歩2分ほどにある「阿佐ヶ谷神明宮」です。本殿・拝殿・神門・参道・大鳥居と見事な造りの神明宮となっています。いきなり映像だけ見せられたら東京都内の神社とは気が付かないかもしれません。比べるのは無意味で難しいのですが飯田橋の「東京大神宮」を超えるよい雰囲気です。
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神明宮HPには・・【平成21年秋に「平成の大改修」が無事竣工し、神明作りの御殿・神門、新しい祈祷殿・能楽殿などが誕生致しました。 境内地は約3000坪のうっそうとした森をなしており、シイ、カシ、クス、ケヤキ、イチョウ等の巨木も多く東京都内最大級の伊勢神宮勧請の神社】・・とあります。神社の創建は1190年(建久元年)とされ、日本武尊が東征の帰途に阿佐ヶ谷の地で休憩し、日本武尊を慕った村人が一社を設けたのが始まりとあります。まぁこれは伝承にすぎないでしょうけど(笑)。東京にいて伊勢神宮のあの感じが漂っています。
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馬橋稲荷神社

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日頃は港区・千代田区の仕事が多く杉並・世田谷方面にはどうしても縁が薄くなりがちです。今回訪れたのは杉並区の『馬橋稲荷神社』です。JR中央線・阿佐ヶ谷駅下車徒歩10分程(高円寺駅からでも同じくらいです)。ここらも農道の跡なのでしょうか、狭く曲がりくねった道なので方向がイマイチ掴みにくいようです。住宅街にいきなり朱塗りの鳥居が現れます。一の鳥居から参道が150mほどで随身門。大きな鈴が吊ってあります。そして本殿へ・・。正直、杉並区にこれほど素敵な稲荷社があったとは驚きです。参道の並木が冬枯れているのは残念としても、長い年月地元の人達に寄り添ってきた神社の姿が感じられます。
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創建は鎌倉時代末期とされ旧馬橋村の鎮守で、ご祭神は宇迦之御魂 神と大麻等能豆神です。現在の社号は昭和40年の住居表示改正により「馬橋」の地名が消滅するのを憂いて『馬橋稲荷神社』に変更されそうです。Pt↓)の一の鳥居&二の鳥居、さらに二の鳥居には判りにくいのですが、高さ8mで見事な昇り龍と下り龍が彫られています。なんでもこの馬橋神社、品川神社ともう一社にしかなく”東京三鳥居”といわれています。拝殿の神使像には「願掛けキツネ」が多数ならんでいました。
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おぉ、これですょ!

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いやぁここまでくるとパロディを超えています!偶然通りかかったJR大宮駅にあったモノです。ともかくデカイです。一目であの映画だと判ります。コピーが「私を新幹線でスキーに連れていって」ってのも笑わせてくれます。あの映画の公開から30年を記念してのJRとのスペシャル企画なんだそうで、あの頃を経験した人達には良いも悪いも様々な記憶がよみがえる事でしょう。「やるではないかJR」です。私といえば映画を見てかぶれる後輩どもと一緒に多くの週末は草津か志賀。現地ではスキーを教えるだけで自分が楽しめないという最悪な日々ばかりでしたが、バブル華やかな時代を楽しんでいたようです(笑)。それにしても原田知世の白のウェア上下とミラーレンズ姿は、その後どれだけ「残念な原田知世」がスキー場に出現したことでしょうね(爆笑)。
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花魁・高尾稲荷神社

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中央区日本橋箱崎町10-7の『高尾稲荷神社』です。番地を入れておかないと見逃すほどこじんまりとした稲荷社です。この稲荷社には江戸万治年間に吉原三浦屋の遊女として有名な「二代目高尾太夫」が祀られ、ご神体は高尾太夫の頭蓋骨という神社です。遊女の最高位『傾城』であった齢19歳の高尾太夫は仙台藩伊達綱宗公により身請けされるのですが、意中の男に操をたてて伊達綱宗公を振ってしまいます。怒った綱宗公は太夫を「吊斬り」にして隅田川に遺棄、事件に同情した人達により高尾稲荷社として祀ったという謂れがあります。
「花魁」や「太夫」と仲良くするには初回の顔合せ・裏を返して・馴染みと段階が必要で、通い詰める根性と財力が必要となります。伊達の殿様はどれだけの日々とお金(恐らくは現在の億単位)をつぎ込んだことでしょう。挙句に振られたのでは激怒するのは当たり前です。三浦屋(所属事務所)はタレント(高尾太夫)を説得できなかったのでしょうか?もしかすると両者はグルで伊達の殿様を騙したとも考えられます。
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帰ってきた井上勝

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長きに渡った東京駅丸の内駅前広場の工事がようやく完了となりました。と同時に新丸ビル近くに見慣れぬ銅像が造られています。この御仁は長州出身の「井上勝」。伊藤俊輔や井上聞多らと長州藩が英国に遊びに行かせた5人衆の1人で、後に明治政府の鉄道庁長官を務め「鉄道の父」と呼ばれた人物です。調べてみるとこの銅像は台座から頭の先まで約8m(3+5m)。東京開業の1914年に初代が造られ、戦時中の金属供出で撤去。1959年に彫刻家朝倉文夫により再建されています。Pt資料では丸の内中央口(皇室区画)前で皇居向きだったようですが東京駅舎復元工事で撤去され今般現在地に移されました。帰ってきた場所は旧国鉄本社前なので”なるほど感”がありますが、いまさら「鉄道の父」と云われてもねぇ。
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行田市駅から…(終)

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行田のシンボルと言える「忍城跡」です。忍城は室町時代中期に成田氏により築かれたとされ、利根川や荒川水系の地形を生かした造りとなっていました。戦国時代は関東七名城の一つとして豊臣秀吉の小田原征伐の折には石田光成による水攻めを耐えた逸話は「のぼうの城」としても知られています。江戸時代には徳川譜代大名の居城でしたが、明治の廃藩置県で廃城となり土塁の一部を残して取り壊されています。
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城址は県指定記念物の旧跡の指定となり1988年に三層櫓が再建されています。この三層櫓は古地図を基に忠実に姿を再現しているのですが、どのような判断なのか本丸のあった場所に三の丸にあったはずの三層櫓が造られてしまいました。内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されているので、見てくれ重視としたのでしょうが残念至極です(苦笑)。それでも平成29年(2017)には「続日本百名城/118番」に指定されています。「続」があったとは(笑)。
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行田市駅から…(3)

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忍城跡のお隣に鎮座しているのが「忍諏訪神社」です。社額には忍諏訪神社と東照宮が併記されています。これらは明治6年に忍城取り壊しの際に城内にあった神社を集めたもので、他にも小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神も同時に配祀されたいます。どうりで神域には摂社の数が多い訳です。もともとの「忍諏訪神社」は1190年頃の後鳥羽上皇の時代に、当地を治めた忍の一族により築かれたようです。徳川寛永時代には忍城主阿部忠により本殿をや拝殿を新たに建立しており、「忍東照宮」は文政年間に伊勢桑名から移封してきた松平忠義によりを勧請されたものです。
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行田市駅から…(2)

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「日本遺産」などとあまり聴き慣れない制度があります。平成27年度に創設された文化庁が認定する【地域の歴史的魅力や特色を通じ,日本の文化および伝統を語る「ストーリー」を認定する】という事ですが・・。ともかく行田市は平成29年4月に「日本遺産」にめでたく登録されました。行田市教育委員会のHPより引用すると=忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋生産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等歴史的建築物が残り、趣きある景観を形づくっている。=とのストーリーだそうです。
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映画の舞台となった。日本遺産に登録された。TVドラマで人気を博した。こりゃあ盆と正月がいっぺんに来て、宝くじが高額当選したようなものです。埼玉県といっても殆ど群馬県の田舎町がこれほどの脚光を浴びていい物なのでしょうか?だいたいが●●遺産なんてのは一瞬の脚光が長続きした話を聞いたことがありません。この街がその伝を踏まないようにして欲しいものです。
街の中心部、行田市商工センターにはPt↑)の展示(無料休憩所)や観光情報、特産品の展示がされ、街が前向きに取り組んでいる様子がよくわかります。Pt↓)コンクリート造りの建物は昭和9年完成の国登録有形文化財の現 武蔵野銀行行田支店です。
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行田市駅から…(1)

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高崎線の行田駅は通勤圏ならではの駅前ですが、JR熊谷駅で秩父鉄道(Suica使えません)に乗り換え降り立った「行田市駅」は昔と変わらぬ埼玉感が漂ういます。行田市といえば数年前は映画「のぼうの城」で、最近は某作家の原作のご都合ドラマで名を馳せています。駅前は鐘、太鼓、幟で大盛り上がりかと思えば・・。閑散としています。Pt↑)はこの地方のソウル・フード「ゼリーフライ」です。行田市内の30数店舗で食べられ”Map”まで用意されています。「ゼリーフライ」はパン粉の付いていないイモコロッケで現代レベルなら旨いとはいえません。もう一方の「フライ」てのは厚みのないお好み焼きで、こちらの方が好みです。明治以降付近には繊維関連工業が発展、働く女工さんの”おやつ”としても食べられていたようです。数十年ぶりに食べたのですが、懐かしいとは思っても旨いとは思いませんでした(苦笑)。
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で、そのフライ(1ヶ100円)を食べたのが【国登録有形文化財 旧小川忠次郎商店店舗及び主屋】の「忠次郎蔵」で現在は手打ち蕎麦の店となっています。大正14年に造られた2階建ての土蔵造りです。丁寧に手が入れられ、飼い猫の鳴く声が聴こえ、もちろん蕎麦は旨くて食事だけで帰るのはもったいない様な気がしてきます。
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まさにコレッという感じの「時田蔵」です。”かるた足袋”で一山当てた時田啓左衛門商店の足袋蔵とあります。この奥側に明治36年建築の足袋蔵が連なっているようです。Ptの建物は建築年代が不明のようですが、数棟の蔵を有する商店なんざぁそうあるものではありません。「行田の足袋産業全盛期の面影を残す貴重な建物群」まさにそんな感じです。
Pt↓)の蓮華寺の山門から見て突き当りが「時田蔵」です。明治以降に足袋産業が興り足袋蔵や足袋職人の長屋が連なっていたようです。足袋蔵や足袋商店、事務所兼工場跡など面影が(薄く)残っています。文頭でも触れたように秩父鉄道「行田市駅」は正しき埼玉県の田舎駅です(笑)。
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