旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年01月

浅草寺・おたぬきさま

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伝法院通り、浅草公会堂近くの「浅草寺本坊伝法院守護・鎮護大使者(おたぬきさま)」・「鎮護堂」です。伝承によると「おたぬきさま」として親しまれる鎮護堂は、彰義隊の上野戦争のおり上野の山から避難した狸どもが浅草寺に住みつきイタズラ放題のご乱行三昧。狸どもの乱行を鎮めるため伝法院の鎮守として「狸社」を祀ったことにはじまるようです。狸公との約束では「自分たちを保護してくれれば、いたずらせずに伝法院を火災から守る」という項があり、後には福徳を願う人達の参詣が増え一般開放となったとあります。お隣の幇間塚は昭和38年に造られたもので、幇間のことを「たぬき」と呼んだことによるものです。
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築地・海軍・記念碑

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工事中だった国立がん研究センターの建物工事が終了、立入禁止だったPt↑)『海軍兵学寮・海軍医学校跡』の記念碑が見られるようになっていました。チョット判りにくい場所ですが、がんセンターの北側の首都高速側です。明治7年(1874)3月に『競斗遊戯会』と称して海軍兵学寮でこの年1回きりでおこなわれたのが日本で初の”運動会”なんだそうです。「雀雛出巣」やら「燕子学飛」なんて競技はどんな感じだったのでしょう(苦笑)。
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明治2年に海軍士官の養成所として「海軍操練所」が開設され、明治4年に「海軍兵学寮」が創られています。明治9年(1876)には海軍兵学校と改称、明治20年(1887)に江田島に移転するまでこの地にありました。隣に並んでいるの「海軍軍医学校跡」の碑は、明治6年(1873)に「海軍病院付属学舎」として創立、明治22年(1889)に「海軍医学校」と改称し、明治41年に築地へ移転してきた施設で、その跡地が国立がん研究センターなっています。

新宿・天龍寺・・(2)

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JR新宿駅から7分ほど新宿4丁目交差点付近に曹洞宗・天龍寺があります。天龍寺の前身は徳川家康の側室で2代将軍秀忠の生母”於愛の方”の実家の菩提寺遠江国の法泉寺とされ、家康の江戸入府に際し遠江国より移され天竜川に因んで「天龍寺」と改めています。当初は牛込でしたが天和の大火(八百屋お七火事)により焼失してしまい、天和3年(1683)に現在地に移転となっています。とはいえここは四谷大木戸の外、内藤新宿の外ということでかなり辺鄙な地だったのでしょう。山門の造作はかなり立派で葵の御紋の設えなどに徳川家との関わりが見られます。
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境内には5代将軍綱吉の側用人牧野成貞により寄進された「時の鐘」があります。現在の梵鐘は3代目ですが、上野寛永寺、市ヶ谷八幡と天龍寺の鐘が「江戸三大名鐘」とも呼ばれたそうです。内藤新宿に時を知らせる役目ながら江戸城からはかなり遠い場所にあることから木戸の門限遅参等の事件を避けるため、定時よりやや早く鐘が鳴らされていたようです。新宿・天龍寺・・(1)にあるように明治年間には天龍寺裏手にスラム街が形成されるようになり昭和40年代までは雰囲気が残っていたようです。
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新宿・天龍寺・・(1)

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明治20年(1887)に明治政府は『屋営業取締規則』を施行、現新宿4丁目の護本山天龍寺(曹洞宗)付近が「木賃宿営業許可地域」に指定されます。木賃宿とは湯治場のように客は食材等を持込み燃料代金(木賃)を払って料理の提供を受けるシステムの旅館の事でしたが、明治以後は粗末な安宿を意味するようになりました。政府はこの法律により芝新網町、上野万年町、四谷鮫ヶ橋にあった最下層の貧民街を帝都中心部から郊外地へ追い立てる施策を行います。=帝都の中心に存在した貧民街は住民を立ち退かせる事で無かったものとしてしまいます=こうして天龍寺の門前のこの辺りに日雇い労働者、旅芸人、街娼や男娼、その家族達が集まり次第にスラム街が形成されていきます。Pt↑)のDocomoタワーに向かって右側が天龍寺の敷地で左側がうっすらと木賃宿街の感を残すビジネスホテル街です。再開発が進む新宿4丁目にもこんな歴史があったとは・・。Ptにある街並みは元雷電稲荷神社に隣接しています。こうした時の流れから恐らくは天龍寺の境内社として賑わった稲荷社が街がスラム化していくうちに衰え花園神社に合祀せざるを得なかったのかも知れません。「元雷電稲荷神社」は昭和58年に旭町・安藤某氏により旧地に再建とありました。地元の方にはこの地が「雷電さま」なのかもしれません。
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新宿・花園神社・・(2)

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花園神社から距離にして500mほどの新宿2丁目16番にPt↑)の花園神社に合祀された「雷電稲荷神社」が残っています。「受持神」を祀神とする雷電稲荷は昭和3年に花園神社に合祀されているのですが、いつのまにやら合祀前跡地に神社が再建されていたという不思議と云えば不思議な神社です。神社の由緒によると源義家が奥州征伐に行く途中、ゲリラ雷雨に遭遇、雨宿りをしていると1匹の白狐が現れ、義家の前で3回頭を下げたところ雷雨が止んだのというお話により雷電稲荷神社が創られたという伝承があるようです。何故か豪徳寺の招き猫伝承と酷似しています。『白狐が出てきて頭を下げたら雷雨が止んだ』→登場したのが白狐だったので稲荷大明神を祀ったんですかねぇ(苦笑)。合祀先の花園神社にしても、尾張様の屋敷内稲荷社として創建→後に別当寺を三光院が務めたことから三光稲荷→花畑に因んで花園稲荷→明治の神仏分離により三光院と別れ→大正5年に花園稲荷社→昭和3年に雷電稲荷神社を合祀→昭和40年に大鳥神社を合祀→花園神社と改称。なんとまぁ忙しい社歴です。
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新宿・花園神社・・(1)

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この地が「内藤新宿」と呼ばれた江戸時代から新宿総鎮守として知られる「花園神社」です。創建由緒は不明とあり、元々はやや南の現伊勢丹付近にあったようです。その後尾張藩下屋敷(現在地)に移り、花が咲き乱れる花園があった事から「花園(稲荷)神社」となったようです。ご祀神は倉稲魂命の花園神社、日本武尊の大鳥神社、受持神の雷電神社の三柱となっています。新宿という土地柄もあるのでしょうが、神社には妙な点が多々あります。下のPtに靖國通りに面しての鳥居がありますが元々はこちらが正参道だったようで、朱の鳥居は本殿を建て替えた際に付け替えています。本殿が一の鳥居に正対していない理由はこれのようです。(Pt↓3)の碑には「雷電稲荷神社」とあり雷電稲荷がここにあったようです。ご祀神に伏見系稲荷社の倉稲魂命と伊勢系稲荷社の受持神の二柱が合祀されていますが雷電神社は稲荷を表していません。表現が微妙ですが、珍しい事例の神社史があるようです。
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