旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年02月

麻布山善福寺

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浅草の浅草寺は東京で一番の古刹として知られています。それに次ぐ古刹がこの港区元麻布の「麻布山善福寺」なんだそうです。山号の麻布山が「麻布の地名」の由来とも云われ現在でも「麻布」の付く町名はやたらとあります。ここまで麻布の地名が多いのは不動産屋の陰謀ではないかとすら思えてきます(意外な事に北麻布はありません)。驚くくことに杉並区の善福寺は当院の奥の院が元は善福寺池周辺にあったことに由来すというる説や港区の虎ノ門は善福寺の山門に由来する説などがあるそうで、ホントならとんでもなく広大なお寺です。
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善福寺の開山は弘法大師・空海(真言宗)によるとされ山門手前には弘法大師による湧水(柳の井戸)があります。このお方は全国を行脚して井戸やら温泉やら池やらを発掘や開拓しているようで、本当にご苦労様なことです(苦笑)。時代を経て鎌倉時代に親鸞が寺を浄土真宗に改宗したとされます。親鸞のついた杖から生えたという伝承を持つ国の天然記念物”逆さいちょう”と称する大銀杏の傍には親鸞聖人の像が建立されています。空海(真言宗)縁の井戸と親鸞(浄土真宗)縁の銀杏巨木が拮抗している面白いお寺です。幕末時代の1859年には日米修好通商条約により初代のアメリカ合衆国公使館が設置され、ハリスらがこの寺に在留しています。
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ブートCDの裏通り・56

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最近なってまたBeatles関連ブツが発表されているようです。現役で聴いてきた世代からすると孫の代になっているのですからたいしたもんです(笑)。Pt↑)はオリジナルは1965.12月(英国)発売の「Rubber Soul」の関連Bootです。当時の英国LPはMonoとStereo盤が発売され、ジャケ写が同じで中身が違うUS盤まで存在して(このあたりは後年知ります)日本発売ではStereo盤のみ。これらが後年のBootのネタとなっています。上左)は「Another Tracks Of Rubber Soul/Sweet Zapple」。Mono盤を中心としてレア音源で固めています。上中と右)がDr.EbbettのUK.StereoとUK.Mono。このDr.Ebbett・Stereo盤が1960年代に聴いていた音で今でもスンナリ聴けます。下左)がMobile盤.UK.StereoLPのコピー。下中)は最近登場したBootでチャンネル・バランスに大きく加えられています。下右)がギフトで貰えるUS盤Rubber Soulの8トラック音源、よくまぁこんなものを・・。
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当時の英国Stereo盤「Rubber Soul」では左に楽器類、右に歌というStereoでありながら中央に音がないという不思議なミックスになっていました(Mono盤は異なります)。CD化に際して左右の楽器を中央に寄せる作業をし、Remaster盤でさらに中央へ。さらに現行器材で中央に寄せたのが最新Boot盤となっています(Dr.Ebbett・Stereo盤は中ヌケ盤)。当時のLPの価格が¥1800位と子供のこずかいではとんでもなく高価でした。「Rubber Soul」は大好きな作品でもあり、いつのまにやらこんな状態になっていました。Pt欠落しているCDやLPを加えるとさらに10枚程度はあるのでしょうが、バカですねぇ(苦笑)。上左)現行のSHM盤CD。上中)Mono Boxの実は貴重なCD。2006年のCapitol盤。下左)1988年の¥3200日本盤。US Capito BoxのCD。あらあら・・(笑)。

芝東照宮

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東照宮』で思い浮かぶのは、1)日光東照宮 2)久能山東照宮 3)上野東照宮あたりかと思います。元和2年4月(1616)徳川家康は駿府城で死去。遺言により久能山に葬られ、翌元和3年には日光に改葬されることとなります。さらには徳川・松平一門や譜代や外様大名家も競って東照宮を建立し全国で500>社を超える東照宮が造られています。明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、それでも約130社の今でも全国的に東照宮が現存しています。芝東照宮は家康の還暦記念に造られた「寿像」を増上寺内に祀るために造られた「安国殿」が起源となっています。
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寛永10年(1633)には家光の命により新社殿が造られ、寛永18年(1641)には岡藩主黒田忠之により豪奢な社殿となっています。昭和20年の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し社殿は焼失するも、昭和44年(1969年)現在の社殿が再建されています。敷地内には徳川家光が植樹したと伝えられる神木の大イチョウは昭和5年(1930年)より昭和27年(1952年)までは文部省(国)指定の文化財であったが文化財保護法の改正により指定解除がされ、昭和31年(1956年)に改めて東京都の指定天然記念物に指定されています。
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中山神社(中氷川神社)

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JR北浦和駅から岩槻行東武バスで約20分さらに徒歩10分に中山神社が鎮座しています。創建は第10代崇神天皇2年と伝わる、いかにもの古社の雰囲気に溢れています。この中山神社は「中氷川神社」や「簸王子社」とも呼ばれ、大宮・氷川神社と見沼・氷川女体神社とともに『武蔵一宮・氷川神社』を形成していたとの説があります。拝殿の扁額は「中山神社」、Pt↓)の弐の鳥居には「氷川神社」の扁額が付けられています。
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ご祀神は大己貴命(おおなむちのみこと=大国主)で大宮・氷川神社が「父親」・見沼・氷川女体神社が「母親」・中氷川神社が「子供」という関係になります。位置関係も父と母の中間に位置し、後付けの伝承とは考えにくいものがあります。現在の本殿の後方にある旧本殿はさいたま市の指定文化財で安土桃山時代の建造物とされ神社の建築様式が変化していく過渡期の建造物説明されています。格子の枠から覗き込むと、確かにあまり見かけない神社様式になっています。一の鳥居から約400mの参道が続き途中国道が横切り参道が分断されています。
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氷川女體神社

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「氷川」の名を持つ神社は全国に約260社あるそうです。約160社が埼玉県内に氷川神社からの分社約220社のほとんどが埼玉・東京・神奈川にありながら、全国展開でないのが特徴です。JR武蔵野線東浦和駅からバスで10分ほど。さらに徒歩で10分程に『氷川女體神社』があります。この辺りは大宮からの川口にかけての広大な見沼田圃の縁にあたり、神社は舌状に大地の縁に鎮座しています。年々住宅地に変わってゆきますが、まだ広大な「見沼田圃」の雰囲気は色濃く残っています。
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『女體神社』のご祀神は稲田姫命(いなだひめのみこと)で、須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫(嫁)です。社額には「武蔵野國一宮・氷川女體神社」とあり、こちらの神社が「女體社」で須佐之男命を祀る大宮氷川神社が「男体社」とされ、さらには須佐之男命と稲田姫命の子供である大己貴命が女體社と男体社の中間の見沼区中川の中山神社(祭神:大己貴命・王子社)に祀られています。この三社は大宮からの舌状大地の突端に一直線上に三社が配されたいます。三社を総称して『武蔵野國一宮・氷川神社』となるようで、とても偶然がの結果とは思えません。
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氷川女體神社の創建は崇神天皇の時代と伝えられ中世以来武門の崇敬を集め、現在の社殿は、寛文7年徳川幕府4代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗らていたとされ、形式的には権現造りに近い建造物となっています。
神社石段の反対側には江戸時代末期まで行われていた竜神を祀る御船祭が行われていた「磐船祭祭祀遺跡」の遺跡がありますが、草木が立ちこめ、水の流れは濁り、澱み放題で管理の悪い遺跡となり果てています。神域はそれなりに管理がされているだけにさいたま市の文化財管理には呆れてしまいます。
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流山・春はまだ…(2)

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流山は江戸時代に「白みりん」発祥の地として栄えたのですが「白みりん」といわれてもピンときません。古い商人街の雰囲気を残し観光案内板など良く整備されています。新撰組ファンには「近藤勇と土方歳三の別れの地」として有名な地です。鳥羽伏見や甲州鎮撫隊としての勝沼での戦闘で敗れた新撰組は慶応4年(1868)4月2日に徳川幕府脱走兵らと流山に結集するのですが、翌3日には西軍に包囲されて、近藤は土方らと別れ西軍に投降(?)していきます。PT↑)は現足立区綾瀬に再結集した200名超の新撰組が流山に移動、本陣を構えた跡地です。結集から投降まで近藤の流山滞在は僅か2日ですが、現在も「近藤勇陣屋跡」の石碑が整備され新撰組ファンが絶えず訪れているようです。
今回は事情により陣屋跡のみですが、流山は再訪したい雰囲気のある”田舎町”です。
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流山・春はまだ…(1)

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あまり知られてはいないのですが、あの「新撰組」の最後の局長は相馬主計(そうまかずえ)という人物で、近藤勇と共に流山で捕まるも脱走、土方らと合流して函館へ向かいます。函館戦争では土方歳三戦死の後、局長(隊長)として降伏書面の署名をしています。ここ流山は新撰組ファンには近藤勇投降の地として知られています。常磐線・馬橋駅で乗りかえ全長5.7㎞、2両編成の電車ごとに異なったカラーリングの「流鉄流山線」で終点の流山駅へ到着です。終点まで6駅でスイカ等不可で運賃は¥200でした。Pt↑)が流鉄流山線・流山駅です。”東京近郊ながらローカル色のある駅”ということで1998年に「関東の駅百選」の選定されています。。記憶にないくらい久し振りに来ましたがマンション風の建物が増えているにしても、駅付近にはコンビニすらなく”ローカル色”ではなく田舎の駅そのものです。
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所沢航空発祥記念館…(2)

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中島飛行機製の「陸軍九七式戦闘機」です。汚れ具合といい重量感といい良くできたレプリカです。もともとはテレ朝系で放送された「妻と飛んだ特攻兵」の撮影に使用された機体です。ドラマ自体は見ていませんが、九七戦で特攻とは大戦末期のお話でしょう。九七戦は福岡県筑前町の「大刀洗平和記念館」に日本で唯一の実機が展示されています。所沢は陸軍系の飛行場なので九七戦は不自然ではありませんが、撮影用のレプリカは不要でしょう。知覧では撮影使用された隼三型は屋外での展示でした。
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所沢で陸軍飛行学校設立され、フランスからの教育団の教材としてフランスから輸入、後には日本でライセンス生産された「ニューポール81E2」、Ptはその復元機です。この機体の脇には埼玉県出身の操縦士がランスから個人輸入し大正15年に比企郡都幾川村で破損し村の寺に70年間保存されていた残骸で、ここからこの機体が復元されています。第一次大戦中の複葉機は実に美しい姿をしています。
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ガラスケースに収められた残骸にしか見えない機体は、この記念館で最も重要な「九一式戦闘機」です。昭和6年(1931)に陸軍に正式採用された戦闘機で日本初の独自設計により中島飛行機により制作された機体で、現存する日本唯一の機体です。三菱による零戦は昭和15年(1940)。中島飛行機による一式戦(隼)の正式採用は昭和16年(1941)なので、九一戦から僅か10年で名立たる傑作機を製造したことになります。
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ワザとなのか旧陸軍の航空機模型の名称が見事に間違っています。マニアなら極々常識的なモノですが、どこぞの模型飛行機同好会からの寄贈ですが確認しなかったのでしょうねぇ?恥ずかしい限りです(笑)。この模型は三式戦(飛燕)の水冷エンジンの製造が間に合わなかったため、苦肉の策で空冷エンジンを載せたら好成績で「五式戦」として採用された機体です。四式戦(疾風)の実機は鹿児島・知覧にあります。
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どう見たってポンコツの粗大ごみばかりです。まぁ所沢は知覧の特攻平和記念館や大刀洗平和記念館と違い『特攻/平和』をウリにはできないのでしょうが、それにしてもお粗末な内容です。「ニューポール81E2」や「陸軍・九一式戦闘機」の方が余程貴重な機体なのですが・・。
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所沢航空発祥記念館…(1)

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所沢市の所沢航空記念公園内にある「所沢航空発祥記念館」に2012年秋の”零戦の里帰り”以来で行ってきました。前回は零戦が目的だったのですが、ごく一般的な航空マニアから見ても相も変わらず恐ろしいほど低レベルの展示施設です。事業の母体は埼玉県で、財)埼玉県公園緑地協会と財)日本科学技術振興財団グループともっともらしい財団の運営ですが入館料¥510/大人も払うような内容ではありません。流体力学とか飛翔の仕組みとかの展示もありますが、未就学児童には難しく小学生程度がフライトシュミレーションで喜ぶ程度でしょう。名称からして・・日本初の動力飛行は陸軍代々木練兵場で明治43年(1910)実施のはずで所沢は初飛行ではありません。・・その後、航空技術研究の目的で所沢に軍用気球研究会が設立されたことを持って「発祥の地」と称しているようです。まぁ良しとしましょうか(笑)。
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1階に展示されているのは、恐らくは業者ですら敬遠するであろう飛行機の粗大ゴミです。日本の航空機の発展史とは関連がありません。空自からの払下げで、手前の黄色は「ノースアメリカン・テキサン練習機」・・(昔の戦争映画では零戦の役です)・・。後方にはシコルスキーのS55、バートルV44やヒューズOHなんてのもあります。朝鮮戦争やベトナム戦争に使用された機体で殆どが1970年代に退役したポンコツです。しかも計器等は損なわれています。こんな粗大ごみでもいつの日か”世界で唯一の展示”になるかも知れません(爆笑)。これで「航空ファンの聖地」とは聴いて呆れます。
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