旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年06月

浅草の街神社…(5)

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感応稲荷社の近くの『西浅草八幡神社』。こちらも浅草神社の兼務社とあります。「稲荷社」と同様にアチコチに鎮座している「八幡社」ですが浅草近辺にはあまりありません。この八幡社は元禄13年(1700)に鶴ケ丘八幡宮や岩清水八幡宮ではなく、宇佐八幡宮から勧請されたようです。関東大震災は無事だったものの東京空襲では消失してしまい、昭和24年(1949)に再建、現在の建物は昭和47年(1972)の完成です。
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浅草の街神社…(4)

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台東区西浅草4丁目の浅草ビューホテル近く、国際通りに面して『感応稲荷神社』があります。創建時期不明だそうで、元々浅草柴崎町(この辺り)あった神社がその後数回の遷座を繰り返し結局元の場所に戻って来たようです。これといった特徴は無く神官も常駐でなく浅草神社が兼務しています。この規模の神社には珍しく手入れが行き届いています。いまでこそ付近はラブホテル街となりましたが、近くの浅草ビューホテルは元浅草国際劇場なので踊子さんたちもお参りしていたことでしょう。Pt↑)のきつね像(左側)際立った特徴があるわけではないのですがいい雰囲気です。
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浅草の街神社…(3)

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台東区浅草3-19-6にある『箭弓稲荷神社』です。浅草寺の裏の雷5656会館の裏手辺りですが見つけにくい稲荷さんです。由緒書などはなく辛うじて社額と社殿に「箭弓稲荷社」の文字があり判別ができます。黒門町の箭弓稲荷と同様に埼玉県の箭弓稲荷神社の分社と思われますが、ご祀神が「保食命」なのか「宇迦之御魂神」すら分かりません。
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『箭弓稲荷神社』のほど近く浅草三業会館に稲荷神社が鎮座しています。三業とは明治以降に料亭(飲食提供可)・待合(飲食提供不か)・芸妓屋(芸者プロダクション)で、この地区が「花街です。浅草は向島に次に芸妓数が多いとされますが、浅草三業や芸妓の守り神として鎮座しているのでしょう。
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浅草・被官稲荷社

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安政元年(1855)、江戸町火消しの頭であった新門辰五郎の妻が重病となったおり、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ病気は全快したそうです。そのお礼の意味も込め伏見稲荷神社から分霊して創建されたのが『被官稲荷神社』で浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の「被官」とは”官を被(こうむ)”から就職・出世にご利益があるようです。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。社は創建時のもので「一間社流造」という神社本殿形式になっています。覆堂は大正時代に造られたようです。
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また、様々な形式の神使の狐があちこちに見られます。親子狐・鍵や玉を咥える狐。社額は石造りで狐が付けられています。本殿の隣にずらりと並んだ通称『お姿』は壮観で、これだけ並んでいるのは豪徳寺の猫くらいなもんです。浅草神社によると「浅草神社は九つの神社を兼務している」そうです。うち6社は「稲荷社」という構成です。
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台東区・箭弓稲荷神社

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東松山の箭弓稲荷神社の御由緒には【享保年間には隆盛を極めて遠方よりの参拝者がご訪れ、江戸地市中では日本橋小田原町を 中心に「箭弓稲荷江戸講中」が盛んであった】とあります。台東区の箭弓稲荷社も明治年間に東松山・箭弓稲荷神社から分霊こそされていますが、元は石川主殿頭の屋敷稲荷で3代徳川家光の時代に家光より”銀杏”が下賜され「銀杏稲荷」を名乗ったことに始るようです。Pt↑)鳥居がなければ神社とは分らない規模の神社です。鳥居を潜ると落語家など氏子の名前の奉納額が掲げられています。面白いことにはこちらの由緒案内にはご祀神が保食命ではな宇迦之御魂神になっています。まぁ同一とされる神様ですから良いのでしょう(苦笑)。
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東伏見稲荷神社

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東京近郊には東松山や東久留米のように【東】がつく地名があります。西東京市の『東伏見稲荷神社』も京都に対しての【東】が付けられています。創建由来が、関東の稲荷神信者により中島飛行機の社有地に京都の総本社から昭和4年(1929)に勧請し創建されたそうです。神社の創建されたことにより地名も変更され、西武新宿線の最寄駅も「上保谷」から「東伏見」に変更されています。こうなると否が応でも京都総本社のイメージが浮かんでくるのですが、実際はかなり残念な現実がありました。西部新宿線の「東伏見駅」は急行すら止まらず駅前には門前町の雰囲気はなく”一の鳥居”があるのみです。神社までは徒歩10分程度ですがお土産屋も食事処も茶店も一切ありません(!)
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青梅街道との交差点近くまで来ると丘の上に朱の鳥居が見えてきます。この景色が「新東京百景」に選ばれているそうです(笑)。階段を登り門を抜けると本殿が見えてきます。ご祀神は宇迦御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神の稲荷の代表的は三神です。本殿裏には朱の鳥居が林立する摂社も数多いのですが、正直、関東における「伏見稲荷東京別院」と称するなら物足りないとしか表現できません。最寄りの駅から参道を歩き神社へ向っていくわくわく感はまったく無く、京都の”あのイメージ”は微塵もありません。
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箭弓稲荷神社…(終)

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広い敷地なのですが摂社、境内社が少ないようです。Pt↑)は穴森稲荷(団十郎稲荷)で7代目市川団十郎 に所縁の稲荷社です。7代目団十郎とは江戸・化政年間から天保年間に活躍したの歌舞伎役者です。7代目は狐を題材とした演目を興行すると、稲荷大神の加護のもと大盛況で興行を終えられたそうです。そんな縁から文政4年(1821)社が奉納されています。
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敷地内には宿泊施設や例年4月には約3,500㎡の園内に約1300株の牡丹が咲く「ぼたん園」があります。大正12年(1923)の東武東上線坂戸~東松山間の開通記念にして東武鉄道から牡丹・藤・松などがを奉納されたのが始まりらしいです。まぁ、花の時期なら見事なモノでしょうね。Pt↑)はぼたん園の奥に鎮座する「天神社」です。
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本殿左側のぼたん園の方向に、異なる木が根元だけが一ツに繋がっているという、珍しい大木があり”縁結びのご神木”とされています。ご神木のしたにはキツネのマスコット「やっくん&きゅうちゃん」です。これだけの古社でも「キャラクター」に走るのでしょうか?
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「箭弓」の音が「野球」に繋がるというのでプロ関係を始め野球関係者の参拝が多いとあります。甲子園出場やら試合勝利や贔屓の選手の活躍祈願なんてのもあり、西武ライオンズ関係者も訪れるそうです。神社参道には幟が林立して盛り上げているようですが1300年の古社が野球の神とは馬鹿な話です。
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箭弓稲荷神社…(3)

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Pt↑)は社殿の裏の『元宮』です。創建当時の名称は「箭弓」ではなく「野久」だったようです。長元3年(1030)に源頼信と平忠常の戦いの際、源頼信が布陣した近くの「野久稲荷大明神」で戦勝祈願を行い【白羽の矢型の雲が敵陣に向かうのを見て】チャンスとばかりにせめこんで大勝利!快勝の御礼に社殿を奉納したという故事があるそうです。つまり神社yは長元3年以前から存在しているので、関東の神社にはありがちな八幡太郎義家や太田道灌より遥か以前の話となります。ご祀神の稲荷神は1)保食神(うけもちのみこと)。厄介な神様で日本神話の「日本書記」に記載があり「古事記」にはありません。豊受大神は「古事記」にあって「日本書記」にはありません。さらにややこしいのは宇迦之御魂神は「古事記」では宇迦之御魂神で「日本書記」では倉稲魂命として記載されています。保食神・豊受大神・宇迦之御魂神(倉稲魂命)は同一の神様とされますがとても同じ神様とは思えません。他にも仏教系(曹洞宗)の陀羅尼天も稲荷神ですからややこしさが増します。まぁ例外が多く厳格な規定が有るわけではないので「適当に」でよろしいかと思います。Pt↓)は露光不足ながら本殿に施された彫刻の様子です。江戸から離れた地の「稲荷社」としては見事な彫刻が施されています。

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箭弓稲荷神社…(2)

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箭弓稲荷神社の創建が伝承の様に和銅5年(712)ならば社歴が1300年を越します。稲荷神社としては武蔵野国の最古社と称するのも頷けます。「日本五大(三大とも)稲荷」とも伝わり、古くから近郊の松山城主や川越城主の崇拝を受け、江戸時代には関東一円からの箭弓稲荷講で賑わった時代もあったようです。昨今は箭弓=野球のの音から野球関係者の参拝が多いようで「バット型の絵馬」や「ホームベース型の絵馬」、おみくじもPt↓)の硬球型なんてのも用意されています。さらには神社の参道には西口商店街による”全国高校球児・目指せ甲子園!”の幟が林立し賑やかです。
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箭弓=野球の”こじつけ”はまだ笑えますが、参集殿に展示されているギネス世界記録認定の「世界最大の木製スタンプ=御朱印」はどうかと思います(苦笑)。高さ1.42m・印面1.3mだそうで、いくら世界に類を見ないといってもあきれ返って言葉にもなりません。こんなバカげたことをする寺社はないでしょうから当面は安泰でしょう。 拝殿の前、距離は離れていますが”キツネ像”が置かれています。左側のキツネはクネクネ型で台東区下谷の「小野照崎神社」で見たことがあります。右側のキツネは子連れです。この形式のキツネ像はレアな部類に入ります。
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箭弓稲荷神社…(1)

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池袋から東武東上線というなじみのない路線で1時間ほど、小江戸・川越の先「東松山駅」に到着です。ここ『箭弓(やきゅう)稲荷神社』は駅から徒歩5分ほどにあります。Mid埼玉ということで期待薄でしたが、とんだ勉強不足でなんとも「やばいよっ!やばいよっ!」の稲荷社でした。ご祀神は保食神/ウケモチノカミ(伏見系での宇迦之御魂神・伊勢系での豊受比賣神と同一神と云われますが)です。3系統の神社は雰囲気が異るのですが深入りはやめておきます。和銅5年(712)に小さな祠として創建とありますがこれは伝承の世界でしょう。旧社各は県社、神社本庁の別表神社なのですが、Pt↑)のようにそこらの稲荷社とは神域のあきらかに雰囲気が違っています。
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Pt↑)のように拝殿・幣殿・本殿が一直線に並ぶ「権現造り」と思われます。拝殿に「流れ」が付けられた形式になっており、一般的は権現造りとは少し異なります。資料には本殿は正徳5年(1715)・幣殿は文化8年(1811)・拝殿は天保6年(1835)の建造とありその差が120年あることになります。この本殿に施された『彫刻群』がなんとも素晴らしいのですが、残念ながら梅雨曇りの天気でまともなPtがありません。
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Pt↑)は三の鳥居なのでしょうか(?)なんと明神系鳥居にの袖柱が付けられた「両部鳥居」になっています。これだけの古社ですから昔は神域も広大だったのでしょうが、この場所だけが両部鳥居で、しかもPt↓)のよう社額に鞘堂のような物が付けられています。正直なところ数多くの稲荷社をめぐってきましたが、この様な形式の鳥居は初めて見ました。
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返す返すも曇天なのが残念至極です。箭弓が野球に通ずるとのことで人気の神社程度の認識は崩れていきます。拝殿・幣殿・本殿に施された彫刻は素晴らしく、埼玉県唯一の国宝・妻沼の聖天様の極彩色での復活も素晴らしいのですが、箭弓稲荷社の彩色のない彫刻も甲乙つけがたい作品群です。Pt↓)極々普通の稲荷社だと思っていたのですが・・。
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浅草の街神社…(2)

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「無事富稲荷神社」からほんの数m(台東区1-14まで同じです)に「御手洗稲荷神社」があります。困った事には由緒を始め”神社情報”がまったくありません。社額には「御手洗稲荷大明神」とあり稲荷社であることは確実ですが、まさか「おてあらい」とは読まないでしょうがそれすら分かりません。さらには入口の柵は施錠されていて境内に入ることすらできません。まぁ飲食街のことなので酔客がトイレ使いしたり寝込んだり対策での施錠でしょうが、参拝のできない神社というのも微妙です。付近で聞き込みをすれば由緒など判明するのでしょうが・・。
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浅草の街神社…(1)

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台東区浅草1丁目の『無事富稲荷神社』です。すしや横丁へ向かう食通街と称する場所にあるのですが、Pt↑)のようになんともこじんまりとした稲荷社です。困ってしまうのは二文字目がGoogleの地図検索では「無富」とあり神社では「無事富」となっています。となると「ぶじとみいなり」で良いのかとの疑問も生じてきます。神社の由来や社歴に関する掲示は一切ありませんが、神社前の旧町名由来案内にはこの近辺は以前は「旧)浅草新畑町」と云い、浅草寺境内の畑地として農作物を作っていたとあります。これでは稲荷社との関連のヒントにもなりませんが、「今年も無事に豊作でありますように」と云った感じなのでしょうか(苦笑)。
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市川・法華教寺…(2)

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中山法華教寺には日蓮上人の直筆の国宝「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財64点等々が保存されてい『聖教殿』です。祖師堂の裏手を木々に囲まれた道を進んで行くのですが、”こんなところにっ”と云った感じで現れます。仏舎利のような感じで宝物殿の感じではありません。昭和6年に建設されたもので、設計者は”あの”東京帝国大学教授工学博士・伊藤忠太です。さもありなんです(笑)
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昭和60年5月に重要文化財に指定された『華教寺祖師堂』です。鎌倉時代(1325)に造られたお堂が元々で、火事などによる数回の再建を経て、Pt↑)の祖師堂は江戸中期の延宝6年(1678)のものです。Pt↑)では判りませんが屋根の形が屋根を2つ並べたような「比翼入母屋造り」形式になっています。岡山の吉備津神社に見られる珍しい形式らしいのですが、確かにこの形式の屋根の建物は見た記憶がありません。
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祖師堂をさらに進むと江戸三大鬼子母神(出ました三大)の一つ、鬼子母神同です。Pt↑)の建物は本院の『太客殿』で玄関右には寺事務所があります。長く広い廊下の先に鬼子母神堂があるのですが、幸田露伴の「五重搭」に登場したり怪しい「江戸名所図会」に掲載があったりで十返舎一九も紹介しているほどで、人気の観光スポットだったのでしょう。「鬼子母神堂」に続く廊下の左右には中庭が設えており、鬼子母神堂への繋ぎ廊下を渡ると雰囲気が一変します。
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これも重要文化財の『法華経寺五重搭』です。元和8年(1622)に加賀藩主前田利光公の援助を受けて本阿弥光室が両親の菩提をともらうために建立したとあります。搭の高さは約30mで、大田区池上の本門寺や台東区上野の寛永寺とほぼ同じくらいの高さです。Pt↑)の手前植込みの中に台湾総督の『蒋介石』の胸像は、田中角栄総理の”日中国交再会政策の時代に当時の住職が日台友好を願って建立したもののようです。
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中山法華教寺から徒歩10分くらいの所に『市川市立・東山魁記念館』がありました。道案内板が充実しているのですがくねった道を歩いていくので思いの外時間がかかったような気がします。戦争から復員後死去するまで住んだ市川市の自宅に隣接して開館した記念館です。東山魁は美術館の類が多いのですが市立としたはなかなかのものでした。微妙に青~緑を使い分けた作品は作者の名前は知らずとも見たことがあるとは思います。作品群を見ていて気が付いたのですが、目線の位置が似通っています。空間の割り付けがほぼ同じ位置になっていて、どの作品も似通った印象を受けます。巨匠ならではの仕掛けなのでしょうか?素人には判りません(苦笑)。
Pt↓)大正5年に重要文化財に指定された諸町時代後期の『四足門』です。鎌倉の愛染堂から移築したとされ法華経寺の玄関門だったようです。 こちらも大正5年の重要文化財指定の13世紀後半に建てられた『法華堂』と重要文化財が何気にあります。蒋介石の胸像はこんな感じです。
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市川・法華教寺…(1)

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千葉県市川市中山の日蓮宗総本山『法華教寺』です。勉強不足ですが市川市の中山となると中山競馬場位しか知りませんでした。京成中山駅を降り総門(黒門)から中山参道の緩い勾配を登ると山門(赤門・仁王門)Pt↑)です。法華教寺は鎌倉時代の文応元年(1260)の創立とされ、布教活動で様々な迫害を受けてきた日蓮上人の安息の地として知られます。
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山門から左右に支院が並ぶ石畳の参道を進むと前方に元和8年(1622)建立の高さ30m程の重要文化財の五重塔、左に祖師堂が見えてきます。この祖師堂も重要文化財で屋根の姿が珍しい形式です(比翼入母屋形式というそうです)。浅草寺とは異なる、お寺らしいお寺という感じです。国宝の日蓮筆による「観心本尊抄」や「立正安国論」をはじめ重要文化財、指定文化財も数多く全体を観て廻るにはかなりの時間が必要でしょう。
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