感応稲荷社の近くの『西浅草八幡神社』。「稲荷社」と同様にアチコチに鎮座している「八幡社」ですが浅草近辺にはあまりありません。この八幡社は元禄13年(1700)に鶴ケ丘八幡宮や岩清水八幡宮ではなく、宇佐八幡宮から勧請されたようです。関東大震災は無事だったものの東京空襲では消失してしまい、昭和24年(1949)に再建されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・浅草寿町の『黒船稲荷神社』は、・【平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940年?)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請し、江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、「黒船三社稲荷大明神」と称されたあります】・ともかくの古のようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・台東区浅草5-48-9の浅草富士浅間神社の先『袖摺稲荷神社』になります。祀神は1柱に素戔嗚尊。2柱に倉稲魂命とあります。源頼朝が伊豆流刑中に稲荷神を彫刻して社を建立、北条氏が小田原に遷座、北条氏以後は「お告げ」のより墨田の地に移り、徳川氏により当地に遷座したあります。袖擦り通うことから「神寿里稲荷」、さらに『袖摺稲荷』となったとは(苦笑)。
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『合力稲荷神社』は台東区浅草6-42-8と浅草でも山谷堀跡に近くい稲荷社です。祀神は稲荷社でも少数派(?)となる『保食神/うけもちのかみ』になります。徳川4代将軍の日光参拝のおり千住宿で死亡した愛馬「荒波」の馬頭観音が合祀されていたり、伝説の江戸時代の怪力男「三之宮卯之助」の力石なんての境内に置かれています。吉原への道すがらにあり「土手のお稲荷さん」と親しまれていたそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・浅草寿町の『黒船稲荷神社』は、・【平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が造営黒船稲荷大明神と号して天慶3年(940年?)に創建、藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上に当社を勧請し、江戸時代に入り散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀、「黒船三社稲荷大明神」と称されたあります】・ともかくの古のようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・台東区浅草5-48-9の浅草富士浅間神社の先『袖摺稲荷神社』になります。祀神は1柱に素戔嗚尊。2柱に倉稲魂命とあります。源頼朝が伊豆流刑中に稲荷神を彫刻して社を建立、北条氏が小田原に遷座、北条氏以後は「お告げ」のより墨田の地に移り、徳川氏により当地に遷座したあります。袖擦り通うことから「神寿里稲荷」、さらに『袖摺稲荷』となったとは(苦笑)。
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『合力稲荷神社』は台東区浅草6-42-8と浅草でも山谷堀跡に近くい稲荷社です。祀神は稲荷社でも少数派(?)となる『保食神/うけもちのかみ』になります。徳川4代将軍の日光参拝のおり千住宿で死亡した愛馬「荒波」の馬頭観音が合祀されていたり、伝説の江戸時代の怪力男「三之宮卯之助」の力石なんての境内に置かれています。吉原への道すがらにあり「土手のお稲荷さん」と親しまれていたそうです。