旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年07月

朱・鮮やか祐徳稲荷神社…(2)

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『祐徳稲荷神社』は九州の神社では大宰府天満宮に次いでの参拝者数です。いずこも商売繁盛と学業成就は参拝者が多いようです。1931年までは参拝者用の「祐徳軌道」が門前まで轢かれていたそうで、神社参拝も娯楽の1つだったのかもしれません。ご祀神は倉稲魂大神。大宮売大神、猿田彦大神、伸令使命婦大神、萬媛命で衣食住、商売繁盛、家運繁栄として崇敬されています。Pt↑&↓は舞台上の本殿です。朱の色や極彩色の社殿はとても美しく感動すら覚えます。日本三大稲荷(!)なのも納得です。
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創建は1687年(貞享4年)鹿島藩々主鍋島直朝夫人の萬子媛が輿入れの際に持参した神鏡を祀る社殿を建立。萬子媛の死後は萬子媛の諡から「祐徳院」と呼ば、明治の神仏分離令により仏教色を廃し『祐徳稲荷神社』に改称しています。現在の社殿は昭和24年に焼失した後、昭和32年の再建です。舞台上から見た景色です。本殿は左階段が登り、右が下りで、エレベーター(有料)も備えてあります。嬉しかったのは参拝者休憩所の冷房が充分にきいていたことです(笑)。
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朱・鮮やか祐徳稲荷神社…(1)

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残された日程の関係から先を急ぐ羽目となり早朝の参拝となりました。佐賀県鹿島市の『祐徳稲荷神社』は参拝者もまばらで静かです。茨城県にも”かしまし”があり、茨城県は「鹿嶋市」で佐賀県が「鹿島市」の表記のようです。この『祐徳稲荷神社』は日本三大稲荷の1つと云われます。三大や五大なんとかは圧倒的に外れなのですが、年間300万人超が参拝する『祐徳稲荷神社』は漆塗りの楼門・社殿を始め神域全体は見事なものでした。Pt↑)左側が極彩色の楼門で右側の清水さんの様な舞台の所が本殿です。さらにその後方に奥の院と続きます。
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東京からのツアー企画では『祐徳稲荷神社』が組まれる例は少なく、今回は念願かなっての初参拝です。正直ここまでど派手な神社だとは思いもしませんでした。楼門を抜けるとPt↑)です。本殿は舞台の上、多くの稲荷社が立ち並ぶ奥の院へは本殿の裏側から登りとなります。暑いのと奥の院参道が急坂なのと時間がないのとで制覇は途中で断念しました。駐車場からは錦波川に架かる神橋を渡り本殿へ向かうとルートでは仲見世を通りません。もっともこの時間ではお店はただの1軒も開いていませんでした。神橋、楼門、本殿まで眷属のきつね像が稲穂を咥えているタイプが一対しかありませでした。それにしても緑に映える朱色が美しいです。
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やれやれの佐世保

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唐津のお城を出たのが15時過ぎ予定の佐世保までは2時間弱です。”どこぞの立寄り温泉に寄って行こうか”でPt↑)の「玄海海上温泉パレア」に寄ったのが大失敗でした(笑)。写真では判りにくいのですが施設は海の上に建てられています。北海道・東北やらで多くの立寄り温泉を利用してきましたが、ここ「玄海海上温泉パレア」は確実に上位に入る施設です(!)。玄海町には原子力発電所や風力発電所があり、国からかなりの補助金が出ているのでしょう。休息後、佐世保の向かうと伊万里~佐世保間の国道がなんと通行止めになっており、土地勘のない国道を武雄・嬉野経由の佐世保と2時間程度の迂回、ここで通行止めとは予想外の事態です。お陰で「佐世保バーガー」もあったもんではありません。Pt↑)佐世保駅は東経129度43分でJRの駅としては日本最西端だそうですが、だからどうしたです(!)。
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酷暑の唐津城

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『唐津城』は佐賀県唐津市、松浦川が唐津湾の流入する40m弱の山上にあります。平成29年には「続日本100名城の№185」に選ばれてます。天守台から眺める国の特別名勝・虹の松原や唐津湾の景観は100名城シリーズでも屈指でしょうが、日本100名城に【続】があったとは呆れてしまいます。それにしても暑い日です! 駐車場から坂道を天守閣へ登りは汗がしたたり落ちます。現在唐津城は修復作業中でしたが天守は昭和41年に5層5階の模擬天守として再建されたもので、内部は資料館や唐津の観光案内所となっています。冷房されているのが何よりです。2016年の熊本地震の数日前にギリで天守閣の耐震工事が完了し距離的な関係もあり地震の影響はなかったようです。
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福岡・宮地嶽神社

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福岡県福津市となる『宮地嶽神社』は宗像大社からは車で1時間弱、関東の人間にはあまり馴染みのない神社ですが正月三ヶ日には100万人超が参拝する福岡宗像地方では『宗像大社』と並ぶ初詣スポットです。日本の神社は「天子南面す」との風水思想から南向きが多く次いで東向き西向きとなり北向きはほとんど(確か鹿島神宮)ありません。この「宮地嶽神社」は少数派の西向き神社で、Pt↑)のように神社から宮地浜まで一直線の参道が続きます。この景色は数年前に日本航空のCMで一躍有名となり「光の道」と呼ばれるようになったそうです。
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この「光の道」の延長線上に夕日が沈む期間が年2回ほどあり多くの人で賑うそうです。宮地嶽神社の創建は神功皇后の時代の約1600年前、ご祀神の「神功皇后」が三韓征伐時にこの地に滞在し宮地岳に祭壇を設け戦勝を祈願したのが始まりとされます。全国各地に鎮座する宮地嶽神社の総本社であり、光の道ばかりでなく神門の荘厳さや拝殿にある直径2.5m、長さ13.5m、重量5tの日本一大きいとされる「大注連縄」等々、実にいい神社です。
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宗像大社…(2)

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宗像大社のご祀神は田心姫神・湍津姫神・杵島姫神の宗像三女神で稲荷神の宇迦之御魂とは異母姉妹にあたるのですが、この辺りの神様関係はややこしいので割愛します。宗像三女神は天照大御神より【大陸との窓口である宗像の地に降りてその地を守りなさい】との神勅を受けて沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮座し、宗像大社はこの3社の総称です。宗像三女神は別名を「道主貴/みちぬしのむち」といい、別名に「貴」の字を有する神は伊勢の天照大御神、出雲の大国主命と宗像三女神だけです。つまりはこの国で”最も貴い神様”ということです。
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Ptは「市杵島姫神/いちきしまひめ」を祀る本殿(第一宮)です。Pt↑)の2社は第一宮の裏手に鎮座する「田心姫神/たごりひめ」を祀る沖津宮の分社の第二宮と「田心姫神/たぎつひめ」を祀る中津宮の分社の第三宮です。この第二と第三宮は昭和48年の伊勢神宮の式年遷宮の際に下賜された別宮を移築したもので、伊勢神宮との関係の深さが伺えます。大社宝物殿には国宝級の品々が多数展示されているなど、ともかく神社としての”別格感”に満ちています。
・本殿の後方から見ています、大変美しい造りです。・それにしても摂社・末社の多いこと。・神門に扉には菊花紋章が付けられています。
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宗像大社…(1)

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神社の呼称を「社号」と称し、神宮・大社・神社などがあります。元々は明確な基準はなかったようですが明治年代に神社を国家が管理するようになると社号についての公認が必要となっていました。第2次大戦以降は神社は国の管理を離れ社号についても自由裁量となっています。「大社」の呼称については明治以前は出雲大社(いずもおおやしろ)と熊野大社の2社のみで、明治以降昭和20年までは出雲大社のみでした。現在は同じ名前を有する神社の総社(支店に対して本社のようなモノ)を「大社」と称するようです。現在「大社」は全国で24社しかありません。
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福岡県宗像市の「宗像大社」は24大社の1社で、全国に7000以上ある宗像神社、厳島神社、宗像三女神を祀る神社の総本社となります。さらには沖ノ島の神津宮(田心姫神)・筑前大島の中津宮(湍津姫神)宗像の辺津宮(市杵島姫神)の3社の総称でもあります。辺津宮から中津宮までが11㎞。沖ノ島の神津宮はさらに約50㎞先という壮大なスケールに神社なのです。とくに神津宮の沖ノ島は島自体が田心姫神のご神体で「海の正倉院」と呼ばれる文化財の宝庫です。2017年には【神宿る島、宗像・沖の島と関連遺産群】としてユネスコ世界遺産に登録されています。インチキ臭い萩の街や悲惨な状況に陥った岩見銀山のようにはならないで欲しいものです。
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やっと九州・小倉

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予想通りと云おうか関門トンネルを抜けて九州へ入る道が高速道路の通行規制とやらでの渋滞(!)それでも門司から小倉方面はまだましで、小倉方面からは昨日の悪夢が蘇るような大渋滞でした。すでにこの時点で予定の日程は不可能なので、何処を次回にするかの検討に入ることとします。予定では夕刻に小倉城へ行ける予定だったのですが、すでに夕闇が迫っています。九州の都市は北海道や東北の街と異なりそこそこ夜が遅いので気分的にも楽です。しかしまぁ小倉駅の変貌には唖然としてしまいました。祇園祭も近いようであちこちから「小倉祇園太鼓」の練習の音が聞こえます。小倉=祇園太鼓とくれば世代的に勝慎太郎の主演の映画「無法松の一生」が思い浮かびます。寅さん以上に大迷惑な御仁の話です。
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角島(つのしま)大橋

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萩から下関へ向かう道すがら、寄り道してほんの小一時間で「角島大橋」を往復してきました。平成12年(2000)に完成したこの橋により下関と角島が結ばれたこととなります。全長は1780m、最高速度は40㎞制限で強風時は通行止めになるようですが、2000年の完成当時は日本最長の通行無料の架橋だったようで、この景色ですから自動車関連のTVCMのロケ地として数社で採用されています。そういえば先日は「出川哲郎充電バイクの旅」にも登場していました。角島がある西長門は宇部空港や岩見空港からも遠く関東からの観光客で賑わうのは先の話でしょう。Pt↑)は順光で島側から下関方面を、Pt↓)は下関側から大逆光でとっています。下関側の方が絵になるのですがやや残念です。
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急ぎ萩の街を

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土地勘に乏しいので広島を出て萩までかなりの遠回りをしてきたようです。この先小倉まで予測がつかないので萩の街は後日再訪問とすることにしました。萩は思いのほか広い城下町で、城下町の町割りがこれだけの規模で残っているのは全国的にも珍しいようです。城を中心として武家階級が住む地区と下層身分の住む街とは明確に分かれています。藩校の明倫館や松下村塾には身分の隔てなく受け入れられたとのお語ですがそんな訳あり得ません。身分制度をそんなモンではないはずです(!)。武家街には高杉晋作生誕地や木戸孝允の家が残っています。武家身分(木戸家は医者)とはいえ田舎大名の家来ですからさほど広い家屋ではありません。明治天皇を悪しく利用した木戸孝允は山県有朋や井上馨たちの汚職事件のもみ消し騒動のストレスから酒に溺れ満43歳で死亡しています。
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今年は明治一新(維新)150周年だそうですが、あの日本の歴史でもまれな大殺戮戦「会津戦争」150年でもあります。敵対する相手の徳川幕府は崩壊し前将軍の徳川慶喜は謹慎中、理由なき理由をもって会津藩に喧嘩を仕掛けるのですが、戦争に殺戮や略奪は付き物とはいえ、会津の戦争で日本人がここまで残虐になれるのかとの仕打ちをしたのが、吉田松陰や高杉晋作の流れの長州の下級武士たちです。会津戦争の責任者や指揮官が誰なのかよく判りませんが、武士道的な規律すらない長州の血に飢えた狂犬たちの暴走は抑えられなかったようです。「明治一新150周年」、たった150年(!)。水に流して忘れ去るにはあまりに短い年月です。Pt↓)の円政寺は貧農出身の伊藤俊輔が幼少時代に預けられた寺で高杉晋作の生家も近いことから「両公幼年勉学之所」とありました。そうなんですかねぇ?
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萩城址・指月公園

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関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は広島からこの地へ移され、居城である萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元により指月山の麓に造られたことから「指月城」とも呼ばれたいました。三方を海に囲まれた地形に五層の天守閣、本丸、二の丸、三の丸を含む平山城でしたが明治7年(1874)に建造物が解体され、今は石垣と堀の構造が部分的に残っています。隣接する重要文化財の「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」の城郭の復元模型によると、さすが毛利の居城であったことが偲ばれます。城址は2006年には日本100名城の№75に選定され、萩では2015年に物議を起こしたユネスコの世界遺産に「明治日本の産業革命遺産・製鐵・製鋼・造船・石炭産業」として登録されましたが「毛利の城」は含まれないようです。ユネスコの世界遺産登録はだんだんと怪しいモノとなってきたようでこの先はどうなることやらです(苦笑)。Pt↓)は重要文化財・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と城址内の毛利輝元公の像です。天守跡からの堀の眺めはいい感じです。
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”萩”ならぬ”詐欺”か?

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Pt↑)は左から高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞の3人、テロリスト2人とその師匠です。高杉や松陰はともかく久坂玄瑞は日本の歴史上で唯一といってもよい天皇の御所に向かって大砲を打ち込んだ大馬鹿野郎(蛤御門の変)であり、靖国神社に”国の為に命を落とした者”として祀られているインチキな御仁です。因みに皇族が門跡を務める上野・寛永寺を砲撃したもう一人の馬鹿者は長州の大村益次郎です。こちらは事情により広島から津和野をパスして萩市内に入った途端の「道の駅・萩往還」です。どうもこの町では”吉田松陰”ではなく”松陰先生”と呼ばねばならないようです。
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道の駅には文久2年(1863)の品川御殿山の英国大使館焼き討ち事件の実行犯、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、品川弥次郎らの銅像が立ち並び、テロリストの師匠である『松陰記念館』が併設されています。資料展示物など充実した内容なのですが、個人的には大いなる違和感を感じました。松陰思想は【天皇統治のもと国力を充実してアジアへの対外的侵略を図る】が骨子で尊王攘夷とそう考えても違っています。時の老中暗殺まで目論んだ思想犯にすぎず神格化されるタマとは思えません。結局、松陰大先生は高杉晋作のパシリだった伊藤博文や山県有朋(特に)が後年自分たちの来歴由来をでっち上げるために大げさに作り上げた人物にすぎないようです。
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Pt↑)は当時の松下村塾を再現したようですが、でっち上げの臭いに満ち満ちています。松下村塾は吉田松陰の叔父さんのもので塾生も身分の隔てがなかったと云われていますが、武士階級の高杉晋作と下級足軽の倅の伊藤や山県が同室できるも訳なく、だいたい身なりが良すぎます。師の面前で腰に刀って誰なんでしょうこの無礼者は(笑)。まぁ突っ込みどころ満載ですが長州史観のご都合に溢れる資料館です。

広島の街・7月の朝

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2018.7/7、広島・愛媛・岡山が大変な豪雨にみまわれました。その2日後からの研修予定は決行することとなったのですが、TVなどの映像で見るのとは大違いで広島・山口や九州方面までもが大変なこととなっていました。7/9・13:00に広島空港到着、レンタカーで広島市内へ、高速道路はすでに通行止めで空港~広島市内への道路はかろうじて1本が通行可能!通常ならリムジンバスで1時間ほどの距離がいまだかつて経験したことのないような大大渋滞となりました。広島空港13:30発で広島駅前のホテルへチェック・インできたのが夜中の1:30(!)と12時間かかりました。この間は飲まず食わずの休憩なしと初日から予定は初日からグチャグチャです(苦笑)。Pt↑)は7/10の朝07:00、穏やかな朝です。Pt↓)はJR広島駅の改札口の様子、いつもの7月の朝が始まろうとしています。
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高麗(こま)神社…(2)

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668年に唐と新羅により滅ばされた高句麗からの多くの人々が日本に渡り、716年には1800人の高句麗人がこの地へ入植して開拓にあたりました。大和朝廷はこの地を「高麗」と呼び高句麗王族の「高麗王若光」を首長としたのに由来するようです。神社は1300年の社歴を有し「高麗王若光」・「猿田彦命」・「竹内宿祢命」の3柱が祀られています。Pt↑)の社殿は昭和初期の造営で、明治神宮、築地本願寺などの設計者「伊藤忠太」の作です。巨匠の作品にしては極々”まとも”です。奥の本殿は屋根しか見えないのですが一間社流造で安土・桃山時代の建立で埼玉県指定文化財です。
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この神社の社額は場所によって異なっています。「一の鳥居」の社額には「大宮大明神」とあり、地域の重要な神社を「大宮」とよんだことによるようです。Pt↑)の神門の社額は「高」と「麗」の字の間に小さく「句」の文字があります。この神社が「高句麗神社」と称したことはなく神社の由来を表現しているとされます。さらには「二の鳥居」と「社殿」の扁額は「高麗神社」とあるのですが、扁額が数種類あるのはあまり聞いたことがありません。
Pt↓)1)背の高い壁で囲まれているため本殿の様子は判りません。2)「ジャンスン」とかいう韓国の民間信仰で村落の魔よけの守護神で「天下大将軍・地下メ将軍」と書かれます。これ韓国らしい様子です。3)神社裏手にある慶長年間(1600年頃)に建てられた高麗氏の住居です。昭和45年に国の重要文化財指定をうけていますが、江戸時代の郊外の農家とさして変わらないように感じます。
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高麗(こま)神社…(1)

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埼玉県日高市にある『高麗(こま)神社』です。社歴は古い神社なのですが、日高市は9月ごろからの「500万本の曼殊沙華・ひがんばな」の群生地・巾着田の方が有名かも知れません。JR川越線を川越駅で乗り継いで八高線・高麗川駅まで行きます。ここから徒歩で20分・TAXIで¥730(平日の日中で構内タクシーは2台しかいません)ほどなのですが、路線バスもなく道すがらにコンビニが一軒あるのみです。食事場所も神社付近にはなく、今回は駅近くのスーパーマルヒロのフードコート(カレーと中華と喫茶店の3軒しかない)と相成りました。高麗神社の「高麗」とは668年に滅亡した朝鮮半島の「高句麗」のことで、滅びた高句麗から多くの人々がこの地に渡り土着したことによります。地形的には関東平野と秩父山系の際にあたり、緩やかに流れる高麗川も集落を造るには絶好の地だったのかも知れません。
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鷲宮(わしのみや)神社…(2) 

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良く判りませんが(苦笑)2004年から始まった4コマ漫画の「らき☆すた」という作品が2007年のアニメ版が大ヒットしたことから作品に登場する「鷹宮神社」こと「鷲宮神社」がアニメファンの聖地として異常に盛り上がり、自治体の『アニメで町おこし』作戦の先駆けともなったのは何年前でしょう? 嵐の時代の名残りといったら語弊があるのでしょうが、奉納された絵馬にはそれらしきモノ達が残っています。降って沸いたような人気状態、経済効果もウナギ登りと良いことばかり続くと思うと神社に敬意を払えないようなガキの溜り場となってしまう。そんな日々が見えてしまうようです。コスプレヤーとかいう妙な連中と地元民でトラブルが生じたのはこの神社だったような・。
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実際のところ、東武線鷲宮駅前には雑貨屋とコンビニ。道すがらには閉店した飲み屋数件と営業中の蕎麦屋がある程度です。Pt↑)あたり(大正年間まではここが一の鳥居)には茶店、土産屋の類はありません。ここがアニメオタクで賑わったとは想像すらできません。そういえば東京の神田明神にも妙なアニメキャラクターが見られます。平将門公や恵比寿・大黒の神々も苦笑している事でしょう。Pt↓)は鷲宮神社から近いといえば近い(JR東鷲宮駅徒歩5分)の『百観音温泉』です。埼玉県内では有名な温泉で温泉は自噴しており温度が46°と熱湯コマーシャル並みに熱いお湯です。入館料が¥800で休憩室や食事処もありました。神社も温泉もお気に入りの場所となりそうです。
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鷲宮(わしのみや)神社…(1)  

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埼玉県久喜市の鷲宮(わしのみや)神社です。東武伊勢崎線鷲宮駅は駅舎が新しい割にはかなりの寂しい駅です。ここから神社までは徒歩10分程度の距離です。社伝によると「出雲族の草創に関わる関東最古の大社」とされ、本殿のご祀神は天穂日命(アメノホヒノミコト)、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、大己貴命(オホムナジのミコト)の3柱と合祀祭神9柱の神々が祀られています。埼玉県には出雲系の神社が多く馴染みのない神様も多々いらっしゃいます。神社内には縄文時代の遺跡が発掘されており縄文集落があったようです。
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なかなかの一の鳥居(実は二の鳥居)から参道が続きます。Pt↑)で左にあるのが拝殿です。拝殿裏には天穂日命・武夷鳥命・合祀9柱を祀る「鷲宮神社本殿」と大己貴命を祀る「神崎神社本殿」が並んで鎮座しています。江戸時代の境内図では拝殿が社殿に正対していたようなので、出雲大社と同様「拝殿から祀神の横顔」を拝む形式だったようです。関東には鹿島神宮などの古社があり「関東最古の大社」には頷けませんが、東京都内での旧准勅祭社の「東京10社」と同じくMid埼玉での准勅祭社ですからそれなりの大社なのです。
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旧寛永寺五重の搭

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上野動物園の敷地内の重要文化財の『旧寛永寺五重の搭』です。残念ながら動物園内なので見るには動物園の入場料を支払わなければなりません。もともとは上野東照宮に付随して寛永8年(1631)に造られていますが火災により焼失、寛永16年(1639)に再建されています。高さは36.4mあり明治年間の神仏分離令により東照宮から寛永寺に管理が移り、1911年に重要文化財に指定され現在は東京都の管理となっています。法隆寺の五重塔とは異なり1階の屋根から最上階の屋根の面積が同じ(法隆寺は上層階に従って屋根の面積が縮小)となっています。見ようによってはバランス悪く感じられます。これ以上搭にはは近寄れないので残念ですが龍の彫刻や極彩色の十二支は良く見えません。
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平塚神社と三毛猫

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なんと関東地方は6月末に”梅雨あけ”となり、北区の平塚神社で見かけた猫もこれから過酷な日々が続いていくことでしょう。もともと猫は体温が高く汗をかく機能が足の裏にしか備わってないので風の通りが良い涼しい場所が好きです。Pt↑)の御仁も平塚神社の摂社の社で寝ていました。カメラ目線になってくれないのは野良さんだからなのでしょうか?現実には野良の子猫の生存率は5匹に1匹くらいで幸運にも生き延びたとしても寿命はせいぜい4年(!)そんなもんなんです・・。
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JR京浜東北線の大船~大宮間で最も知名度の低い駅となると『上中里駅』でしょう(?)。駅から本郷通りへ向かう右側、切り通し上に平塚神社(旧平塚明神社)があります。創立は平安後期で、八幡太郎源義家が奥州征伐の途中にこの地の領主に鎧一領を下賜され、のちに領主が自分の城の鎮守として社殿を建て義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀ったとあります。ご祀神は『八幡太郎源義家命・賀茂次郎源義命・新羅三郎源義光命・豊島近義命』とあり、失礼ながらあまり馴染みがありません。平塚神社の本郷通りに面して有名な団子屋の「平塚亭・つるおか」があります。内田康夫氏の小説「名探偵★浅見光彦」に登場する団子屋です。昼過ぎのには”完売”となかなかの人気店です。小説の主人公も良く買って霜降銀座の自宅へ帰るのですが結構距離があります。
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