旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年08月

隅田川・両国橋西岸

180824_01
旧武蔵の国と下総国を結ぶ『両国橋』です。現在の橋は昭和7年(1932)の完成で、橋長164.5m、橋幅24.0mあります。初代と橋は寛文元年(1661)に造られ、貞享3年(1686)に国の境が変更されるまでは下総国との国境とされ、武蔵国と下総の国を結ぶため『両国橋』と呼ばれました。江戸時代から数回の火災と再建を繰り返し、関東大震災では崩壊した両国橋の一部を「南高橋」として再利用していますが、アーチの形状が違っているため「南高橋」にはその面影はありません。平成20年(2008)には、上流の言問橋とともに東京都の「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。
180824_02
徳川幕府は防衛上から隅田川の橋は千住大橋と両国橋以外の架橋は認めていなかったことにより、1657年の明暦の大火では逃げ場を失った多くの死傷者をだしてしまいました。この犠牲者を弔ったのが「両国・回向院」で、その資金集め(勧進)のために両国で大相撲が開催されたと云われています。現代に残る「広小路」の地名は火災の延焼予防のため火ひよけ地として空地が設けられました。両国橋の中央区側には当時「両国広小路」が設けられ、即時の取壊しが可能な芝居小屋なども造られ明治時代初期まで歓楽街として賑わっていました。Pt↓)が広小路あたりでしょうか? 両国橋上のフェンスには両国の花火と相撲の軍配が施されています。
180824_03180824_04180824_05

微妙な名称・新大橋

180823_01
『新大橋』は旧橋のトラス橋が老朽化したため昭和51年(1976) に橋長170.0m、幅24m。2径間連続鋼斜張橋という様式で架け替えられています。橋の中央に2本の大きな主塔を配した2スパンの斜張橋で歩道を広く取るなど近代的な 『新大橋』となっています。Pt↑)主塔には「歌川広重の名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」と”旧新大橋”のレリーフがはめ込まれています。この浮世絵を見たゴッホは腰を抜かして以後は広重のパクリに走り、ロートレックやモネらはショックのため布団を被って寝てしまったなんて話はありません。
180823_02
初代の新大橋は、元禄 6年(1693)幕府によって開発の進んだ深川方面と日本橋とを結ぶ橋として架設されています。これ以前は隅田川には千住大橋 と両国橋だけで、交通は「渡し船」が利用されていました。不便さを憂えた5代将軍 綱吉の母 桂昌院 が綱吉に橋を架けることを勧めたとされています。新大橋 の名称は 『両国橋』 の下流に架設されたことから『千住大橋』・『両国橋』 に次いでの橋ということで「新」といっても「新」でない『新大橋』です。
180823_03180823_04180823_05

よく判らない松尾芭蕉

180822_07
清洲橋と新大橋の間、江東区深川に”松尾芭蕉が延宝8年(1689)頃に江戸日本橋より移り住んだとされる一角があります。芭蕉はこの地を拠点として創作活動に励んだとされ、『江東区芭蕉記念館』や江東区側のテラスには句碑が紹介されています。清澄橋を望む史跡庭園には芭蕉像が置かれ「松尾芭蕉と清洲橋」というイマイチな景観になっています。Pt↓)は隅田川支流の小名木川に架かる『萬年橋』です。中々の美形でTVドラマの撮影にも使われているようです。この橋からの清洲橋の景観が「ケルンの眺め」として知られています。
180822_13
松尾芭蕉はこの付近の自宅から(スポンサーの家からの説もあり)元禄2年(1689年)に岐阜までの2400㌔の旅を開始しています。その自宅にしても元禄年間以降は町の姿も変わり芭蕉の住居も不明となったようですが、史跡庭園付近から芭蕉が愛好した(?)「蛙像」が出土、この場所と芭蕉の旧宅と想定し芭蕉稲荷を祀ったとあります。なんとも根拠に乏しいめちゃくちゃな話です。その「奥の細道」の旅立ちにしても、初日は隅田川を舟で千住大橋付近に上陸、”歩きだし地”として千住青果市場に芭蕉出発の地の銅像(最近は南千住駅前まで銅像を造って参戦)があります。つまり【家から出発】と【歩出しの出発】が数か所ずつあることになります。
180822_12180822_11180822_10

清洲橋・男女7人夏物語

180822_05
隅田川の数ある橋の内でも圧倒的な”美人”なのは『清洲橋』でしょう。清洲橋は平成19年6月に永代橋・勝鬨橋と3橋同時に国の重要文化財に指定されています。清州橋は、橋長186.2m、幅22.0m、鋼自碇吊橋という工法で昭和3年に架橋されています。当時の内務省復興局技術陣が【力学的合理性を追求して近代的橋梁美を実現し昭和初期を代表する吊り橋として重要】称しているのですが、実はドイツ・ケルン市の大吊り橋の”まねっこ”です。本家が戦争で失われたので、これはこれで良しとしましょう。
180822_04
いまから30年ほど前、この橋はTVドラマで一躍有名となりました。隅田川(中央区側)沿いのマンションに主人公(男性)の住んでいて、対岸の萬年橋近くのアパートにヒロイン住んでいるという設定で、この橋を挟んで物語が進行していきました。その後、私生活でもお二人は結婚、そして離婚。まさに『男女7人夏物語』でした。~「お前が橋渡る姿、好きやったなぁ」~東京メトロ半蔵門線も大江戸線もなかった時代だからこそのセリフです。この部分を「アァ」と納得できる方は、それなりの年配者なのですが(苦笑)。
180822_01180822_02180822_03

隅田川大橋と佐賀稲荷神社

180821_01
Pt↑)は『隅田川大橋』です。東京都管理のこの橋は、橋長391.7m、幅27.5m、3径間連続鋼床版箱桁橋という難しい工法により昭和54年(1979)の完成しています。隅田川橋唯一の2層式構造で上段は首都高速で、下段が『隅田川大橋』です。川面の下には東京メトロの半蔵門線が走っており、実質3層構造と云えます。橋梁特有の優美さに欠けた機能性重視の設計と言われているようですが、一つ下流には『永代橋』が上流には『清洲橋』が優美な姿を見せています。以前はこの美人さんが隣どうしだったのですが、とんだブサイク野郎が邪魔にはいったものです。
隅田川大橋の江東区側、佐賀2丁目に『佐賀稲荷神社』があります。江戸初期には近辺は干潟を埋立てた土地で、海上運送の起点として賑わいました。寛永年間に造られた稲荷社は、明治以降に米問屋の集まる街と姿を変えても商売繁盛の稲荷として崇敬され続けてきたようです。
180821_02180821_03180821_04

墨田区・牛島神社

180816_01
浅草から隅田川の東岸、浅草墨田公園(水戸徳川家下屋敷跡)にある『牛島神社』です。神社縁起によると慈覚大師が貞観2年(860)に勧請した「須佐之男命」、後に「天之穂日命」が、次いでこの地所縁の清和天皇第七皇子「貞辰親王命」の3柱が祀られています。Pt↑)は牛島神社の大きな特徴でもある本殿前の鳥居です。これは三輪鳥居(みわとりい)と呼ばれる鳥居が3ッ組合わされた珍しい形状の鳥居で神域には他にも鳥居がありますが本殿前だけが三輪鳥居となっています。この形式の鳥居は埼玉県秩父の三峰神社と奈良県の大神(おおみわ)神社(神域の三輪山にあり撮影不可でした)で見た記憶があるだけです。
180816_02
葛飾北斎の絵では江戸期の牛島神社は三囲神社の隣にあったようです。大正12年(1923)の関東大震災では本所地区は壊滅的な被害を被り、その復興事業の一環として「墨田公園」へ遷座、昭和7年(1932)に総檜権現造りの社殿が完成しています。神社は東京大空襲の被害も免れ、現在は東京スカイツリーの氏神様となっています。
180816_06
浦和の調神社の神使は「うさぎ」でしたが、牛島神社の神使は「うし」です。この地は飛鳥時代は牛の牧場だったとの伝承やご祀神の「須佐之男命」が仏教集合では「牛頭天王」であったり、他にも牛関連の伝承があることから神使が「うし」なのでしょう。さらには「天満宮」で知られる病気快癒の「撫で牛」まで置かれています。他にも「牛の慰霊碑」などの「牛」もあり、牛だらけといった感じです。それにしてもこの神使は目つきがよろしくありません。
180816_03180816_04180816_05

永代橋と紀文稲荷神社

180815_01
『永代橋』は橋長184.7m、幅22.0m、大正15年(1926)に完成しています。【放物線状の大規模ソリッドアーチを中心とする荘重な造形により近代的橋梁美を実現】なんだそうです(苦笑)。「東京復興事業の華」と称された清州橋に対し「帝都東京の門」と言われた永代橋は、ドイツ・ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルとしています。しかしながら橋梁支間100mを超え橋の構造は、当時の大規模構造物建設の水準を超えるす事例として評価されていました。実際のところ架橋工事にはかなりの高度な工業水準が必要とされるそうです。
180815_02
初代の『永代橋』の架橋は元禄11年(1698年)。5代将軍徳川綱吉の50歳を祝して現在のよりも100m程上流に隅田川で4番目として架橋されました。元禄15年の赤穂浪士の吉良邸討ち入りでは浪士はこの橋を渡って泉岳寺に向かっています。享保4年以降、財政の困窮により永代橋の廃止が決定したのですが、運営の民間委託ということで橋の維持の諸経費を町方が負担することを条件に存続を許されています。文化4年(1807)には富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆の重で橋が崩落、死者・行方不明者は実に1400人を超える史上最悪の落橋事故をおこしています。永代橋の江東区側に橋から近いとは言い難いですが、江戸元禄時代の豪商・紀国屋文左衛門に所縁の「紀文稲荷神社」があります。実際は紀文の屋敷跡とは違う場所のようですが、まぁ良しということとしましょう…。
180815_03180815_04180815_05

中央大橋と霊岸島

180814_01
隅田川の数ある橋にも”平成生まれ”が登場してきました。東京都管理の『中央大橋』は橋長210.7m、幅24.0m、平成6年の完成です。平成18年2月には『千住汐入大橋』が完成して最新の座は明け渡しましたが、機能性とコスト重視の昭和年間の橋とは異なり優美なデザインになっています。主塔は云われてみれば「兜」をイメージだそうで、隅田川とセーヌ川が「姉妹川」の提携を結んだ記念としてパリ市からブロンズの女神像が寄進されています。それにしても都が管轄する橋としては、バブルの絶頂期とのこともあり分不相応なほどの贅沢な造りです。この後年東京都はゲート・ブリッジの建設に於いて予算がなくなり、国に泣きつくという失態をやらかすことになります(笑)。
180814_03
Pt↑)は石川島側からの眺めです。右に中央大橋の主塔、左に亀島水門、中央が霊岸島あたりです。この地に明治年化に造られたのが「霊岸島水位観測所」です。日本の高さの基準は国会議事堂前の公園に設置された「日本水準原点」ですが、使用される数値は霊岸島で観測された海面高の平均値(現在は「油壷検潮所」の観測値を使用)から決められていました。また江戸慶長年間に幕府により「江戸湊」が作られ江戸水運の中心地として、昭和11年までは伊豆七島など諸国航路の出発地として賑わっていいました。
Pt↓)は友好の印としてパリ市長から贈られた「メッセンジャー」と称する彫像です。彫像は川側向きなのでこの位置からだとなんだかわかりません。もう一つの橋が中央区佃と江東区越中島を結ぶ橋が長さ149m、幅22mの「相生橋」です。
180814_02180814_04180814_05

佃大橋と佃

180813_01
勝鬨橋(築地大橋)に次いでの『佃大橋』です。長さ476.3m、幅25.2m、東京都の管理で昭和39年(1964)に架橋されています。佃大橋は隅田川最後の渡船場として320余年続いた「佃の渡し」跡に架けられた橋で、東京オリンピックの開催を控えて増大する交通量は永代橋や勝鬨橋で対応が困難となった為、戦後初めて隅田川に架橋されています。隅田川橋梁群でもデザイン的に特徴に乏しいと評価ですが、東京オリンピックに間に合わせるという命題をうけ、当時の技術の粋を凝らして完成させた高度成長期の日本を象徴する橋なのです。
180813_02
江戸情緒を残すレトロな町として人気の『佃島』です。佃は天正18年(1590)徳川家康が摂津国佃村から漁民33人を呼びよせ鉄砲州向干潟を埋立て「佃島」に住まわせたのが始まります。住吉神社は正保3年(1646年)住吉大社の分社として建立されています。池波正太郎の「鬼平犯科帳」 に登場する石川島人足寄場もこの近くです。Ptにあるマンション群は”リバーシティ21”で、佃の風景とのバランスは微妙です。Pt↓)鳥居の先に住吉神社があります。漁師達が舟から参拝できるよう墨田川に面しています。作り直したのか塗り直しか鮮やかな朱色です。
180813_03180813_04180813_05

調(つきのみや)神社

180810_01
「調神社=つき神社」なのですが、古くからの浦和の人は「つきのみや」と呼びます。「調」の字を「つき」とは読み難いですが神社のことなので良しとしましょう。JR浦和駅から徒歩10分程の欅の巨木に囲まれた神社は浦和の総鎮守です。平安時代編集の「延喜式神明帳」のも記載される古社で、天照大御神(アマテラス大御神)・豊宇気姫命(トヨウケ姫)・素戔嗚尊(スサノヲ神は武蔵一宮・大宮氷川神社の祀神でもあります)の伊勢の神々が祀られています。昔から親しんだ神社ですが他の神社ではあまり例のない面白い(不可思議な)事が多々あります。
180810_02
1)12年ごとに注目されるのですが、神域入口の神使像が一対の「うさぎ」になっています。・【想像上の犬に似た寺社を守る守護獣が狛犬です。他神使を狛なんたらとは言いません】・ともかくの古社で「調/つき」と「月」の音が同じことから「月」に因んで神使が「うさぎ」となっているようです。神域の手水舎や神池にはうさぎ像があり社殿にもうさぎの彫刻が施されています。2)Pt↑)神域との結界の鳥居がなく注連縄(本殿前も鳥居はなく注連縄)が張られています。伝承によると神社名は「租庸調」の「調」に由来し、伊勢神宮へ献上の貢物を保管する倉庫群の中に造られ、貢物の運搬の邪魔にならないように鳥居がないようです。この形式は奈良・大神神社にもありました。
180810_03
Pt↑)は神域内にある稲荷社です。豊宇気姫命(トヨウケ姫)が祀られているので”きつね””がいない稲荷社です。撮影困難で残念至極なのですが、覆堂の中にある社殿は旧調神社の本殿で江戸時代中期の享保年間(1733年)頃に建立され安政年間までは調神社本殿として使用されていました。修復が完了して社殿に施された彫刻やらが極彩色に蘇っていました。痛みが激しかった稲荷社の復活はうれしい限りです。調神社は浦和でも屈指の欅の巨木に囲まれた森のなかに鎮座しています。地形的には中氷川神社や氷川女體体と同様に舌状大地の突端にあり、海を見下ろすという時代もあったのでしょう。
180810_04180810_06180810_07

勝鬨橋と築地大橋

180801_04
環状2号線隅田川橋梁(銅3径間連続中路式アーチ橋、長さ:245m、幅約32~48m)が完成して『築地大橋』と名称が決まったは平成26年9月のことでした。橋の完成により『勝鬨橋』から『築地大橋』へ隅田川最下流の橋の座がめでたく譲られたのでしたが、それから数年がすぎてもこの橋を渡ることができないとは思いもよりませんでした(笑)。Pt↑)の隅田川右岸の施設が何かと話題の『築地市場』です。橋の左岸の約2㎞先に造られたいる豊洲市場への道路が築地の建物が現存しているため『築地大橋』を開通させられないというのが現在の状況なのです。
180801_01
現時点での隅田川最下流の橋『勝鬨橋』です。管轄は東京都。長さ:246m、幅;22m、シカゴ型双葉跳開橋で1940年(昭和15年)の完成、「清州橋」や「永代橋」そして「勝鬨橋」は平成19年に国の重要文化財に指定されています。勝鬨橋は1940年に「皇紀2600年」に月島地区で開催予定の日本万国博覧会のための道路として計画され、日本の技術力を誇示できるよう日本人により設計施工されています。結果的に博覧会は軍部の反対により中止でしたが、橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの橋でした。1947年~1968年までは橋上を都電が通行、月島地区への足となっていました。物流の変化や交通量の増大により橋は役目を終え「東洋一の可動橋」も1970年11月29日を最後に開閉することはなくなっています。
180801_06180801_03180801_05

笠間稲荷神社…(2)

180725_07
実際の話、稲荷神社の鳥居=朱色との決まりはありません。伏見稲荷大社のWebページのQ&Aには・【朱色は、魔力に対抗する色ともされていて、古代の宮殿や神社仏閣に多く用いられています。当社に限って云えば稲荷大神様のお力の豊穣を表す色と説明されています。ただ、お稲荷さんだけが朱塗りではなく、朱塗りの神社は他にも多くあります。また朱の原材料は水銀=丹です。これは昔から木材の防腐剤として使われてきました。】・解ったような解らないようなです(苦笑)。因みに眷属のきつねはそこらのきつねではなく・【眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます】・目に見えないものを表現するのに白(白狐)としている訳です。
180725_08
今回は電車利用で常磐線・友部駅で小山方面の水戸線に乗り換えて2駅なのですが、電車上下線とも1時間に1本なので下調べが必要です。笠間駅からはバス10分(¥170)ですが、バスきません。歩くか(約20分)かTaxi利用となります。笠間焼関連の美術館も見るなら北関東自動車道で行く方が無難です。Pt↓)の神社に属するすぐ裏手の「笠間稲荷美術館」には小規模ながら良いものがありました。この日は、鬱陶しいことに2019.年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の撮影をやっていました。参道の右からの「國際オリムピック豫選會」の横断幕は撮影用です。お陰で仲見世店舗は開店休業で「映り込むからどいてく下さい」とやらで、こっちこそお前らが写らんようにで大変でした。主演の中村勘九郎と阿部サダヲは良いとしても、脚本が宮藤官九郎とは(!)。もう話は見えたようです(苦笑)。
180725_11180725_10180725_09

笠間稲荷神社…(1)

180725_01
【かなりの「日本三大」は2つまでに有名な物件を例示し、宣伝文句のため3つ目が勝手に名乗っているだけのケースが非常に多く、例示される1つ目や2つ目が三大◯◯と名乗るケースは至って少ない】・・これホントに大笑いしました。因みに笠間稲荷神社は伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社とで三大稲荷社としています(苦笑)。日本に数万社あるとされる稲荷にも「三大稲荷」や「五大稲荷」があり、京都の伏見稲荷大社は異論はないとしても、祀神が仏教系の豊川稲荷はどうなんだ、との疑問も出てきます。つい先日、佐賀・祐徳稲荷に行ったばかりでなんですが、個人的感想としては「三大稲荷社」にノミネートには無理があるように思えます。
180725_02
社伝による創建は白雉2年(661年)とされ、『常陸国風土記』には、7世紀ごろには当地に「宇迦之御魂神」の信仰あったとされるかなりの古社です。江戸時代には歴代の笠間藩主が厚く崇敬し江戸の藩邸には別院まで造られています。別称として胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)紋三郎稲荷など呼称もあるそうですが、数社の稲荷社が集まって笠間稲荷を称しているのでしょうか?歴史のある稲荷社ならではの門前町や仲見世もあり、茨城県内ではかなりの参拝者を集めます。それでも社殿の雰囲気には何故か物足りなさを感じてしまいました。
180725_03180725_04180725_05
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ