旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年09月

下関・高い所から

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門司にも「門司港レトロハイマート」なる黒川紀章による31階建ての高層マンション&展望室があるのですが、下関にも負けずに「海峡ゆめタワー」なるランドマーク・タワーがあります。海峡を挟んで御時様なシロモノが二つとは…。なんだかなぁです(苦笑)。とはいうものの143mの展望台からの眺めは大変結構です。Pt↑)瀬戸大橋・早鞆の瀬戸・壇ノ浦方面。海峡奥が瀬戸内海です。確かに狭い海峡です。
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小倉方面。海峡に浮かぶ小島が宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場所「巌流島」です。この決闘については吉川英治氏らの作品によるところが多く、実際の小次郎は遥かに年長だったとかの話があります。アントニオ猪木とマサ斎藤が決闘がおこなわれたには、1987年10月のことで2時間4分14秒、マサ斎藤の戦意喪失で猪木の勝利に終わりました。初代タイガーマスクの佐山さとる氏は下関出身らしく,いまでもこの街で興行を行うようです。
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JR下関駅方面です。駅近くは橋上の歩道が完備していてデパート等の商業施設が集中しているようです、Ptの左には関釜フェリーの客船ターミナルがあります。JR門司駅は2006年1月に放火により全焼しており現在の駅は2014年に建て替えられたものです。この海峡ゆめタワーは平成8年にオープンした施設で、お決まりのイベントホールやレストラン街が併設されていますが、訪れた時は観光客はおろか猫の子1匹いない状況で閑散としていました。「恋人の聖地」認定などありますが???です。正直な感想は”なんでこんなモノ造ったんだろう”です。おかげまで展望室からの眺望は独り占めでした。
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下関・赤間神宮… (3)

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赤間神宮 の3回目です。今回は隣も隣の下関と云えばのフグ料理の『割烹旅館春帆楼』です。元々は阿弥陀寺の方丈の場所なので赤間神宮の敷地内という感じです。伊藤博文により命名された『春帆楼』は「ふぐ料理公許1号店」で高級ふぐ料理店の代名詞です。春帆楼は明治28年(1895)4月、日本と清国との日清戦争での「日清講和条約」の締結の会場としても有名で、敷地内の重要文化財の日清講和記念館には当時の資料が展示されています。Pt↑)の胸像は日本側の内閣総理大臣の伊藤博文と外務大臣の陸奥宗光です。伊藤博文はタナぼたで天下を拾った後は出身が貧しい農家であることを揶揄されるのが嫌で殆ど長州には帰っていませんが、この時ばかりはの晴れ姿だったのでしょう。
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下関・赤間神宮… (2)

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小泉八雲が「臥遊奇談」を典拠とした作品集「怪談」にもある『耳なし芳一』の舞台はこの赤間神宮です。赤間神宮が阿弥陀寺だったころ、盲目の琵琶法師・芳一は夜な夜な現れる武士に請われて多くの貴人達の前で琵琶を所望され”壇ノ浦の戦い”のくだりではすすり泣く声が聞こえてきました。宴は数日間続き、不審に思った和尚が平家一門の墓所の前で琵琶を奏でる芳一を発見、怨霊避けに全身に般若心経を芳一の全身に書き込むも耳だけ書き忘れ、平家怨霊に耳だけを持っていかれてしまったという話ですが・・。考えてみれば平家の怨霊とされる者たちは、怨霊でもなんでもなく自分たちが滅びていくストーリーを聞きたかっただけで悪いことはしていません。戦には負け一門は崩壊状態、挙句に”怨霊”扱いとはあまりにも不憫です。
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下関・赤間神宮

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壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は壇ノ浦戦場では発見できなかったのですが、この地に建久2年(1191)勅命により承久元年(859)開かれた阿弥陀仏寺名内に御影堂が建立され、安徳天皇生母である建礼門院ゆかりの尼が菩提を弔ってきました。明治の神仏分離により阿弥陀寺は「天皇社」神社に改称、明治22年(1889)にこの地が天皇陵と認定され「赤間宮」に改称、昭和15年(1940)には官幣大社の「赤間神宮」へと昇格してきました。
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竜宮を模した「水天門」は、二位の尼による「今ぞ知る みもすの川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」にちなんで太平洋戦争で焼失した赤間神宮を再建する際に竜宮城を模した造営となったようです。名称の「水天門」は壇ノ浦の戦いを生きのびた伊勢局が安徳天皇・二位尼・建礼門院の菩提を弔うために建立した久留米の「水天宮」のよるようです。
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壇ノ浦・御裳川公園

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1日に4回も潮流の向きを変える関門海峡は、狭い所では約700m、潮流の速度は時速18㎞にもなります。瀬戸内海への入口で交通の要所でとなり、たびたび日本の歴史の舞台となります。寿永4年(1185)3月24日には平知盛を総大将とする平氏と源義経の源氏がこの「壇ノ浦」で合戦を繰り広げています。Pt↑)は「みもす(御裳)川公園」に建つ「壇ノ浦古戦場」の碑です。対岸の関門橋に下あたりが和布刈神社です。
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合戦は前半が平家有利で展開し最終的には源氏勢のの逆転勝利となります。平氏の敗戦を総大将・平知盛より知らされた二位尼は「今ぞ知る みもすの川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」の辞世のの句を残して幼い安徳天皇と建礼門院らとともに壇ノ浦に身を投げます。それがこの付近と云われています。
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公園の建つ像は源義経は「八艘飛び」、平知盛は「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残しての姿。歌舞伎の「義経千本桜」のクライマックスシーンです。知盛は碇を担いだとも鎧を二枚重ねで着用したともいわれていますが、水死体を源氏に見せたくなかったのでしょう。この戦いで平氏は所謂大将や将軍クラスのほとんどが戦死してしまい軍事的対抗勢力としての存在は消滅してしまいます。
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文久3年と4年に「馬関戦争」と呼ばれる攘夷思想に基づく武力衝突がこの海峡でありました。文久3年は長州藩が関門海峡を通過する外国船に対して無通告で砲撃。元治1年にはイギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊により長州藩の軍事施設が壊滅することとなります。山口県が諸外国に対して宣戦布告をしたということです。対岸が見えるほど狭い海峡なら気合さえあれば勝てると思ったのでしょうか(?)。
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国道9号線の山側には1958年に21年の年月をかけて1958年に完成の関門トンネル人道の入口があります。エレベーターで地下約50mまで降り約780mのトンネルを約15分で海底トンネル内にの山口県と福岡県の県境を行き来できることになります。自動車道の関門国道トンネルと関門橋は有料ですが関門トンネル人道は歩いて通行するには無料です。

長府・忌宮神社

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忌宮神社=いみのみやじんじゃと読みます。式内社・長門の国二ノ宮・旧国弊社・神社本庁別表神社とあり、仇やおろそかな神社ではありません。ご祀神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と伝説の方々が祀られています。仲哀天皇元年、仲哀天皇と神宮皇后の熊襲征伐のおり、この地に行宮豊浦宮を建て7年間滞在したとされます。また仲哀天皇に渡来人から蚕卵の献上があり蚕種渡来の地ともされます。九州筑紫で没した仲哀天皇を三韓征伐の帰路に神功皇后がこの地に祀り、後年、聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請、合祀しています。長府の滞在は4時間強でしたが、ごく普通の街に興味深い由緒を持つ神社が鎮座しているなど勉強不足が恥ずかしくなります。
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既視感(?) 長府毛利邸

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下関市長府惣社町の『長府毛利邸』です。この建物は長府毛利家14代長府藩最後の藩主・毛利元敏公の邸宅として明治36年(1903)に完成しています。明治天皇の行幸の折の宿舎ともなっていて「明治天皇御宿泊の間」として残されています。この「毛利家」ってのは支藩が多く勘違い思い違いをすることが多く気をつけねばなりません。毛利邸入口から母屋まで続く道はいかにも上級武家の住まいといった感じで萩城下で見られる下級武士のボロ住まい地区とは雲泥の差です(笑)。観光施設と解放されいるのですが、建物の配置や庭の眺めは千葉県松戸の徳川家の「戸定邸」と正面外観は埼玉県川越の「本丸御殿」と良く似かよっています。屋敷の前に立った時「既視感」を感じたのはそのせいでしょう。因みに銅像は毛利元就公の四男・元清公の次男の毛利秀元公です。関ヶ原や大阪夏の陣で有名な殿様です。
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長府・乃木神社

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下関市長府の『乃木神社』です。大正3年(1914)乃木希典の生まれ故郷である長府に乃木記念会が結成され、幼少時代に暮らした(生まれたのは麻布の長府毛利藩邸)旧家を復元し、幼少期の遺品などを展示する記念館が造ら、大正10年には隣接して乃木神社が造られています。訪れてみると東京の乃木神社に比べて素朴な感じがします。乃木希典は伊藤俊輔や山縣狂介のように武家とは言えない最下層身分の生まれではなく武家の出なのですが、それにしてもこの程度の家です。Ptした)のように乃木神社は地元では「学問の神様」になっています。まぁ晩年は学習院の長だったのですから”良し”なんでしょう。あの司馬遼太郎氏は乃木が嫌いらしく「坂の上の雲」の旅順攻略戦ではとんでもなく無能な将軍として描かれています。時代を考えると必ずしもそこまで無能な将軍ではないのですが(苦笑)。
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長府・功山寺

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山口県下関市の中心部から約8㎞、行政上は長府地区なのでしょうが、観光協会によると1800年の歴史あふれる城下町・長府なんだそうです。たいして期待もせず滞在時間も短かったのですが、どうしてどうして魅力的な街でした。Pt↑)は『功山寺』へ向かう緩やかな上り坂です。この坂の上に毛利藩主の墓所『功山寺』があります。創建は鎌倉時代とされ我が国最古の唐様建築の禅寺形式が残っており国宝に指定されていますPt↓)この寺は歴史の舞台にも登場しており、文久3年8月の政変で失脚した7人の公家が長州藩に落ち延び7名のうち5名がこの寺に潜伏しています。また元治元年(1865)に高杉晋作が伊藤俊輔らとクーデター(回天義挙)を起こし長州藩内での紛争の発端となった地です。そんな事で境内には高杉晋作の像が置かれています。この像は民間の寄付によるものだそうで、さすが「元長州藩」です(苦笑)。
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関門海峡・早鞆の瀬戸

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和布刈神社の後方の壇ノ浦を眼下にする和布刈展望台には「源平壇ノ浦合戦壁画」と合戦の解説板があります。1185年4月25日に眼下のごく狭い海峡で源氏と平家の「治承・寿永の乱」の最後の戦いが繰り広げられました。この狭い海峡に平家軍は500艘の軍船を擁し対する源氏軍は840艘の軍船が激突した訳です。実際の船上はもっと右方向のようですが、数の上では有利でも海戦に慣れてない源氏には不利な状況で、開戦時は潮の流れが(左~右)と平家に有利な状況でしたが、時間が経つと潮の流れが逆転、まさかの平家の壊滅状態となってしまいました。勘違いされるのはこの戦いで平家は政治的な拮抗勢力としては壊滅しますが一門の血脈が途絶えた訳ではありません。
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門司・和布刈神社

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北九州市門司区の『和布刈(めかり)神社』です。以前に小倉出身の推理小説作家・松本清張の作品にこの神社で行われる「和布刈神事」が登場していたのですがどの作品だったか思い出せませんでした。調べたら「時間の習俗」という作品でしたが内容についての記憶は全くありません(笑)。Pt↑)この辺りは関門海峡で約700mまで狭まり「早鞆の瀬戸」と呼ばれています。下関側対岸が「壇ノ浦」で、戦い前夜には平家一門の酒宴が神社で開かれたとの話も伝わります。
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神社創建は神功皇后の三冠征伐の後仲哀天皇9年(200)の創建とされるかなりの古社です。海峡の守護神として崇敬され足利尊氏、大内義弘、仁保常陸介などによる社殿の修築造営があったようです。神社名の「和布刈神事」は旧暦元旦の未明に神職が関門海峡のワカメを刈り取り神前に供え、その後朝廷に献上される神事で今も福岡県の無形文化財です。
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下関市大字彦島字船島

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関門海峡に浮かぶ小さな無人島、住所は「山口県下関市大字彦島字船島」、正式名称は船島ですが”巌流佐々木小次郎”に因んで『巌流島』名称の方が有名です。通説では宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘は慶長17年4月13日にあったとされています。因みにアントニオ猪木とマサ斎藤の巌流島の戦いは1987年のことでした。島の面積は島を所有した三菱重工業の埋め立てにより拡張し、第二次大戦頃からの旧軍の要塞地帯の時代を経て現在は無人島で、住人はタヌ公だけのようです。今回は門司港から関門汽船で往路10分、島の上陸が30分、復路に10分で行ってきました。島は全島禁煙でごみ箱すらなく武蔵・小次郎の像や佐々木巌流の碑を見るだけなら30分の上陸で充分です。
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潮騒の街 門司港レトロ…(2)

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門司港から多くの人々が中国大陸を行き来した時代がありました。そしてこの港からは200万人を超える旧日本軍兵士が中国大陸や南方の国々へと出征しています。生きて帰ることができなかった兵士にとっては、船上から見る関門海峡の景色が最後の故国の景色となった事でしょう。海岸沿いの「しおかぜの路」にはその歴史を後世に伝えるようにと『門司港出征の碑』が創られています。さらに碑の近くには『出征軍馬の水飲み場』があり、かっては海岸通りに数か所あったようですが、全国から農耕馬が軍馬として徴用され門司港に集まった軍馬の水飲み場です。レトロな街並みだとかB級グルメだとかアホな観光客に媚びなばならぬ時代なのでしょうがこの様な歴史も伝えていって欲しいものです。
工事中の駅舎脇には「バナナの叩き売り発祥の地」の碑があります、以前は完熟したり傷んだバナナを売りさばかねばならい必要性から「叩き売り」が始まり、全国的に有名になったのは「男はつらいよ」映画によるものらしいです。
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潮騒の街 門司港レトロ…(1)

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昭和63年から平成7年までの年月をかけ門司港周辺の外国貿易で栄えた時代の建造物を核に「大正レトロ」をコンセプトに整備した観光スポットが『門司港レトロ』で国土交通省の都市景観100選を受賞しています。かなり大きな金額が投じられ、行政の頑張りが感じられます。残念ながら関東の旅行業者のツアー企画では北海道・沖縄・京都ほどの人気がなく同じ九州でも長崎ほど人気がなく門司&下関企画商品は売れない傾向は何十年過ぎても変わっていないようです。
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Pt↑)は大正6年(1917)に大阪商船(合併後は商船三井ビル)の門司支店として建設された『北九州市大阪商船ビル』です。地上2階、木造・一部コンクート造、平成11年には登録有形文化財に登録され、建設当時からの八角形の搭屋は門司港を象徴するで建造物であったことでしょう。
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『北九州市旧門司三井倶楽部』は大正10年(1921)に三井物産門司支店の社交クラブとして造られた洋風の本館と和風館などからなる建物で大正11年にはアインシュタインが宿泊したのがご自慢のようです。昭和24年からは国鉄が所有し、国鉄清算事業団の後北九州市に譲渡されています。元々は市内の別の地区にあったものでレトロ地区に移築されています。平成2年(1990)には重要文化財に指定され、平成19年(2007)には近代化産業遺産に認定されています。
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『北九州市旧門司税関』は明治45年(1912)2代目の門司税関として建設され昭和2年(1927)に3代目の庁舎が完成するまで使用されました。昭和20年(1945)の門司空襲の時に被害を受け応急的な修理がされ倉庫として使われていました。そののち門司港レトロ事業の一環として平成3年より4年間かけて修復され、平成19年に近代化産業遺産に認定されています。
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少しニュアンスが異なる『北九州市立國際友好記念図書館』は、1995年に北九州市と大連市の友好都市締結15周年を記念して大連市のロシアにより建設された建物の複製です。複製とはいえ門司港レトロには違和感なく溶け込んでいます。Ptは早朝に撮ったもので人はほとんど映り込んでいません。他にも「海峡プラザ」という商業施設や黒川紀章氏設計の「門司港レトロハイマート」という展望施設付きのマンションタワーがあるのですが、いずれもが開館前でした(苦笑)。

レトロな街・九州鉄道記念館

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九州最初の鉄道会社は明治21年創立の「九州鉄道」です。創業時は博多に本社を置き明治24年の門司港駅開業直後にこの地に移転しています。周辺の鉄道会社を吸収。合併により日本有数の達道会社と発展していきます。明治40年に鉄道国有法の施行により国有化されるまでには門司港駅から九州各地への起点となっていました。
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この赤煉瓦造りの「旧九州鉄道本社」の建物に九州の鉄道史や使用された車両など展示しているのが「九州鉄道記念館」です窓からは眼下に門司港駅、旧日本郵船ビル、関門海峡そして関門橋と絵になる景色が一望できます。展示の内容にもかなりの頑張りが感じられるのですが、大宮の鉄博とは比べるまでもなく東武鉄道の博物館程度です。比べること自体意味のないことなのですがどうしても見劣りしてしまいます。
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レトロな街・門司港駅

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日本には重要文化財指定の駅舎は島根県の旧大社駅(廃駅)・東京駅そしてこの門司港駅の3駅しかありません。門司港駅は明治24年(1891)に門司駅として開設されています。明治34年(1901)には関門連絡船が開設され本州と九州との鉄道の経由駅とした賑わっていました。Pt↑)の駅舎は大正3年(1914)完成の2代目の駅舎は平成24年から平成31年予定で保存修理工事に入っておりフェンスの中は見られないのですが、資材搬入時の一瞬のスキを狙って撮っています。
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昭和17年(1942)の関門トンネルの開通に伴って鉄道のルートが変わりトンネル近くの大里駅に門司駅の名を譲り「門司港駅」と改称しています。Pt↓)改札からのホームの景色はいかにもの雰囲気です。駅構内には門司港が外交航路の旅客で賑わった時代を思わせる大正3年頃に設置の「帰り水」と呼ばれた洗面所があり、ここで多くの旅客が「日本国内最後の水」・「帰国後の最初の水」を味わったことでしょう。戦時中には門司港駅で外国航路に乗り継ぐ怪しい外国人を見張る施設まであったようです。ともあれ31年の完成が楽しみです。
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久留米・水天宮

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福岡県久留米市の『水天宮』は全国に数多ある水天宮の総本宮です。ご祀神は安徳天皇・建礼門院徳子・二位の尼の3柱と天御中主神が祀られています。創建は寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使ノ局がこの地へ逃れて安徳天皇と平家一門の霊を祀ったことによります。東京都中央区の『水天宮』は久留米藩第9代藩主により文政元年(1818)に江戸藩邸(赤羽橋付近)に分霊され、明治4年に現在地に移転していますが、その東京に比べると地味な印象を受けます。
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Pt↑)は幕末史に登場する『真木泉』の銅像です。案内板によると水天宮の神職の家に生まれた真木和泉守野保臣は明治維新の中心的指導者であるとの解説があり境内社の真木神社の祀神となっています。とはいうものの「禁門の変」で御所に向かって大砲を撃ち込むという大馬鹿野郎の久坂玄瑞らとのクーデターに失敗して自刃しています。つまりは‘”結果オーライの世界”で”明治維新の指導者”と云われても断固として納得できません。
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久留米・高良大社

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【諸般の事情で日程の変更を余儀なくされた7月の九州研修の続きです】九州地方には関東では知られていない神々を祀る神社が数多あります。今回は福岡県久留米市の東方、久留米の街を見渡す高良山に鎮座するのが『高良/こうら大社』です。筑後国一宮であり旧社格は国幣大社で「高良玉垂命(コウラタマテレノミコト)神社」や「高良玉垂命」などとも呼ばれたようです。仁徳天皇55年(78年?)の鎮座、履中天皇元年の創建とありとんでもない古社です。正殿には「高良玉垂命」・左殿には「八幡大神」・右殿が「住吉大神」が祀られ合祀の神々は他にもあるのですが、面白いことに主祀神の「高良玉垂命」が誰のなのか判然としないという古い神社らしいおおらかさもあります。
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明治期までは筑前の分霊社が「武内宿禰」を祀神としていることから高良玉垂命=武内宿禰が有力だっったそうですが、こんなのアリなんですかねぇ(苦笑)。現在の社殿は久留米藩3代藩主の有馬頼利の寄進によるもので国の重要文化財指定となっており、社殿建築としては九州最大級の大きさなんだそうです。祀神の正体が不明ながら厄年の厄払い・厄除け開運・延命長寿・交通安全にご利益が名高く芸能の神としての信仰もあるそうです。久留米出身の芸能人はかなり多いのでプラスされたのでしょうか(?)。駐車場から石段を130段ほど登ると社殿です。嬉しいことに小型のモノレールが設置されていて登りは楽々でした。社殿からの筑後川や久留米の眺望はいい感じです。
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言問橋・いざこそ問はむ都鳥

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Pt↑)『言問橋』の台東区側からが一番「絵」になるようです。橋の長さは238.7m・幅22.0m、橋上の道路は国道6号・言問道りです。平成20年に両国橋と共に「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。この言問橋も他の隅田川の多くの橋と同様に関東大震災復興事業として大正14年に工事着工、昭和3年に完成しています。昭和20年の東京大空襲の際には、浅草方面からと向島方面の人達が橋の上で鉢合わせしてしまい、逃げ場がなくなった人達に多くの死者を出すという大きな惨事がおこっています。
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「言問」の地名は在原業平の 【名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思う人は ありやなしやと】 にちなんでいるのですが、実際はこの故事はここより上流の白鬚橋付近で詠まれたということです。ここから見る東京スカイツリーは墨田区側に高い建物が少なくスッキリと見えます。Pt↑)の”言問橋西交差点”からはスカイツリー建設当時から絶好の撮影ポイントとなっていました。気のせいかも知れませんが、隅田川を挟んで台東区側ににはホームレス達の住まいは見られず、墨田区側にはブルーシートが点々と並んでいます。
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カラフル浅草・吾妻橋

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隅田川を遡り浅草まで来ました。この赤く塗られた橋が『吾妻橋』です。最初の架橋は安永7年(1774)の事で、江戸時代の隅田川5橋の最後の架橋となります。はじめはこの付近の川名が「大川」と云われたことから『大川橋』と呼ばれており、武士以外の通行人からは通行料を収受していたようです。明治年間の明治18年(1887)に隅田川最初の鉄橋として架け替えられた橋は、関東大震災の火災で木製部分が焼け落ちたしまい、現在の橋は昭和6年(1931)に架橋されています。橋長:150m、幅:20m、橋上の道路は「雷門通り」です。
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台東区側は繁華街・浅草の入口にあたり、桟橋からは浜離宮経由で日の出桟橋やお台場方面の航路が発着しています。墨田区側には墨田区役所やアサヒビールの建物、悪名高き「炎のモニュメント」があり吾妻橋越に見る「東京スカイツリー」は展望のポイントとなっています。隅田川の橋梁は橋ごとの設計や塗られた色が異なっていますが、吾妻橋は”赤”で塗られており稲荷神社を思わせるような色合をしています。Pt↓)地下鉄の入口は日本最古のモノとされます。
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