旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年10月

三囲神社の動物達

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墨田区向島の宇迦御魂之命を祀る『三囲神社』です。元和年間に社の改築の際”白狐にまたがる老翁の像”が見つかり、その時に白狐が現れて神像を三回廻ったことから『三囲神社』としたとされています。稲荷伸が白髪の老人の姿をしているのは伝承としたは珍しい話ではないのですが、言い伝えですから”そうですか”としか云いようがありません。久しぶりの訪れたのですが数年前に比べて良い感じになりつつあります。三囲神社の神域では神使(秘書官)のきつねや狛犬(ガードマン)など多彩な動物たちがその姿を見せていますが、Pt↑)は本殿の止瓦付近にあるきつね像です。屋根の四方に置かれているのですが木々に囲まれ写真には苦労させられます。
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本殿の前には「コンコンさん」と呼ばれるきつねの像です。実に穏やかな顔をしていて、目元など笑っているような感さえします。頭の上には烏帽子でも被っているのでしょうか突起があります。口元は『あ』と『ん』ですが『鍵』も『巻物』も咥えておらず足元は何も踏みつけていません。なにより直立した尻尾が実に立派です。実際のところ稲荷社のきつね像にはとんでもない種類があるのですが他の稲荷社では見かけないきつね像です。

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この三囲神社は三越(三井家)の縁のある神社で日本橋や銀座店の屋上には分社が鎮座しています。本殿裏の「三柱鳥居」というパズルか知恵の輪のような形状をした奇妙な鳥居は、三越の三井家が江戸進出にあたり守護神として崇めたと云われています。そんなことで本殿手前には閉店した三越池袋店にあった「守護神補佐としては役に立たなかったライオン像」が何故か1体だけ置いてあります。つぶれた店の名残りはどんなもんなんでしょう(苦笑)。
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浅草の街神社…(8)

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浅草の街神社、今回の『合力稲荷神社』は台東区浅草6-42-8と浅草でも山谷堀跡に近く、やや見つけにくい地に鎮座する稲荷社です。祀神は稲荷社でも少数派(?)となる『保食神/うけもちのかみ』になります。徳川4代将軍の日光参拝のおり千住宿で死亡した愛馬「荒波」の馬頭観音が合祀されていたり、伝説の江戸時代の怪力男「三之宮卯之助」の力石なんての境内に置かれています。吉原への道すがら「土手のお稲荷さん」と親しまれていたそうですが、江戸永禄年間に山谷村の農民らで鎮守として祀ったのが始まりの街稲荷社のようです。
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浅草の街神社…(7)

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久々の浅草の街神社の7回目は『袖摺稲荷神社』、住所は台東区浅草5-48-9で浅草富士浅間神社の先になります。さすがにこの辺りともなると貧乏外国人どもは見かけません。逆にこのての街稲荷を巡っていたらかえって不気味です。祀神は1柱に素戔嗚尊。2柱に倉稲魂命とあります。源頼朝が伊豆流刑中に稲荷神を彫刻して社を建立したのが始まりで、北条氏が小田原に遷座、小田原北条氏以後は「お告げ」のより墨田の地に移り、徳川氏により当地に遷座したとの社歴があります。霊験あらたかにより多くの参拝者が列をなし、袖擦り通うことから「神寿里稲荷」、さらに『袖摺稲荷』となったとは(苦笑)。まぁ吉原への道すがらなので多くの参拝者は納得できますが・・。
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さいたま市・鬼婆伝承

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確かコミック『宗像教授異考録』に掲載があったのですが、現さいたま市大宮区にも「鬼婆伝承」が残っています。鬼婆伝承は福島県・安達ケ原が有名ですが、なんでも「諸国里人談」なる書物には武蔵野国足立郡(現在のさいたま市大宮区)にあった安立ケ原が元々であるとの記載があるそうです。「安達ケ原」と「足立ケ原」では確かに音は同じです。どちらが本家かを巡って論争もあったようですが(話自体はたいして差がないので割愛します)歌舞伎の『黒塚』を上演する際には役者が(東京に近い)こちらに参拝していたようなのでやや有利感もあります。
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JR大宮駅から徒歩20分程、武蔵一宮・氷川神社を抜けサッカー場の近くにその『黒塚山大国院』はありました。伝承では『大宮山・東光寺』なのですが移転し黒塚跡地は『黒塚山・大国院』となっています。驚くことに社殿入口は施錠され人の気配は皆無。荒れ放題の廃寺という感じです。看板には【11月1日から節分までは祈祷をおこないます】とあるので休業中(?)とも考えられますが、住宅地のことでお話を聞ける人もおらず、立寄った市立図書館にも資料は見当たらずと残念な一日となりました。
「残念」といえば徒歩5分の距離に鎮座する武蔵国一之宮・氷川神社は他の一之宮に比べて残念至極の状況です。最近はTVの放映もあり、この日も七五三で賑わっていたのですが、初詣の参拝者は200万人を超え全国上位とされる古社として有名なのですが、広大な神域にはトイレの数が少なく、旧式な清潔感に乏しく「一之宮」の名前の割にはお粗末至極です。
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福岡・香椎宮

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【福岡&山口研修の最終回】は福岡市の香椎宮(かしいぐう)です。ご祀神は仲哀天皇と神功皇后とされていますが、元々は九州熊襲征伐のおり、敵の矢に当たり仲哀天皇が死去した地であり、古代は神社ではな陵墓と神社の中間の「廟」とされ「香椎廟」と称したようです。平安時代以降は神社の性格を有し、戦前の社格制度では「官幣大社」に位置付けられ、現在でも「勅祭社」となっています。「霊廟」から「神社」へと変遷するのはそうあることではなく珍しい例です。
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拝殿が手前に伸びている形式は下関・住吉神社と似ています。社額と賽銭箱の位置にも屋根が設けられているのが特徴でしょう。Pt↓)の本殿は「香椎造り」と称する建築様式で、亨和元年(1801)に再建されたものです。国の重要文化財指定され、この建築様式は日本唯一の建築なのだそうです。神門手前には神功皇后(じんぐうこうごう)が西暦200年にお植えになったという御神木の綾杉(あやすぎ)があります。新古今和歌集にも「ちはやふる香椎の宮のあや杉は神のみそきにたてる成けり」と詠まれており、 夏目漱石も「秋立つや千早ぶる世の杉ありて」で対抗しています。
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宗像大社… (3)

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実は7月にも参拝に訪れているのですが大失態をやらかし今回再度の参拝となりました。宗像神社の概要は前回に記していますが、沖ノ島の沖津宮には『田心姫神』・筑前大島の辺津宮には『湍津姫神』・辺津宮には『杵島姫神』の天照大御神の娘たちの『宗像三女神』が祀られています。辺津宮と中津宮の距離が11㎞。沖ノ島の神津宮はさらに約50㎞先というとんでもない壮大なスケールに神社なのです。Pt↑)の『高宮祭場』と呼ばれるこの場所こそ「宗像三女神降臨の地」です。それは本殿から神域を歩くこと約10分鬱蒼とした杜にあり、正直「神が降臨する場所」が見られる神社などそうあるものではありません。これが太古の神社の姿なのでしょうが、圧倒的な神々しさに言葉になりません。
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Pt↑)は『宗像教授伝奇考』シリーズです。1995-年頃から連載されたコミックなのですが、続編の『宗像教授異考録』を含めるとかなりの長編のようです。宗像大社=宗像教授繋がりではなく、主人公の宗像伝奇(むなかた/ただすく)は某大学の教授で出身は宗像大社摂社の神官の次男という設定になっています。この本はトンデモ本で生半可な古代史好きとか神話好きではとてもついていけません。日本神話のみならずインド~ヨーロッパと際限なく広がって面白いのですが疲れます(!)
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下関・住吉神社

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下関の『住吉神社』です。大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1社に数えられたいます。この日本三大なんたらの多くが残念な結果に終わりがちですが、長門の国一之宮でもこともあり福岡への道すがら予備知識もなく立寄ってみました。駐車場から本殿へ向かうと、神域の雰囲気が”ちょっと待ってよ”の感じになっていきます。記憶をたどってもこんな形式の社殿など見たことがありません。
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PT↑)のように本殿は五つの社殿が連なっています。この社殿は応安3年(1370)なんと室町じ時代の造営で、昭和28年に国宝にされています。第一殿には表筒男命・中筒男命・底筒男命の住吉三神、第二殿には応神天皇、第三殿には竹内宿祢命、第四殿が神功皇后、第五殿には建御名方命(タケミナカタ命)の神々が祀られています。この社殿の形式を「九間社流造」というのだそうで、本殿の第三殿の手前にある拝殿は、室町時代・天文8年(1539)毛利元就の寄進により造営され、昭和29年に国指定の重要文化財です。他にも楼門が国登録の有形文化財などと驚きの連続です。
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創建は日本書記・神功皇后の時代まで遡る古社で、住吉三神にしても大阪住吉大社は「和魂」を祀るのに対し下関は「荒ぶ魂」を祀ると性格が異なっています。第五殿の出雲国譲りで建御雷神との力比べに敗れた諏訪大社の「タケミナカタ命」が祀られているのは、なにか唐突の様な気がしてなりません。
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角島(つのしま)大橋… (2)

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チョット寄り道してみた「角島大橋」です。もっと時間をかけて写真を撮りたいのですが、限られて日程や時間でこなせねばならず、滞在時間は天候に恵まれて欲しいものです。昨今はお手軽なCasioのコンデジばかりなのですが、そこそこは撮れてもなかなかの絵は撮れないものです。スマホ搭載カメラの性能がよくなり天下のCasioがデジカメから撤退する時代になったのですが、まだまだスマホ搭載カメラは信用しておりません(笑)。
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先日、高校卒業まで萩に住んでいたという方と話す機会がありました。やはり学校では「吉田松陰先生」の洗脳教育的な話もあるようです。角島は海水浴場がある程度で何もない島という認識だそうで、最近話題にのぼることに驚いているようです。この角島大橋の完成は平成12年(2000)ですから無理もありません。
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Pt)は岬を隔てた「道の駅北浦街道・ほうほく」からです。この道の駅は内容充実・景色抜群と言うこと無しなのですが、今回は角島編なのでいずれということに(笑)。角島の島内での観光施設はこの灯台と付近の海水浴場なのですが、まさに♪今はもう秋、誰もいない海♪状態です。その割には舗装もしていない民間駐車場が¥500もするとは(苦笑)。
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長門市・楊貴妃の里

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長門市油谷向津具下久津にある『楊貴妃の里』です。中国唐代の玄宗皇帝の皇妃の「楊貴妃」は、世界三大美女&古代中国四代美人とも絶世の美女(傾国の美女)とも称されます。史書によると安禄山による玄宗皇帝への反乱の際、避難途中の長安郊外で楊貴妃は殺害されていますが、義経伝説のパターンともいうのでしょうか、楊貴妃は殺害されず秘かに日本へ渡り、たどり着いたのがこの油谷の里だとの伝承があります。
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楊貴妃の墓となれば見逃すわけにはいかず無理くりに行ってみました。伝承では日本へ到着後まもなくこの地で亡くなられたそうですが、楊貴妃が葬られたとされる「二尊院」には中国風の公園や楊貴妃像などがきちんと整備されています。境内の一角には「楊貴妃の墓」とされる五輪塔があり”安産・子宝・縁結びなど”いかにも”のご利益があるそうです。こういった話を”馬鹿いうねぇ”と否定するのは簡単ですが「もしかしたら」と楽しむ気持ちも楽しいもんです。
ある意味では「吉田寅次郎伝説」より面白いといえます(笑)。
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吉田寅次郎”神”への路

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吉田寅次郎こと吉田松陰が江戸小伝馬町で”国賊”として30歳で斬首されるのは安政6年(1859)10月(明治改元の9年前)のことです。刑死から世田谷の長州藩別邸に改葬されたのは4年後。その地へ松陰神社が造られたのは明治15年(1882)。萩に松陰神社は明治40年(1907)。世田谷までが23年。萩までは48年の年月が過ぎています。この間に『吉田松陰』は神様になってしまいました。国賊として松陰が江戸へ護送された後は、松下村塾の塾生は地元萩では村八分にされ、高杉晋作の妹達は縁談断られまくり、高杉は松陰との絶縁宣言までしています。松陰先生の評価にしても時代とともに革命家→憂国の士→理想の教育者とコロコロ変遷していきます。吉田寅次郎こと松陰の神格化への路とはなんだったのでしょう。
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幕末期の長州藩内は粛清や暗殺や内戦がごく日常的になっていました。京都での夜な夜なテロ活動。政変で追い落とされると御所に攻め入る暴挙(蛤御門の変)、攘夷を唱えて下関戦争、幕府が長州征伐を示唆すると藩内部の分裂は壮絶な殺合いに発展してしまいます。そこで松陰先生の神格化して結束を図ったのが筋書きのようです。さらには後年都合よく利用したのが伊藤俊輔や山縣恭介らの最下層の士分でもない連中ということでしょう。
ついでに高杉晋作(死亡時は谷清蔵)の騎兵隊にしても捏造が激しく、藩の兵力不足を補うための無頼の輩や農民たち”士分”してやると騙し、戊辰戦争では残忍な殺戮や強奪を繰り返します。戊辰戦争後に山口凱旋した騎兵隊は5000名。待っていたのは大リストラ大会でした。騎兵隊№2の山県有朋にも見捨てられ、不満行動を起こせば上司と崇めた木戸孝允率いる正規軍に鎮圧され、多くの兵士は斬首されてしまいます。その木戸孝允(桂小五郎)は反乱軍の鎮圧や山県有朋や井上馨らの汚職事件のもみ消しと大忙し(!)で結局は早死してしまいます(苦笑)。
親子・兄弟・身内同士の殺し合いがばかりの歴史を綴ってきた長州藩の結束のシンボルとして「カリスマ松陰先生伝説」必要だったのでしょう。松陰先生が所詮は地方区で全国区ではない理由が納得できます。それにしても某国の首領様伝説と類似していますね。
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萩といえばの松陰神社

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萩といえばの『松陰神社』です。ご祀神は「吉田寅次郎藤原矩方命」こと吉田松陰です。創建は明治40年(1907)松陰の江戸小伝馬町での斬首刑から48年後となります。境内には名前だけは有名な「松下村塾」やら「吉田松陰幽囚ノ旧宅」やら保存されています。この旧居は国指定遺跡であり「世界文化遺産」にも登録されていますが、ユネスコの連中には中身がバレることはないでしょう(笑)。この松陰先生には万人が納得する歴史的な実績はないんですねぇ。50年も前の少しの時間通った塾の先生を懐かしんで神様に祭り上げたということなのですが・・。
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松陰が叔父さんが開いた松下村塾に関わったのは、僅か2年弱です。塾名だけは有名な割には先生の教えは知られていませんが、所詮は久坂玄瑞や高杉晋作らのテロリスト養成所にすぎません。この塾で先生の”天皇を奉じて.国力を充実してアジアへと侵略する”とのありがたい教えを受けた塾生たちは、師の志を受け継いで日本の近代化、工業化の過程で重要な役割を担っていくことになります。何か変です(笑)。馬鹿なことは云わないで欲しいものです。
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津和野・永明寺

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津和野藩代々の菩提寺である永明寺(ようめいじ)は、応永27年(1420)に津和野城主・吉見頼弘により創建された曹洞宗のお寺です。古い町並みとは反対側の街を見下ろすような場所にあります。お世辞にも観光対策の練られた寺院ではないのですが、本堂の屋根は茅葺、庫裡や鐘楼など県指定有形文化財だそうです。見ようによっては普通のボロ寺なのですが、いかにも津和野らしい寺と思いました。津和野は文豪・森鴎外(森林太郎)の出身地でもあり永明寺には、ごくあっさりと「森林太郎墓」と記されたお墓があります。このお方は子供や孫達に今でいう”キラキラ・ネーム”を付けていたのですが、ご本人のお墓は文豪・森鴎外やら日本陸軍での経歴を廃して「森林太郎墓」とシンプル至極となっています。
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城下町津和野の幻想

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「津和野町」は島根県です。こんな書き出しなのかは、関東の人間は萩と津和野を一緒くたにしがちです。実際は県も違い、車で1時間ほど離れていて、山間の街と海辺の街という違いがあります。江戸時代は津和野藩亀井氏の城下町で、コンパクトな街の情景は「山陰の小京都」とも云われ、2015年には文化庁の日本遺産として登録されています。小京都として目標にされた街ゆえになのでしょうが、景観は整備され落ち着いた雰囲気なのですが、山陰地方にはよく見られる「ありきたりの街並みになったなぁ」というのが正直な感想です。学生時代に最初に訪れた時の感慨は戻ってきませでした。それだけ歳をとったのでしょう。
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