旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2018年11月

多摩市・小野神社…(3)

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調べていくと、お隣の府中市にも天下春命(あめのうわはるのみこと)・瀬織津比咩命(せつおりひめのみこと)の2柱を祀神とする『小野神社』があり『武蔵一之宮』を掲げているようです。この2社は多摩川の氾濫の度に遷座を繰り返した結果2社に分かれたのでしょう。つまり『武蔵一之宮』は大宮氷川神社・多摩小野神社・府中小野神社(さらには氷川女體神社との説もあり)があることになるのですが、東京・埼玉・神奈川に約200社ある氷川神社の総本社『大宮氷川神社』と比べる小野神社系はどうしても分が悪くなります。
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因みに『大宮氷川神社』のご祀神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命の3柱で、神社の社格としても延喜式での式内社、勅祭社。旧社格は官幣大社で現別表神社。宮中四方拝の一社。初詣の参拝者も埼玉県1位、全国でも10位以内の約210万人と圧倒的に異なります。神社に優劣をつけるのは意味のないことで長い年月を地域の人に崇敬され、今でもその地に鎮座しているのはそれだけで価値のあることです。
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拝殿・本殿の造り拝殿と本殿が離れている古い神社形式です。時代が下ると建物を繋ぐ幣殿が造られ「権現造り」となっていくので、それ以前の神社形式です。小野神社HPには明治10年代の神社の絵が掲載されていますが、やはり天津神の神社にしては朱色の派手な社となっています。朱色は稲荷神社のそれとも異なるようですが、勢いで塗ってしまったのとは違うようです。同HPには大正15年に失火により全焼し、昭和2年に本殿、拝殿が再建された旨の記載がありした。
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多摩市・小野神社…(2)

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『武蔵一之宮・小野神社』と『武蔵一之宮・大宮氷川神社』の両一之宮は元祖と本家の様な対立関係ではありません。武蔵国総社の『大國魂神社』が造られたとき武州六大明神として一之宮小野神社(多摩市)・二之宮小河神社(あきる野市)・三之宮氷川神社(さいたま市)・四之宮秩父神社(秩父市)・五之宮金鑚神社(児玉郡神川村)・六之宮杉山神社(横浜市)が祀られ、この時点では大宮氷川神社は三之宮となっています。ここらが一之宮論争の論拠のようです。一之宮小野神社(多摩市)と大國魂神社(府中市)は距離的く、大國魂神社に多くの参拝者が集中することから一之宮をさいたま市に移したのではないでしょうか。
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神社の優劣を比べるのは意味のない事ですが、どうしても慣れ親しんだ大宮氷川神社と比べてしまいます。それにしても驚かされるのは小野神社の『隋神門』です。この門が再建されたのは昭和39年とありますが、門に施された彫刻の見事な事!ざっと見とも青龍・朱雀。白虎・玄武と思われる四神、十二支の動物達、さらには風神。雷神らの神獣が文字通り白く光る眼をこらして神域を守っています。
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武蔵一之宮・小野神社

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『一之宮』とは飛鳥時代から明治初期まで日本の地理区分の基本であった「令制国」で一番社格の高い神社をいいます。 1)令制国1国に1社   2)祀神は国津神の神々もしくは地元住民の崇拝強い地元神   3)延喜式神名帳に記載された式内社であることなどの規定はあるのですがそうはいかないのが如何にも日本的です。武蔵の国一之宮といえばさいたま市の『氷川神社』を指すのが一般的ですが、多摩市一ノ宮町に鎮座する『小野神社』も武蔵一之宮を称しています。京王線・聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩10分程度。氷川神社に比べると神域はコンパクトに感じの神社です。
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本家と元祖とかの関係では薄く、小野神社の主祀神は天下春命(あめのうわはるのみこと)・瀬織津比咩命(せつおりひめのみこと)・伊弉諾尊・素盞嗚尊らの天津神です。国津神の大己貴大神(大国主)も祀ら、さらに境内社の神々までいれればかなり賑やかな状況となっています。「多摩市にも武蔵一之宮が」と簡単な気持で出かけたのですが、思いのほか興味深い神社のようです。=続く=

池之端・五条天神と花園稲荷社

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上野・池之端の『五条天神』です。修学旅行なのでしょうか?子供達の姿が見えます。天神社=菅原道真=学問の神様で参拝なのでしょうが、五条天神の場合は少しばかり異なります。天神社縁起によると【日本武尊の東征の際、この地で医・薬祖神の大己貴命と少彦名命を祀った】とあります。いずれも出雲の神々ですが、大己貴命とは大国主命の事で少彦貴名命(背が極端に低い神様で”一寸法師のモデルで温泉療法や百薬の長の酒をもたらした神)と協力して国造りに携わったといわれます。大己貴命(大国主命)が「因幡の白兎」で重篤の兎の治療をした謂れから両神が医・薬祖神となっています。菅原道真が合祀されたのは寛永18年と約350年前にすぎません。因みにご五条天神は東京の古社にはありがちな遷座を繰り返し、この地に遷座したのは昭和3年の事です。
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東京にも数か所、伏見稲荷の鳥居を思わせる稲荷社があります。赤坂日枝神社の稲荷社、根津神社の乙女稲荷神社。ここ花園稲荷も人気のようです。本殿脇に鉄格子で閉ざされた社があります。立入り禁止ではなく”ちゃんと閉めましょう”と書いてあるのですが、外国人には読めないでしょうね(笑)。この社が「お穴様」で、むかし上野の山に住んでた「弥佐衛門なる狐」が【寛永寺ができると住む所がなくなって困る】と天海僧正に直訴して立退きの条件(?)として祀ってもらったという伝承があります。彰義隊上野戦争時には”穴稲荷門の戦”として大激戦の地となったそうですが‥。上野戦争は一方的な殲滅戦なので”激戦地”と言われても?です。また呼称の変遷が多い稲荷神社で「忍岡稲荷」や「お穴様/穴稲荷」と呼ばれ、明治の再興時に「花園稲荷」と改名したとの流れのようです。
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異形の狛犬と鎧神社

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新宿区北新宿の『鎧/よろい神社』です。北新宿の住所に惑わさるものの鎮座地はJR大久保駅と東中野駅の中間あたりです。昔々は農道だったのでしょうか細く曲がりくねった道ばかりでGPSがないと辿り着くのも往生します。神社は住宅密集地に忽然と鎮座しており、空気感すら異なっている感があります。祀神は日本武命・大己貴命(大国主)・小彦名命の3柱と平将門となっています。社歴では醍醐天皇の世、円照寺(真言宗豊山派)が創建、寺の鬼門封じの為の鎧大明神が造られたとあります。日本武命の東征の時に、この地に甲冑武具を埋めたとの伝承があり、さらに天歴年間には平将門の鎧を埋めたとの伝承もあります。
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崇徳上皇・菅原道真・平将門は日本三大怨霊といわれ、朝廷に対し反乱を起こした平将門は鎮圧されて京都で晒された後、バラバラになりながらも関東へ飛んできたとの伝承があり、関東には将門の首やらが落ちた「大手町の首塚」、靖国神社近くの「筑土神社」。浅草の「日輪寺」など将門伝承の寺社が数多く存在します。『鎧神社』にも将門の「鎧」を埋めたとの伝承があります。将門伝承も興味深いのですが、Pt↓)の摂社「天神社」にある狛犬が不思議な姿をしています。新宿区指定有形民俗文化財の案内板には「狛犬型庚申塔」との解説があるのですが、見ようによっては「猿」に見えます。タイトルは忘れましたが「宗像教授史」作品では「猿」と想定して話が展開していました。
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ブートCDの裏通り・59

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記憶では寒い季節だったと思います(1969.1月でした)。「Beatlesの新作が出るって、2枚組だって」と僅かな情報を聞いて当時の高校生はこずかいを倹約&倹約、昼食まで抜いて備えました。¥4000だったかなぁ!。当時の高校生にはとんでもない金額です。真白なジャケット、リンゴのレーベル、赤いレコード。ジェット機が離陸してくる1曲目。学校の音楽室で大音響でかけて怒られたのは…(苦笑)。それから50年も過ぎたのですねぇ。日本盤LP→英国ステレオ&モノ→US盤→日本盤CD→2009年盤&モノCDと買い続け、ブートの世界も追いかけて集めてきました。細かいことを抜きなら中身はたいして変わらないのですが、見かけると買ってしまう。条件反射のようです(笑)
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なんですかこの「50周年記念盤」の高額なこと!。アマゾンで日本盤の6SHMCD+BlurayCDで¥17112(!)。3SHMCDで¥3888と1枚単価が¥2852と¥1296円。6枚組の1~3と3枚組の1~3が同じなら6枚組の4~6+BlurayCDで¥13224(17112-3888)という計算になります。なんなんでしょうねぇこの価格設定は(笑)。「そうかBeatlesの新作か」で¥17112はかなり冒険ですし「イーシャ・デモ」だけならWebで¥1000で売っています。CDの販売元は「ユニバーサル・ミュジック合」なる会社が担当していますが「売らんかな」のドロボウ商売ばかりでブート業者の方がまだ良心的です。新作は現代的というなら現代的ですが、音の分離がより明確となってギターのオブリなどよく聞こえます。分離を良くしてベースの音圧をあげるなど、DTMを駆使すればこの程度はできますが、公式という『印籠』を持っている奴はやはり強いですねっ。早い話が単に「公式海賊版」としか思えません。50年前の音源をリミックスする必要があるのでしょうか? Beatlesに関しては100人のファンには100通りの記憶があります。高校時代の冬、寒い音楽室で聞いた”あの楽曲”以上の驚きと感激は二度とないでしょう。それでも購入する我身が情けない! 
Pt↑)探せばまだあるのですが、まぁいろいろとありました。

構想20年!豊洲新市場

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構想20年、すったもんだの挙句『豊洲市場』が移転開業となりました。歴史と実績の築地市場と開業早々の豊洲市場を比較するのはどだい無理な話なので、ここでは【観光的要素】から気が付いたことをしたいと思います。前提として忘れてはならないのは【豊洲市場は市場であって観光施設ではない】という事です。築地(場内)市場も観光地がではなかったのですが競場、卸売場、魚河岸横丁がコンパクトにまとまって場内市場を形成し、一般商店街の場外市場が加わることで【観光地的な築地】を構成していました。このイメージをもって豊洲市場を訪れると異った状況が見えてきます。
 1)とにかく広い!築地23万㎡に対し豊洲40万㎡あります。水産仲卸売場棟、水産卸売場棟、管理棟、青果棟が独立し、屋根のある連絡道で繋がっていますが、建物に配置上、行きつ戻りつになり、全棟見たら2時間以上必要です 2)コンビニ、売店などはありません。自販機はないに等しく、水産仲卸棟内の「魚河岸横丁」で売られているものは限りがあります。
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 3)業者の仕事場と見学者(観光客)のスペースが完全に分かれています。競場も窓越しに見るだけで工場見学を彷彿させます。仲卸業者も窓越しで店舗の屋根しか見えません。 4)人気の”食事場所”は仲卸売場棟に22軒、管理棟に13軒、青果棟に3軒の38軒(食事処以外含む)しかありません。仮に1軒20席として760席、これが1時間に2.5回転として1900人しか食事ができない事になります(あくまで計算上)。万単位の観光客が訪れれば2時間、3時間待ちは当たり前です。コンビニ&売店はなく施設内は料飲禁止となれば食事難民が溢れます(笑) 5)観光バス&一般車両の駐車場はありません。一般観光客は「ゆりかもめ」の利用を推奨し、観光バス利用の旅行会社ツアー客は無理にこなくともよいようです。
私的見解では、【社会科の工場見学】【食事難民】ではブームの終焉はそう遠い日ではないでしょう。。2年後に着工、4年後完成で「千客万来」なる、寿司屋と風呂屋で利権を争ったヤツが完成すれば観光に特化もできるでしょうが、この施設が完成する事は恐らく無いでしょう。繰り返しますが【豊洲市場は市場であって観光施設】ありません。旧築地市場のイメージで訪れると”アララッ”と思うこと確実です。

旭山記念公園・2018 秋

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【旭山記念公園・2018 秋】毎年、秋の北海道シリーズでは日程の初めか終りにはこの公園に来続けています。Ptは以前のモノではなく今回での撮りおろしです(笑)。千歳空港~日高~帯広~池田~大樹~浦河~平取~野幌~三笠~札幌と休養日もあり年々走行距離は減ってきていますが、今回は天候が最悪で青空背景のPtが少ないのが如実に物語っています。この朝は10時頃までは晴れ間が広がるとの情報で、滞在ホテルからここまで10分/車、急いでやってきました。眼下に札幌(中央区)が広がります。写真では無理ですがJR札幌駅も札幌テレビ搭もすすき野ビル街も月寒の札幌ドームも…。お気に入りの景色です。
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それにしても今年はガソリンの高かったこと!北海道ではゲージ半分で給油を心がけますが、ℓ=¥150の後半です。これでは日常生活に影響がでてくるでしょうね。この朝の札幌は13°とこの時期にしては異様な暖かさです。例年なら夜間の峠道は凍結注意、スタッドレス・タイヤへの交換が話題になる時期なのですが、えりも岬ではストーブのお世話になりませんでした。そういえば車の暖房も使いませんでした(苦笑)。
スマホ搭載のカメラの性能が向上し、カシオですらデジカメから撤退する時代となってしまいました。スマホではどうしても広大な景色を収めるとなるとスマホ搭載では役不足の気がします。Pt↑)カシオ・コンデジの広角19mmで撮っています。一眼並みにはなりませんが何とかなっています。Pt↓)はカシオ・コンデジの望遠系200mm~300mmで撮っています。すすき野中心部のビル群や手稲山山頂に雪がない様子が捕らえられます。実際は手振れしてボケボケの写真なのですが、何とか絵になっています(笑)。
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札幌・2018 秋…(2)

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時刻は07:24分早朝の街歩きにでかけます。この晴れの天気は長続きしませんでした。札幌の中心に東西1.5㎞続く『大通公園』です。学生時代の最初の札幌訪問はこの公園で野宿でした。懐かしい思い出ですが今でもそんな輩はいるのでしょうか?大通公園は「日本の道100選」・「日本の都市公園100選」・「都市景観100選」・「日本の歴史公園100選」と”勲章”が盛りだくさんです(苦笑)。いい加減にこんな”勲章”は何の意味も持たないお役所仕事だと気付かないのでしょうか。
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北1条通りに面したレトロな風情の建物は「探偵はバーにいる」の映画にも外観が登場する『北海道警察中央警察署』です。玄関先のPOLICEの看板がなければ警察署とは思わないかも知れません。幸か不幸かこちらでお世話になったことは一度もありませんが、あの頃(何時だ)すすきので知り合った人達はどうしているのか懐かしくなることもあります。札幌の風俗はスポーツと同じで実にあっけらかんとしていました。そして帯広ではその日灯が消えていないようです。
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朝の07:30の狸小路は通勤の人たちが行きかう時間前のようです。以前は飲食店や物産展が店を連ね健全なショッピング街だったのが、昨今はすっかり外国人がウロウロする街となりました。数年前からは札幌の商業施設はJR札幌駅方面に移ったような気がします。まだ雪の季節でもないのに毛糸の帽子、マフラー、手袋、ダウンジャケットのフル装備は明らかに外国人です。特に中国の女性は赤系の服が好みなようで、それも鮮やかな赤ではなく、くすんだ薄汚い赤の服はかなりの確率で貧乏中国人で間違いありません。
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狸小路4丁目の反対側。あれれっ何か足りません。サン・デパート(最近はドンキホーテ)のビルと昔からそこにあるのが当たり前だった老舗のお菓子屋、千秋庵のビルがありません。おそらくは建て直しなのでしょうが、今の時期にこの状態で雪が降る前に完成するのでしょうか?千秋庵札幌は大正10年(1921)の創業だそうで、当たり前のようにあったのは当然です。倒産した訳ではないので、実は銘菓(味はイマイチ)のミルク煎餅・山親爺も滅びることはないようです。
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すすきの交差点(中央区南4条西4)です。考えてみると夜の写真は何回か撮っていますが、早朝てのはそうだったでしょう。有名なヒゲのオッサンのデザインは昭和40年発売の「ブラック・ニッカ」のラベルデザインで大高重治という方のデザインだそうです。因みにこの看板は昭和44年に初代が設置され平成14年からは3代目となっているようです。夜見たら照度を落としいているようですが。北半球で災害の繁華街(?)のすすきのシンボルですから景気よくです(笑)。


札幌・2018 秋…(1)

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今回は晴れ間は覗くことは有っても終日晴れの日はありませんでした(苦笑)。日高でも十勝でも襟裳でも紅葉の名所はことごとくの雨模様。せめて北海道大学くらいはと、地下鉄北12条から勇んで構内へ…。北大の銀杏並木はそこそこに良い感じでした。例によって中国人民の多い事(!)。どういう情報なのか、この季節にしては異常なほどの厚着なのですぐ判ります。英語で話しかけられて、うかうかスマホで撮影の手伝いをしたら、次から次と中国人が集まってきて、馬鹿野郎!俺はお前らのカメラマンではない!オマケに妙なポーズをとりやがって(笑)。
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札幌の中心地のコンビニはローソンが多いのですが、今回も行程中にさんざん利用したのが、そのほとんどが北海道内にあり独特な店舗展開をしているセイコーマート略して「セコマ」です。北海道では唐揚げの事を「ザンギ」といいますが、セコマにはいろんな種類のザンギがあり、かつアツアツです。やや高額のオニギリは他のコンビニに比べて大きく暖かく旨いのです。事情は知りませんがお気に入りのアップルとオレンジにジュースが販売中止状態なのが残念至極です。Pt↑)は北大構内のセコマです。通常店に比べてオシャレな店舗です(笑)。
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北大構内にある「北海道大学総合博物館」です。この建物は北大構内での鉄筋コンクリート建築としたは最も古いそうです。2016年に展示内容を含めリニューアルされたのありました。確かに館内は小奇麗さを感じましたが、以前の雑然とした展示が建物の雰囲気に合っていた気がします。大学の博物館となると自己満足的な展示が多いのですが、北大の展示は多岐に渡りそこらの自治体博物館より内容充実です。それにしても北大といい東大といい老巧化した学舎が多いのは何故なんでしょうか(苦笑)。
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校内の「Boys Be Ambitious」のクラーク博士の銅像です。この名言には後に「Like This Old Men」が続き「少年よ大志を抱け、この老人のように」が全文です。この先生はマサチューセッツ大学に在籍中、1年間の休暇を使って来日、北大で教鞭をとったのは僅か8ケ月。こうなると教わる方も大変だったでしょうねぇ。私の高校時代の英語の先生には「たった一年で酪農は教えられる訳はない。帰国後は鉱山投資に失敗して破産している」などと”クラークその後”を教わり、今でもこの像を見るにつけその話を思い出します。
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10月下旬の札幌は17時前で真っ暗となります。夏時間とは90分程度違うので旅行計画には注意が必要です。2019.9.6の胆振東部地震以降、北海道の観光需要の減少が懸念され、航空会社では「北海道復興支援」を掲げた割引運賃を導入するようです。実際は10.20以降の北海道は観光需要が極端に落ち込むので、復興支援割引と云われてもねぇ~。すすきの交差点のニッカ・ウィスキーの電飾は照度をかなり落としています。が、消えてはいません。すすき野は賑やかでした。

珍しい郵便ポスト…15

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2016年11月の【珍しい郵便ポスト…04】で掲載した「JR札幌駅南口広場の交番隣に設置された郵便ポスト」です。公共性のある郵便ポストですから撤去されることは無いとは思いますが。大丈夫。現役活躍中でした。平成13年(2001)に「郵政事業庁発足と丸形ポスト誕生表年」を記念して設置された郵便ポストです。全国に一つだけと自慢げに書かれていますが、確かに他で見かけたことは有りません。ソーラーパネルを装備し、夜間は郵便ロゴなどにイルミネーションの仕掛けが施されています。このPtは17時頃の撮ったのですが、まだ電飾は稼働していませんでした。実際の所、JR札幌駅前広場は結構広く、ましてその片隅では見つけにくいかも知れません。さらに夏場はともかく雪の時期はわざわざこの場所まで投函にいくものでしょうか?疑問です(苦笑)。

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北海道神宮・2018 秋

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札幌市中央区宮ヶ丘の『北海道神宮』です。地下鉄東西線の円山公園駅が最寄駅、鳥居を抜け神域に進みます。円山公園は自然豊かな公園でキタきつねやたぬき、りすの姿も普通に見られます。関東の人間には”雪の季節さえなければ羨ましい環境です。行程の都合で今回も神社へは車でとなりました。参拝者の駐車料は無料で本殿までも近いのですが、緑に包まれた参道を歩くなら地下鉄利用がお勧めです。
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北海道一之宮の『北海道神宮』は69明治2年(1869)年明治天皇の命により創建され、当初は「札幌神社」で、昭和39年(1964)に明治天皇を合祀して『北海道神宮』に改めています。北海道開拓時代にはロシア帝国に対しての”北の守り”を担い、大鳥居はロシアの方向に向いています。神社には大国魂神(おおくにたまのかみ)・大那牟遅神(おおむなちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の開拓三神と明治天皇が祀られています。大那牟遅神は大国主命の別名なので”いつもの”メンバーです。境内社の「開拓神社」には間宮林蔵ら開拓の功労者37名が祀られています。
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三笠市・旧空知集治館跡

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明治期の北海道開拓には多くの囚人達の労力が使われていました。明治14年(1881)政府は増大する政治犯や重罪人を収容するため月形町に「樺戸集治館」を建設し、金子堅太郎や内務卿・伊藤博文の=「未開の地に反乱分子や凶悪犯を隔離し、彼らの労力を駆使して開墾し自給自足させれば監獄経費の削減となる=との考えにより、囚人達に主要道路の開拓や炭鉱採掘に従事させました。「人権」なんてのは微塵もない時代です。伊藤博文や山縣有朋らの某先生の教え子は大賛成しています。武士でもない長州人(金子某は違います)には武士道など当然ながらありません。北海道の集治館は1881年には樺戸。翌1882年には空知。1885年には釧路。1891年には網走分監がの集治館が造られ、過酷な労働条件で開拓に従事しています。あまりのも多数の囚人たちが亡くなったため強制労働制度は廃止となっていくのですが…。
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旧市来知村(現在の三笠市)には当時を彷彿させるものは殆どありません。Pt↑↑)は空知集治館の所長官舎にあった「旧空知集治館典獄官舎レンガ煙突」です。たったこれだけといった感じです。Pt↑)のなんの変哲のない山は、現在では「観音山」とも呼ばれているようですが、旧空知集治館北側に位置し、集治館が設置された際には、山のかたちが奈良の三笠山(若草山)に似ていることから「三笠山」と呼ばれ、現三笠市の名称の起こりとなったようです。若草山に似ているは思えませんが囚人たちが娑婆を懐かしんだのでしょう。
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Pt)は「千人塚史跡公園」です。空知集治館には最盛期には3000人の囚人が収容され道路の開拓よりも、炭鉱の採掘に従事していました。想像を絶する劣悪な条件下での労働ですから、明治15~34年での20年間で1000名を超える死者があったようです。この墓所には明治25年(1892)までに死亡した965人の「合葬之墓」が明治29年に造られ、さらに廃監になるまでの193人の計1158人が合葬されています。月形の篠津山囚人墓地と比べるのも妙ですが、家族にも見捨てられて死んでいった人達と思うと感無量です。今回はこの空知集治館跡が主たる目的だったのですが、たまたまでしょうが、町で会った若い人はこの町が"三笠"なった経緯や監獄があったのを知らないと話しました。たった100数年前の事、驚きです。
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三笠市・三笠市立博物館

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札幌から1時間30分ほど、旭川に向かう途中に三笠市はあります。この「三笠」はこの地に「空知集治監」があった時代に”三笠山に似ている山”があるからで名付けられたようです。この地から1億年前のアンモナイトの化石が発見され、調査では5000万年前の石炭層と1億年前のアンモナイト地層が分布している地域であると判明しました。三笠市は日本ジオーパークに認定されてていますが、アポイ岳で触れたようにジオーパークには「日本認定」と「世界認定」がありその差は歴然としているようです。観光的には札幌市に近い三笠市の方が利があると思うのですが…。
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三笠ジオーパークを構成する『三笠市立博物館』の展示です。外観はごく普通の博物館ですが、天然記念物「エゾミカサリュウ」の化石をはじめ、収集展示された3000点を超えるアンモナイト化石群には見ごたえがあります。他にも炭鉱採掘資料や空知空知集治監、三笠出身の有名人資料などが展示されています。アンモナイト化石が目的ではなかったのですが予想に反して楽しめた博物館した。
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札幌市・北海道博物館

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札幌市厚別区・江別市・北広島と広大な敷地面積の「道立自然公園野幌森林公園」にある『北海道博物館』です。同公園には北海道の歴史的建造物をメインとした「北海道開拓の村」もあるのですが、両施設は3分/車ほど離れています。昭和46年(1971)に開道100年を記念して開設の”北海道開拓記念館”を前身として平成27年(2015)に”北海道立アイヌ民族文化研究センター”を統合して『北海道博物館』としてリニューアルオープンしています。前回訪問が2011年だったので愛称”森のちゃれんが”としてはお初となりました。
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自然の景観や重要文化財、世界ジオパーク認定と恵まれている北海道なのですが、「国宝」は函館の「函館市縄文文化交流センター」にある昭和50年に函館市市内で発掘された『中空土偶』が唯一のモノです。以前に土偶を見に函館まで行ったのですが、その10日後に東京国立博物館で展示される予定になっていて悔しい思いをしたことがあります。この愛称「茅空」土偶は人気者らしく出張が多いようです。もちろんこれはレプリカです。展示内容では散逸の傾向にあるアイヌ民族文化関連を統合したのは良いことだと思いますが、囚人達の強制労働による「負」の開拓史にや獣害に関するあたりがの展示は殆どありませんでした。
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平取町・義経神社

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富川から日高に向かう日高国道の途中に沙流郡平取町(びらとり)はあります。数日前は夕暮れが迫っていた為、後日の参拝となりました。この町には文治5年(1189)に奥州平泉で31歳で自害したとされる源九郎義経を祀る『義経神社』があります。「義経北行伝説」では源義経は竜飛から蝦夷地に渡ったとの伝承があり、推理作家の高木昭光氏の作品にもこの伝承を元にした「成吉思汗の秘密」という作品もあります。死んだはずの人間が実は生きのびていたという話は源義経の他にも豊臣秀頼や西郷隆盛などもあり「死んでほしくない」という感情の表れのようです。
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”逃亡者”の義経はこの地でアイヌ人に農耕や機織りの技術を伝え「ホンカンカムイ」という名前で崇拝したとされます。神社は寛政11年(1799)に徳川幕府から蝦夷地探検を命ぜられて近藤重蔵らにより義経が祀られたのが始まりで、室町時代の「義経北行伝説」から長い時がながれて”義経平取定住説”が確立されたようです。伝承でかたずけてしまえば終わりですが、近藤重蔵にしても”なんの根拠もないところ”に神社は建立しないでしょうから、少なくとも室町時代に本州から蝦夷地に渡って定住した人達がいたのでしょう。
本殿は山の中腹にあり鳥居から石段を登っていきます。実は40年位振りの参拝なので本殿へは車で行けるのを忘れていました。表現微妙ですが神社の佇まいには胡散臭さは微塵もありません。
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様似町・エンルム岬

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えりも町から国道336号(通称襟裳国道)を札幌方面への隣町が「様似町/さまに」です。最近は『世界ジオパーク』としてアピールしていますが、このジオパークには『世界』と『日本』があり、当然『世界』の方が胡散臭いシロモノと化した「世界遺産」より認定ハードルが難しく学術的な価値も高いようです。「ユーラアシアプレートと北米プレートが衝突した場所」と云われてもピンとこないのは困ったものです。
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様似町は海岸の奇岩断崖が約7㎞も続く『日高耶馬溪』の景観や特別天然記念物の『アポイ岳』など観光資源が豊富です。昔は陸から離れていたであろう標高70mほどの巨岩(?)が『エンルム岬・(アイヌ語=尖り頭)』は、今まで何気に通り過ぎていたのですが、途中までは車で登れ、そこからの”雲に隠れるアポイ岳”・”霞む海岸線の日高耶馬渓”や江戸時代からの様似漁港、湾何にはソビラ岩・親子岩・ローソク岩などが一望できます。夕陽の景観は絶景なんだそうですが、えりも岬と同様に強風の地であるようです(苦笑)。
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襟裳岬・2018 秋…(2)

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襟裳岬。住所表示は「北海道幌泉郡えりも町えりも岬」です。えりも町とえりも岬地区は20分/車ほど離れています。この距離でも天候がガラリと変わってしまうのは、不思議と云えば不思議です。気まぐれな天候に翻弄され一瞬の晴れ間にえりも岬まで行ってみました。
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当たり前ですが、Ptには温度やら風速は表現することはできても写り込みはしません。この写真を撮っているときには立っていられない程の風が吹いています。えりも=風の街、これがごく普通の日常、ごく普通の風景なのです。この辺りは雪があまり降らず、降ってもこの風で吹き飛ばされてしまいます。
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最近、ここから3時間/車ほど離れた胆振地方を震源とする地震がありました。1時間/ほどの浦河を震源とする地震も結構発生しています。えりも岬も同様かと思うとさにあらずのようです。岬から海中に没していく岩礁は日高の山脈が海に落ちていく姿です。つまり地殻構造が異なっているようで家屋や道路への被害は少なかったようです。
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とは云うものの、2-3日停電が続いたようでこれが一番困ったとの話を聞きました。携帯やスマホの充電ができなくなり。ソ●トバンク、a●、Do●omoの順で携帯基地局の蓄電池がアウトとなっていったたようです。Docomo以外は地方/田舎に弱いと云われていますが、正しいようです。岬から帯広方面が黄金道路(工事に莫大な費用が費やされた)経由で広尾の町。Pt↑)は岬から様似・浦河方面、苫小牧へ続きます。
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岬を背にするとこんな景色が見られます。この道を進むとバーベキューの店があり、さらにその先は自衛隊の駐屯地、レーダーサイトがあります。以前には金さんのミサイルがエリモ上空を飛んでいったこともありましたが、この景色を知っていると”アッそう”としか感じられません。この道を夜走ると鹿の群れに出くわすことが多々あります。暗闇に光る眼やライトの反射する眼はかなり不気味なモノです。
岬の駐車場から先端へ向かう道の地下には「襟裳岬風の館」という防空壕をのような地面をくりぬいた観光施設があるのですが、♪風がひゅるひゅる波はざんぶりこ♪こそがえりも岬!入ったことは事はありません(笑)。
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襟裳岬・2018 秋…(1)

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毎回、襟裳岬でお世話になる『クリフハウス・柳田旅館』の看板犬で名前は『コロ』です。今のご時世、こじゃれた名前の犬猫が多いようですが、先代の看板犬が歴代「タマ」だったので「コロ」とはある意味、犬らしい潔い名前です。実におとなしくて愛想のよい犬です。なが~いロープで繋がれていて行動はかなり自由のようです。苦手の人も居るとは思いますがクリフハウス・柳田旅館はペット同伴可です。
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襟裳岬にも神社はあります。Ptは『襟裳神社』でクリフハウスの前になります。ご祀神は「保食神/ウケモチノカミ」と早い話が稲荷神です。文化11年(1814)に嶋屋佐兵衛なるお方が保食神を祀り航海の安全と漁場繁栄の守護神としたと伝わっています。9月の祭礼では若集が神輿を担ぎそのまま海に入っていくという結構荒っぽい祭りだったような記憶があります。
廃線となった広尾線広尾駅から国鉄バスで最初に襟裳岬を訪れた日から50年近くの年月が過ぎました。その時は「俺たちは二度とここへ来ることはないだろう!」と思ったものです。まさかそれから再訪を繰り返すことになるとは(苦笑)。最初に泊ったユースホステルは廃業し、郵便局の場所も変わっています。
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雨降り飽きて・浦河

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広尾からえりも岬への「黄金道路」は一定量の雨が降ると通行止めになります。この日がその状態で強い雨のなか大樹町から「天馬街道」を浦河へ向かう事になりました。峠付近ではワイパーをフルでも前方が見えない状態、いやはやエライ事です。Ptでは天候回復のようですが少しの間の小康状態で1時間後にはまたもやの雨です。浦河町の「うらかわ優駿ビレッジAERU」は広大な敷地にホテルあり入浴施設ありの馬と自然にふれあえるやすらぎの里がウリの平成10年(1998)完成の施設です。数年前にチョットした事件がありましたがもう覚えている人も少ないでしょう。浦河町などが出資している三セク方式での経営で環境は素晴らしいのですが内地の人には「浦河町どこ?」でしょうし、札幌から3時間(車)の距離の浦河町にこの規模の施設では経営的にかなり難しいでしょう。入浴施設で休んでいると聞こえてくるのは天皇賞の話題ばかり、さすがに競走馬のふるさとです(笑)。寄り道になりましたがえりも岬までは90分ほど先です。
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