旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2019年04月

りっくんランド…(2)

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朝霞駐屯地の一角に昭和16年から終戦まで朝霞の地に在った「旧軍陸軍予科士官学校」を記念する「振武臺(しんぶだい)記念館」があります。元々陸軍士官学校は本科・予科共に「市ヶ谷台」に在ったのですが本科は神奈川県・座間(相武台)に予科は朝霞(振武台)に移転しています。元々この地は「肘折村」という地名だったのですが、皇族の「朝香宮鳩彦王」にちなんで「朝霞町」と改称されたそうです。Pt↑)の建物は座間の陸軍士官学校に在った皇族舎で1978年に陸軍予科士官学校跡のこの地(振武台)に移したものです。館内資料の撮影はできませんが、市ヶ谷記念館でも見られない資料が展示されています。陸士の面々は超々が付くほどのエリート集団で出身者の多くは第二次大戦後の日本の復興に活躍しています
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広報センターの庭には数台の自衛隊車両が展示されています。目を引くのが90式に続いて2010年度より配備された10式(ひとまるしき)戦車です。この車両も試作車とのことですが10式戦車のみ柵があり近寄れません。試作車とはいえ世界最強の戦車なので機密事項が多々あるのでしょう。90式と10式が並んで展示されているのは実は凄い事なのです。
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りっくんランド…(1)

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前回(2011.04)以来の「陸上自衛隊広報センター・りっくんランド」です。東京都練馬区・埼玉県朝霞市・和光市・新座市にまたがる広大な陸上自衛隊朝霞駐屯地ですが実際は練馬区の敷地面積が一番狭いのですが、諸範の事情により”東京都にある”事になっているようです。それでも旧軍時代に比べれば狭くなっています。前回は東北地方災害派遣の真最中の緊張感がありましたが、連休初日の今回は子供連れで賑わっていました。
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Pt↑)室内展示は大きく変わっていないようですが、戦車砲の射撃シュミレータや装備体験コーナー、フライトシュミレータは相変わらずの人気のようです。1階奥には配備当時は世界最強といわれた90式(きゅうまるしき)戦車がデンと置かれています。この車両は試作車とのことで配備車両とは若干異なるらしいですが、120㍉戦車砲の迫力はさすがです。戦車手前にあるのがアメリカ陸軍の「ベルAH1S・コブラ」で富士重工のライセンス生産機体でしょう。
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北区・旧古河庭園…(2)

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北区西ヶ原の「国指定名勝・旧古河庭園」です。都内屈指の薔薇園として知られ季節には様々な種類の薔薇の花が咲き乱れます。Ptは4/22なのでまだ”咲き始め”といった感じです(花は躑躅)。最盛期には薔薇の数より人の数の方が多い状態で、おちおち薔薇を楽しむなんて余裕なんんざぁありません。誰も人が映り込まない写真などはまず不可能です。旧古河庭園については以前に触れていますが、元々は陸奥宗光や古河財閥(足尾銅山の創始者)の邸宅で、旧軍のやイギリスに接収を経て国有財産となり、それを借り受けて東京都が運営しています。
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ただし洋館部分は(財)大谷美術館の管理で見学料も別途となります。大正6年完成の洋館は明治年間にお雇い外国人としてイギリスから招聘され、日本人の著名な建築家を養成した「ジョサイア・コンドル」の晩年の作品です。階段状の傾斜地に建ち、上段が住宅、中段がイギリス風薔薇園(コンドル作)、下段が日本庭園となっています。洋館が国から東京都へ管理が移管されたのが昭和31年。諸般の事情で30年間放置された幽霊屋敷状態が続き、平成元年に7年の月日を費やして見事に復元解放されています。
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築地・時の流れに

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(31.4.11)撤去作業の進行する築地市場です。PT↑)は朝10時頃の築地場外(ただの商店街)の模様です。さすがに賑わった時代に比べると客足は落ちているようですが、混雑する時間帯が変化が見られ9時頃の観光客は確かに減っていますが、外国人観光客はそうは減っていないので、雰囲気的には「外国人だらけ」のようです。所詮は築地や浅草に溢れる外国人旅行者は貧乏人ばかりで売上げの伸びは多くは期待できません。11時に近づくと日本人観光客が増えてきます。『築地で旨い鮨を安く』を期待しているのでしょうが『馬鹿をいうな!旨いモノは高い!』これが世間の常識です。
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東京オリンピック後は市場の跡地に食のテーマパークを造る、国際会議場を造る、等々すったもんだの築地場内市場跡は撤去作業が進行中です。豊洲の建設費の6000億(推定)のうち2000億を築地土地売却益で補填するとういう構想は話題にもならなくなりました(笑)。この場所に「カジノ」を造れば胴元の東京都は大繁盛。負債など数年で解決なのですが。
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ブートCDの裏通り・65

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2019.4.13よりエリック・クラプトンの日本武道館5日間公演が行われています。御大の初来日は1974年なので遥か45年も前の事なんですねぇ。確か前々回の来日では痛風(?)の症状が悪化ということでまさに”神は死んだ”の状態でした。その後は持ち直すものの数曲のボーカルをメンバーに任せるなど衰えは隠せないようです。暫くはEC公演に行ってはいませんが、鮮明に覚えているのが1974年のマーチンを持って(ある意味愕然とした)登場の初来日とギターにデレク・トラックスとドイル・ブラムフォールⅡ。ベースがウィリー・ウィークス。ドラムがスティーブ・ジョーダン。大番頭のクリス・ステイントンを擁した2006年公演です。ギター3本に最強のリズム隊。クラプトン・バンドとしてはこれ以上のメンツはありません。この年の日本公演がECピークだったかもしれません。
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西新宿の某店で今回の「来日記念盤」と称して12/06.08.09の武道館3日間の12枚組が登場していました。既発の3枚(Pt↑)に同日に別音源(Dat)を加えたブツです。迷ったのですが最強の2006年武道館の魅力には勝てません。2006年は当初のヨーロッパこそおとなしいものの11月の日本公演の途中から曲目が変化し12月のラスト3日間は殆ど”ドミノス大会”ですからたまりません。新音源は現在のだったら他店舗のギフトレベルのも含まれていますが、それでも久々の2006年武道館は良いもんです。EC御大はギターにアルバート・リーやらマーク・ノップラーが入ると剥きになって弾き倒す大人げなさがあります。今回の公演にはドイル・ブラームフォールⅡがいるので、それだけは楽しみですねっ。

面影橋から…(2)

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面影橋を渡り鬼子母神方面への坂道(宿坂)を歩きだすと新宿区から豊島区に変わります。ほんの数m進むと「高田氷川神社」があります。関東の人には身近な氷川神社ですが、高田氷川神社のご祀神は『素盞嗚命』とあり『奇稲田姫』を祀る下落合氷川神社が女体神社に対しこちらは男体神社であったようです。過去に大問題でもあったのでしょうか(?)鳥居下には【御神域の清浄を保つため無断写真撮影・ペットの入場・自転車等の乗入・喫煙を禁止します】の表示があります。写真撮影の礼を知らない人がいるとしても【無断撮影禁止】とは…。とんでもなく社格が高いようです。
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高田氷川神社から数歩距離に真言宗の「南蔵院」があります。このお寺はが初代・三遊亭円朝の代表作である怪談・乳房榎の舞台として知られています。「怪談・乳房榎」は絵師の菱川重信が南蔵院での龍の天井画で多忙の折に、妻のおせきが弟子といい仲になり、2人の共謀で菱川重信は殺害されてしまいます。重信の遺児の真太郎は榎の樹液を食して成長、重信の幽霊と一緒に仇を討つという話ですが、牡丹灯籠や真景累ケ淵との怪談話三大作です。
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江戸のお不動さんとなると「目黒不動」が有名ですが、この不動尊は「江戸五色不動」といわれ、江戸寛永年間の中ごろ3代将軍・家光が天海僧正の具申により江戸市内の江戸城鎮守のため目黒・目白・目赤・目青に目黄を加え「五眼不動」としたものです。真言宗・金乗院の境内にあるのが五不動のうち「目白不動」です。とはいっても元は文京区にあり昭和20年の戦火により寺が消失、この地に移って来たようです。境内には将軍のご落胤を語って江戸幕府にテロ行為を仕掛けた「油井正雪の乱」の片割れ槍の名人「丸橋忠弥」の墓があります。
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面影橋から…(1)

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荒川区・箕輪から早稲田までの都電荒川線(東京さくらトラム)の終点、早稲田の1つ手前の駅「面影橋」は路線屈指の「響きの良い」駅名で、桜の季節には神田川沿いの桜並木には花見客で賑わいます。「面影橋」の地名はフォークソングやら演歌やらのタイトルにもなっていますが、あの昭和の名曲「神田川」は作詞者の喜多条は早稲田大学のOBのこともあり(中野には神田川の歌碑もあるようですが)歌の世界観はこの付近のような気がしてなりません。
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「面影橋由来」によると、昔、目白台から続く鎌倉街道と推定される古道の街道沿いに姿見の橋との橋があり、歌人の在原業平によるとの説や将軍家光が名付けたとの説や果ては意味不明の俗説もあるようです。姿見の橋と面影(俤)橋は別の橋であるとの説なんてのもあり、つまりは”わからん”ということなんです。
新目白通りから1つ入ると天照大神を祀る天祖神社があります。天保2年(1645)元豊臣家の家臣小泉源兵衛による創建されています。鳥居脇には”犬猫との立入禁止”の看板があり、犬を伴っての散歩はあるでしょうが猫を伴ってはありますかねぇ(苦笑)。猫に向かって”あなた入ってはいけません”は有効でしょうか?なんとも微笑ましい看板です(笑)。
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雑司ヶ谷・大鳥神社

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大塚方面からの都電荒川線が鬼子母神前に着く手前に線路沿いに見えてくるのが、雑司ヶ谷「大鳥神社」です。ご祀神は日本武命(やまとたけるのみこと)・倉稲魂命と七福神のうちの恵比寿天(蛭児大神)となっています。元は鷺明神と称し雑司ヶ谷の鎮守の鬼子母神境内にあったのが、明治維新時の神仏分離令によりこの地へ移り、鬼子母神に変わって雑司ヶ谷の鎮守となったようです。この付近は実に道が入り組んで複雑に交差したりしています。明治通り沿いにはPt↓)の「参道」と書かれたアーケードから神社までは結構な距離があります。昔は鎮守の神様として広い社地有していたのでしょうか?
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都電の車窓から見かけるだけで今回初めて訪れました。神社の由緒には面白い歴史があるようで、神仏分離令で鬼子母神境内から分かれても鎮座地を確保するのが困難で明治年間半ばまで借地であったそうです。神社が借地とはあまり聞いたことのない話ですが、珍しくなかったのかも知れません。興味深いのが拝殿前と鳥居前の狛犬です。拝殿前の狛犬は頭に角のあるタイプで、鳥居前には狛犬というより唐獅子のようでこの迫力なら魔物も退散するでしょう。
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雑司ヶ谷・鬼子母神堂

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豊島区江雑司ヶ谷の【鬼子母神堂】です。この鬼子母神堂の「鬼」の字は変換不能なのでPt↓)を参照してください。都電荒川線鬼子母神前が最寄り駅なのですが、いつまにやら都電荒川線は東京桜トラムと言う名称に変わっているのですがどうにも馴染めません。都の天然記念物の欅参道を抜けて鬼子母神堂へは徒歩3分程度です。この欅並木は昭和の初めには樹齢400年の欅が18本程度あったそうですが、現在は数本を残すのみとなっています。
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鬼子母神は安産・子育の神様として民間の信仰対象となってきました。雑司ヶ谷鬼子母神も縁起は室町時代まで遡り、現在のお堂は寛文4年(1664年)に建造で、昭和35年に都の有形文化財の指定を受け、昭和51年の大修理により復元されたものだそうです。とは云うものの、いかにも再建しましたという感じは受けません。石像や建築物の風化の具合など年月の”味”があります。
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Pt↑)は境内の「上川口屋」という店で、創業が1718年(江戸時代です)の都内最古の駄菓子屋さんです。TV番組では必ず映されますから見たことのある方も多いでしょう‥。この日は平日だったので閑散としていましたが、これは映画のセットではありません。現役で営業中です!
・鬼子母神堂の額。「鬼」文字が少し異なります。・境内社の「武芳稲荷」です。武芳稲荷の敷地に鬼子母神堂が造られたあります。・都内有数の樹齢700年とされる迫力ある大銀杏です。
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新宿区・早稲田大学

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実際のところ早稲田大学とは縁も所縁もないのですが、たまたま通りかかったら入学式が行われており、ごく軽い気持ちで学内をウロウロして来ました(苦笑)。Pt↑)は有名な「大隈講堂」です。正式名称は「早稲田大学大隈記念講堂」で「早稲田大学21号館」とも表記されるようです。昭和2年(1927)の建物でイギリス建築の影響を受けたチューダー・ゴシック様式とロマネスク様式の折衷で重要文化財指定とありますが、まぁそんなもんなんでしょう(笑)。
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ガウン姿の立像は創始者の「大隈重信像」で、大学創立50周年&大隈没後10回忌を兼ねて昭和7年(1932)に造られています。佐賀藩士として生まれた幼名八太郎は新約聖書やアメリカ独立宣言の強い影響を受け、明治政府では日本憲政の重鎮として活躍されていますが、薩摩の大久保、長州の伊藤博文・井上馨らとのあたかも殺し合いのような権力争いを繰り返していました。その割には意外と長生きで享年85歳で胆石症で亡くなっています。
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当時の早稲田大学高等英語学校出身(中退)の「杉原千畝」。リトアニアのカウナス領事館に第二次世界大戦中に大使として赴任、ナチスの迫害を受けた難民に日本国外務省の訓令に従わず6000人にのぼる大量のビザを発給したお話はごく近年になって注目されてきました。氏の功績と没後25周年を記念してレリーフが平成12年に造られたものです。
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学内でも一種独特の雰囲気の建物が「早稲田大学坪内逍遥博士施年演劇博物館」です。シェークピア関連の蔵書や演劇関係の写真・衣装・文献なのが収蔵されているのですが、残念ながら現在は改装工事中です。Ptでみると極力映り込みを避けていますが、入学式と各サークルの新入部員勧誘で校内は歩くのもままならない程の混雑と騒音でした。

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