旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2019年05月

浅草寺・鎮護堂

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浅草寺の鎮護堂、2018.01.22以来の2回目です。台東区教育委員会の至極簡単な案内板がありますが、書かれていない面白いお話もあったようです。そもそも浅草寺の鎮守が「鎮護大使者」=「狸の神」というのも面白いのですが、彰義隊の上野戦争から逃れてきた83匹の狸軍団(西国から来たようですが出身地は不明)は浅草寺裏の雑木林に住み着いたのですが、寺の拡張でこの住みかも追われることとなります。頭にきた狸たちは反抗的になり様々ないたずらで仕掛けるようになり、浅草寺用人の家では天井から石を落としたり落ち葉をまき散らしたりの狼藉や家の娘に憑りついたり大暴れを繰り返したそうです。このいたずらの模様は明治時代の「東京日日新聞」で報じられたのですから”さぞや”のものだったのでしょう。
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1883年頃に浅草寺と上野寛永寺のお二人の僧正様の夢枕に狸公が現れ「我に住みかを与えれば火伏の神となろう」と告げていきます。この縁により僧正様達の発起でこの鎮護堂が造られることとなります。「鎮護大使者」の称号は浅草寺の僧正様によるもので浅草寺の火伏の鎮守とは狸公達も大出世です。見ることはできませんが、祠に祀られているご神体は白狐に跨った「茶吉尼天」なんだそうで仏教系稲荷社のご神体と同じです。「鎮護堂・狸神」のご神体が「稲荷神」とは、なんだかか複雑模様です。祠前にはあちこちに狸の像が見られます。光量不足で見えにくいですが並んでいるのは「縁起物/ご神体」の像で3種の姿(1体 ¥1500)があります。
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新宿区・聖徳記念絵画館

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新宿区霞ヶ丘町の「聖徳記念絵画館」、大正15年竣工の”絵画館”と表現される建物です。明治45年に糖尿病の悪化による尿毒症で61歳で崩御された明治天皇と皇后の生涯を描いた日本画40点、洋画40点の当時の名匠の作品が展示されています。勝・西郷の江戸城無血開城の絵など有名どころもあり見どころも満載です。当時の皇国史観による作品ですから突っ込み処もあるのですが、これはこれで有りです。聖徳記念絵画館を含む明治神宮外苑は、明治天皇の大喪が行われた青山練兵場の跡地で明治神宮と同様に全国からの寄付と勤労奉仕により完成したものです。
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この建物は横:約112m、幅:約34m、高:約32mで、ドーム部分中心に左右対称形になっています。外観は花崗岩が張付りですが、大理石を多用した内部意匠は当時の西洋の最新技術とデザインとなっています。この石材によるデザイン構成も大したもので充分に見ごたえがあります。この記念館は日本国の近代化の象徴であり伝統文化の継承者である明治天皇の2面性を象徴しているともいわれているようです。神宮外苑といえばの有名な銀杏並木は記念館へと続く並木道です。玄関からの眺望は、外苑がいかに広大な敷地を有していたかが偲ばれます。
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狸の守護神・柳森神社…【令和】

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昔柳森神社の近くには不忍の池に匹敵する広さの「お玉が池」がありました。池の埋め立てがすすみ柳原土手への立退きを余儀なくされた狸親子が自分らを祀ってくれるなら親は「福」を,子は「寿」を授けるとの申出により、太田道灌が江戸の鬼門除けとして伏見稲荷から勧請した柳森神社に合祀されることになりました。Pt↑)が柳森神社(稲荷社)の境内社の福寿神の社殿です。賽銭箱と社殿下方には一対の狸の像があります。解説板には桂昌院に纏わるがかかれ、旧お玉が池の狸親子の話はありません。Pt↓)は2012年末頃に授けられた狸親子の縁起物です。柳森神社社務所ではなく近所のお扱い店で手に入れたのですが、現在はその家もなくなっていて親子狸像自体も滅びているのかも知れません。
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狸にまつわるもう一つの話として有名なのが徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の話で、京都の八百屋の娘から将軍の生母迄出世(他を抜く)した桂昌院にあやかろうと大奥内で厚く信仰されていました。大奥で祀られていた福寿狸大神は後に旗本瓦林邸に移り明治年間に柳森神社へ合祀されたようです。ということで神使きつねの稲荷社に狸神(福寿狸大神)が祀られている妙といえば妙な話の道筋が見えてきました。Pt↓)にある鳥居は福寿神の社殿に正対していて稲荷社の鳥居ではないようです。鳥居左右の狸像は右の像が「福寿狸大神」のようです。
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牛天神北野神社と貧乏神…【令和】

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平成23年11月に始めたブログも令和へと時が流れました。様々な名所旧跡や寺社仏閣を訪れてきましたが、今となると勉強不足の記事も多々みられます。そこで【令和シリーズ】として、以前の記事項のうちその後見聞きした説があれば追加修正して行きたいと思います。「令和」の第1回目は文京区春日の「牛天神・北野神社」です。1184年頃に東国追討に赴いた源頼朝の夢に「菅原道真」の姿が現れたという伝承から神社は創建されたとあります。社殿前の牛に似た岩石が「撫で牛」の始まりとも言われそれはそれで興味深いのですが、お隣の「太田神社/高木神社」とくに太田神社には貧乏神(疫病神)が祀られていたという珍しい神社なのです。
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江戸時代、貧しい旗本家に取りついた貧乏神を主が祀ることにより貧を逃れられ、その祠を牛天神に移したところ人々に貧乏脱却信仰が広まったあります。この貧乏神は「黒暗天石祠=黒暗天」という神で、吉祥天の妹ですが美人の誉れ高い姉と違って残念な容姿の閻魔大王の3人の奥方の1人なのです。明と暗、陰と陽など物事の裏表をなす神様姉妹でエンジェルとルシファーと同様のようです。明治以前は太田神社の主祀神として祀られていたのですが流石に貧乏神を祀るのはまずかろうで祀神が伝説のストリッパー「天宇受賣命/アメノウズメノミコト」と旦那の「猿田彦命」と変り芸能関連の神として信仰を集めます。日本の神社ではご祀神が事情により入れ替わるのは珍しいことではないのですが、この入れ替わりは良く判らないものがあります。はたしてご祀神(元)の貧乏神信仰は令和の時代に引き継がれてるのでしょうか。令和シリーズではこんな話も探していきたいと考えています。
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