旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2019年06月

文京区・護国寺…(2)

190625_01
文京区大塚の真言宗豊山派の護国寺(神齢山悉地院大聖護国寺)は東京メトロ有楽町線護国寺駅の上にあります。創建は1681年、超マザコン将軍の徳川5代将軍綱吉が母親の桂昌院の願いにより桂昌院に祈願時として建立を命じたとされます。元禄10年(1697)建立の本堂、昭和3年に旧園城寺より移築された月光殿はをはじめ多くの重要文化財を有していますが、切妻造りの「仁王門」は元禄10年の本堂よりやや時代が下るも正面側の阿吽の金剛力士像、背面には増長天と広目天の仏像が置かれています。仁王門から本堂へ向かう石段途中には「不老門」は昭和13年(1938)の建立で鞍馬寺の門を模したとされます。Pt↑)の本堂・観音堂は元禄10年(1697)の正月に建設の幕命があり僅か半年の工期で8月には完成、落慶供養が行われています。これだけの建造物が将軍綱吉と桂昌院のの命によるとしても、半年で完成とは大変な技術ですが、300年超の年月を経て目の前に存在していることに驚きを感じえません。
190625_02
明治期以降徳川家との関係が絶えると、皇族や一般人の墓所となり、三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信など著名人の墓所があります。個人の墓所には関心がないのですが、興味深いのが大正11年(1922)に85歳で亡くなった「大隈重信」の墓所と長州の成上がり者・山縣有朋の墓所が極近い場所にあります。大隈重信は30万人が参列する「国民葬」で、3週間後の山縣は”人影もまばら”と両者の人気のほどが判ります。明治維新の功労者でありながらパッとしない公家出身の「三条実美」の墓所もあり、この方々に比べれば「ジョサイア・コンドル」は小物にすぎません。
Pt↓)こんな所に「からすの赤ちゃん」の歌碑です。大隈重信の墓所は故郷の佐賀と護国寺にあります。
190625_03190625_04190625_05

関東総司・妻戀神社

190624_01
施政者の都合や道路拡張などの理由で神社の鎮座地が移転する事はそう珍しい事ではありません。「関東総司」を掲げる文京区湯島の『妻戀神社』の場合は更に福雑な歴史があるようです。江戸総鎮守・神田明神の裏手でラブホテル街に(失礼ながら)慎ましく鎮座する『妻戀神社』に以前の『王子稲荷』と稲荷関東総社を競ったことは想像できません。神社案内板によると、ご祀神は倉稲魂命(稲荷神)・日本武尊・弟橘媛命の三柱とあり、日本武尊の東征途中で別離した妻を偲んでこの地に祀ったのを起源とするとの記載があります。この話は後年に創作されたものらしく、それ以前は妻戀稲荷大明神と称して元々は平将門の縁者を祀ったのが祖のようです。
190624_02
江戸時代になると妻戀神社は「正一位妻戀稲荷大明神」とよばれ、同名の偽神社までが造られるほど繁栄したそうです。徳川将軍家の庇護も厚くうけ、後付け的な日本尊命の伝承もこの頃からのようです。稲荷社の「関東総社」は弘法大師の時代に朝廷より関東総社の地位を与えられ各地の分社を認可できる総纏めの威光を有し、今でも妻戀稲荷から分霊した稲荷社が数多く存在するようです。王子稲荷との「関東総社」の称号をめぐり寺社奉行の裁定をあおり妻戀側が敗訴したなんて伝承もあるようです。
190624_04
残念な事には『妻戀神社』は関東大震災・東京空襲と二度の災害で崩壊してしまい、「正一位稲荷大明神」や「日本尊命」伝承などを裏付ける記録は一切が失われてしまったようです。失礼ながら、現在の神社の姿から参拝客で賑わった時代があったとは思えません。それでも消え果ることなく今もそこに神社があるのは素敵なこ事だと思います。妻戀神社は正月初夢の「宝船の絵」を配布する神社としても有名だったようです。この辺りも良く判らない話なのですが(苦笑)。
190624_03190624_05190624_06

ブートCDの裏通り・66

190617_01
あたかも「最後、最後・詐欺」の感じになってしまったECは2019.04/13・15・17・18・20の日本公演を終え秋までは休養かと思っていたのですが、予想に反して5/13・15・17の3日間、ロイヤル・アルバート・ホール(RAH)に登場しました。最近は公演日からブート発売日までがやたら早くなり1ヶ月もしないうちに全日程が発売されてしまいます。なんと!大変残念ではありますが、ロンドン3日間は大変よろしい出来で東京5日間とは地元ならではなのか「エリック!やればできるじゃないか!」と突っ込みを入れたくなるほどのデキです。マンネリ曲(?)が外され、想定外の曲が演られています。東京公演はロンドンのリハだったのかと勘繰りたくもなります。どなたかの意見ではありますが日本公演→ロンドン公演→ヨーロッパツアーときて秋のクロスロード・フェスで完全引退のような気がしないでもありません。
190617_02
直近の日本公演、ロンドン公演ではエレピのクリス・スティントンがソロが何故か気になります。調べてみるとクリス・スティントン(75歳)はECバンドとしての日本公演では79・81・85・93・95・97・99・03・06.・09・11・14・16・19のメンバーです。バンド在籍日数としては断トツで、それだけECの信頼が厚いのでしょう。映画ウッドストックで、ジョー・コッカーのバンドとして痩せた長髪のにいちゃんとして見たのが最初でした。リオン・ラッセルとの「マッド・ドッグス&イングリッシュ・マン」ではリオン・ラッセル、カール・レイドル、ジム・ゴードン、ジム・ケルトナー、ジム・プライス、ボビー・キース、リタ・クリーッジなど後の大物たちと、グリース・バンドから1人だけ参加していました。オールマンズの裏切り者ほどの派手さはないにしても、今回のロンドン公演のCrossroadsでは12v、Lottle Queen Ofでは24vエレピ・ソロをかましてきます。ECの「クリス・スティントン」と紹介する声はとてもいい感じです。
190617_03
現在、最強のライブバンドは「テデスキ・トラックス・バンド」でしょう。マッド。ドッグス(20名)まだはいかないでも、PT↑)の2019.04のロンドンでは12名編成バンドで、オールマンズの血をひきながらも、リオンラッセルの発展系のような気がしてなりません。ブルースのみならず何を演るのか予測できない面白さ、演奏力に確かさ(なによりデレクのスライド)。Ptの2019.4/26・27のロンドン公演も2日間でダブル曲が殆どないというすさまじさ(笑)。当然出るでしょうがテデスキ・トラックス・バンドの日本公演のブツが楽しみです。

就職達成・亀ケ池弁天

190616_01
北区赤羽西の「亀ケ池弁天」です。昨今人気の"朝っぱらから酒が飲めるで"人気なのは赤羽駅の東口側で、亀ケ池弁天は駅の西口側になります。東口に比べて西口は商業ビルが2軒とイトーヨカードと特徴の薄い駅前感です。赤羽付近は昔から工場が多く夜勤明けの人達の”朝から一杯”の文化があったのですが、数年前から真昼間から若いねぇちゃん達が酔っぱらう街となったようです。TV放映が後押しする街の姿ってのはどうにも違和感があります。赤羽駅西口側は大きな変貌を遂げた街で上野からの馬の背状大地の終りあたりで坂道の多い街でした。付近には旧軍の火薬庫や被服工廠があり近衛工兵大隊や第一師団工兵大隊の駐屯地がなど軍施設が沢山あったようです。
190616_02
軍施設があった街なら料亭や遊郭があったのでしょうが、今はその面影すら見つけることができません。恐らく「亀ケ池弁天」への参道はバス停の「弁天通り」にかろうじて見つけられました。関東大震災以前にはこの弁天通りに面して大きな池があったそうです。昭和58年10月吉日とある案内板には近くの静勝寺より勧請したとあります。案内板には特別記載がなかったのですが、「新卒者が希望業種への就職を祈願」つまり「就職達成」のご利益があるとされていますが、どこがどうしてそうなのか手掛かりすらありません。Ptのように町屋の囲まれたこじんまりとした弁天堂ですが池には亀(外来種多数)いるなど、時代は変遷していっても大切にされてきた様子です。
190616_03190616_04190616_05

世田谷・豪徳寺・猫…(弐)

190613_01
「豪徳寺」は曹洞宗の寺であり、招き猫は境内の招福観音堂の祀られる「観世音菩薩」の眷属という関係になります。観音堂には「招福猫児(まねぎねこ)」という参拝者が奉納した右手を上げた素朴な白い猫建が休んでいまが、その数はとんでもない数になっています。よく聞かれる招き猫伝承は、【吉良家の庇護を消え没落していた時代に住職が猫(タマ)を飼っており、ネコに「この貧乏寺をなんとかできないか」と無理難題を語りかけていました。そんなおり付近を通りかかった井伊直孝一行がタマ(猫)の招かれて突然のゲリラ豪雨から避難できたという事件があったそうです。これを縁に弘徳院は井伊家の菩提寺として「豪徳寺」と改名するなど庇護を受けるようになった】 内容に多少違いはあってもよく知られる招き猫伝承はこんな感じなのですが…。
190613_03
この招き猫伝承は江戸時代の文献資料には見当たらないのだそうです。無理のないことで、招き猫伝承は明治維新後に井伊家の庇護(スポンサー)を失った豪徳寺が参拝者誘致のため寺の関係者により創作された物語のようです。実によくできたお話で貧乏寺の住職、飼い猫の恩返し、井伊の殿様と井伊家の庇護、招福観音信仰、眷属の猫の人形と登場人物やストーリーの一貫性などお見事な完成度となっています。次第に花柳界を中心に招福信仰として広まり「タマの墓」や「供養塔」まで創られてたようです。さらには今にいたっても参拝者が多く訪れる、創された伝承だったとしても、猫(タマ)がもたらしたお寺繁栄の話なのだと充分に得心がいきます。・三重搭の干支、ねずみ年部分は猫+2匹のねずみとなっています。・飲料の自動販売機にも招き猫の絵が…。縁起物の由来書と招き猫人形(2号)と猪年の絵馬です。
190613_04190613_05190613_02

世田谷・豪徳寺・猫…(壱)

190612_01
世田谷区・豪徳寺は「招き猫発祥の地」として有名です。ある書籍でこの「発祥の地」についての異なる説を見つけたので、久しぶり(2015.01以来)に出かけてみました。豪徳寺は山号が大渓山豪徳寺の曹洞宗のお寺ですが、昔、この付近には忠臣蔵の吉良氏の流れ(?)の武蔵吉良氏の世田谷城があり当時の吉良氏の当主吉良政忠が叔母の弘徳院のために臨済宗系のお寺を創建したのが始まりとされるようです。武蔵吉良家が没落した後、寛永年間(1633年頃)にこの地を与えられた井伊家が伽藍を創建するななど整備され、井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」により「豪徳寺」と改められました。井伊家代々の菩提寺で「桜田門外の変」のテロ事件で暗殺された『井伊直弼の墓所』は国の史跡となっています。
190612_03
久々の豪徳寺は緑が映える季節でもありしっとりとした雰囲気に溢れていました。ご多分に漏れず外国人が多くみられますが、この連中に「桜田門外の変」など興味が有るわけなく、お目当てはWebで検索しての「招き猫」なのでしょう。詳しくは次項にしますが、以前から「豪徳寺招き猫伝承」には”待てよ”と思う点がありました。今回の異なる伝承にふれて疑問が氷解したような気がします。
190612_02190612_04190612_05
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ