旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2019年07月

靖國神社・彗星艦上爆撃機

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靖國神社遊就館の零戦52型展示ホールより館内へ入るのは久しぶりです。遊就館にはペリー来航から太平洋戦争の終結までの日本国が関わった戦争の歴史が展示してあります。徳川~明治の年間は長州史観による展示で納得できない部分も多々あります。昭和の戦争の展示は胸に迫る内容も多く奉納された「花嫁人形」などは涙を禁じえません。写真や手紙など個人による展示の多くは撮影禁止ですが、大展示室だけが撮影が許されています。
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この旧軍機は、「海軍航空技術廠」と「愛知航空機」による艦上爆撃機「彗星一一型」です。零戦や隼に比して知名度の低い旧軍機ですが、陸軍の「飛燕」と同様に水冷エンジン(熱田発動機)を搭載した画期的な機体で同型の「二式艦上偵察機」を含め2253機が造られています。資料によるとこの機体はテレビ局の企画により昭和55年にヤップ島から回収されて復元された機体です。平成28年に再度の修復工事が行われオリジナルに近づけています。旧軍戦闘機以外の艦上爆撃機の展示は珍しく日本唯一ではないでしょうか(?)
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吊り下げられている機体は、ロケット式推進機の「桜花」です。質感が判りづらいのですが恐らくレプリカでしょう。爆撃機の一式陸攻に吊り下げられての出撃模様の展示もありますが、10数回の出撃で桜花搭乗員55名死亡に対し親機の搭乗i員は365名が戦死しているそうです。出撃したら必ず死ぬ為に造られた航空機なんてあり得ない機体があったのです。「狂気」という言葉で終わらせるにはあまりにも悲しすぎます。 Pt↓)これも地味ながら貴重な「九七式中戦車」が展示されています。サイパン島から帰還した車両との事ですが、現在の陸自の一〇式戦車に比べるとトラクター程度にしか見えません。「桜花」と同様”必死兵器”の「人間魚雷・回天」の実物です。
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靖國神社・零戦52型…(2)

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九段の靖國神社。この『靖國』が神社名の正しい表記で『靖国通り』の表記とは異なります。つまりは靖國神社の『靖』のつくりの青の下は「月」ではなく「円」で、國は旧字を使っています。それはともかく、久々に靖國神社遊就館の零式艦上戦闘機52型を見てきました。九州・広島・愛媛・岐阜と旧軍戦闘機を見てきましたが振り出しに戻ってきた感があります。
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[2011.06]の稿でも簡単に触れていますが、この機体は旧ラバウル基地に放置されていた機体を昭和49.年に回収、傷んでしまった部品を他のヤップ島などで回収された機体の部品で補填、20年の歳月をかけて完成させたもので、復元制作者の河口湖自動車博物館より平成14年に寄贈されたものです。零戦は三菱と中島飛行機で1万機以上が造られ、この機体には三菱製である機体番号表記と三菱零戦の塗装がなされています。
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零戦には試作機の十二試艦戦・21型・22型・32型・52型等があり映画撮影用のレプリカを含めると各地に残存している機体は52型が多いようです。大刀洗の32型や河口湖の21型は貴重な零戦といえます。Pt↓)は機体番号表記と主脚部分には製造会社の検査表と取扱い要綱が貼られています。この辺りはマニアの世界に踏み込むことになるのでやめておきます。
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岐阜城は麓から見るもの

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【名古屋航空博物館&城巡り最終回】この地に稲葉山城(金華山城・井の口城)を築かれたのは1201年(建仁元年)二階堂氏によります。1567年(永禄10年)美濃の斎藤竜興を滅ぼした織田信長は本拠地を小牧からこの地に移し「井の口」の地名を「岐阜」と改めています。以後、城主は変遷して1601年(慶長6年)に徳川家康により廃城となります。天守の復興は最初に明治43年(1910)に再建されるもこの天守は昭和18年(1943)に失火消失、昭和31年(1973年)に鉄筋コンクリート建築で再建、平成9年(1997)の改修を経て現在となります。平成18年(2006)には”日本100名城No39”に選定されてはいますが、オリジナルとはまったく異なる天守となっているようです。
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「岐阜城天守」は標高329mの金華山(稲葉山)の山頂にありますが、歴代の城主は山頂の天守を住まいとして訳ではありません。麓から天守まで登り約1時間では冗談ではありません。山麓駅から「金華山ロープウェイ」で約4分、山頂駅から徒歩10分ほどで再建天守へ着きます。地元歩こう会のお歴々は「麓から45分」と豪語していましたが、まさに冗談ではありません。金華山の麓には鵜飼で有名な長良川がとうとうと流れています。長良川温泉から鵜飼船越しに見上げる金華山と岐阜城天守は良い雰囲気だったのですが、やはりこの景色は麓から見るものでした。ロープウェイ山麓駅近くには、明治15年(1882)に自由党党首の板垣退助が暴漢に襲われた現場で、大正6年(1917)に建てられた碑と銅像あります。「板垣死すとも自由は死せず」は有名な言葉ですが、これは当時の新聞記者の捏造で土佐弁で「かあちゃん痛いよ!」がせいぜいでしょう。それよりも山麓駅の大きな絵(!)はアニメにもなった「ルドルフとイッパイアッテナ」です。そういえば黒猫ルドルフの生まれ故郷は「岐阜」なのです.。
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岐阜駅近くには…。

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夜の繁華街で見かけても違和感のないチョット雰囲気の違うこのポスターは、大垣市に本店のある地方銀行「大垣共立銀行」の店頭ポスターで「OKB3」というユニットです。女子行員ではなくモデルさんでしょうが、何をイメージしたのかは一目瞭然(!)、「OKB3」は云うまでもなく「Ogaki Kyoritu Bank」の略です。地銀とは云えこの感性はたいしたものです。東京中央区の東京支店でこのてのポスターを見たのですが「サラ金じゃあるまいし」と驚いた記憶があります。時系列は判りませんが女子行員による「OKB45」なんてのもあるそうです。このポスターにつられて利用する人はいないでしょうが、地元の岐阜で見かけると妙に感激してしまいました(笑)。
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このあたりは東海道新幹線は「岐阜羽島」方面を走りJR岐阜駅には東海道本線と高山線だけで、名鉄線は駅舎が違う場所にあります。そう思うとやたらと広い駅です。駅舎を背にして見るとなんだか妙なモノが目に入ります。最初は”筋肉マン”の像かと思いましたがよく見ると「織田信長公」です。岐阜だけあって信長公なんでしょう。この像は2009年に岐阜市の市制120周年を記念して造られたようです。高さ3m、台座込みで11mもあり、マント姿で兜と鉄砲を持ってまでは良いのですが、なんだって黄金色とは(笑)。Pt↓)JR岐阜駅と名鉄岐阜駅は200mほど離れています。JR岐阜駅にあったステンドグラスは黄金の信長像よりよい感じです。
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何のことやら大垣城

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時間に余裕ができたので「水の都」と宣伝している大垣へ行って見ました。大垣城や歴史的建造物も豊富との触れ込みですがどうなんですかねぇ。大垣城は関ヶ原の戦いで豊臣方の石田三成の本拠地となった城で、太平洋戦争の空襲で焼失、現天守は1959年に再建されたものですが、オリジナルと異なる姿だそうで館内は資料館となっています。観光のシンボル的な存在ですが各地で天守が復元されますが原型とは違う天守を再建する必要ってあるのでしょうか?
大垣城に付属しての駐車場は一切なく、その旨を案内するインフォもありません。しらばっくれて某施設(裁判所)に停めたのですが、駐車場探しで無駄に時間を費やし、城以外を観光する気持ちはすっかり失せてしまいました(苦笑)。
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来ました国宝犬山城

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現在天守が国宝に指定されている城は【松本城・彦根城・姫路城・松江城&犬山城】の5城あります。その他に造られてから現代に至るまで修理など繰り返すもオリジナルに近い姿を残している城は【弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城】の12城です。 両方に名を連ねる国宝・犬山城は2004年までは日本で唯一個人の所有する城として有名でした。さすがに維持管理が困難という事で2004年に㈶犬山城白帝文庫を設立して現在は法人所有となっています。
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別名を「白帝城」という犬山城は天文6年(1537)織田信長の叔父織田広近により築城され、織田氏、豊臣氏、石川氏などが城主に名を連ねています。天守は三層四階建てで地上高が約24mあり山の上にあるため平地から見上げるとかなりの高さを感じます。この2日後から耐震工事で入場制限があるとの事でした。当然ですが天守内では急階段を上り下りしていきます。大阪から来たらしいオバちゃんは「大阪城にはエレベーターがあるのに犬山城には無いんかい!」と激怒していました。観光用に造られた城郭とは訳がちがうのですが、蒸し暑い日だったので無理からんことです(笑)。
・眼下には木曽川が悠然と流れています。・この木づちには”上棟 犬山城天守”の文字があります。・ゆるキャラか?
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各務原航空宇宙博物館…(4)

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各務原航空宇宙博物館での大本命【陸軍三式戦闘機二型 飛燕】です。これが見たくて各務原まで行ったようなもんで、この形状で展示されている「飛燕」は世界で唯一の機体です。旧軍の戦闘機では唯一の液冷エンジンを搭載しドイツのダイムラー・ベンツのエンジンを国産化した「ハ140 冷却倒立V型12気筒」のエンジンが搭載されています。惜しむらくは当時の日本の技術水準では液令エンジンを充分に活用できず、飛燕も期待されたほどの結果を残していません。
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工場での完成時の状態なのでしょう塗装が施されていません。パッと見に違和感はあっても慣れるとこれはこれで飛燕の美しさをそこなっていません。飛燕は川崎航空機(現川崎重工)により造られ総生産数は一型、二型の計で約3150機です。生産数の少ない二型の一部は空冷エンジン搭載の「五式戦闘機」に転用されています。この機体は各所にある「6117」からキ61飛燕 二型増加試作機の第17号機と特定されています。大戦中は陸軍航空審査部の福生飛行場にあったようです。
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戦後は米軍に接収、横田の美軍基地に展示され1953年に日本に返還され日本航空協会の所属となっています。修復作業が行われ各地で展示された後、九州鹿屋の「知覧特攻平和会館」で展示されました。実はこの頃に知覧でこの機体をみているのですが、当時は迷彩模様が施されていました。2016年の博物館リニューアルと川崎重工業創立120年の記念事業として、この機体の生まれ故郷「各務原」の里帰りとなりました。
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各務原航空宇宙博物館…(3)

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これも各務原航空宇宙博物館の目玉展示(?)とも云えますが、吊り下げられた機体は「十二試艦上戦闘機」で所謂「零戦」試作機です。なんだって資料も写真も少ない試作機を造ったのかは良く判りません。故吉村昭氏の小説「零式戦闘機」によると、零銭試作機は名古屋の三菱重工(愛知航空ミュージアムあたり)で造られ飛行テストには各務原まで振動で狂いが出ないようノロノロの「牛車」で運んだそうです。当時の最新鋭機を牛車でソロ~リと運んだとは笑えます。博物館資料によると1939年4月に各務原で初飛行して試作の1号機とあり、機体ではプロペラは2枚仕上げ、搭載エンジンは三菱製の”瑞星”です。1万機造られた零戦は三菱重工の代表的戦闘機ですが、60%以上が中島飛行機で造られ。また旧軍に制採用された機種は中島飛行機のほうがはるかに多かったことはあまり知られていません。
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博物館に入って最初の部屋に転じてあるのが、世界最初の動力付き飛行機、ライト兄弟による「ライトフライヤー」と複葉機の方は「乙式一型偵察機サルムソン2A2」です。日本国は明治44年4月の所沢飛行場での国内初飛行以来、数十年で当時の世界最優秀気を造りあげました。この偉業に目をつぶって「若者が多く死んだ零戦の展示は戦争の肯定となる」とか「若い人に見せたくない」などという輩はどんな思考回路をしているのやら…。
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各務原航空宇宙博物館…(2)

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各務原航空宇宙博物館のリニューアルに要した費用は約49億円だそうです。地方自治体の管理運営する博物館としてはピカ1ではないでしょうか?博物館内のメインの展示場にはバリエーション豊かに勢ぞろいしています。お目当ては別にあるのですが、この会場を見るだけでも相当の時間が必要です。そんなことで宇宙関連はサラリと見ただけとなりました。
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航空自衛隊仕様のF-104はロッキード社から三菱重工業のライセンス生産です。西側陣営ではアメリカ・カナダ・ベルギー・台湾・デンマーク・西ドイツ・ギリシャ・イタリア・オランダ・ノルウェー・スペイン・パキスタン等で採用された名機中の名機です。並んでいるのは三菱重工は開発した国産初の超音速ジェット機の三菱T-2です。機体の塗装は”ブルー・インパルス”使用です。結果採用にはならなかったT-2から派生したCCV研究機や4発のジェットは航空宇宙研究所が開発した短距離離着陸実験機(STOL)の「飛鳥」です。実験機のため1機が造られたその1機です。
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各務原航空宇宙博物館…(1)

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岐阜県各務原市は100年の歴史を有する現存の日本最古の「各務原飛行場」がある日本の航空機産業発展の街として知られています。その歴史を展示する施設として1996年に「かがみはら航空宇宙博物館」が開設され、開設から20年過ぎた2005年にリニューアル、展示面積9400㎡の通称「宇宙博」として生まれ変わっています。市のHPによると実物の機体が37機と原寸大模型6機、国際宇宙ステーション関連の展示など日本最大規模の航空宇宙産業の博物館となっています。
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同じ傾向の博物館ということで「愛知航空ミュージアム」とのセット入場券なんてのも用意されていました。日本の航空博物館ではどうしても自衛隊仕様の航空機が多くなりがちですが。それにしても露天展示の機体の管理は大変なんでしょうねぇ。監視の目を盗んで部品を盗んでいく不埒なマニアもいるなんて話も聞きます。
屋外展示航空機群は、1)P-2J 対潜哨戒機 (石川島播磨重工のライセンス生産)2)US-1A救難飛行艇 (新明和工業/川崎航空機の国産)3)エアーニッポンのYS-11 4)KV-107ヘリコプター通称「しらさぎ」(川崎重工のライセンス生産)。
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なかなかの清洲城

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名古屋駅から車で30分程、旧尾張国/現愛知県清須市の「清洲城」です。この地は鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要であり徳川家康により名古屋が繁栄する以前は尾張国でも屈指の地でした。織田信長の居城であり桶狭間の戦い(1560)ではこの城より出陣しています。なんでも来年のNHK大河ドラマは明智光秀題材の作品となるようで清洲城や岐阜城の名を聞くことも多くなることでしょう。そういえば信長死後の跡目を決めた「清洲会議」を題材とした映画もありました。
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現在の天守閣は平成元年(1989)に造られた鉄筋コンクリート造りです。清洲城自体の資料が殆どなく外観は”恐らく”の範囲で想像されたものです。天守台の場所も異なりPt↑)橋の向かい側とJRの線路で分断された先の緑が元の清洲城だったようです。現名古屋城の重要文化財・西北隅櫓は清洲城の材を移築したものとされるので、あの雰囲気なのでしょうか?
場所も形態も違う清洲城天守閣ですが公園の全体構想がしっかりしているので充分に楽しめます。
PT↓)・本来の清洲城跡には織田信長を祀る社がありました.。威風堂々とした天守です。 ご存じ木下藤吉郎夫妻です。
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夕刻の熱田神宮

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名古屋市熱田区の『熱田神宮』は尾張三宮で、宮中の四方拝で遥拝される神社です。ややこしいのですが主祀神は熱田大神/アツタノオオカミで三種の神器の1つ『草薙神剣』を神体とする天照大神のことです。つまりは‘草薙神剣=天照大神という事になります。相殿の神々には ・天照大神/アマテラスオオミカミ ・素盞嗚尊/スサノウノミコト ・日本武尊/ヤマトタケルノミコト ・宮簀媛/ミヤスヒメノミコト ・建稲種命/タケイナダノミコトと「五神様」と呼ばれるそうそうたるの神々です。草薙神剣は素盞嗚尊が退治したヤマタノオロチの体内から現われ後に天照大神に献上されます。さらに天照大神が天孫降臨の神勅を邇邇芸命/ニニギノミコトに下すにあたって神鏡(八咫鏡)・神璽(八尺瓊勾玉)と共にに授けます。以来、天皇家はこれを『三種の神器』として宮中に祀ることとなるわけです。
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熱田神宮到着はは夕刻となり、生憎の雨模様で湿度が高くカメラレンズが曇りまくるという悲惨な状況です。神社マニアには熱田神宮は有数の”パワースポット”として上位ランクされるほどの有名な神社だそうです。神域は約19万㎡もあり本宮を始めとして28社の社があります。Pt↑)は草薙神剣が祀られる「本宮」です。・本宮の北側には水を司る「ミズハノメノカミ」を祀る「清水社」がありますPt↓)。清水社は何故か楊貴妃の伝承と結びついて”美肌”にご利益があると云われています(笑)。・参道に忽然とある築地塀は織田信長が桶狭間の戦い出陣の際に熱田神宮に参拝し、戦勝のお礼に神社に奉納したのがこの「信長塀」です。・樹齢1000年を超えるであろう「大楠」も大層な迫力です。残念ながら時間切れとなってしまいましたが大人気の「こころの小径」は16:00終了なのでした(苦笑)。
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尾張名古屋の名古屋城…(2)

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『名古屋城本丸御殿』です。慶長20年(1615)徳川家康による名古屋城御殿は昭和20年の空襲で焼失、空白の年月を過ぎ平成21年からの復元工事は平成30年に完成し公開となりましたた。幸いなことには江戸時代の文献や昭和初期の写真や実測図が保存されており、他の復元城郭以上にオリジナルに忠実な復元ができたようです。とにかくスゴイの一言です!
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フラッシュ不可ながら写真撮影は可能です。光量不足は否めませんが本丸御殿の入口玄関付近の「竹林豹虎図」に描かれた虎達はいきいきとしています。面白い事には描かれた時代の絵師は「虎」見たことがなく「豹」は「虎」の雌だと考えられていました。想像だけでこれが描けるとは驚きです。
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この部屋「上洛殿」は寛永11年(1634)の徳川3代将軍家光の京都上洛の際に使用された部屋で、城軍の上洛に合わせて新築されています。同時に「湯殿書院」要するにサウナ形式の風呂場も造られいます。家光以降の将軍の上洛は徳川末まで行われず、ほんの数回の為の御殿とは…。徳川将軍の威光が感じられます。
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藩主が身内や家臣との対面や宴席に用いた部屋との解説がありました。トータルすると48帖あります、他の部屋異なるのは天井に黒漆喰が施され襖絵もやや世俗的な作品となっているようです。一部の区画は人数施減がありますが、空いている日だったので自由に見ることができました。天守閣は公開中止ですが本丸御殿だけでも充分楽しめます。
それにしてもこれだけの技術を持つ職人たちや、貴重な資材を集めたのは大変な事だったと感じ入ります。
Pt↓)・圧巻の彫刻欄間が普通にあります。・襖の引手「葵の御紋と菊」のデザインです。・姫路帖・熊本城に次ぐ日本三大名城だそうですが異論はありません。これだけ見て入場料は¥500/大人です!
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尾張名古屋の名古屋城…(1)

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『名古屋近辺お城巡り』の最初は名古屋城、国の特別史跡であり日本100名城に選定される名城です。織田信長誕生の城で、慶長年間には徳川家康により改築され尾張徳川家の居城として明治まで続くこととなります。城下町特有の曲がりくねった道が少なく碁盤の目状に設計された名古屋の道路は家康の考えによるようです。昭和初期まで存在した天守閣等は1945年の名古屋空襲で焼失、現在の天守閣は再建されたものです。名古屋城は整備計画の真っ最中で天守は入場不可となっていますが、復元公開された「本丸御殿」はそれは見事な完成度です。
Pt↑)高さ55mの天守(江戸城、大阪城に次ぐ高さ)とオリジナルの西南隅櫓です。隅櫓の外観はオリジナルのようですが、内部は明治年間に手が加えられてたようです。Pt↓)城入口には「名古屋離宮」と表記された石柱がありました。西北隅櫓と奥の白壁は本丸への本丸表一之門で、御門内側の石垣は珍しい石積をしています。
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愛知航空ミュージアム…(2)

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日本では旧軍機の保存に関しては恵まれていないようです。愛知航空ミュージアムで展示されていた「零戦52型」は三菱重工名古屋航空システム製作所資料室にロケット戦闘機「秋水」と一緒に保存されているようです。この機体は河口湖自動車ミュージアム(個人)が1983年にヤップ島で回収した機体をレストア後→三菱重工に返却→愛知航空ミュージアムで展示→返還となったようです。現在展示中の機体は2013年の映画「永遠の0」の撮影で使われ、佐賀の有限会社馬場ボディーで精巧に手を加えられた機体です。塗装やジェラルミンの質感など見事に中島飛行機製造と思われる零戦を再現しています。当時1万機以上作られた零戦の60%以上は中島飛行機の製造で、靖国の52型や大刀洗の32型は三菱製ですが他の国内に現存するの多くは「中島の零戦」なのです。緑色の塗料Noやスピンナーの形状が微妙に異なるとかの見分け方や、中島製は水平安定板(尾翼)の下方の塗りが斜めで三菱製は塗りが直線的、機体の日の丸縁取りの幅などがあります。実際はレストア時に変えられていることもあるようで確実とは言い難いようです。
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愛知航空ミュージアム…(1)

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名古屋駅前の”ミッドランドスクエア”前から、あおい交通バスで20分ほど、県営名古屋空港敷地内にある「愛知航空ミュージアム」です。中京圏の航空便の多くは「中部国際空港セントレア」に移り、現在は日本航空とフジドリームエアラインズなる格安航空会社だけの就航のようです。2017.年11月に旧国際線ターミナル跡地に開業したのが「愛知航空ミュージアム」です。建物に入った途端にデンとあるのがPt↑)の消滅した航空会社のMD90の模型です。あの故黒澤明氏監修のレインボーカラーと呼ばれた機体でデザイン違いの全7種の模型が展示してあります。この航空機に携わった身とすれば爆笑ものですが、会社が消滅してもここに姿を残しているのは良い事なのかも知れません。
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さすが三菱重工のお膝元だけに展示航空機の多くは「三菱製」のようです。ごく最近まで「零戦52型」の実機が展示されていたのですが三菱重工に返却されて現在は映画「永遠の0」で使われたレプリカに変わっています。実機の展示の際にはスッタモンダがあったようで、馬鹿県議からの『多くの若者が死んでいった零戦の展示は戦争の肯定』とか阿保な町長の「若い人には見せたくない」などの意見もあったようです。零戦はこの地での当時の工業技術の極致だったのは確かであり、こんな馬鹿県議や阿保な町長が後年登場するとは…。『幻の翼とともに炎の中に消えていった若者たち』が聞いたらなんと思うでしょうか?情けない思いです。それにしてもこのレプリカはジェラルミンの質感などよくできています。
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Pt)はご存じの純国産旅客機YS11の航空自衛隊使用の実機です。その他、三菱製のビジネスジェット(MU-300)や同社のヘリ(MH-2000)の展示なりで結構楽しめます。ショーケースで展示された日本の軍用、民間機取り混ぜたマニア作成の100機ほどの1/25スケール航空機模型は圧巻です。建物屋上からは名古屋空港が見渡せますが、駐機しているのはショボイ飛行機やヘリやらです。辛うじてフジドリームエアラインズがいましたが、ド派手な塗装と機体には”ちびまる子ちゃん”の絵が描かれ、なんだこれの極致です。
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さて名古屋からです

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恒例の「研修あれこれ」今回は名古屋からです。名古屋は高山方面や伊勢方面の乗換駅の記憶しかありませんが、Pt↑)駅前は見事な位の再開発完了でJRセントラルタワーズやら高島屋らの一大商業圏を構成しています。しかしながら、さして広くない場所に高層ビル群が林立する空間は圧迫感が強く息苦しささえ感じます。駅地下の縦横に広がる地下街も梅田や札幌の地下街と比べてると天井高やたらが低く若者や酔客の会話の声が妙に反響してうるさい街です。
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Pt↑)は名古屋城近くの昭和8年完成の「重要文化財/名古屋市役所」とその向こうは昭和13年完成のお城の櫓を乗せたような「愛知県庁」です。駅前のビル群とは趣が違います。余談ながら今回初めて「名古屋名物・あんかけスパ」なるものを食べました。なんでこんな姿が名物なのか判りません。Pt↓)は名古屋城付近で見かけたマンホールの類です。消火栓には名古屋城と鯱がデザインです。名古屋市の名所デザインは良いとしても、蜂か蝶に見えるデザインはなんなのでしょう。
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