旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2019年09月

中野区役所・犬屋敷跡…(2)

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江戸~明治期に活躍した人物達の書籍は腐るほど出版されていますが、一般庶民、ましてや「犬」に関する至極稀な本がPt↑)の「犬たちの江戸時代」と「犬たちの明治維新」です。実に面白い内容で、例えば「犬を家族的に飼うのは稀だった」とか「飼い犬に名前をつけるのは明治になってから」など初耳となる話ばかりです。有名な徳川5代将軍綱吉公による「生類憐みに令」にしても系統立てて説明されると違った側面が見えてみます。確かに「生類憐みの令」であって「犬・猫憐みの令」ではないんですねぇ。
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滅びた習慣ですが、徳川家康・秀忠・家光らの将軍は江戸近郊での鷹狩りが好きで多くの鷹が飼育されていたようです。この鷹たちの食事として犬が飼育され、某国同様に普通に食犬の習慣もあったようです。5代将軍の時代には鷹狩りは徐々に廃れ食犬習慣も廃れると多産な犬たちが江戸の街に溢れ、元禄8年ごろからは増えた野犬(地域犬)の収容が始まります。当初は収容施設は四谷、大久保にもあり、最終的には中野犬小屋の最盛期には「82000匹」が収容されていたそうです。捕まるのは人に慣れた犬ばかりで凶暴な野犬は放置だったとは当然の事です。
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中野犬小屋の管理費(餌代)は庶民が負担し、白米の食事が与えられていました。そしてビタミンB1不足(脚気)で亡くなる犬が多かったようです。元禄12年以降は増えすぎた収容犬は持参金付きで近郊農家に下賜されますが、将軍綱吉の死後「生類憐みの令」が廃止されると犬への持参金は返金回収され犬小屋に残った犬たちは殺処分されたそうです。
その犬たちの記念碑が中野区役所敷地にあります。某ライオンズクラブの寄贈ですが、このライオンズクラブは目立ちたがり屋が多いようで経緯はあるのでしょうが、区役所玄関先に鎮座するライオン像はどうかと思います(笑)。
確か建て替えの発表があったのですが、中野サンプラザはまだ健在でした。
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中野区・新井薬師

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西武新宿線に「新井薬師前駅」と名を冠する最寄り駅があれば参拝客の賑いを想像するのですが、行って見ると何のこっちゃない感が漂います。「新井薬師」として知名度がありますが「新井山梅照院薬王寺」と号する薬師如来と如意輪観音を祀る真言宗豊山派の寺です。創建は天正4年(1586)と古くはなく、徳川2代将軍秀忠の娘が眼病を患い薬師如来に平癒を祈願したところたちまち回復。以来は眼病治癒のご利益があるとされています。
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新井薬師前の駅で下車して十数年前だったら活気があっただろう寂れつつある商店街を10分ほど歩きます。「新井薬師梅照院」での知名度がある割には新井薬師の表記が目立ちません。境内に湧く「白龍権現水」と呼ばれる名水で有名で遠方から汲みに来る人もいるようです。この付近ではどこを掘っても良質水の井戸ができるのが「新井」の地名由来となんだそうで、まぁ伝承ですからねぇ(笑)。
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中野区・哲学堂

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中野区松が丘の『哲学堂』です。敷地内にテニスコートや野球場をもつ中野区立哲学堂公園にあり、一部は新宿区となります。東洋大学の創始者である「井上円了」により明治37年(1904)にソクラテス・カント・孔子・釈迦を祀る「四聖堂」造られたのが始まりで、この四聖堂が哲学堂と呼ばれ公園名の由来となっています。昭和19年(1944)井上円了の没後、東京都に寄贈され中野区の管轄となり平成21年(2009)には東京都の名勝に指定されています。Pt↑)の赤い建物が聖徳太子・菅原道真・荘子・朱子・龍樹・迦毘羅を祀る「六賢台」で中央が四聖堂=哲学堂です。
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だいたいがこの概念を弄ぶ哲学ってのが大の苦手で、正直この井上円了の世界観はさっぱり判りません。園内の「七十七場名称」との施設名にしても理解する気すら起きません。Ptにはありませんが哲学堂(Pt↑)正門の「哲理門」には右に天狗、左に幽霊が配されていて、天狗=物質界を幽霊=精神会の象徴なんだそうです。謎解きパズルじゃあるまいし笑いすらこみ上げてきます。この先生は妖怪の研究者として有名なお方なのでかなりの変人なのでしょう。
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ここは浅草たぬき通り

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浅草地区ですが、文では説明しきれない場所に「たぬき通り商店街」はあります。Pt↓)のように裏通り的でTV的な店があるわけでもない商店街で、長さにしたら100mていどでしょうか?札幌の狸小路商店街をイメージすると愕然とすることは確実です(笑)。商店街の売りは招福・愛情・大師・天神・大黒・夫婦・不動・地蔵・小町・開運・人情のご利益豊富の狸神達で担当ごとにお堂が造られています。近くのお狸様を祀る「鎮護堂」が由来ではなく”浅草では狸が身近だった”を由来とするそうです。「狸」はケモノへんに里ですから当たりまえなのですが…。
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目立たない裏通りに足並みを揃えて「たぬき通り商店街」を表現するのは大変なことだったと思われます。”狸像を撫でるとご利益がある”なんてのは実に簡潔な表現です。まぁよほどの狸マニア(?)以外にはお勧めできませんが、このての商店街にはありがちな粗大ごみがや自転車が放置されていたりの商店街です。Pt↑)何がある?何もない!
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ブートCDの裏通り・69

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Led Zeppelinの929とDominosのFillmoreは常備薬みたいなものでBoot収集家なら「一家に一枚」以上のブツです。先日、西新宿の某店舗で販促用ながら驚きのブツを入手しました。Pt↑)の左は昨今ヤフオクにはとんでも価格で登場するDominosの”Mobile Fidelity”の”In ConcertのコピーCDR。右はジャケ写こそ出涸らしと思いきや、実にヤバイしろもので1970のFillmoreのOut takesです。なんと10/23の1st showの”Blues Power”が収録されています。Dominosファンであれば”エッ”という音源で、音・演奏とも申し分のないブツです(笑)。
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Derek & The DominosはBassのCarl Radle。DormsのJim Gordon。Keyの(生きているのか)Bobby WhitlockとECの4人で、ECのギター弾きまくりでは特筆モンのバンドです。特にこのFillmoreの音源は正規盤も数種類あるのにも関わらず手を変え品を変えジャケを変えてブート世界を席巻しています。Pt↑)のMobile盤はCD黎明期のキンキンする高音部が緩和されて聞きやすいCDです。探せば見つからずあれば高額とやっかいなブツがまんまのCDRとは恐れいります。
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小田原 この街は?

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10数年ぶりの小田原の変貌には驚かされました。調べてみると小田原は東京駅から東海道線で約90分、新幹線なら35分と都内への通勤圏としては微妙。人口は約19万3千人(2019/06)とこれまた微妙です。戦国時代は北条氏で栄えたとしても関東の中心が江戸に移ってからはご存じの通りです。Pt↑)JR東海・小田急・箱根登山鉄道の小田原駅は天下の観光地。箱根の入口としてそれなりご立派に変貌しているのですが、普通に考えればごく普通の地方の街なのです。
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この街の観光客誘致の取り組みはハンパではありません。街のいたるところに設置された案内板の多さや旧跡の紹介板など京都くんだりの一級観光地と比しても見劣りしません。昨今は公官庁や観光協会のHPはあたり前ですが、観光パンフがPDFで開ける(その数も豊富)などそうあったもんではないでしょう。
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街で見かけたマンホールです。他にもローマ字でODAWARAなど数種類を見つけましたが、小田原らしいのはPt↑)これです。箱根の山々、小田原城、川渡しの越がモチーフです。♪小田原提灯ぶらさげてぇ♪の「お猿のかごや」かと思ったのですが、「お猿のかごや」の作者の山上武夫氏は歌詞を東京・大森で作詞しており小田原とは関係は無いようです。
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小田原観光充実の最たるものがPt↑)の小田原城址公園内二の丸観光案内所です。この案内所自体が昭和9年に造られた建物を使っており、城址公園やら小田原観光のパンフ資料が数多く置かれています。
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小田原駅の西口側には小田原ゆかりの武将・北条早雲の騎馬像が置かれています。黄色のベストは小田原でのラグビーワールドカップの宣伝を兼ねているようですが「なんで俺が!」と早雲氏はぼやいている事でしょう。箱根の玄関口・鈴費の蒲鉾・ういろ・コンクリートの小田原城くらいのイメージしかなかったのですが、城址公園の整備や常盤木門や銅門の復元作業、パンフレット類、観光ボランティアの充実など、どれだけの時間と費用を費やしてきたことでしょう。ここまで観光誘致に特化している自治体も珍しいのかも知れません。

小田原城址公園…(2)

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面白い事に小田原駅前のビルには【正規登城ルートはこちらから・小田原城天守閣正面入口】と【お堀・城址公園への散策ルート/小田原駅前商店会】の看板があります。確かに駅からは”お城通り”を進んだ方が天守までは近いのですが、お城通りでは商店街を通らないので観光客への苦肉の策なのでしょう。確かに徒歩10分以上かかりますが、お堀通りを歩き某TV番組で水を抜かれたお堀から平成21年に復元された馬出門(うまだしもん)から城内に入った方がいい感じです…。
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このルートでは天守迄の距離があるのですが、変形枡形門の馬出門から平成9年復元の銅門(あかがねもん)を右に左に曲がりながら進み、昭和46年に再建された常盤木門(ときわぎもん)を抜けると天守が見えてきます。馬出門・銅門・常盤木門・天守へと進む登城ルートは他の国宝級の城郭跡と比べても遜色はありません。Pt↑と↓)は二の丸正門の銅門は見事な枡形門形式です。お堀の水は某TV番組で抜かれました。
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小田原城址公園…(1)

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静岡からの帰路に小田原駅で途中下車、小田原城址公園へ寄って見ました。新幹線の車窓から見ることは有ってもかれこれ10数年振りです。考えてみると再建モノながら東京から一番近い天守閣の建物なんですねぇ。ここ小田原の街は江戸(東京)より1400年代からと遥かに歴史のある街で小田原城の築城にしても1417年(応永24年)との説があるようです
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上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝らにより改修が加えられ、現在の天守台の姿は1960年(昭和35年)に鉄筋コンクリート構造で再建されたモノで、江戸中期の小田原城の姿を極力再現しているそうです。EVこそありませんが、天守内の歴代の城主や小田原攻めの資料はなかなかの充実ぶりです。最上階からは太平洋や箱根の山々石垣山城が見渡せ、小田原駅や市街地の方角は北条氏の時代には城郭内側だったようで、この城がいかに巨大だったのかが偲ばれます。天守内に”全国「天守」高さ比べTOP10”なる展示があり小田原城天守は27.2mの7位なんだそうですが、江戸城の家光の天守が現存していれば約60mですからかなりの差があります。
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小田原・報徳二宮神社

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小田原城址内の「報徳二宮神社」は二宮尊徳翁(金次郎)を祀る神社です。Pt↑)は翁の金次郎時代の姿で「薪を背負って本を読む姿」は見かけた記憶があるかも知れません。この”歩きスマホ的姿”は現代なら危険すぎると非難を浴びるでしょう(笑)。案内板によると【昭初期頃から全国の小学校に向けて約1000体が作られたが戦時中に供出され、今に残る高さ1mのブロンズ製はこれだけ】なんだそうです。そういえば佃島の住吉神社や新宿の花園神社の像は石制だったような…。
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この二宮尊徳翁は農政の改革による財政の再建という功績なのですが、申し訳なにのですがあまりピンとくるお話ではありません。この薪&本の像にしても「山に立ち入って薪を拾い集め海辺で販売する道すがらの姿」という話もあり、そうなるとすばしっこい小金稼ぎをしていたようです。当時の施政の考えとして尊徳翁の様なヒーローが必要だったのかも知れませんが、全国の小学校に銅像が造られるまでの功績とはとても思えないのですが…。
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