旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2020年06月

府中市・大國魂神社…(5)

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大國魂神社の神社HPに案内がありますが神社近くには数社の「摂末社」が鎮座しています。【瀧神社】は東府中駅から徒歩7分位でしょうか、大國魂神社の例祭ではこちらの滝で身を清めるそうですがホントかよと思います。崖状の傾斜地にあり、お社はパッと見ると「おみくじの販売機」のようです。ご祭神は加茂別雷命・玉依姫命・加茂別建角身命とあり大國魂神社の「水神社」はこちらから分霊されています。
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場所がら競馬関係者の住宅が多いようです。京王出臍線「府中競馬正門前」の線路際には応神天皇を祀る【武蔵国府八幡宮】があります。聖武天皇の時代に一国一社を京都の石清水八幡宮から勧請しています。地図でみると”八幡町緑地”となっていますが荒れ気味の雑木林のようです。神社の整備補助は無理でも緑地の整備なら予算は付くでしょうに…。
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更に情けないのが少名彦命(スクナヒコノミコト)を祀る菅原道真でない方の【天神社】です。隣の日吉神社の方がそこそこ立派なので天神社を見つけた時は町内会集会所物置かと思いました。大国主命と共に国造りに携わった神が祀られ、さらにはあの近藤勇の天然理流の試合が行われた場所でもある天神社がこのありさまとは…。
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続いての「境外摂末社」は府中本町駅から徒歩5分位の【坪宮】です。ご祀神は兄多気比命(えたけいのみこと)で大國魂大神以前に武蔵国国造の神なのです。大国魂神社のくらやみ祭り例大祭でも特に重要とされるお社です。
ついでと云ったら語弊がありますが東府中駅から坪宮まで約2時間かかります。こんな社寺もありました。 1)坂の名は「天神坂」天神さま隣の「日吉神社」、近藤さん達が暴れたのはこの神域では…。 2)真言宗豊山派の妙光院です。多摩八十八ケ所霊場の23番だそうです。 3)妙光院隣接の天台宗の慈覚大師の開山による安養寺です。
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府中市・大國魂神社…(4)

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大國魂神社から北方向へ続く「馬場大門欅並木」は源頼義・義家の親子が「前9年の役」で奥州へ向かう途中で戦勝を祈願、凱旋時に欅苗木を奉納したことによります。欅並木途中には源義家(八幡太郎義家)の像がありますが、この親子はとにかく神頼みの戦勝祈願ばかりしています。奥州豪族の阿部氏の反乱の前9年役は実質12年続き、親子は味方が10名以下となるほどの大敗を喫し、辛うじて清原氏の加勢で辛勝します。「勝利凱旋」なんでしょうかねぇ。
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旧甲州街道と府中街道の交差点の「府中高札場跡」です。江戸時代、宿場の中心地に幕府の政策や禁止令など生活に密着した多岐に渡る情報を高札場に掲示します。故吉村昭氏の作品の「桜田門外の変」の指導者・関鉄之助(高野長英)の指名手配情報も掲示告知されたのでしょう。似顔絵とプロフィールの捜索情報ながら検挙率の高さには驚かされます。高野長英の場合、生国・陸奥、丈高く太り候方、面長にて角張候方、色白く、眉毛薄く、目尻下がり、黒目赤き方。これで「アイツ怪しいゾ‥」となったのですかねぇ(?)
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武蔵野線・府中本町駅前は東京競馬の開催がないと閑散としています。改札から大國魂神社へ向かうとガラ~ンとして広場があります。実はここは歴史的遺構で8世紀初頭に存在した武蔵国の国司館の遺構であり、1590年代には豊臣秀吉が小田原征伐と奥州仕置で関東に滞在した際に徳川家康が秀吉接待の為に造った御殿跡でもあります。元はイトーヨーカードの駐車場だったそうで、現在は「国司館と家康御殿史跡広場」となっています。
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府中市・大國魂神社…(3)

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拝殿から左廻りでの摂社です。こちらは「水神社」、水波能売命/ミズハノメノミコト、加茂別雷命/カモワキイカズチノミコト、玉依姫命/タマヨリヒメノミコト、加茂別建角身命/カモワキタケヌミノミコトの4神が祀られています。申し訳ないのですが存じ上げません。昭和58年に境外末社の「瀧神社」より分霊されたとあります。
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こちらは「松尾神社」。寛政12年(1800)に武蔵国の醸造家により京都の松尾大社より勧請されたとあります。ご祀神は大山咋命/オオヤマクイノミコト。酒、醤油、味噌等の醸造の守護神や開拓の神とされます。
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こちらは「巽神社」。ご祀神は市杵嶋姫命/イチキシマヒメノミコトとありますが弁財天のことです。芸術の神でもあり花柳界からの信仰が厚いようです。神社名の「巽」は元の鎮座地から遷座した際に本殿の巽の方角に置かれたので「巽神社」となったようです。本殿向かって左側に鎮座の摂社はここまでです。
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狛犬が置かれているのが「東照宮」です。徳川家康公を祀る東照宮は全国に数多くありますが大國魂神社は徳川家の庇護も厚く、近くには徳川家の御殿が造られ鷹狩りが行われていました。さらには家康公を久能山から日光へ移す際にこの地で過ごされた事から元和4年に徳川秀忠の命で造営されたと云われます。にしては地味ですが…(苦笑)。
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こちらは住吉神社と大鷲神社です。住吉神社のご祀神は表筒男命/ウハヅツオノミコト・中筒男命/ナタヅツノオノミコト・底筒男命/ソコヅツオノミコトで大阪住吉の総本社から分霊されています。大鷲神社のご祀神の大鷲大神/オオトリノオオカミは開運・商売繁盛の神として知られています。
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《神社は裏側は不可思議に溢れています》本殿の裏側の樹齢1000年ともいわれる大銀杏です。古社にはつきものの大銀杏とはいえ大変な巨木です。どれだけ多くの人々の願いを聴いてきたことでしょうか。大國魂神社は謂れは判りませんが北方向を向いています。晴れた日の午前中の写真は逆光気味となってしまいます。
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府中市・大國魂神社…(2)

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「武蔵国総社」と称される大國魂神社には様々な摂社が鎮座しています。京王府中駅から源頼義・義家親子が植えたとされる国名勝天然記念物「馬場大門欅並木」を進み、旧甲州街道を渡ると昭和26年の造られた高さ10m程の大鳥居と大國魂神社の社号標です。御影石の鳥居としては日本一と言われるようです。
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参道を進むと左に宮乃咩(みやのめ)神社のご祀神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)、日本神話の岩戸隠れや転送ん降臨に登場する女神で「芸能の神」としても信仰されています。創建は大國魂神社と同年代のようで、源頼朝の妻の北条政子の安産を祈願したとされ「安産の神」で知られ”柄杓”を奉納するようです。本殿の造りが只者ではありません。
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「隋神門」手前の「手水舎」です。右側にという事は参道は右側通行なのでしょうが、神社HPでは記録に残る資料では神域のあちこちを移動しているようです。千鳥破風の屋根や多くの聖獣の彫刻など、ここまで立派な造りの手水舎はあまり見かけません。建物右の石碑は明治40年の「日露戦役記念碑」です。
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手水舎の向かい側には太平洋戦争時の郷土出征兵士を祀る「忠魂碑」と旧海軍の軽巡洋艦「多摩」の戦没者を祀る「軍艦多摩戦没者慰霊碑」です。Pt↓) 1.大鳥居を抜け右側の神戸(ごうど)稲荷神社です。旧町内名神戸の方々によるものとあります。2.)参道途中の「ふるさと府中歴史観」脇には「国史跡 武蔵国府跡」の石碑があります。国府はこの辺りからJR府中本町にかけてあったようです。
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府中市・大國魂神社

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府中は「武蔵国」の昔から政治経済の中心として、江戸時代には甲州街道「府中宿」として繁栄していました。この地に鎮座するのが「大國魂神社」です。神社HPでは創建は約1900年前の景行天皇41年(111年)とあり、大化の改新以降には武蔵国府が置かれ”国司”が武蔵国諸神を大國魂神社に祀ったのが起源のようです。”国司”が祭祀のたびに遠出するのが大変なので、この地にまとめて祀ったという事のなのでしょう。
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流造・切妻千鳥破風の拝殿です。慶長年間の徳川家康による社殿造営の際は幣殿(権現造?)があり、明治18年の改築時に現在の形式になっています。祀神の大國魂大神は大国主命と同神で、武蔵国の守り神として人々に衣食住、医療やまじないの術を授けられた神様で、今では福神・縁結び・厄除け・厄払いの神として知られています。
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工事中の為Pt)は2011年の撮影画像です。拝殿奥の本殿は東京都有形文化財指定で室町時代の神社建築様式の三殿一棟の姿を残しています。向かって左側(枝のかげ)は東殿として一ノ宮・小野大神、二ノ宮・小河大神、三ノ宮・氷川大神が、右西殿には四ノ宮・秩父大神、五ノ宮・金佐奈大神、六ノ宮・杉山大神が、中央の中殿には大國魂大神、御霊大神、国内諸神が祀られています。著名な六神を祀り「六所宮」とも称せられていました。
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一ノ宮(小野神社)は多摩市、二ノ宮の(二宮神社/小河大神)はあきる野市、三ノ宮(氷川神社)はさいたま市、四ノ宮(秩父神社)は秩父市、五ノ宮(金讃神社)は児玉郡、六ノ宮(杉山神社)は横浜市緑区と広大な武蔵国に点在しています。これでは国司の職務は大変です。一か所に集めたのは効率的と云えば効率的ですが…。
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神社の最寄駅は京王線・府中駅orJR府中本町ですが、京王府中の方が賑やかで食事処など豊富です。府中本町は史跡「国司館と家康御殿史跡跡広場」は最寄りですが、参道は「隋神門」脇に出てしまいます。Ptは旧甲州街道側の高さ10mの御影石製の大鳥居です。今の季節なら緑に囲まれた参道は気分の良いものです。参道途中の「宮乃咩神社/みやのめじんじゃ」は安産や芸能の神として人気があるそうです。
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平成23年に大國魂神社御鎮座壱千九百年(1900年)事業の一環で改築された「隋神門」です。高さ8.5m,幅2.5mで門扉だけでも高さ4.5m、幅4.7mあります。正面側には随神像、後面側には恵比寿・大国が納められています。隋神門の手前右側の「手水舎」はえらく凝った造りで各所にちりばめられた獅子、龍、獏、鳳凰などの聖獣の彫刻は実に見事です。
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隋神門と拝殿の間にあるのが「中雀門」です。朱に塗られた門は色彩的に異色感があります。塀は延べで80m、軒高2.5mで昭和44年に明治維新百年記念事業として改築されました。隋神門と中雀門との間には、お寺の「鐘楼」に対して「鼓楼」と呼ばれる時を知らせる太鼓を収めた建物があります。良く判らないのが左右に置かれた「亀石」と「鶴石」です。鶴と亀の姿でもなく鳥居の台座でもない自然石で恐らく「結界」を表すのでしょう。
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新座・平林寺…(2)

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新座・平林寺は山号が「金鳳山」の臨済宗妙心寺派のお寺です。武蔵野の雰囲気が残る境内林は43㌶と広大で昭和43年(1968)に国の天然記念物に指定されています。今回はJR武蔵野線・新座駅下車で向かいましたが、新座駅からの路線バスは本数が少なくバス利用ならば東武東上線・志木駅の方が良いようです。
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平林寺は1375年(永和元年)に現さいたま市岩槻区に臨済宗建長寺派の寺院として創建され新座の地へは川越・松平家により1663年(寛文3年)に移転しています。他の社寺と違い広大な寺の敷地はぐるりとフェンスで囲まれ参拝者は自由に立入ることができません。地図で見ると新座駅から歩いても近く感じますが、寺のフェンスに沿って参拝者入口までがはかなりの距離があり新座駅から歩いて40分程度かかりました。
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平林寺には僧侶の修行道場のお堂があり、一般参拝者が立入れない場所が多々あります。却って静寂とした環境となっています。埼玉県有形文化財の総門や山門、仏殿や川越松平家の松平信綱夫妻の墓所など見どころもあるのですが、むしろ鬱蒼とした境内の木々に圧倒されます。難点はデジカメには写りくい事なのですが…(苦笑)。
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新座・平林寺…(1)

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北海道なら”キツネに注意!”や道路に大書された”鹿の飛び出し注意!”は珍しくはないのですが、埼玉の秩父の山奥でもなく東京に隣接する新座市では(苦笑)。まぁタヌ公は里に住む動物ですから不思議はないのですが、交通看板が必要なほど住んでいるのでしょうか?国の「武蔵野の面影を残す雑木林」はタヌ公には絶好の環境でしょうし民家もあるので食べものにもさほど苦労することもないでしょうが…。
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埼玉県新座市の平林寺の境内は実に13万坪・約43㌶・東京ドームの9個分あるそうです。良くある話ですがこの「東京ドーム何個分」は野球のフィールドなのか、客席含む球場建物なのか、遊園地含むドームシティの事なのか判然としません。イメージでの錯覚狙いにしても、フィールドたいして広くはありません(笑)。平林寺境内林の43㌶と聞いてもピンときませんが歩けば判ります。東京近郊でこれだけ広い雑木林はもうないでしょう。
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Pt↑と↓は、平林寺総門前の睡足軒(すいそくけん)と云う国指定の天然記念物「平林寺境内林」の一画です。平成14年に平林寺から新座市へ無償貸与され一般開放されています。この様な経緯の場合はだいたいは市の管理は杜撰ですが、ここは充分に手入れが行き届いていました。1)新座市は「史跡・野火止用水」でも有名ですが、如何せんこの季節は緑が深すぎて絵になりません。2) 新座市のイメージキャラクター「ゾウキリン」がデザインされたマンホール蓋です。追及するのはやめておきます。3) タヌ公注意は他にもありました。タヌキ王国なのでしょうか?
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川口・峯八幡宮

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埼玉県南部は縦方向にJR各路線・東武伊勢崎線&東上線・西武線の路線がありますが横方向は武蔵野線のみで不便です。『峯八幡宮』もJR川口駅と伊勢崎線・草加駅のどちらからも不便でJR川口駅から国際興業バスで30分(¥260)と微妙な場所にありました。それにしてもバス案内では「峯八幡宮」で神社HPでは「峰が岡八幡神社」なのが妙ですが…。
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八幡様という事でご祀神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇、大分の宇佐八幡宮を総本社とする神社で全国的には稲荷社についで全国2位の数があります。関東では源氏ゆかりの「鶴岡八幡宮」から勧請された例が多く「峯八幡宮」には天慶年間(938年頃)に清和源氏の源経基の創建とする説と鎌倉時代に鶴岡八幡宮の社領のこの地に勧請との説がありますがいずれにしろ「源氏ゆかり」には変わりません。
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流石に住宅地化が進んでいて「壱の鳥居」の場所が判りません。県道から神池らしき所まで進むと、この先に鬱蒼とした木々に囲まれた参道が現れます。石灯籠がズラリと並んだ参道を200mほど進み石段を登ると「朱」鮮やかな鳥居が迎えてくれます。木々の緑と朱のコントラストがいい感じです。
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神社は川口市の新郷地区、昔の足立区古田領三十二村の総鎮守であったようです。鉄道や国道の発達から外れた事で”八幡の杜”の静かな環境が今に残っていて、大正年間に造営されたという「神門」もいい感じです。越谷・久伊豆神社、春日部八幡神社、峯八幡宮と東京都内に鎮座する神社とは違った姿が見られます。
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大稲荷社、諏訪社、御嶽社、須賀社などの境内社の点在する約7700㎡の神域には煌びやかなものは何もありません。1)八幡宮につきものの樹齢700年超の大銀杏はさすがの迫力です。2)拝殿、幣殿、本殿の並ぶ様はとても美しいです。3)石灯籠が建ち並ぶ参道…。なかなかの関東平野の古社です。
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草加駅で煎餅を

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子供の頃には我が町にも手焼き煎餅の店が何軒かあって通りかかるとお醤油の焦げる臭いがたまらんものでした。草加と言えば「草加煎餅」、街に漂う煎餅を焼く臭い…。そんなものはありゃあしません。駅近にあったのは1992年に創られた「お煎餅を焼くおばちゃんの像」。伝承では日光街道の茶店で団子を売っていた「おせん」というすばしっこいおばちゃんが、売れ残った団子を干して「焼餅」として売ったのが名物の草加せんべいの始まりとか…。そうかい!。
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国道4号日光街道は以前とルートが異なり、旧の国道4号は県道49号へ更に昔の日光街道も現存しています。昔日光街道は整備されPtの様な観光案内板も作られています。現実は行って納得できるのは「草加松原」しかありません。草加煎餅の店が50数軒と言っても名店は点在していて、なんかイメージとは違います。行きかう旅人が参拝したであろう八幡様・三峰様は朽ち果て寸前。登録有形文化財の「藤城家住宅店舗」はあぁそうですかという感じです。残念なのは氷川神社で学校内の敷地から遷宮とはいえ数ある氷川神社でも最悪レベルです。
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化粧したって松原団地

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東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の「松原団地駅」は「独協大学前駅/草加松原」に変わっていたんですねぇ(2017年春)。日本の高度経済成長期に東洋一の大規模団地「草加松原団地」が造られ獨協大学が開校したの昭和30年代後半。そういえば面白いことがありました。松原団地在住の社員から「台風の大水で駅が水没して出社できません」との欠勤連絡があって(笑)。広大な田圃を無理無理に団地を造成したので大雨の後は洪水事件が頻発したのです。50年の歳月で団地は老朽化、誰が言い出したのかイメージ戦略として化粧を変えて《大学の街》に化けたかったのでしょうが、スッピンを知っている身としては笑うしかありません。
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もう一つ笑えるのは、駅の東側の旧日光街道には昔の街道の面影を残す『草加松原』があります。ここが平成26年(2014)に国指定の名勝『奥のほそ道の風景地』に指定されると「独協大学前」では立つ瀬がないと言い出す輩が登場(?)副駅名称として「草加松原」が追加されました。《化粧だけではもの足りず、寄せて持ち上げる》という作戦にでたようですが、そんなもんよく見ればバレます。確かに「奥の細道の風景地」では陸橋のデザインや松並木より街灯が低く造られるなど全体としてやりすぎと思えるほどの整備がされています。それでもスター性に乏しいとみえ「奥のほそ道・松尾芭蕉」とは!それって江東区や北千住に任せた方が良いのではないでしょうか。
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Tokyo’66の記憶

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1966年6月29日…。50年も前の事で鮮明に覚えているわけなどありません。歌も演奏も下手でベースの音が異様にでかかったことと、観客は今のライブイベントと比べてら大人しいモノでした。半世紀の時間が過ぎても次から次と際限もなく資料的書籍が発表されあの日の出来事が語り継がれていくとは(!)…。Pt↑)は7月1日の夜の部の写真だそうです。4人の衣装は上下白(?)縦じま、Gだけ靴が黒、使われなかったコンボ・オルガン、注目なのが使用アンプが6月30日と7月1日のTV放送時と違っています。
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当時、日本テレビが収録して当日の夜に放映されたのは7月1日の昼の部の公演です。その後の再放送やオフィシャル・ビデオは出来の悪い6月30日が使われ7月1日はブート(一部オフィシャル)でしか見られません。Pt↑)は7月2日の昼の部と思われます。アンプがPt↓)のVOX AC-100ではありません。
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見慣れた6月30日です。ドイツ公演を終え台風の影響で日本到着が遅れてコンディションも何も最悪だったのでしょう。曲は短くアレンジされ、全曲Keyが半下げ(?)と早い話が手抜きだったようです。日本の観客が静かなもんで下手な演奏が丸聞こえで焦ったことでしょう(笑)。リハなしの一発勝負だったのかも知れません。アンプはVOX AC100(スーパービートル)使用です。緑のスーツ上下、Gがリッケンの12弦、コーラスマイクにJ&Pとなると曲名は…(笑)。
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武道館公演での使用アンプを整理すると公表映像では6月30日&7月1日はVOX AC-100を使用しています。電圧の関係で出力不足なのか単に調子が悪かったのか7月1日の夜の部から横型のVOXアンプが変わっています。ちなみに直前のミュンヘン・サーカスクローネではこちらのVOXアンプです。Pt↑)は7月2日夜の最終公演(?)です。判りにくいですがJがサングラスをかけています。
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1966年の東京公演の6月30日と7月1日の音源ブートは数多く売られています。お勧めは尾藤イサオ、内田裕也、ブルーコメッツ、望月浩、ドリフターズ等の前座まで収録された「Tokyo Highway 66」でしょうか。最近、エド山口氏のUtube・「エド山口のOh!エド日記」にはこの時代の大笑いしまうエピソードが掲載されています。面白いです!

春日部八幡神社

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埼玉県在住の知人に聞いても東武野田線を「東武アーバンパークライン」と呼ぶ人は皆無です。なんでも2014年4月の改称からの定着率は2割程度だそうです。この愛称を使用するのは東武鉄道と関連不動産やだけでしょう。記憶にある野田線は単線の2両編成で田園地帯を走る路線でした(笑)。スカイツリーラインと交差する下品な漫画の子供一家が住む春日部(粕壁)には元弘年間(1331頃)から鎮座するのが『春日部八幡神社』です。
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東武野田線八木崎駅下車、県立春日部高校を過ぎて徒歩5分位です。新田義貞配下の「春日部治部少輔時賢」なる武将が鶴岡八幡宮から勧請しご祀神には誉田別尊(応神天皇)、息長足姫尊(神功皇后)の他に武内宿禰命、さらには豊受姫命が祀られています。関東平野には社歴のある神社が思いの外あります。銀杏や欅の巨木に囲まれた鎮守の杜の神々は東京郊外の田舎町が住宅地に変貌しく様をどのように感じているのでしょうか?
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春日部総鎮守の古社だけに境内社も多いようで、鹿島神宮・香取神宮・愛宕神社・天満宮・弁天宮・氷川神社・御嶽神社・浅間神社等が鎮座しています。驚いたのは八幡社から春日部稲荷への木々が鬱蒼とした丘陵地《埼玉県指定 天然記念物・中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘》は噴火による火山灰が季節風により旧利根川流域に堆積した内陸性の200m x 50m規模の「砂丘」なんだそうです。初めて見ましたが写真は無理でしたが確かに砂地でした。
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加須・玉敷神社

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越谷の『久伊豆神社』を訪れた時に旧荒川流域に点在する久伊豆神社の総本社的なのは『玉敷神社』と知りました。旧騎西町の玉敷神社は東武線加須駅とJR鴻巣駅の中間で、最寄りのバス停などなく加須駅からTAXI(¥1520)利用でした。神苑の玉敷公園は「藤の花」で有名らしいのですが、それは季節外れという事で…。越谷&岩槻の久伊豆神社同様に一の鳥居から本殿迄は長い参道があります。お隣の「旧河野邸」は國學院大學の神道学者河野省三氏の旧宅です。
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創建は大宝3年(703)文武天皇時と成務天皇6年(136)の諸説があるのですが平安時代初期の法制の書「延喜式」に記載がある古社です。元々は現在よりやや北方向にあり戦火により焼失し騎西城内に再建されて寛永4年(1627)に現在地に遷座しています。江戸時代は「久伊豆大明神」と称し、ご祀神は《大己貴命=大国主命》と「久伊豆神社」と同じです。これをもって総本社的という事なのでしょう。
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旧埼玉郡の総鎮守として親しまれ神域には「宮目神社・大宮能売神」、「天神社・菅原道真公」、「琴平社・大物主命」、「稲荷神社・宇迦之御魂命」、「八坂神社・素盞嗚命」、「松尾神社・大山咋命」、「白山神社・伊弉諾命、伊弉冉命」の神々が祀られています。面白いのがPt↓の「宮目神社」で玉敷神社がこの地に遷座するまではこの地の地主神であったようです。大宮・氷川神社と同様に久伊豆神が先住神の住まいに遷座したという事です。神道では珍しいことではありませんが世界的には珍しい事なのです。
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加須の騎西城

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騙された訳でもないし怒る事もできませんが、なんと表現すれば良いのでしょうか(苦笑)。歴史的には騎西城は寛永9年(1632)に廃城となっています。この時代であれば天守閣を持つ城郭構造はなく精々砦的な城の縄張りのはずです。実はこの天守は旧騎西町が1975年に町制施行20周年を記念して建築した3重3階の模擬天守で発掘調査で出土した品を展示する「郷土史料展示室」となっています。
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現在は休館中との事で見学はできませんが、根古屋城とも呼ばれた平城の騎西城があったのは事実で、その辺りを承知で作った城なので《しょうがないねぇ!》としか言いようがありません(笑)。Pt↓)の一本の木と石碑が建っているのは城遺跡の土塁です。建物は加須の福祉センターの建物です。こうしてみると極々普通の城址公園に見えますが、これを子供達にどう教えるのでしょうか?
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埼玉・加須でうどん

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東武スカイツリーラインなる路線も春日部を過ぎると景色が変り、久喜(くき)を過ぎるとほぼ群馬・茨城感が色濃くなってきます。加須市ってのは「鯉のぼり」の生産量が日本一だそうで、さらには米と小麦の作付けが多く「加須の手打ちうどん」が有名ですが…。始めて降り立った加須駅には駅に隣接で大丈夫かよ?の「東武ストア」があるだけで、駅前にあるべき商業施設は何もありません。それでもこの看板を見れば誰だって期待するでしょう(苦笑)。
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市内には約50軒のうどん店がありこの看板は「加須手打うどん会」によるモノです。案内板には距離も所要時間の記載がありませんが、実際は駅前や駅近くには1軒もありません。調べると最寄りで徒歩10分はかかり、ひどいのは車で20分(!)。騙された訳ではないのですが腹が立ちます(笑)。道すがらに『千方神社/ちかたじんじゃ』という古そうな神社がありました。ご祀神は『興玉命=サルタヒコノカミ』・『神日本盤余彦命=神武天皇』・『藤原千方命』とありますが、藤原某は別としてなんでこの名称なのでしょう?敷地面積は446坪と広く境内社には浅間神社・恵比寿大黒社・八坂神社・稲荷社があるのですが広場を囲むように配置されなんだか妙な感じがします。
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特筆なのは神域にある『石敢當/せきかんとう』と呼ばれる魔よけ信仰の石碑があります。この信仰は九州地方のもので関東に存在するのは極めて珍しく昭和31年に加須市の指定有形文化財に指定されています。(名ばかりの)駅通り商店街の街灯につけられてた幟には《なにかあるかゾ?》とあり駅前広場には特産の《鯉のぼり》が泳いでいました。
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川口・川口神社

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川口市は「ほぼ東京」などと標榜しているそうですが馬鹿なことを言うものです(笑)。「サッポロビール工場」は移転、川口駅前の「丸井」は閉店撤退、「ヨーカ堂」は更地、「そごう」は近々閉店、西川口のソープ街を根絶したら「怪しい外国人」の住み家と化し、老朽化したUR住宅には外国人ばかりが住む街になっています。【映画キューポラのある街⇒昭和37年公開⇒吉永小百合】なんてのは遥か昔々の事です。
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川口は鋳物工業地域で粉塵まみれの空気の汚い街でした。マンション街へ変貌して多少はマシになったでしょうが、その元々鋳物工場地帯の金山町に鎮座しているのが『川口神社』です。ご祀神の素盞嗚尊は氷川神社の祀神、宇迦之御魂命と保食命は五穀豊穣の稲荷神、菅原道眞公(天神社)は学業成就、金山彦命は金属工業の神々です。940頃に「氷川社」として創建され、後に他の神々が合祀されて社名を『川口神社』に変え地域の総鎮守となったようです。
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参道の大鳥居をから昭和18年(1943)に造られた神門を過ぎると火災で焼失後の昭和4年(1929)に再建の隅々まで気配りされてた本殿と幣殿があります。大きすぎて撮影できなかったのですが神域には多くの巨木があり、特に市指定の「すずかけの木」はビルの4階ほどの高さ16mもあるそうです。これなら神々の依り代としてもわかり易いでしょう。神域には明治年間以降に合祀されてきた境内社が多くあり、別宮として特産の鋳物の守護・金山神社。菅原道真を祀る「梅の木天神」。英霊を祀る「川口護国神社」。氷川信仰とは別系統で素盞嗚尊を祀る「八雲神社」などがあります。良く判らんのが神門右方向の浅間神を祀る富士塚がありますが低すぎて富士山らしくはありません。
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