旅の案内人・リターンズ

「NPO江戸東京文化研究会」のスタッフ日記です。観光案内にないような話も…

2020年07月

2020・大宮氷川神社…(2)

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【Pt↑)大宮氷川神社の二の鳥居で、昭和51年に明治神宮から下賜された鳥居で台湾檜材が使われています。日本の寺社では意外とリサイクル使用があります。 調べて行くと、古社の創建年の殆どは”だったらいいなぁ”のと云っても良いでしょう。多摩市の「小野神社」は安寧天皇18年(紀元前531年)創建(約2500年前)。「大宮氷川神社」は孝昭天皇3年(紀元前473年)創建。大國魂神社は第12代景行天皇41年(84年)創建で武蔵国府が置かれるのは大化元年(645年)のことです。当然ですが記録を残す習慣には乏しく証明する術はありません。
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府中国府に着任した国司が有力寺社の祭祀を廻るのが困難なので、大國魂神社に「六社宮」を祀るようになった時代では大宮氷川神社は「三之宮」で「武蔵一之宮」を称するのは第45代聖武天皇の724年頃のようです。「武蔵一之宮」を掲げる神社は数社ありますが、その時代の施政者の徳川幕府や明治政府らの都合で「武蔵一之宮」は変遷しているものなのです。【Pt↑)は多摩市の武蔵一之宮・小野神社です】
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江戸時代初め徳川家にとっては関東の有力社寺との関係は経営上の重要事項となります。大宮氷川神社も徳川家の庇護を受け、徳川家綱の寛文年間に大改築されます。この時代社殿は男大社、女大社、簸王子(ひおうじ)社、荒脛巾(あらはばき)社の神々に4棟の社殿があり、神仏習合お寺まで含めるとかなり建物数があったと事でしょう。
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明治政府は神仏分離政策により大宮氷川神社を「官幣大社」に定めます。明治元年の明治天皇(16歳)の東京遷都後、最初に大宮氷川神社に行幸しています。天津神の子孫が国津神の祟りを恐れてのことでしょうか? 行幸に際しては男大社、女大社、簸王子、荒脛巾社の神々のうち男大社のみを「本社」として他を摂社に格下げとします。【Pt↑)は明治天皇大祭での下賜された神饌を埋めた旨の碑です】
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明治13年の境内大改造では徳川家綱の「男大社」を壊して現在の社殿が造営、男大社以外の社殿は廃止もしくは移動となります。簸王子(ひおうじ)社は「天津神社」に移築流用され「少彦名命」が祀られています。大宮の「簸王子社」は廃止となりす。事情は解りませんが「簸王子社」を移動した「中山氷川神社」としたのではないようです。
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女大社は「御嶽神社」の社殿に流用され「大己貴命」と「少彦名命」と出雲の神々が祀られます。「大己貴命」と「少彦名命」は二ヶ所で祀られていることになります。「簸王子社」と同様「女大社」を移して「氷川女體神社」ではありません。
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「荒脛巾社」は「門客人社」の社殿となりこの場所へ移築されます。稲田姫命の両親の足摩乳命と手摩乳命が祀られていますが、稲田姫は須佐之男命と結婚したので、「稲田姫命」へ昇格としても両親まで昇格とは妙な話です。因みに
この3社の社殿は寛文年間の徳川家綱の造営によるものが今に残っているそうです。

2020・大宮氷川神社…(1)

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埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の武蔵一之宮「大宮・氷川神社」は埼玉・東京・神奈川に200社以上ある氷川神社の総本社です。祀神は須佐之男命 (すさのお の みこと)・稲田姫命 (いなだひめ の みこと)・大己貴命(おおなむち の みこと)の神々です。創建は第5代考昭天皇(欠史8代天皇で実在は疑問)3年との伝承があり、第13代成務天皇の時代に出雲族が移り住んだとされます。「氷川」は出雲の「斐伊川」に由来するようです。
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「大宮・氷川神社」は古社ならではの謎の多き神社です。鎮座地のさいたま市には大宮氷川神社(須佐之男命)・氷川女体神社(稲田姫命)・中山氷川神社(大己貴命/大国主命)の三社が約3㌔間隔で直線状に「見沼」の台地の淵(舌状台地)沿って並んで鎮座する構造が見られます。これも珍しいのですが、多くの氷川社では須佐之男命だけが祀られる例が多く、稲田姫命だけ大己貴命(大国主命)だけを祀る例は少なく3神が一緒に祀られる氷川社は殆んどありません。旦那と奥方と娘婿(日本書紀では子供)が一緒に祀神の「大宮・氷川神社」は珍しい例なのです。
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古事記と日本書紀での伝承は異なりますが、須佐之男命 となれば「八岐大蛇」神話です。稲田姫命は須佐之男命に大蛇から助けられた娘で、後に「神」となり須佐之男命 の妻になりますが、これ以降に神話に登場することはほぼありません。大己貴命は古事記では稲田姫命と須佐之男命の6世代後の家系の娘婿(日本書紀では子供)で、須佐之男命の娘との結婚騒動ではオヤジからメチャクチャな苛めを受けます。人間関係(神様関係)グズグズの神々が一緒に祀られるのは考え難いのですが…。
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社殿の裏手には近年まで禁足地で非公開だった「蛇の池」があり、湧水が湧くこの場所が氷川神社発祥の地だったとあります。湧水の地に神社創建は至極ありがちな伝承です。社殿東側の「門客人神社」は元は荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ先住の民の地主神が祀られています。この先住民を追い遣ったのが出雲族のようで、よくある征服者による主祀神の交代があったのでしょう。被征服者の為の神社とは如何にも日本的な話です。
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古代このあたりは台地の淵で浦和・川口方面へ広大な「見沼」という沼地が広がっていました。約3㎞間隔で大宮・氷川神社、中山氷川神社、氷川女體神社(Pt)が並んでいますが、行ってみると氷川女體神社の方が地形的に古代人が集落を造る場所としては条件的に適した場所なのです。丘の上、広大な沼地、豊かな水、竜神の伝承。むしろ氷川女體神社のほうが元々の氷川神社だったのかも知れません。拝殿の社額には「武蔵一之宮」とあります。
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話は変わりますが…。「大宮・氷川神社」は約2㎞続く欅参道を含め約3満坪の広さがあります。正月には大國魂神社を凌ぐ約220万人の初詣者が訪れるようです。困ったことには多数の参拝者が訪れる割にはトイレ設備が最悪も最悪です。本殿近くに1箇所と狭い駐車場に最低レベルのトイレの2箇所だけです。見落しがあるにしても、某テレビ局の協力で神池の掃除作業ができたので経費予算枠に余裕はあるでしょうに!武蔵国一之宮がこの程度とは残念至極です。
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さいたま市・足立神社

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古代の律令制時代の武蔵国では、現在の足立区、川口、さいたま、草加、上尾、桶川、鴻巣あたりまでは「足立郡」とよばれ、国府は府中にあり支所である足立郡郡衛は現さいたま市に置かれていました。いわゆる「延喜式神名帳」には武蔵国足立郡の式内社は氷川神社(大宮)、調神社(浦和)、多気比売神社(桶川)と足立神社の4社しかなく、足立神社はそれなりの由緒ある古社となります。地域の「鎮守の神」として土地の人々の様々な「願事」を引き受けていたことでしょう。
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さいたま市には「延喜式」を掲げる「足立神社」もう一社あります。横浜の杉山神社ほどではありませんが、神社の本家が何処なのか判らないのは地図も書面もなく情報は人々の記憶だけが頼りの時代では無理のない事です。浦和から産業道路を大宮方面への途中にある「足立神社」は「延喜式」を掲げる2社のうちの1社です。祀神は猿田彦命、天鈿女命、天照皇大神等の多くの神々ですが、僅か数㎞先に出雲の国津神を祀る氷川神社があり、天津系神々は妙な感じすらします。
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第9代開花天皇時代の創建とありますが、明治以前は「高塙明神社」であったのを明治年代に地元の顔役が「足立神社」を主張し押切ったようです(苦笑)。そんな事情があるにしても神社と鎮守の杜が今に続いていることの方が大切です。一の鳥居の社号標には「延喜式内足立神社」の記載が…。二の鳥居、三の鳥居迄と200m弱の参道が続きます。三の鳥居の造りが他で見かけた記憶がない形式になっています。
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武蔵国四之宮・秩父神社

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ユネスコ無形文化遺産に秩父夜祭が登録された「秩父神社」は関東私鉄の宣伝もあり東京からの日帰り観光地として知られています。大國魂神社による「六社宮」には秩父神社は武蔵国四之宮とあり。式内社、旧社格は国幣小社で秩父地方の総鎮守です。ご祀神は八意思兼命・知知夫彦命 ・天之御中主神・秩父宮雍仁親王の4柱。古社であるほど社歴は複雑で時代と共に推移する神道の緩さを良く表しているようですが難い話が多々あるので深入りは避けます(苦笑)。
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明治以前は妙見菩薩信仰として有名で「秩父大宮妙見宮」と呼ばれたようです=この北斗星妙見信仰もややこしいのですが=ご祀神にある「
天之御中主神」と「妙見菩薩」との習合神で、神仏分離以降に妙見信仰の記憶を残ったようです。「天之御中主神」は造化三神と呼ばれる天照以前の世界創生の最初の神なのですが、姿も見えず功績も判らずの神様なので渡来神の「妙見菩薩」くっつけ易かったのでしょう。江戸時代には徳川家康との繋がりも深く本殿は天正20年(1592)に家康が社領を寄進し建造させたとあります。
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徳川家康の命により造営された社殿は拝殿、幣殿、拝殿が並ぶ江戸期に見られる「権現造り」です。秩父地方総鎮守として社歴2100年を超える古社だけに多くの摂社・末社が鎮座しています。社殿に施された彫刻類は見事なもので、現在は改修工事中のため一部は見られませんが、曇空で日の廻りが良くなかったのが悔やまれます。
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拝殿正面の社額左右にある左甚五郎の作と云われる「子育ての虎」の彫刻です。右側には虎が2頭、Pt↑)には大人の虎2頭と子供3頭が彫られています。虎の家族に豹が1頭混じっているのではなく、江戸時代では虎の雌が豹と考えられていました。実際の虎など見る機会はないでしょうが、神楽坂毘沙門さんの狛虎に比べてら格段に違います。
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社殿の西面にある「お元気三猿」の彫刻です。日光東照宮の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」に対して=日光の彫刻は全体で猿の生涯を表現しその一部なのですが=秩父神社では「よく見・よく聞いて・よく話そう」のお元気三原則になっています。神社に猿は古来よりの庚申信仰によるもとと思われます。確か家康は「寅年」だったと思います。
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「北辰の梟」のフクロウの体は正面の本殿を向き、首だけが180°後方を向いています。妙見信仰の神社だけあって北斗七星の方角は特別視されたのでしょう。フクロウを知恵のシンボルとする話は世界中にあり、日本での梟(フクロウ)=不苦労とそる語呂合わせを笑ってはいけません。もう一面の東側の「つなぎの龍」は改修中で見られませんでした。
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「秩父」は長瀞の岩畳の見られる地質学的にも神話や伝承の宝庫なのです。主祀神の八意思兼命(オモイカネ)は八百万の神々会議での議長的役割である謂れからか、本殿裏手の長屋の様な建物の「天神地祇社(てんしんちぎしゃ)」には全国の「一之宮」のご祀神75座(!)の神々が祀られています。秩父神社は格式のある神々が集まる社なのです。この
天神地祇社の他にも稲荷社、須佐之男神、豊受大御神、天照大御神、東照宮の社は別棟にあります。
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武蔵国五之宮・金讃神社

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ブームと言えばそれまでですが、昨今はTVの情報もあってスタンプ(御朱印)集めやパワー・スポットなる意味不明な言葉に踊る方々がいます。TV情報でチョチョイと出かけてご祀神も知らずにお参り、スタンプをいただいて、美味しいもの食べてお土産買って…。それはそれでいいのでしょうが、TVでは放映せず観光業の対象にもならない神社は数知れずあります。埼玉県児玉郡神川(かみかわ)町二ノ宮にある武蔵国五宮・金讃神社(金佐奈大神)もその一社です。正直、埼玉県にこんな神社があったのかと驚きました。
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関東平野が東京23区から浦和辺りまでが海だった頃、秩父山系の淵には農耕狩猟や渡来人達の集落が点在していました。今に残る古社の多くはこの人々の鎮守だった歴史もあります。武蔵国六社に名を連ねる「金讃神社」はそれとは様相が違うようです。埼玉県児玉郡神川(かみかわ)町が何処なのかまったく知りませんでした。ほぼ群馬県ですが電車利用だとJR八高線児玉駅or高崎線本庄駅です。どちらの駅からも遠く不便なのが知られざるの理由なのでしょうか?
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延喜式記載の旧官幣社で古社で「金讃/かねさな」は砂鉄を意味する「金砂」を語源とする説もあります。和同開珎での銅の産地にも近く金属の産出を得手とする人々が住んだのでしょうか?社伝では創建は日本武尊が東征の際に火打金を御霊代として納め天照大神と素戔嗚尊を祀ったとあり、この辺りは”そうですか!”としか言いようがありません。神社は御嶽山々麓にあり拝殿後方の「御室山」をご神体としています。山自体をご神体とするのは諏訪大社、奈良の大神(おおみわ)神社、米子の大神山神社など極々少数なのです。
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国道462号線沿いに一の鳥居があり、200mほどで二の鳥居、さらに進んで駐車場&トイレ、少し歩いて社務所、神橋。コンビニ、売店、自販機すらありません(!)。そしてこの鳥居です。形式自体は「明神鳥居」なのですが、鳥居の左右は玉垣ではなく柵状になっています。結界の強さを表現しているのでしょうか?。見たことのない神社形式なので期待度が増してきます。煌びやかな神社とはかけ離れた自然信仰の神社がここにあります。
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駐車場の右側の小高い場所に「金讃神社多宝塔」があります。経年変化と天候加減で総朱塗りとは言い難いですが、三間四面、柿葺、高さ約14mあり天文3年(1534)地元の武士団の安保弾正全隆による建立とあります。明治45年に国の重要文化財指定されています。神社に多宝塔は妙な感じもしますが明治以前の「神仏習合」時代の建立なので珍しいことではありません。見落としがあるかも知れませんが金讃神社には「狛犬」がありません。明治神宮のように狛犬なしは珍しいことではないのですが、社歴に関連するものなのでしょうか?
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もう一つ「御岳の鏡岩」と云われる国の天然記念物があります。拝殿脇から整備された階段を300mほど登ると、長さ約4m、幅約9m、傾斜約30°の「赤色石英片岩」の岩盤が露出しています。約1憶年前の断層活動によるとあります。運動不足の身にはこの階段は結構きついものがあります。後で知りましたが金讃神社は初詣の人気スポットで参拝後この階段を御岳山頂まで登るのだそうです。いやはやです(苦笑)。
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神域を含めた一帯は金讃清流公園となっています。国道沿いの鳥居の先に古の自然山岳信仰が残した神社があるとは思ってもみませんでした。社史によると400mほどの場所に「元森神社」がありこちらが御室山を遥拝する金讃神社の旧鎮座地で、そちらから現在地へ遷座したようです。
・三の鳥居の裏側です。玉垣ではなく柵状になっている興味深い形式です。
・御嶽山の入口、ここから鏡岩まで300m、山頂+200mだそうです。足元は整備されています。
・駐車場のトイレです。神域全体でもここだけのようです。
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さいたま市・田島御嶽神社

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JR武蔵野線の道すがら、2013年3月以来でさいたま市田島の「田島御嶽(おんたけ)神社」に寄って見ました。武蔵線西浦和駅で降りて徒歩10分程度かかります。7年振りの訪問はアララのビックリばかりで記憶とはかなり変わっていました。社殿が派手になった事! ここまでカラフルではなかったような気がします(苦笑)。本殿の左右一対の胴体が「雷鳥」、頭・首・足は鶴という「神使・天神雷鳥大神」のお姿に変わりはありません。
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神社HPによると鎌倉時代の永仁3年(1295年)の創建とあり、神社案内看板には「木曽御嶽神社分社 田島 御岳神社 修行之地」とあります。勉強不足なのですが「関東や中部地方を中心に木曽御嶽山を信仰の対象とする講中組織」程度の認識しかありません。祀神は國常立尊(くにとこたちのみこと)、大己貴命、少彦名命、猿田彦大神、天鈿女命 としています。ごく初期の神様である國常立尊となると難しさも感じますが、国津神と天津神が一緒というのも妙と云えば妙です。
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横浜市西区・杉山神社

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大國魂神社の「六所宮」のうち六之宮とされる「杉山神社」を調べてみました。驚く事には「杉山神社」は横浜市一帯と川崎、町田周辺を限定で鎮座し、江戸時代には72社あったとされ現在でも40数社あるそうです。狭い地域にこれだけの密集度とは氷川神社どころではありません。しかも、延喜式に記載の「杉山神社」と推定される神社は4社ほどあるようです。
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という事で数ある杉山神社のうち大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」に参列している横浜市緑区西八朔町の「杉山神社」へ行ってきました。JR横浜線・十日市場駅(快速停らず)から徒歩15分程度です。駅を背にして緩い坂道を下るとほどなく河岸段丘の耕作地帯に出ます。恩田川の川沿いの高台に神社はあり、これだけでも「古社」の立地要件は満たしています。
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この神社は神職が常駐していないようですが、神域はよく手入れされ石段脇には横浜市緑消防団第三分団が控えています。バス停脇社標には「延喜式内社武蔵総社六之宮杉山神社」とあり、30mほど離れた場所には一部が壊された(?)杉山神社のみの旧社標がありました。石段を登ると「昭和16年西八朔青年団解散記念」とある狛犬が迎えます(苦笑)。ご祭神は「五十猛命=素戔嗚命の子」。配祀神として「大日霊貴命=天照大御神」・「素戔嗚命」・ 「太田命=誰?」となっています。
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神職不在の神社は”荒れ果て感が顕著なのですが、この神社は地域で大切にされている感に満ちています。見渡せば河岸段丘を流れる恩田川。人々の暮らしを見守ってきた神社なのでしょう。拝殿には大國魂神社宮司による「延喜式内社武蔵総社六之宮 杉山神社」の社額があります。論社論争中という話ですが言い切って良いものなのでしょうか?
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立川・阿豆佐味天神社

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あきる野市の二宮神社に出かけついで珍し神社がないかと検索したら立川市の「阿豆佐味天神社・立川水天宮・猫返し神社」を見つけました。これで「あずさみてんじんしゃ」とは読めませんよねぇ(苦笑)。さらには菅原道真ではない「天神社」でした。元々の「天神信仰」は国津神に対して高天原在住の天津神の総称で菅原道真の怨霊信仰とは異なるのですが、そのあたりは”いいじゃないですか”という事で…。
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今回は西武拝島線の武蔵砂川駅からTaxi(¥800)、帰りは立川駅へ路線バスを利用しました。「阿豆佐味天神社」は予想以上の神社でした。総本社は多摩郡瑞穂町にあり砂川は1629年に地域の開墾に伴い村の鎮守として創建されたようです。祀神は「少彦名命/すくなひこのみこと」と「天児屋根命/あやねこうあねのみこと」の2神です。
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境内社の数も多様で前項の養蚕の神・蚕影神社(猫返し神社)や安徳天皇。建礼門院らの立川水天宮。厄除の八雲神社、疫病除、縁結びの疱瘡社。五穀豊穣の稲荷社。火災盗難序の御嶽神社。縁結び安産の浅間神社。交通安全の金比羅社。疫病徐の八坂神社と多岐にわたります。昔から鎮守社として様々な願いを聴いてきた神社さんなのでしょう。
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立川・猫返し神社

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昔から身近にいた動物の代表は「猫」だと言っても良いでしょう。身近な割には猫を所縁とする寺社は意外と少ないものです。東京では招き猫伝承の杉並・豪徳寺や浅草の今戸神社(実際は捏造された伝承ですが)や新宿区南長崎の無量寺の猫地蔵、さらには港区赤坂の美喜井井稲荷などがあります。今回の通称「猫返し神社」はエッセイ部分を除くと話の傾向としては日本橋堀留町の三光稲荷神社に似ているようです。
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正式名称は「猫返し神社」な訳はなく立川市砂川町の菅原道真でない方の「少彦名命」を祀る阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ)の「蚕影神社」で祀神は金色姫命という養蚕の神との事です。この地は江戸時代は養蚕業が盛んで蚕を喰い荒らす鼠を猫が退治するという流れで建立された神社のようです。昔の飼猫は鼠退治の為にご飯がロクに与えられず腹減り状態で必死に鼠を捕まえていたという話もあるようですが(笑)。
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近くに在住のジャズ・ピアニストの山下洋輔氏の飼い猫が行方不明となり、氏が神社にお参りすると無事に帰還。これを繰り返すこと数度の顛末をエッセイに掲載したところ一気に猫返し伝承が広まったとの事です。ということは三光稲荷社と同じです。花街のお姉さん有名ジャズ・ピアニストの違いというお話です。
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山下氏の話が広まるにつれ猫好きの人々に参拝が増えたらしく、猫のデザイン絵馬、猫の石像、猫の手水舎となかなかの充実ぶりです。通常の雄猫の縄張りは意外と広く行方不明は珍しい事ではないのですが…。この「蚕影神社」は阿豆佐味天神社の境内社です。猫云々がなければ訪れる事も無かったでしょうが、実際は阿豆佐味天神社も良い感じでした。
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あきる野市・二宮神社…(2)

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梅雨の合間の晴れ日はデジカメの露出計が完全に騙されがちです。鳥居と社号標がある石段が二宮神社の表参道となるのでしょう。「二宮神社」調べて行けば行くほど疑問点が出てきます。だいたいが「天津神」が主祀神の神社はSF物語のようで未知の神々が次々と登場するのですが、少なくとも嵐=二宮は関係ありません。
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Pt↑)の向かい側に「お池」や「御手洗池」と呼ばれる湧水池があります。【日本武尊の東征途中でこの地で「国常立尊」を祀ったところ湧き出た湧水】との伝承があるようですが関東での日本武尊東征の伝承はあちこちに伝わっています…(苦笑)。水量豊富で透明度もあり飲料としても充分でしょう。古代の人々が集落を造るには絶好地です。
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この湧水池のほとりに「社宮社/しゃぐじしゃ」の社殿があります。ご祀神はよく判りません。説1は三種神器の「八咫鏡」を作ったとされる超マイナーな【石凝姥命】の説。説2は地元に根付いた民間伝承の神。まぁ2でしょうねっ。昨今は神域の池がキレイになった神社が増えていますがこの池の透明度はケタ違いです!
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あきる野市・二宮神社

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「大國魂神社」の関連で東殿の二の宮、あきる野市の「二宮神社」へ行ってみました。中央線を拝島で乗換えて五日市線「東秋留」下車徒歩5分程です。この神社【やばいよっ】が3ッ付く位のやばさです。やばいと云っても二宮繋がりで「嵐=二宮」の聖地なんて馬鹿は言いません(笑)。見渡せば多摩川の本支流を望む丘に涸れる事のない湧水に恵まれた人々の暮らしには絶好の場所です。地形的には浦和の氷川女體神社と良く似ています。
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神社の創建年は不詳です。「小河大神」・「小河大明神」や「二宮大明神」とも云われ、いまでも大國魂神社六所宮の一座なのですが、古代神社名鑑の「延喜式」に式内社との記載がない(そこまでの格式がない)という不可思議な神社なのです。ご祀神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)と称する高天原在住の天津神で、古事記や日本書紀に記載はあるが実績がよく判らない神様です。社殿は平安時代に武将・藤原秀郷により造営され、鎌倉武士や徳川家と繋がりも厚かったようです。現在の社殿は江戸時代に建立されたもので、明治3年に現社名の「二宮神社」となっています。
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神社の格式を表すのは「延喜式」記載の有無とや明治年間に制度化され第二次大戦後に廃止された「近代社格制度」によるとされますが、現在とは歴史解釈も情報量も圧倒的に違い参考にしかなりません。この神社は社格云々より、この土地に生まれ暮らし死んでいった人達が敬い大事に守ってきた歴史が感じられます。鎮守神社はこういう存在なのでしょう。
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境内末社には伊勢神社・八幡社・八雲社・天神社・稲荷社・諏訪社等がありました。珍しいのは「荒波々伎(アラハバキ)神社」がある事です。この神様は何者なのかが良く判りません。元々はこの地に先住した東北系部族の神であり出雲系の部族が先住の民を追出し祀神を入替えたとの説があります。大宮・氷川神社にもそんな伝承があります。この地でも同じことがあったのかもしれません。先住者を排除してもその記憶は残すとはモロ日本的です。
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拝殿と本殿を横から見ます。この造りは「三間社流造」だそうで幣殿が通路状になっています。社殿は東向きですが何故なのか北向きの扉があります(電柱の後方)。本殿内部には室町時代造営の宮殿があるそうで鞘堂的な構造になっているのでしょうか?9月の例大祭は通称「しょうが祭」と。云われ”しょうが”を奉納し夜には東京唯一の農村歌舞伎を伝承している都の無形民俗文化財の秋川歌舞伎が催されるそうです。たしかにやはい神社です。
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社殿位置から見下ろした景色、この方向が東のようです。いまでこそ住宅がありますが多摩川の本支流を見渡す丘に鎮座しています。この丘の下ると「東京の名湧水57選」選定の涸れることのない「二宮神社・お池」があります。川の流れる平地、山には獣たち、涸れることのない湧水。古代の人達が住むには絶好の場所です。
境内社の1)左から稲荷神社・天津社・八雲神社・八幡神社・伊勢神社。2)諏訪神社。 3)社務所です。
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足立区・西新井大師…(2)

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足立区指定有形文化財の「西新井大師總持寺山門」です。西新井大師は「フーテンの寅さん」の候補地でもあったようです。確かに柴又帝釈天と雰囲気が似ています。時の流れと言えばそれまでですが「フーテンの寅さん」を知らない若い人が増えています。西新井大師は2014年以来なのですが、山門前が妙に小奇麗になっていました。2017年に保存修理工事がされその際に山門の位置が6mほど移設されたそうです。門前が広く感じたのはその為でした。
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平日&自粛で休みの店も多いようです。門前の草団子屋の両巨頭清水屋と中田屋(休み)は健在でした。草団子は日持ちがしないので試食で充分なのですが試食したら購入せざるを得ません(苦笑)。参道の商店も商売替えや建替え等で記憶とはかなり違ったものになっています。それでもPt↓)の様な店もまだ残っています。そういえば大師駅前の雑居ビルには居酒チェーンの「養老の滝」がありました。懐かしい限りです。
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足立区・西新井大師…(1)

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足立区西新井の山号「五智山」寺名「五智山遍照院總持寺」の真言宗豊山派のお寺というより「西新井大師」の方が知名度があるでしょう。最寄駅は東武西新井駅から1駅だけの支線「大師前駅」で下車、2014年6月以来の再訪です。”厄除け”の付く弘法大師(空海)を祀る寺院は「関東厄除け三大師」の西新井大師、川崎大師、観福寺大師堂で、”厄除け”が付かない「関東の三大師」は元三大師を祀る佐野厄除け大師、前橋の青柳大師、川越大師となります。
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仏教知識の乏しい身としては、弘法大使・空海が中国から持ち帰った真言密教は難解な宗派です。曼荼羅・印・護摩法・即身成仏云々超人的な神通力の世界となると難解の極みです。この西新井大師は弘法大師が西新井を通りかかった際に観音菩薩の神託を聞き天長3年(826)に寺院を建立したことに始まるようです。Pt↓)《四国八十八箇所お砂踏み霊場》=四国霊場巡りの簡易的体験ができます。《弘法大師立像》四国行脚時のお姿で錫杖を突けば池やら温泉やらが。
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