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明治12年、明治政府は全国各地で勃発した騒乱での4万人を超える国事犯/賊徒や凶悪犯の扱いに苦慮、また奨励するもさして進展してない移民政策の解決策として北海道に集治監を建設し、凶悪犯罪者やテロ集団を送り込み”タダ”同然で使役し開拓にあたらせようと考えました。明治14年4月に最初の40名が送り込まれ、大正8年の廃止までの樺戸集治監の歴史が始まります。‥因みに網走監獄の設立は明治23年です‥テロ集団や凶悪犯を未開の北海道の地へ送り、タダ同然での重労働。死んだらそれでも良し、”やっかいばらい”にはこの上ない政策ですし、開拓が進めば一石二鳥ともなります。この案に伊藤博文は大賛成を表明したそうです。
この地では大正8年の廃監まで1046名の囚人が亡くなっています。火気厳禁の雑居房で真冬でも単衣の獄衣、毛布1枚、手袋や靴下は着用は認めず、さらには食料不足・栄養不足下での重労働‥死なない方がどうかしてます(!)死因の多くが心臓麻痺なのですが疑問は残ります。囚人の”死因”など無関心でしょうし、虐待による致死(殺害)や囚人同士による殺人など記録には残せないでしょう(!)
1046名のうち肉親の元へ帰ったのが24名、1022名が無縁仏となっています。(下記の墓標と解脱標との数字があいませんが‥?) 実際は死亡者数はこの数を遥かに上回ると思うのですが‥?
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石碑の数が少ないように見えますが436基と亡者合葬の解脱標が3基(計626名)がここに並んでいます。石碑記載のいわゆる戒名はしごくあっさりしており、裏面には俗名と享年が記載されていました。
‥因みに女囚は遠隔地に行くことはないので、樺戸監獄には男囚しかいません‥
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この墓地は1981年から整備され今の様になったということです。確かに、最初に訪れた時は草ボウボウの原野に木製の墓標がズラリと並んでいました。”日本にもこんな風景があるのか‥”と呆然とした事を鮮明に記憶しています。