101301101302昭和32年(1957年)まで、この付近には『吉原(よしわら』と呼ばれる遊郭がありました。江戸幕府により公認された遊郭は、最初現在の日本橋人形町付近に造られ、「明暦の大火」以降に浅草・日本堤に移転されています。この為、人形町を「元吉原」、日本堤を「新吉原」と呼んでいました。…明暦の大火(1657年)は3日3晩江戸の街を焼き尽くした大火事で、死者は一説には10万人。江戸城や武家屋敷、市街地の大半が焼失し、江戸の歴史の大きな曲がり角となっています…吉原遊廓は国内最大級の規模(敷地面積2万坪)があり、最盛期で数千人の遊女がいたそうです。当時の江戸の街には武士・町人で約70万の成人男性がいたとすると、とても数千人の遊女ではお相手できなかった事となります。
吉原遊郭はお歯黒溝と呼ばれる掘りが巡らされ、出入り口は日本堤側のみとなっていました。”吉原大門”は1911年の大火で焼失し関東大震災を機会に撤去されており、現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名に残るだけになっています。”見返り柳”は、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったそうで、跡地にはその石碑が建っています。