101603101604江戸の昔、遊郭営業開始時の吉原には遊女屋が17軒、揚屋が24軒であったそうです。約20年後には遊女屋が125軒、揚屋が36軒と大繁盛となりました。最上位の遊女「太夫」が75名。「格子女郎」が31名。「端女郎」が881名の計987名だそうで、これを多いと理解するか少ないと思うかは微妙なところです(苦笑)。ここまでが幕府公認の公娼です。公娼から格が下がって湯女・陰売女・踊子・女芸者ときて、この時代での安価で需要があったのは更に格下の”私娼”だったようです。呼名と相場料金がリンクしていて、繁華街に出没する「けころ」。寺社の境内に出没の「山猫」や「竈払い」。表向きは綿の作業をしている「綿摘み」。食べ物を出前がてらの「提重」。料金50文の「五十蔵」。最下等が大川の舟でご商売の「船饅頭」やおなじみの「夜鷹」と続きます。夜鷹に至っては24文が相場で現秋葉原から御茶ノ水の神田川沿いに群れて営業活動をしていたようです。いずれしろ「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」や「鬼平犯科帳」には登場しないであろうお話です。

101601101602上の写真は『吉原神社』です。新吉原遊郭には古くから鎮座していた玄徳(よしとく)稲荷や廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社の5社が祀られていました。明治5年に5社を合祀し「吉原神社」として創建されました。神社の歴史は新吉原遊郭の歴史でもあり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されていたそうです。左は『吉原弁天』です。大正12年(1923年)の関東大震災では、吉原遊郭では500人を超す遊女が亡くなっており、大多数はこの弁天池付近で亡くなったそうです。吉原では遊女の逃亡を防ぐために出入り口が大門のみとなっているため、大震災による火災から逃れようとした遊女達が弁天池に身を投じるような形で亡くなったようです。昭和34年に吉原電話局の建設の際に埋め立てられて小さな池になってしまっています。吉原遊郭は湿地を埋めたてて遊郭を造っているので、昔は大きな池だったようです。

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