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岡崎市の中心から車で20分ほどの郊外に【成道山・大樹寺】という浄土宗のお寺があります。歴代の徳川将軍家の墓所は芝の増上寺や上野の寛永寺にありますが、この三河・大樹寺が松平家(徳川家の祖)・徳川将軍家の”菩提寺”となっています。松平4代の親忠が古戦場の近くに念仏堂を設けたのが始まりとされ、文明7年(1475年)に寺を建立して【大樹寺】と名づけていますが、この時代の松平家は三河の一豪族にすぎないのでたいしたモノではなかったでしょう。

130814_4130814_5織田信長と今川義元の「桶狭間の合戦」の時、今川方についた家康(弱冠19歳)は合戦に惨敗し、大樹寺まで逃げ帰っています。先祖からの墓所で自害を図ろうとしたところ、住職の「厭離穢土、欣求浄土」と説得され自害を思いとどまったという話は有名です。そんなことから、徳川家康は遺言で、「自分の遺体は久能山へ埋葬するように…」そして「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」と残しています。幕臣たちは遺言に従い家康の位牌を大樹寺に収め、以降の歴代の将軍達(15代慶喜除く)の位牌も寺に安置されるようになっています。実はこの位牌をどうしても見たかったのですが…(空調がしっかりコントロールされた部屋で、写真撮影は厳禁でした)…安置されている位牌は将軍の死亡時身長とほぼ同じ大きさとされ、昭和年代に増上寺の墓所の調査でも確認されているそうです。歴代の位牌のなかでも”生類憐みの令”で有名な5代綱吉公は124㎝しかなく、現代であれば小学生並みの身長です。4代将軍家継公は6歳で死亡しているにも関わらす135㎝もあります。この2人は何らかの病気であったと云われていますが…。実際に歴代将軍の位牌を目にすると様々な疑問点もでてくるのですが、それはそれとして興味深いものでした。

130814_2130814_3岡崎市のHPには、この大樹寺から岡崎市内の眺めが”「眺望・展望」を意味する「ビスタ」を冠し大樹寺と岡崎城を結ぶ約3㎞直線を「ビスタライン」と呼んでいます”とあるのですが…。実際に、大樹寺の本殿から山門、総門の延長線に岡崎城の天守が遠望できるのです。これは3代将軍家光(大の祖父好き)が、寛永18年(1641年)に菩提寺である大樹寺の伽藍の造営を行う際に『祖父生誕の地を望めるように』との考えから本堂から山門・総門を通して岡崎城天守が望めるよに伽藍を配置したことが始まりです。逆に歴代の岡崎城主は城から大樹寺を拝礼できたことになります。驚くのは以後約370年、この歴史的眺望は法や条例による規制がなくとも眺望を遮らないように配慮されています。こんな素敵な街があったとは感激モノです。谷中の富士見坂の富士山を望む眺望を遮るマンション建設をした大馬鹿野郎とは大きな違いです。
右)総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して彼方に「岡崎城」の天守台が見えるのですが、肉眼ではかなり苦労します。300㎜レンズ使用でかろうじて写っています。