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戊辰戦争時、西軍による旧幕府軍・彰義隊への包囲殲滅戦(上野戦争)により寛永寺伽藍一帯は焼野原となってしまいました。1870年、医学校と病院を建設する際この辺りも候補地とされたのですが、上野の山を視察したオランダ医である「ボードウィン博士」により”上野の自然が失われることを危惧して、一帯を公園として残すように”政府に提言がされました。『上野恩公園』として1873年に指定されたことで「ボードウィン博士」は上野公園の生みの親として業績を顕彰する銅像が造られました。 笑ってしまうのが…以前はPt↑の中央の【アゴ髭&ハゲ頭】がボードワン博士像として堂々とあったのですが…。いつの間にやらPt↑左&右の若々しい銅像に変わっています。2006年10月に造り直されたのですが、なんとヒゲ&ハゲの像は博士ではなく博士の弟だったのです。像を造る時に渡された写真が間違っていたそうなんですが…。そんなの”あり”ですかねぇ(笑)。
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佐久間大膳亮勝之が寄進した石造の灯籠で「寛永年辛未孟冬十七日」の刻字があります。燈籠は高さ6.06m、笠石の周囲3.36m。「お化け燈籠」と呼ばれ京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに”日本三大燈籠”に数えられるそうです。案内板の”OBAKE-DORO”がいいですねっ。
Pt右) 上野動物園入口に設置されたパンダ・ペイントの郵便ポストです。

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