140917_02140917_03中央区・明石町は築地本願寺の裏手に辺り、築地市場散策ついでに訪れる方が増えたようです。江戸時代には町人街と武家地の混在地で占められ、忠臣蔵(赤穂事件)で有名な浅野家の藩邸や九州中津藩の屋敷があり、前野良沢らにより「解体新書」がこちらで制作されました。。明治年間には『築地居留地』が設けられ多くの外国文化が入り「日本初の様々な施設」が造られています。居留地は明治32年の廃止後も聖路加病院や築地教会などの東京空襲の被害も免れ残っています。 …確かに「日本初めて施設跡」や「築地居留地跡」と中央区は宣伝していますが、多くが”かってここにありき”の記念碑的なものとなっています。 Pt↑)路地を入ると空襲を免れた民家が残っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
140917_04140917_05Pt←左が聖路加看護大学前のロータリーに「蘭学事始地の碑」と「慶応義塾開塾の地の碑」が並んでいます。この辺りが中津藩の藩邸で中津藩医師・前野良沢や幕府医師の桂川甫周、中川淳庵によりオランダ語で書かれたドイツの医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を出版しました。蘭医者・杉田玄白は”翻訳”よりも解体新書の”出版”に尽力したのですが、出版時に前野良沢の名前を記さなかったため、杉田玄白の「仕事」として一般的には知られています。開発担当より販売担当の方が評価されるのは現代でも良く耳にする話です。慶應義塾の碑は1858年に福沢諭吉が中津藩奥平家屋敷内に開いた蘭学塾を始まりとし1958年4月に義塾創立百年記念事業の一つとして「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられています。福沢諭吉の名前が出ると「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパの一員となる」との明治時代のスローガン『脱亜入欧論』の元凶とされるようなのですが…。これは甚だ疑問です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
140917_06140917_07遺跡(?)続きです。聖路加看護大敷地の一角に「芥川龍之介生誕の地」と「浅野内匠頭邸跡」の碑が並んでいます。芥川龍之介は明治25年にこの地で誕生しているのですが…。案内板によると、誕生後7ケ月で家庭の事情により現両国吉良邸付近の親戚、芥川家に引き取られ12歳で芥川家の養子となりました。”生まれ7ケ月”…これで「生誕の地」とは…。間違いではないのですがピンときません。  Pt←右)は赤穂事件(忠臣蔵)で有名な赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所です。ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の土地に屋敷があり、一部は築地川に面していました。赤穂事件(忠臣蔵)は誰もが知っている話ですが、事件発生時点では浅野内匠頭は24歳。朝廷饗応役は以前17歳で経験済み(指南役のた吉良義央は以外にも59歳です)。この事件は殺人事件ではなく傷害事件で、幕府により有罪判決が下されています。判決の異議は幕府の責によるもので、事件の被害者である吉良義央を徒党を組んでなぶり殺しにするとは、言語道断な話なのですが…。ともかく事件後、内匠頭は切腹命、江戸屋敷及び領地は没収、赤穂藩主浅野家は断絶の憂目となりました。