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外堀通りの日本橋川に架かる橋は一石橋(いっこくばし)と呼ばれています。江戸時代、北橋詰めには幕府金座御用の「後藤庄三郎」の屋敷が、南橋詰には呉服商の「後藤縫殿助」の屋敷がありました。橋が損壊した折には両後藤の援助により再建されたとのことから、「後藤/五斗」+「後藤/五斗」=一石で、「一石橋」と名付けられたと云われています。 この近辺は江戸から明治にかけてはかなりの繁華街だったそうで、近隣で迷子や尋ね人が生じると、Pt↑)の「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」と彫られた石柱の右側の「志(知)らする方」に保護した側が特徴を記載した紙を掲示し、逆の場合は左側の「たづぬる方」に探す側が掲示するという事になっていました。TVもラジオも新聞もない時代ですから、情報収集の場としては有効だったのでしょう。 万一保護した迷子の親が見つからない場合は、迷子を保護した町内で責任もって養育する決まりになっていたそうです。
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同様の”石柱”は浅草・浅草寺や湯島天神の境内、両国橋などの当時の繁華街にも置かれていました。この石柱は、昭和17年に東京都指定旧跡に指定、昭和58年には東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。 この石柱の脇にある「いちこくはし」橋柱は、旧橋が老巧化により撤去される際に、関東大震災にも耐えた都内最古の親柱としてその価値が認められ、平成14年に中央区が区民有形文化財建造物に指定されています。
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